文庫
第一本宮の左側にある門を出ると、左側に御文庫があります。
享保8年(1723)に書物を収める目的で、
大坂を中心に京・江戸の書籍商たちによって建立されました。
和書漢籍・洋装本を併せると一万点以上、数万冊が保存されています。
文庫東側の灯篭の覆屋
御文庫の東側に二基の石灯籠が覆屋の中に納められています。
文庫東側の灯篭
石灯籠には、文政9年(1826)の刻字があります。
大神宮
参道の右側に「大神宮」があり、伊勢神宮の遥拝所になっています。
なんくん社‐夫婦楠
「大神宮」の先に「楠珺社(なんくんしゃ)」の夫婦楠が祀られています。
なんくん社‐夫婦楠-2
夫婦楠は樹齢約800年、高さ19.8m、幹回り7.9mあり、大阪市の保存樹に指定されています。
校倉
夫婦楠の後方右側に校倉造りの蔵が二棟並んで建っています。
北高蔵と南高蔵で、いずれも慶長12年(1607)に建立されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
手前が北高蔵です。
神苑の森
御文庫まで戻り、その西側を北へ入った御文庫の裏側に古札納所と、
その北側に東側に神苑の森があります。
神宮寺址の碑
神苑の森にはかって神宮寺がありました。
天平宝字2年(758)、薬師如来を本尊とする新羅(しらぎ/しんら)寺が建立され、
その跡を示す石碑が建てられています。
天正4年(1576)の石山合戦の際に、住吉社の社殿と共に新羅寺の仏堂も炎上しました。
しかし、慶長11年(1606)に豊臣秀頼により住吉社と共に本格的な復興が行われ、
本堂・法華三昧堂・常行三昧堂・僧坊・鐘楼などの他、
方形二重の大塔である東塔と西塔が造営されました。
慶長20年(1615)の大坂夏の陣の兵火によって再び灰燼に帰しましたが、
元和4年(1618)に徳川第2代将軍・秀忠により再興されました。
明治の廃仏毀釈や神仏分離令の影響を受けて、
新羅寺は明治6年(1873)に破却され廃寺となりました。
その際、一部の建物は売却され、西塔は阿波国の切幡寺の大塔に、
薬医門は荘厳浄土寺の表門に、回廊の一部は生根神社の香梅殿として現存しています。
土俵
神苑の森沿いに北へ進むと左側に土俵があります。
毎年10月に近畿高等学校招待相撲大会が行われています。
住吉大社では、古くから相撲会(すもうえ)が行われていて、とても強い力士がいました。
誰一人として相手になるものがいませんでしたので、
行司は御神前の「しめ縄」をその力士の腰にまとわせ、このしめ縄の垂れに

手をかけるものがあればこれを勝ちとして相撲をとらせましたが、
やはり誰もこのしめ縄に触れることすらできませんでした。
これが横綱の起源であると伝わっています。
また、住吉大社では、3月の大阪場所の前に横綱の手数入(土俵入)、
横綱による「しめ縄」の奉納が行われています。
種貸社
正面には末社の種貸社があり、倉稲魂命 (うがのみたまのみこと)が祀られています。
かっては「多米神社」と称された古社で、稲種を授かって豊穣が祈られていました。
時代の変遷と共に商売の神、子授けの神として信仰さるようになりましたが、
毎年3月17日の祈年祭に先立ち、五穀の種をお祓いして農業関係者に分かたれる
神種頒賜祭(かんざねはんしさい)では、種貸信仰の原点を見ることができます。
種貸社-2
商売発達を願う「初辰まいり」は、毎月の初辰の日にまず種貸社に参拝し、
ご祈祷した「お種銭(おたねせん)」を授かり、これ

を商売などの元手に加えて、資本充実の祈願をします。
次に楠珺社(なんくんしゃ)→浅澤社(あさざわしゃ)→大歳社と参拝するのが
「初辰まいり」のルートとなっています。
これを4年を一区切りとして、48回参拝すれば、満願成就となります。
種貸社-おわん
境内には、住吉大明神に祈って誕生した一寸法師の物語に因んで
置かれた「おわん」があります。
種貸人形
子授けの神としても信仰され、種貸人形・御守・絵馬が授与されますが、
毎月の初辰の日に参拝すると一層の御利益があるとされています。
社殿の裏側には、願いが叶った種貸人形が多数奉納されています。
海士子社-鳥居
種貸社の右側に鳥居が建っています。
海士子社
鳥居をくぐって進むと、右側に海士子社(あまごししゃ)、左側に児安社(こやすしゃ)があります。
海士子社は、鵜茅葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)が祀られています。

児安社の祭神は、興台産霊神 (こごとむすびのかみ) で、かつては縁結びの神として、
現在は、子供を守る神としても信仰を集めています。
大海神社への門
種貸社の西側を南へ進むと門があります。
志賀神社
門くぐった右側に摂社の志賀神社があり、底津少童命 (そこつわたつみのみこと)、
中津少童命 (なかつわたつみのみこと)、表

津少童命 (うわつわたつみのみこと)の三神が祀られています。
伊邪那岐命が黄泉から帰って禊をした時に、住吉三神と共に生まれた神とされ、
住吉三神が主として航海、港湾守護の神であるのに対し、

少童三神は海の神霊とされています。
大海神社-幣殿
門をくぐった先には摂社の大海神社(だいかいじんじゃ)があり、
豊玉彦命 (とよたまひこのみこと)と豊玉姫命 (とよたまひめのみこと) が祀られています。
延長5年(927)成立の『延喜式』神名帳にも記載があり、住吉社神主家である
津守氏との関係が深く、住吉大社の摂社では最も社格が高い位置づけにあります。
本殿は、住吉大社本宮本殿と同様の住吉造で、
本殿前に渡殿(わたりでん)、次いで幣殿が建てられています。
住吉大社本宮本殿より古く、江戸時代中期の宝永5年(1708)の造営で、
国の重要文化財に指定されています。

祭神の豊玉彦命は大綿津見神(おおわたつみのかみ)とも表記され、
伊邪那岐命と伊邪那美命との間に生まれ、海の主宰神とされています。
豊玉姫命は豊玉彦命の娘で、海幸彦と道具を交換して釣針を亡くした山幸彦は、
豊玉彦命の元を訪れ、豊玉姫命と結ばれ、二神の間に
鵜茅葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)を儲けました。
画像はありませんが、社前に井戸があり、「玉の井」と呼ばれ、
山幸彦が豊玉彦命より授かった潮満珠(しおみつたま)を沈めたところとされています。
大海神社-門
幣殿前の門は江戸時代前期に造営されたもので、国の重要文化財に指定されています。
門の外側は崖状の地形で、かつては海が広がっていたとされ、「玉出嶋」と呼ばれていました。
神域の杜は「磐手の森」と呼ばれ、萩と藤の名所でした。
星の宮
種貸社まで戻り、その先へ進むと「星の宮」があり
、国常立命 (くにのとこたちのみこと)と竈神 (かまどのかみ) が祀られています。
天地開闢(てんちかいびゃく)の際、世界の最初に、高天原に相次いで三柱の神が生まれ、
続いて二柱の神が生まれました。
その次に生まれたのが国常立命と豊雲野神(とよくもののかみ)の
二柱の神とされていますが、『日本書紀』本文では、国常立尊は最初に現れた神とされています。
竈神は、火の神であると同様に農業や家畜、家族を守る守護神ともされています。
后土社
「星の宮」から東へ進んだ境内の北東角の奥まった所に「后土社(ごどしゃ)」があり、
土御祖神(つちのみおやのかみ)が祀られています。
后土は土地の神を指し、鬼門を守護しています。
五社殿
「后土社」から参道に戻った右側に「五社殿」があり、住吉の神職七家祖神が祀られています。
招魂社
「五社殿」の右側に「招魂社」があり、諸霊神(もろもろのみたまのかみ)が祀られています。
住吉大社に縁の深い人などを祖霊神として祀っています。
「招魂社」の建物は、江戸時代中期までは住吉大社神宮寺の護摩堂でした。
薄墨社からの並び
「招魂社」の右側には左から「薄墨社」、「斯主社(このぬししゃ)」、「今主社」、「八所社」、
「新宮社」が並んでいます。
薄墨社
「薄墨社」には国基霊神 (くにもとのみたまのかみ)が祀られています。
津守家39代の神主は、和歌の達人でした。
「薄すみに書く玉章(たまずさ)と見ゆるかな霞める空に帰る雁かね」の
和歌より薄墨神主と称えられました。
朝廷に仕え「藤井戸神主」とも号し、芸術に秀で才能高く中興の神主と讃えられ、
建長5年(1253)に奉斎されました。
斯主社
「斯主社(このぬししゃ)」には、国盛霊神が祀られています。
津守家43代神主は、源頼朝と祖父が同じであり、源氏興隆の基を開いたとして、
建仁2年(1202)に奉斎されました。
今主社
「今主社」には、国助霊神が祀られています。
文永・弘安の役(1274・1281=元寇)の際、外敵を撃退させる祈祷を行った
津守家48代神主が、日本をモンゴルから守ったとされ、
正安2年(1300)に奉斎されました。
八所社
「八所社」には素盞鳴尊が祀られています。
新宮社
「新宮社」には伊邪那美命、事解男命(ことさかのおのみこと)、
速玉男命(はやたまのおのみこと)が祀られています。
火傷を負い黄泉国(よみのくに)へと旅立った伊邪那美命を追って伊邪那岐命は
逢いに行きましたが、伊邪那美命は腐敗して蛆にたかられていました。
伊邪那岐命はその姿を見て驚き、離縁すると約束して唾を吐きました。
その時生まれたのが速玉男命であると『日本書紀』には記されていますが、
熊野速玉大社では伊邪那岐命と同一神とされています。
また、伊邪那岐命が黄泉国との関係を断つために祓いを行い、
その際生まれたのが事解男命とされています。

「新宮社」には津守王子(つもりおうじ)社が合祀されています。
津守王子は、熊野古道・九十九王子の6番目の王子で、
かってこの地より南東方向にある現在の墨江小学校に鎮座していました。
津守という名称は、住吉大社の古代よりの奉斎氏族であり
宮司家でもあった津守氏にちなんだものです。
なんくん社
「新宮社」の南側に「楠珺社(なんくんしゃ)」があり、
宇迦魂命 (うがのみたまのみこと=稲荷大明神)が祀られています。
「初辰まいり」では種貸社に次ぐ2番参りで、「願いの発達」を祈り、
毎月「招福猫(しょうふくねこ)」を授かります。
奇数月は左手を、偶数月には右手を挙げた小猫を毎月集め、48体揃えて
満願成就の証として納め、一回り大きな招福猫と交換してもらい、今後の繁栄を祈願します。
左手挙げが「人招き」、右手挙げが「お金招き」のご利益があるとされています。
48ヶ月間(4年間)続けるということは、「始終発達」(しじゅうはったつ=四十八辰)の
福が授かるとの意味が込められています。
招福猫
社前には多数の招福猫が奉納されています。
なんくん社-大楠
社殿の背後に樹齢千年を超えるとされる楠(くすのき)があり、
江戸時代に人々は楠の神秘的な霊力に祈りを捧げ、根元に祠を設け
祀るようになったのが楠珺社の始まりとされています。
貴船社
楠珺社の楠の向かいには「貴船社」があり、高龗神(たかおかみのかみ)が祀られ、
「祈雨の神なり」と説明されています。
立聞社
「貴船社」の右側(西側)に「立聞社」があり、
天児屋根命(あめのこやねのみこと)が祀られています。
天児屋根命は、春日権現(かすがごんげん)、春日大明神とも呼ばれ、
国土安泰・産業(農・商・工)繁栄の神ですが、「禁断の神。酒だち、煙草だち等
 神徳を顕わし給ふ。」と説明されています。
なんくん社への門
「立聞社」の先に門があります。
海龍社-1
門をくぐった左側に「海龍社」があります。
海龍社-2
詳細は不明ですが、岩の御神体が祀られています。
五所御前-拝所
本宮の玉垣側には「五所御前」の拝所があります。
五所御前-1
「五所御前」の石の玉垣の中には杉の木が立ち、住吉大神を最初に祀った聖地とされています。
神宮皇后が住吉大神を祀る地を求めていた時に、白さぎが3羽飛んできて、
この杉の木に止まったのを見て、この地に祀ると決められたと伝わっています。
毎年5月の卯之葉神事では、卯の葉の玉串が捧げられます。
五所御前-2
玉垣内には玉砂利が敷かれ、その中に「五」「大」「力」と書かれた小石があり、
その3個を集めてお守りにすると心願成就のご利益があるとされています。
初穂料300円を授与所に納めると、小石を入れる専用の「五大力守袋」が授与されます。
願い事が叶うまで守袋を持ち、願いが叶えば自宅近くで3個の小石を拾い、
それに自身で「五」「大」「力」と書いて守袋の3個の小石と共に元の場所に返すとされています。
若宮八幡宮
「五所御前」の左側(南側)に摂社の「若宮八幡宮」があり、
誉田別尊(ほんだわけのみこと=第15代・応神天皇)が祀られています。
第四本宮の祭神・神功皇后の御子神となります。
また、武内宿禰 (たけしうちのすくね)が共に祀られ、国家鎮護・厄除開運・安産育児の
神とされています。
本宮への門-南側
「若宮八幡宮」の西前方には本宮への門があります。
陶製灯篭‐覆屋
陶製灯篭
門の脇には覆屋の中に二基の陶製の灯篭が納められています。
石舞台先の門
「若宮八幡宮」の前、南側にも門があります。
石舞台
門を出ると池があり、池に架かる石橋には石舞台があります。
慶長年間(1596~1615)に豊臣秀頼から奉納され、日本三舞台(住吉大社・厳島神社
四天王寺)の一つでもあります。
毎年5月の卯之葉神事では、石舞台で舞楽が演じられます。
神館
池の西側には神館があります。
大正天皇の即位大礼を祈念して建立された建物で、館内中央には玉座があります。
普段は非公開ですが、宴会場として、貸切で使用できるようです。
東楽所
東楽所
石橋の先には南門があり、その両側の建物が楽所です。
西楽所
西楽所
南門
南門は慶長12年(1607)に豊臣秀頼により建立された四脚門で、この門と石舞台、
楽所がセットになって残された舞楽施設として、重要文化財に指定されました。
卯の花苑
南門を出るとバイクを停めた無料駐車場があり、右側に武道館があります。
武道館の向かいには、「卯の花苑」があります。
卯の花は、ユキノシタ科のウツギという落葉低木で、かっては住吉神社の境内にも
群生していたのですが、現在ではそのほとんが失われています。
住吉神社名勝保存会では、築山の土壌を改良して卯の花を育成しています。
住吉大社がこの地に鎮座されたのは神功皇后摂政11年卯の歳、卯の月、卯の日
であったことから、 五月最初の卯の日に、住吉大神に卯の葉の玉串が捧げ、
神威の更新を祈る重要な「卯の葉神事」が営まれます。

「卯の花苑」には後鳥羽院・皇子の光台院親王の歌碑が建立されています。
「すみよしの ゆふしでなびく 松風に うらなみしろく かくるうのはな」
「ゆふしで」とは、木綿四手と書き、四手とは、玉串や注連縄(しめなわ)などに
下げる紙のことで古くは木綿(ゆう)を用い、

「ゆふしでの」は、「神」にかかる枕詞として使われています。
卯の花は白く、5月~7月に多くの花を咲かせ、
旧暦の四月を「卯月」と呼ぶのはこの花に由来します。
白波で、白い卯の花が隠されてしまった様に、後鳥羽院のことを
思い起こされて詠まれたのでしょうか?
この歌を詠まれた頃の住吉大社は、太鼓橋あたりまで海でした。
車返しの桜
「卯の花苑」の先に鳥居が建ち、その脇に桜の木が植栽されています。
かって、この付近に明治初年に廃寺となった津守家の菩提寺・慈恩寺がありました。
寺の庭に咲く桜は見事なもので、後醍醐天皇が住吉大社に参拝した際、
この桜の前を通り過ぎてから、再び車を返して桜を愛でた

ことから「車返しの桜」と呼ばれるようになりました。
江戸時代の地図や名所案内にも記され、住吉の名勝となっていましたが失われ、
平成21年(2009)に大阪市の「未来樹」として京都嵯峨野の紅八重枝垂桜が移植されました。
武道館-鳥居
鳥居をくぐり車道に出ます。
背後の建物が武道館です。
大きな石灯籠
車道を左側(東側)に進むと大きな石灯籠が目に入ります。
浅澤神社-3
浅澤神社-1
石灯籠の手前を右折した所に、住吉神社の境外末社・浅澤神社があります。
かって、この地には清水が湧く広い池があり、「浅沢」と呼ばれ、
奈良の猿沢の池、京都の大沢の池と並ぶ近畿の名勝でした。
浅沢池には、杜若(かきつばた)が美しく咲き乱れ、
万葉集をはじめ多くの歌集にその名が留められています。
奈良時代に編纂された『摂津国風土記』には、「昔、息長帯比売
(おきながたらしひめ=神功皇后)の世に住吉の大神が現れ、
住むべき国を探し求めて天下を巡り、この住吉の地に至った時、
これぞまことに住むべき国なり『真住み吉し、住吉の国』と言い、
神の地と定めた」と記載され、住吉と呼ばれた由縁が残されています。
しかし、昭和になると浅沢の清水も枯れ果て、地元の尽力により、
平成9年(1997)になって、浅沢に新しい水脈が加えられ、杜若が復活されています。
浅澤神社-2
浅澤神社は「初辰まいり」の第3番で市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)が祀られています。
芸能上達や女性の守護神とされ、「初辰まいり」では「芸事や美容の願い」に福を授かるとされています。
大歳神社-本殿
浅澤神社から南側の細江川に架かる橋を渡った所に、住吉神社の境外末社・大歳神社があります。
「初辰まいり」で最後に参り、「願いの成就」を祈願します。
祭神は大歳神 (おおとしのかみ)で、稲荷神である宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)と
兄弟神であり、五穀収穫の神とされています。
何時の頃からか集金のご利益にも霊験あらたかな神として信仰されるようになり、
小石に「大」と書かれた「大歳守(おおとしまもり)」を集金の
ご利益があるとして授かるようになりました。
おもかる石
大歳神社の右側に「おいとしぼし社」があり、社殿前の「おもかる石」は
願いを占う石として知られています。
先ず社殿で参拝し、次に石を持ち上げ重さを確認して、石に手を添え願掛けを行い、
もう一度持ち上げた際に軽く感じれば願いが叶うといわれています。
石は3個ありますが、1個に絞っても、3個全てを試してみても良いそうです。
おいとぼし社
おいとしぼし社

住吉行宮跡へ向かいます。
続く

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