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法華山一乗寺から東方向へバイクで約1時間走った所に伽耶院があるのですが、
その手前の車道脇に仁王門があります。
現在の建物は大正時代に再建されたものですが、花頭窓は以前の門から引き継がれています。
左右に安置されている仁王像は行基菩薩作とされていますが、
天正6年~天正8年(1578~1580)の羽柴秀吉による三木城攻めの際に
頭部と脚部が焼失したと伝わります。
門から更に車道を進んだ右側に駐車場があり、その奥の川向こうに「神戸層群」と呼ばれる、
断層が露出した珍しい場所があります。
神戸層群の地層は約3700万年前から3100万年前のものとされ、かって現在の神戸市須磨区、
北区あたりから三田周辺にまで及んだ「古神戸湖」と名づけられている
巨大な湖底で形成されたと考えられています。
この付近で発生した大地震により、「柱状節理」と呼ばれる神戸層群の特異な露岩が露出しています。
駐車場から車道を渡って山門をくぐります。
伽耶院(がやいん)は兵庫県三木市にあり、山号を大谷山と号する本山修験宗の寺院で、
新西国霊場・第26番札所となっています。
正面に寺務所があり、納経所にもなっています。
寺務所の東を山側へと登ると水子供養を祀る場所があります。
供養の人形や風車が置かれ、霊山のような雰囲気を漂わせています。
東側に 寛永8年(1631)に土佐城主・山内忠義の寄進により建立された行者堂があり、
三木市の文化財に指定されています。
堂内には役行者像が祀られています。
行者堂の石段下には護摩壇が組まれています。
毎年10月の体育の日には、近畿地方では最大の規模を誇る採燈大護摩供が行われます。
護摩壇の前には経塚があります。
護摩壇から東へ進むと明暦2年(1656)に丹後峰山城主・京極高供の正室の寄進により
建立された開山堂があります。
堂内には天女や仏に花を捧げる迦陵頻伽(かりょうびんが)の壁画が残され、
開山・法道仙人が祀られています。
寺伝では孝徳天皇の勅願寺として、大化元年(645)に法道仙人が開基したとされています。
当初は「大谿寺(だいけいじ)」と称していましたが、延宝9年(1681)に後西上皇の勅により
仏陀伽耶に因む寺号「伽耶院」と改められました。
平安時代中期には隆盛を極め、数十の堂宇と百三十余の坊舎を持つ大寺院で、
花山法皇の行幸があったとの記録も残されています。
天正6年~天正8年(1578~1580)の三木城攻めでは、別所長治方の陣が敷かれたことにより、
羽柴秀吉軍の攻撃を受けて焼失しました。
また、慶長14年(1609)には失火によって全山を焼失し、
現存する堂塔はそれ以降の諸国大名の寄進によるものです。
中世以降、聖護院末の修験寺院として勢力をもち、江戸時代には天台系山伏を統率する
四院家(いんげ)のひとつとして修験界に威をふるいました。
開山堂から更に東へ進むと、金堂があります。
慶長15年(1610)の再建と伝わり、国の重要文化財に指定されています。
内陣と外陣を格子戸と欄間で分けた典型的密教寺院建築で、重要文化財に指定されている
平安時代末期作の毘沙門天像が安置されています。
金堂の右横に鎮守社である三坂社があり、三坂大明神が祀られています。
金堂と同時代の再建と伝わり、国の重要文化財に指定されています。
三坂社の右斜め前方に多宝塔があります。
正保5年(1648)に豊前小倉藩主・源忠真(小笠原忠真)の寄進の寄進により建立されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
初層は方形で並行垂木、二層は円形で扇垂木となっています。
失われていた相輪は昭和60年(1985)に復元されています。
塔内には本尊として弥勒菩薩像が安置されています。
多宝塔の南側に臼稲荷社があります。
かって、この地域では田に水を溜めるため、水の出口に古い石臼を使っていました。
ある干害の年、狐が白衣の老人の姿に化けて、村中の石臼をすべて取り除き、
水を均等に配分しました。
これを恥じた村人がここに石臼を奉納したと伝わります。
金堂から南側へ進んだ所に二天門があります。
慶安4年(1651)に建立されたもので、三木市の文化財に指定されています。
屋根及び軒回りは後世の修理の際に改修されています。
向かって左側に多聞天、右側に持国天の二天像が安置されていますが、
いずれも門と同じ年代の造立とされています。
二天門への石段の脇に立つは石柱には彫刻が施されています。
門を出ると車道となり、駐車場まで戻ります。
次回は兵庫県香美町香住にある大乗寺から温泉寺を巡ります。