不動の滝
鶴来別院の北側を東に入ると金剱宮の駐輪場があります。
駐輪場からの参道は南参道で、なだらかな坂であり通称で「女坂」と呼ばれ、
北参道の急勾配な坂は「男坂」と呼ばれています。
その「女坂」の脇に高さ15mの不動滝があり、神仏習合の修験道時代には
禊の道場であったとされています。
江戸時代の国学者・福田美楯(ふくだ みたて:1789~1850)は、
安政年間(1854~1860)の厳冬期にこの滝が凍結する光景を「雌坂瀧懸氷」として、
鶴来十二勝景の一つに選んだとされています。
昭和初期に鶴来八景が選定された際も「不動滝氷柱」として撰ばれ、
古くからの名勝地として白山市の名勝に指定されています。
石清水不動尊
その先にある石清水薬師不動尊の湧水は、枯れたことがないと伝わり、
病気平癒の御利益があるとされています。
参道は県道をトンネルで横断し、境内へと続きます。
本殿
本殿
社伝では、金剱宮の創建は白山比咩神社よりも古い
崇神天皇3年(BC95)で、北陸最古の古社とされています。
人々がこの地に住み着いた頃に祀られるようになり、当初の社名は「剱宮」、
「剱神社」と称されていました。
鶴来町は金剱宮の門前町として発展し、古地名は「剱(つるぎ)」と
記されていました。
養老元年(717)に泰澄が白山に登り、白山本宮(後の白山比咩神社)に神宮寺の
白山寺が創建されると、白山本宮は神仏が習合され、
修験者の山岳修業の地となりました。
更に久安3年(1147)には神宮寺の白山寺が延暦寺山門別院となると、
比叡山の地主神・日吉七社に倣い、白山本宮・金剱宮・三宮・岩本宮・中宮・
佐羅宮・別宮という白山七社が形成されました。
その中で白山本宮・金剱宮・三宮(現在の白山比咩神社の鎮座地に元あった神社)・
岩本宮は本宮四社とされました。

神仏習合の時代、剱宮は隆盛を極め、七堂伽藍が建ち並び、
多数の衆徒を擁していたと伝わります。
寛弘4年(1007)には正一位に叙されています。
寿永2年(1183)の倶利伽羅峠の戦いで平家に勝利した源(木曾)義仲は、
鞍付きの馬20頭を寄進したとされています。
その後の一向一揆勢力による加賀支配下では、白山比咩神社と同じような
経過となったと思われ、明治5年(1872)の近代社格制度では
「金劔神社」として郷社に列し、明治28年(1895)に県社へ昇格しました。

社殿は、拝殿、幣殿、本殿へと一直線に配されています。
主祭神は瓊々杵尊で、配神として大國主神・大山咋命・日本武命・事代主神・
猿田彦神が祀られています。
天孫降臨の際、瓊々杵尊(ににぎのみこと)の道案内をしたのが猿田彦神です。
日本武命(やまとたけるのみこと)が携えていた剣は
天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)で、素戔嗚命がヤマタノオロチを
倒した際にその尾から出てきたものとされています。
天叢雲剣は天照大神に献上され、瓊々杵尊が天孫降臨の際、三種の神器の一つとして
地上に持たされ、日本武命の叔母で伊勢神宮で斎王を勤めていた
倭比売命(やまとひめのみこと)から日本武命の手にわたりました。
日本武命は駿河の国で、四方から火攻めに遭った際、この剣で草をなぎ払って
難を逃れ、以降この剣は「草薙の剣(くさなぎのつるぎ)」と
呼ばれるようになったと伝わります。
日本武命は、滋賀県大津市の建部大社(たけべたいしゃ)の祭神でもあります。

大國主神は国津神で、事代主神(ことしろぬしのかみ)はその子です。
大國主神は葦原中国(あしはらのなかつくに)の国作りを
完成させましたが、天照大御神に国譲りしました。
また、大國主神は出雲大社の祭神でもあり、古代に出雲文化がこの地へ
伝わっていたのかもしれません。
大山咋命(おおやまくいのかみ)は、日吉大社の祭神であり、
金剱宮も延暦寺の影響下にあったことから祀られたと思われます。
悠久の杜
社殿の左横に「悠久の杜」の碑が建てられているように、
社殿の背後は石川県指定天然記念物の『金剱宮社叢ウラジロガシ林』です。
乙劔社
乙劔神社(おとつるぎじんじゃ)は、白山市坂尻町にあり、
往古に神剱が天より降って、その地の妖異をはらって族人の苦悩を救ったとの
伝承が残されています。
乙劔社はそれを勧請したと思われ、金剱宮では金運の神として信仰されています。
祭神は彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)で、日本神話に登場する
「山幸彦」として知られています。
彦火火出見命は瓊々杵尊の第2子で、初代・神武天皇の祖父とされ、
海の神である綿津見神(わたつみのかみ)の助けを得て、
兄の火須勢理命(ほすせりのみこと=海幸彦)を倒したとされています。
また、綿津見神の娘・豊玉姫と結婚し、鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)
を儲けたとされています。

乙劔社の左側は恵比須社で、兵庫県西宮市にある西宮神社
全国えびす宮の総本社ですが、
金剱宮では大阪の今宮戎神社の分霊が祀られています。
また、天地悠久の大神霊が併せ祀られていますが、詳細は不明です。
恵比須社の拝殿
恵比須社の拝殿前に、天平年間(729~749)から伝わる古池とされる
「天の真名井」があります。
天の真名井
大干ばつの時も長雨の時も水量は変わらず、
「金剱宮の真名井の池を覗くと神の恵みの雨が降る」と謳われるように
祈雨に霊験があったようです。
また、京都府宮津市の真名井神社に伝わる「天の真名井」は、
海部家三代目の天村雲命(あめのむらくものみこと)が天上に昇り、
高天原で神々が使用する天忍石(あめのおしいわ)の長井の水を
琥珀の鉢に入れて地上に持ち降りたものとされています。
天村雲命は、この霊水を匏(ひさご)に入れ神祀りを行い、
第21代・雄略天皇の御代(457~479年)に
伊勢外宮(豊受大神宮)の御井に遷されたと伝わります。
天忍石-1
向かい側には天忍石が祀られています。
金剱宮では、この石に神霊が降臨した影向石であると古くから伝えられています。
天忍石-2
また、形が子牛に似ていることから「牛石」とも呼ばれてきました。
一方で、「天の真名井」と共に高天原が再現されているのかのように思われます。
亀石
その左側には長寿の象徴とされる亀に似ている亀石が祀られています。
義経腰掛石
右側には「義経腰掛石」があります。
吾妻鏡』文治3年(1187年)2月10日の記録によると、源義経は京を追われ、
藤原秀衡を頼って伊勢・美濃を経て奥州へ向かったとされています。
その途中に義経は金剱宮へ参拝して夜通し神楽を奉納し、
また、この石に腰を掛け、一時逃亡の疲れを癒したと伝わります。
金刀比羅社
恵比須社の左側の金刀比羅社は、香川県仲多度郡琴平町の金刀比羅宮を総本宮とし、
船による流通が盛んになると、海運業者や商人によって金毘羅信仰が
日本中に広められたとされています。
丈六神社
丈六神社には大山咋命、猿田彦命、日本武尊、菅原道真公が祀られています。
また、丈六とは仏の身長である1丈6尺 (約 4.85m) から
仏像の背丈 (丈量 ) の一基準とされています。
個人的には神仏習合時代の名残と思われ、
かっては丈六の仏像が安置されていたのでは?と想像されます。
粟島神社
粟島神社は和歌山市加太にある淡嶋神社(あわしまじんじゃ)が
全国にある淡島神社・粟島神社・淡路神社の総本社で、
少彦名命(すくなひこなのみこと)、大己貴命(おほなむじのみこと=大国主神)、
息長足姫命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后)が祀られています。
神功皇后が三韓征伐の帰途、突然の嵐に遭遇した際に神に祈りを捧げ、
無事に加太の沖合いの友ヶ島に上陸できたことから、
神島に少彦名命と大己貴命を祀り、持ち帰った三韓渡来の宝物を
奉納したのが始まりとされています。
江戸時代には、淡島願人(あわしまがんにん)と呼ばれる人々が、
淡島明神の人形を祀った厨子を背負い、淡島明神の神徳を説いて廻ったため、
淡島信仰が全国に広がったとされています。
招魂社-鳥居
更に奥へ進むと鳥居が建ち、その先に石段があります。
招魂社
石段を登った所には招魂社があり、護国の英霊が祀られています。

一閑寺へ向かう予定でしたが、雲行きが怪しくなり、断念しました。
日本最大級とされる高さ8mの不動明王の磨崖仏が祀られ、
是非とも参拝したかったのですが残念です。
自転車を返却して北陸鉄道で野町駅へ向かいます。
野町駅前から金沢駅行のバスの便は少なく、少し歩いて国道167号線にある
バス停から乗車し、この頃から雨が降り出しました。
金沢駅
金沢駅に着いたのは16時前で、手持ちの乗車券は19:08発のサンダーバード46号です。
少しの早めの夕食とビールを傾けながら、やはり一閑寺へ行っておけば良かったとの
反省や今日の備忘録を記し、サンダーバードの発車時間を待ちました。

次回から大原の続きに戻ります。

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村