タグ:天日槍

東近江の旅
国道8号線に面して「道の駅 竜王かがみの里」があり、その駐車場に入りました。
東おうみの旅スタンプラリーで集めたスタンプをこの道の駅で投函する予定でしたが、
定休日で後日郵送することにしました。
横断歩道橋
駐車場から横断歩道橋で国道を渡ります。
鏡池
国道沿いに西側へ進んだ先に鏡池があり、源義経元服の地とされています。
義経の父・源義朝(みなもと の よしとも)は、
平治元年(1159)の平治の乱で謀反人となり敗死しました。
母・常盤御前は牛若丸と兄の今若と乙若と共に大和国へと逃亡しました。
その後、今若と乙若は出家して僧となり、牛若丸は11歳の時に鞍馬寺へ預けられ、
稚児名を遮那王(しゃなおう)と称しました。
承安4年(1174)3月3日桃の節句、僧になることを嫌った遮那王は鞍馬寺を抜け出しました。
鏡の宿に泊まった遮那王は、迫りくる追手から逃れるため、自ら元服して姿を変えたとされています。
遮那王は、現在は水が枯れてしまったこの鏡池の水を用いて前髪を落し、
元結(もとゆい)の侍姿を池の水に映し元服をしたと伝わります。
烏帽子掛けの松
鏡池から戻り、横断歩道橋を越した先に鏡神社があります。
『日本書紀』垂仁天皇3年3月条に新羅王子の天日槍(あめのひほこ)が渡来したと記され、
天日槍が持参した日鏡を山上に納めて鏡山と称しました。
天日槍の従人は鏡山の山裾で陶芸、金工を業としてこの地に住み、
後に天日槍を祀ったのが鏡神社の始まりとされています。

鏡神社は元服した義経が源氏再興を祈願したと伝わり、元服の際に使った
タライも保管されていましたが、今は一片の板切れとなりました。
左側に残されている松の木の幹は、義経が参拝の際に枝に烏帽子を掛けたと伝わり、
「烏帽子掛けの松」と呼ばれています。
残念ながら松の木は明治6年(1873)10月3日の台風で折損したため、
幹の部分のみが残され、保存されています。
鳥居
石段を登って行くと鳥居が建ち、「鏡大明神」の扁額が掲げられています。

鏡山一帯の竜王町、野洲市、湖南市にまたがる広域に須恵器の古窯址が発見され、
「鏡山古窯址群」と称されています。
鏡神社境内にもその址が残されているそうですが、場所は特定できませんでした。
古墳時代後期(6世紀初めから7世紀の半ば頃)から飛鳥時代(592~710年)、
奈良時代(710~794)に至るまで、100基以上の窯址があったと推定され、
須恵器の一大生産地であったと考えられています。
拝殿
拝殿は新しく再建されたように見えます。
本殿-1
本殿-2
本殿は寛平年間(889~898)に焼失との記録が残され、
現在の本殿は室町時代に再建されたもので、国の重要文化財に指定されています。

大正6年(1917)11月に行われた特別大演習の際に、天皇が境内の宮山に行幸され、
統監されたことから、当時の知事からこの宮山を「御幸山(みゆきやま)」と命名されました。

次回は大阪の家原寺(えばらじ)から京善寺を巡礼します。

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苗村神社看板
苗村神社は滋賀県蒲生郡竜王町の県道541号線を挟んで、
東本宮と西本宮に分かれています。
県道に面した駐車場に入り、道路を横断して東本宮から参拝しました。
長寸神社石碑
社標は「式内 長寸(なむら)神社」と記されています。
第11代・垂仁天皇の御代(BC29~70)、当地方を開拓された先祖を祀ったのが
苗村神社の始まりとされています。
当時、当地は「吾那邑(あなのむら)」と呼ばれていましたが、
その後「那牟羅(なむら)」に改まり、同音となる「長寸」の字を当て、「長寸神社」と称しました。
「寸」は村の古字で、「長」は最高位を意味しています。

『日本書紀』垂仁天皇3年3月条に新羅王子の
天日槍(あめのひほこ)が渡来したと記されています。
天日槍は初め淡路島に居住した後、菟道河(宇治川)を遡って吾名邑にしばらく滞在し、
近江国鏡村(滋賀県蒲生郡竜王町鏡に鏡神社が鎮座)の谷の陶人(すえびと)が
天日槍の従者となって、若狭国を経て但馬国に至り、
そこで持参した八種の神宝を納め居住したとされています。
吾名邑の人々は天日槍から当時の最新の技術を学び、豊かになったのかもしれません。
また、兵庫県豊岡市出石町にある出石神社にはその神宝が納められ、天日槍が祀られています。
東本殿-鳥居
「長寸神社」の扁額が掲げられた鳥居をくぐると高く聳える木立の中に参道が続きます。
井戸
鳥居の脇に井戸があり、その横には手水鉢が置かれていますが、現在は使われていません。
大神宮への参道
大神宮
参道を進んで右に入ると大神宮がありますが、いずれの境内社にも
祭神の記載が無く、祭神は不明です。
苗村神社東の鎮守の森は「東苗村古墳群」と称され、
現在は古墳時代後期(6世紀初めから7世紀の半ば頃)と推定される
円墳・八基が確認されています。
東本殿
鳥居をくぐって1分少々参道を進むと東本殿があります。
現在の建物は室町時代に建立されたもので、国の重要文化財に指定されています。
東本殿前の石灯籠には永享4年(1432)の銘があり、
その頃に東本殿が建立されたと推定されています。
また、正徳4年(1714)には大半の部材を取替えて大修理が行われた資料が残され、
昭和33年(1958)の解体修理で復元・整備されました。

本殿を囲う瑞垣も無く、質素に見えますが、『延喜式神名帳』に見える
「長寸神社」は、日野町内の長寸神社と共に論社となっています。
東本殿には大国主命と素盞嗚尊が祀られています。
天神社
東本殿の左側に天神社があります。
佐々貴社
東本殿の右側に佐々貴社があります。
西本殿へ向かいます。
西本殿-鳥居
西本殿の社標は「苗村神社」となっています。
太鼓橋
参道を進むと太鼓橋が架かっていますが、渡ることはできません。
楼門
太鼓橋の正面に楼門があり、国の重要文化財に指定されています。
三間社一戸楼門入母屋造り茅葺で、応永年間(1394~1428)頃の造営と推定されています。
この地方で最大規模の和洋を基調とした遺構とされています。
掛け声の碑
楼門の右側に「雲生井戸掛大穂生 惣禮詣與下露(うんじょういどかけおおぼしょう 
それもよかろう)」と刻字された石碑が建立されています。
かっての苗村郷では溜井戸を造り、その水を汲み上げて稲作が行われ、
雲より生ずる恵みの雨を頼りとしていました。
惣(村中)が神に詣でて雨を願う「雨乞い」の文言で、水に感謝することを意味し、
往古から苗村郷の唱え言葉として伝承されてきました。
苗村郷三十三ヶ村の総社とする苗村神社では、祭礼の掛け声として
この言葉が唱えられ、五穀豊穣と家内安全が祈られています。
放生池
門をくぐると左側に龍神池があり、背後に見えるのは参集殿です。
龍神社
池の中島には龍神社があります。
子守りの像
門をくぐった右側には「子守りの像」が祀られています。
西本殿の祭神・國狹槌尊(くにのさつち の みこと)は子守り大明神と称され、
崇められてきました。
神輿庫
神輿庫は社伝によると、天文5年(1536)3月2日に第105代・後奈良天皇から
「正一位」の神位を授かった際、勅使の装束召替仮殿として建立されたものが
後に神輿庫として用いられました。
装束召替仮殿としての用途は限られた期間であり、当初から神輿庫あるいは
御供所などに再利用すること意図して建立されたと考えられ、
全国的に類例の少ない遺構として国の重要文化財に指定されています。

毎年4月20日に行われる苗村祭では9つの宮座から神馬渡御があり、
奉納神事のあと神馬10頭と神輿3基が行列して御旅所へと渡御します。
拝殿
拝殿
安和2年(969)3月28日、大和国吉野の金峯山から国狭槌尊の御神霊が、
神域の西方に遷座され、社殿が造営されました。
国狭槌尊は『日本書紀』では天地開闢で、国常立尊(くにのとこたち の みこと)の
次に生まれた神で、樹木や野菜を育てる土の神とされています。
この神を祀る社殿は、東本殿に対し西本殿と呼ばれました。
寛仁元年(1017)正月、朝廷に門松用の松苗を献上して以来、年々の吉例となり、
第68代・後一条天皇から苗村の称号を賜りました。
「長寸神社」は「苗村神社」と改められました。
本殿
西本殿は鎌倉時代の徳治3年(1308)に再建されたもので、国宝に指定されています。
三間社流造り、桧皮葺で、殿内の厨子も同時代の作と見られ、国宝に指定されています。
東本殿-2
祭神として那牟羅彦神(なむらひこのかみ)、那牟羅姫神(なむらひめのかみ)、
國狹槌尊(くにのさつち の みこと)が祀られています。
那牟羅彦神と那牟羅姫神の両神は、当地方に初めて工芸技術・産業を伝え広められた
産土の神で、夫婦和合・諸願成就の神として、古来より篤く尊崇された祖神とされています。
八幡社
八幡社
西本殿の玉垣内には左に八幡社、右に十禅師社があり、
共に室町時代に建立されたと考えられ、国の重要文化財に指定されています。
十禅師社
十禅師社は日吉 (ひえ) 山王七社権現の一社で、国常立尊から数えて
第10の神にあたる瓊瓊杵尊 (ににぎのみこと) を祀ると思われます。
綾之社
綾之社
恵比須社
恵比須社
また、八幡社の前に綾之社、十禅師社の前に恵比須社が祀られています。

画像を撮り忘れましたが、本殿玉垣の外、右側には護国社があります。
提灯
拝殿から南へ進むと参集殿があり、大きな提灯が吊るされています。
不動堂
境内の南側に不動堂があり、不動明王像が安置されています。
不動明王像
明治の神仏分離令以前まで苗村神社境内には「苗村宮庵室(なむらのみやあんしつ)」と
呼ばれる僧坊があり、そこに天文3年(1534)に護摩堂が建立され、
本尊として不動明王立像が安置されました。
不動明王像は像高96.9cm、鎌倉時代初期の作と考えられ、国の重要文化財に指定されています。

鏡神社へ向かいます。
続く

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鳥居
15:00の少し前に出石神社の駐車場に到着しました。
駐車場前に木製の両部鳥居が建ち、右側の狛犬の斜め後ろには
「国幣中社 出石神社」と刻まれた石標が建っています。
延長5年(927)成立の『延喜式』神名帳では名神大社に列せられ、
中世・近世には但馬国の一宮にも位置づけられました。
明治4年(1871)5月に制定された近代社格制度では国幣中社に列し、
現在は神社本庁の別表神社となっています。
神門
鳥居をくぐった先に神門があります。
八脚門で、鮮やかな丹塗が施されています。
旧鳥居残欠
門の脇に旧鳥居の残欠が置かれています。
平安時代の遺物で、昭和8年(1933)の出石川改修に伴い、鳥居橋・橋脚工事中に地中から、
この鳥居の両側の元口とその下から多数の古銭が発見されました。
神社から西方約700m離れた鳥居橋周辺には「鳥居」の地名が残されています。
また、伝承ではこの鳥居が二の鳥居で、更に鳥居橋から約3km離れた
狭間坂(豊岡市出石町方間)に一の鳥居があったとされ、
広大な社領地を有していたと考えられています。
社務所
神門をくぐった左側に社務所があります。
拝殿
正面に拝殿があります。

狛犬-左狛犬-右























拝殿には木製の狛犬が祀られています。
出石神社は兵庫県豊岡市出石町宮内にあり、かってはこの地が周辺一帯の中心地でした。
鎌倉時代の弘安8年(1285)に編纂された『但馬国大田文』では、
「出石大社の社領田は141町余」との記載があり、
但馬国一宮の位置付けにあったとされています。
しかし、永正元年(1504)に山名氏内紛による兵火で神宮寺の総持寺と共に社殿を焼失し、
大永4年(1524)になって社殿再興の勧進状が起草され、再建されたと推定されています。
天正2年(1574)に山名氏が居城を此隅山城(このすみやまじょう)から
有子山城(ありこやまじょう)へ、後に出石城に移してからは、
神社から約2km南へ離れた現在の市街地が発展するようになりました。
天正8年(1580)には羽柴秀吉が但馬地方を平定し、それまで神社を崇敬した
山名氏は但馬を去り、社領も没収されて社勢は衰微しました。
江戸時代になると出石藩主・小出氏の崇敬を受け、延宝4年(1676)に門の造営が行われ、
天和2年(1682)には小出氏の屋敷地・田地が寄進されました。
明和7年(1770)に本殿、安永3年(1774)に社殿が造営されましたが、
明治43年(1910)に発生した火災で焼失し、現在の社殿は大正3年(1914)に再建されました。
本殿
本殿
出石神社の創建は不詳ですが、『日本書紀』や『古事記』に記述が残され、
その歴史は第11代・垂仁天皇(在位:BC29~70)まで遡るとされています。
『日本書紀』によると出石神社の祭神・天日槍(あめのひぼこ)は、
垂仁天皇3年(BC27)3月に播磨国に渡来しました。
天日槍は新羅の王子で、日本への帰属を願って海を渡り、天皇に八種の宝物を献上しました。
天皇は天日槍に播磨国宍粟邑(しそうむら)と淡路島出浅邑の2邑に居住を許しましたが、
天日槍は諸国を遍歴し適地を探すことを願ったので、これを許しました。
そこで天日槍は、菟道河(宇治川)を遡って近江国吾名邑(あなむら)にしばらく滞在し、
近江国鏡村の谷の陶人(すえびと)が天日槍の従者となりました。
近江から若狭国を経て但馬国に至って居住した天日槍は、
但馬国出島(出石に同じ)の太耳の娘の麻多烏(またお)を娶り、
麻多烏との間に子孫を儲けました。

また、『古事記』では「天之日矛」と表記され、逃げた妻を追って日本に渡来し、
難波を目指しました。
しかし、浪速の渡の神(なみはやのわたりのかみ)に遮られ入港が叶わず、
新羅に帰ろうとして但馬国に停泊し、そのまま但馬国に留まり
多遅摩之俣尾(たじまのまたお)の娘の前津見(さきつみ)を娶り
子孫を儲けたと記されています。

社伝では天日槍は、当時の但馬が泥水で充満していたのを見、
円山川河口の岩石を切り開いて泥水を日本海へと流し、
肥沃な平野としたと伝えています。

出石神社は天日槍から3代目の子孫・多遅麻比那良岐命(たじまひならきのみこと)が
祖神の天日槍を祀ったことが始まりとされています。
余談ですが、多遅麻比那良岐命の子・多遅摩比多訶(たじまひたか)が姪にあたる
由良度美(ゆらどみ)を娶って産んだ子が高額比売命

(たかぬかひめのみこと)で、神功皇后の母親となります。

出石神社では、天日槍命と天日槍命が但馬国に納めたとされる
八種の神宝が「伊豆志八前大神(いづしやまえのおおかみ)」として祀られています。
夢見稲荷社
境内社として右側に夢見稲荷社、左側に比賣社があります。

市杵島比賣神社天神社










そして左・市杵島比賣神社と右・天神社があり、
画像はありませんが、境内東北隅の一角に、
広さ1,000㎡に及ぶ禁足地があります。






辰鼓楼
出石神社から南へ10分足らず走った所に辰鼓楼(しんころう)があります。
明治の廃城令で出石城は取り壊されることになりましたが、三の丸・大手門の
石垣を利用して、明治4年(1871)に辰鼓楼が建設されました。
高さ13mの4階建てで、当初は文字通り太鼓を叩いて時刻を知らせていましたが、
明治14年(1881)に地元の医師から時計が寄付され、以後時計台となりました。
同年に札幌時計台も開設され、共に日本最古の時計台となっています。
出石城-隅櫓
辰鼓楼から東へ進んだ所に出石城跡があります。
但馬国守護となった山名時義が、出石神社の北側の此隅山に、
此隅山城(このすみやまじょう)を築いたのですが、永禄12年(1569)年に織田軍の
羽柴秀吉による但馬平定で落城しました。
山名祐豊(やまな すけとよ)は、今井宗久の仲介によって織田信長と和睦して領地に復帰し、
天正2年(1574)に標高321mの有子山山頂を天守とする有子山城(ありこやまじょう)を築き、
本拠としました。
しかし、毛利氏方についたため、天正8年(1580)に羽柴秀吉による
第二次但馬征伐で有子山城も落城、但馬国山名氏は滅亡しました。

その後、天正13年(1585)から前野長康、文禄4年(1595)からは小出吉政が城主となりました。
慶長9年(1604)には小出吉英により、有子山城の山上の丸および天守部分が廃され、
有子山城山麓の郭および館のみを出石城と命名し幕府に居城として届けました。
それにともない平地に、堀で囲まれた三の丸が築かれ、下郭、二の丸、本丸、
稲荷丸が階段状に築かれました。
城主の居館も成り、このとき城下町も整備され、出石の町並みが形成されました。
江戸時代は一国一城令により、出石城が但馬国唯一の城郭となり、
出石藩の藩庁が置かれました。
宝永3年(1706)に仙石政明が入城し、廃藩置県まで仙石氏の居城となりましたが、
明治の廃城令で取り壊しとなりました。
出石城-登城橋
現在は隅櫓、登城門・登城橋などが復元され、
堀の周囲一帯は登城橋河川公園として整備されています。

次回は奈良市の般若寺から京都府木津川市の笠置寺及び海住山寺を巡ります。

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