タグ:大海人皇子

弘文天皇陵-1
弘文天皇陵は大津市役所の裏側にあります。

皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)に大化の改新を成し遂げた中大兄皇子は、
長い間皇位に即かず皇太子のまま政務を行っていたのですが、天智天皇6年3月19日
(667年4月17日)に近江大津宮へ遷都し、天智天皇7年1月3日
(668年2月20日)にようやく即位しました。
同母弟の大海人皇子(後の天武天皇)を皇太弟としたのですが、
大化4年(648)に誕生した第1皇子・大友皇子(後の弘文天皇)を
天智天皇9年11月16日(671年1月2日)に史上初の太政大臣に就けました。
天智天皇10年10月17日(671年11月23日)には、大海人皇子が皇太弟を辞退し、
大友皇子は皇太子となりました。
天智天皇10年9月(671年10月)に天皇が病に倒れ、なかなか快方に向かわず、
10月には重態となったため、弟の大海人皇子に後事を託そうとしたですが、
大海人は拝辞して受けず剃髪して僧侶となり、吉野へと去りました。
しかし、これには異説があり、天皇は病ではなく、山科へ馬で遠乗りに出かけ、
そのまま帰って来なかったとの説もあります。
山に深く分け入ってどこで死んだかも判らず、沓が落ちていた所を陵としたとされています。
これには、大海人皇子側の暗殺説などもささやかれました。
弘文天皇陵-2
天皇が崩御されると大友皇子が継承しましたが、翌天武天皇元年(672)6月22日に
大海人皇子は挙兵を決意し、自らの領地である美濃の
湯沐邑(とうもくゆう/ゆのむら)へ向かいました。
途中、名張では美濃、伊勢、伊賀、熊野やその他の豪族の信を得ることに成功し、
積殖(つみえ=現在の伊賀市柘植)で長男の高市皇子の軍と合流しました
(鈴鹿関で合流したとする説もあり)。
美濃では大海人皇子の指示を受けて多 品治(おお の ほんじ)が既に兵を興しており、
不破の道(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)を封鎖しました。
これにより大友皇子側は、東国への援軍要請の使者が阻止されました。
また、吉備(岡山)と筑紫(九州)にも使者を送ったのですが、
現地の総領を動かすことができませんでした。
大和では倭京(わきょう=飛鳥の古い都)で大友皇子側が兵を集めていたのですが、
大伴吹負(おおとも の ふけい)が挙兵してその部隊の指揮権が奪取されました。
それでも大友皇子側の軍は大伴吹負の軍と戦い、一時は優勢となりましたが、
吹負軍に美濃からの援軍が到着すると形勢は逆転しました。
近江の朝廷軍は近隣諸国の兵を結集し、瀬田橋で迎え撃ったのですが大敗し、
大友皇子が自決して乱は収束されました(壬申の乱)。
弘文天皇陵-3
大友皇子は、天智天皇崩御から壬申の乱による敗死までその治世は約半年と短く、
即位に関連する儀式を行うことは出来ませんでした。
そのため歴代天皇とはみなされませんでしたが、
明治3年(1870)になって弘文天皇と追号されました。
鳥居
弘文天皇陵の西側に鳥居が建っています。
新羅三郎の墓への道標
鳥居をくぐった先に「新羅三郎の墓」の標識が立っています。
新羅三郎の墓-1
石が敷かれた山道を登って行くと新羅三郎義光(源義光)の墓があります。
源義光は寛徳2年(1045)に河内源氏の2代目棟梁である源頼義の三男として誕生しました。
園城寺北院の新羅善神堂(しんらぜんしんどう)の神前で
元服したので「新羅三郎」と称しました。
新羅三郎の墓-2
後三年の役で兄・義家が清原氏と戦いで苦戦している際は、自らの官を投げうって
陸奥へ救援に赴き、金沢柵(かねざわさく)を包囲し陥落させました。
京に戻った義光は刑部丞(ぎょうぶ の じょう)に任ぜられ、常陸介、
甲斐守(かいのかみ)を経て、刑部少輔(ぎょうぶしょうゆう)に就きました。
大治2年(1127)10月20日に亡くなりました。
新羅善神堂-唐門
新羅善神堂
鳥居からの参道まで戻り、参道を進んだ先に新羅善神堂があります。
新羅善神堂は園城寺の五社鎮守の一つで、貞観2年(860)に円珍により創建されました。
新羅善神堂は豊臣秀吉による破却からも免れた建物で、
足利尊氏により貞和3年(1347)に再建されたと伝わります。
堂内は非公開ですが、平安時代作で像高78cmの新羅明神坐像が安置されています。
円珍が唐からの帰途、 老翁が船中に現れて自ら新羅明神と名のり、
教法の加護を約したと伝わり、帰国後感得した新羅明神を自ら刻んだと伝わります。
新羅善神堂及び新羅明神坐像は国宝に指定されています。
二童子社
新羅善神堂の東側には般若童子と宿王童子を祀る二童子社があります。
火御子社
新羅善神堂の西側には火の御子を祀る火御子社があります。

京都山科の毘沙門堂へ向かいます。
続く

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山門
龍王寺は滋賀県蒲生郡竜王町の雪野山の南山腹にあり、
山号を「雪野山」と号する天台宗の寺院です。
和銅3年(710)に第43代・元明天皇の勅命で行基菩薩により雪野寺として創建され、
通称で「野寺」と呼ばれていました。
奈良時代から平安時代初期にかけて寺は隆盛を究め、千坊千人の衆徒があったと伝わります。
文安3年(1446)に佐々木時綱による兵火を受け、伽藍と共に全ての僧坊も灰燼に帰しました。
その後、仮堂が建てられましたが本格的な再建には至らず、
江戸時代の承応3年(1654)になって堂宇が再建され寺観が整えられました。
しかし、明治時代に再三の水害により寺田を失ったことから時には無住となり、衰退しました。
寺領は縮小され、現存する堂宇のみで法灯が護り継がれました。
昭和3年(1928)からは天台宗の秘法・喘息病封じ「へちま加持祈祷」が
修せられるようになって信仰を集め、「ぜんそく寺」「へちま寺」と呼ばれるようになりました。
本堂
本堂
本尊は平安時代後期作で像高135cmの薬師如来坐像で、厨子内に納められ、
以前は秘仏でしたが現在は常時開扉されています。
十二神将像は、本堂須弥壇を取り囲むように安置されています。
像高は79.2~94.77cmで、いずれも鎌倉時代末期の作とされ、
本尊と共に竜王町の文化財に指定されています。

薬師如来が納められた厨子の両側には、像高153cmの聖観音菩薩立像と
像高144cmの地蔵菩薩立像が安置されています。
いずれも平安時代後期の作で町の文化財に指定されています。

また、堂内には第119代・光格天皇の御代、天明7年(1787)に宣楽院公尊法親王の
筆により「醫王殿(いおうでん)」と記された大きな額が掲げられています。
宝篋印塔
本堂右側の宝篋印塔は雪野寺当時のもので、龍王寺の境内(雪野寺の旧境内地)は
県の史跡に指定されています。
鐘楼
鐘楼‐扁額
鐘楼には寛弘4年(1007)に第66代・一条天皇から賜った
「龍寿鐘殿(りゅうじゅしょうでん)」の勅額が掲げられています。
勅額を賜って以降、「雪野寺」から「龍王寺」へと改称されました。
梵鐘
梵鐘は宝亀8年(777)に小野時兼から寄進されたと伝わり、
国の重要文化財に指定されています。
小野時兼が河森村(今の竜王町川守)に住していた時、美和姫と出会って結ばれ
幸せに暮らしていましたが、3年後、妻は「私ははまことは人間ではありません」と
言って、玉手箱を形見として差し出しました。
そして、「私を思って下さるならば、百日目に平木の沢に来て下さい。」と
言葉を残し去って行きました。
時兼が九十九日目に平木の沢に訪れると、妻は長さ十丈(約30m)ばかりの
大蛇となって現れました。
妻が静かに沢の中に姿を消すと、水が白く濁ったと伝わります。
時兼は驚き、家に帰り玉手箱を開けると、紫雲と共に龍が刻まれた梵鐘が出てきて、
それを雪野寺に寄進しました。

この梵鐘は本堂が火災の時は、鐘楼から水が噴き出たり、不心得な人が
鐘を撞いても鳴らなかったり、旱魃の際に梵鐘に雨乞いすると慈雨に恵まれるなど、
その奇譚は都にまで届きました。
一条天皇からは勅額を賜り、多くの歌人からは「野寺の鐘」として歌に詠まれました。

画像に収めることができませんでしたが、梵鐘の龍頭は、常にに白い布で覆われています。
この布を外すと不思議と大雨が降ることから、雨乞い時以外は布で覆われるようになりました。
放生池
境内の池は平木の沢と繋がっているとされ、池の水は白く濁っています。
弁才天
池には弁財天を祀ると思われる祠があります。
額田王-像
龍王寺から北に進み日野川に架かる雪野山大橋の袂には
額田王(ぬかたのおおきみ)の像が建っています。
額田王は、近江国野洲郡鏡里の豪族で鏡王の娘とされています。
第40代・天武天皇の妃でしたが、後に天武天皇の兄・中大兄皇子
(後の第38代・天智天皇)の妃になったとされています。
額田王-歌
欄干の柱には中大兄皇子が蒲生野で狩りをした時に、詠んだ歌が記されています。
「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」
標野(しめの)とは、一般人の立ち入りが禁じられた御料地のことで、
野守は御料地の警備担当者を意味しています。
大海人皇子
橋を渡ると大海人皇子の像が建っています。
天智天皇が大津京で即位すると、大海人皇子は要職に就いて天皇を補佐しましたが、
天皇に大友皇子が誕生すると大友皇子を皇太子としました。
天智天皇が病で倒れると、大海人皇子に後事を託そうとしましたが、
大海人皇子は固辞して剃髪し、吉野へと下りました。
天智天皇が崩御されると大海人皇子は挙兵して大友皇子を自殺に追い込み、
飛鳥浄御原宮で天武天皇として即位しました。

苗村神社へ向かいます。
続く

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