タグ:天王山

関大明神社
西国街道は、離宮八幡宮でクランク状に曲がり、京都府と大阪府の境になっています。

その境、大阪府島本町側に関大明神社(せきだいみょうじんじゃ)があります。
この地は古くは、交通の要衝として関所「山崎関」が設置されたことから、
この「関」が関大明神社の名前の由来となりました。

また、「四角四境祭(畿内堺十処疫神祭)」が行われたとされています。
仏教や儒教と共に伝わった陰陽道により、平安京に悪霊や疫病の侵入を防ぐため、
四つの国境で執り行われた国家による重要な官祭でした。
陰陽寮の官僚により、東海道の逢坂、東山道の和邇(わに)、
竜華(りゅうげ=大津市途中町)、山陰道の大江(老の坂峠)、
そして当地、山陽道の山崎の関で行われていました。
関所は平安時代に廃止され、「関戸院」として貴族や官人の
宿泊施設に使われたといいます。
その後の変遷は不明で、関大明神社の創建も定かではありませんが、
現在の関大明神社は、関所の跡地に建立されています。
関大明神社-本殿
本殿は室町時代の建立と推定されています。
祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)と天児屋根命
(あめのこやねのみこと)又は大智明神。
関大明神社-神輿庫
神輿庫
江戸時代の宝暦3年(1753)に、酒解神社から三基の神輿の内一基を譲り受け、
神輿庫に保管されています。
府県境
関大明神社の横には「従是 東山城國」と刻字された石碑が建ち、
間に流れる小さな川が府境になっているとのことです。
山崎宗鑑旧居跡
関大明神社の向かいの建物が山崎宗鑑の旧居跡とされていますが、
一般公開はされていないようで、詳細は不明です。
建物
西国街道を南へ進むとJRの西谷踏切があり、それを渡った所に
サントリー山崎蒸溜所があります。
サントリー山崎蒸溜所の記事は平成28年(2016)のものです。
工場見学には予約が必要で、同社HPから行うことができます。
見学コースには、無料と有料(1,000円または2,000円)があり、有料のコースは
工場見学と「山崎」及び山崎構成原酒のテイスティングが付いています。
仕込み
工場見学は、まずエレベーターで二階に上がります。
最初に訪れるのが、「仕込み(糖化)」と呼ばれる行程です。
原料
原料である二条大麦と山崎の水を温め、麦芽中の酵素の働きで、
でんぷんを糖分に変えます。
これをろ過して、発酵にむかう為の麦汁がつくられます。
仕込みに使われている釜は、一階から二階に達する大きなものです。
発酵
仕込みの向かいの「発酵」の行程は、
ガラスで仕切られた中で行われています。
ここでは、仕込みで作った麦汁をアルコール分約7%の発酵液に変えます。
発酵中の麦汁に酵母を加えると、酵母は麦汁中の糖分を分解し、アルコールと
炭酸ガスに変え、ウイスキー特有の香味成分がつくられます。
酵母の種類や発酵条件によって香りなどに特長がでます。
発酵は約60時間かけて行われ、これでできた発酵液をもろみと呼び、
この段階でのアルコール分は約7%です。
ポットスチルの列
次の部屋では、蒸溜が行われています。
ここでは、発酵の終わったもろみを銅製のポットスチルにいれて、
アルコール濃度を高めます。
通路を挟んで、銅製のポットスチルと呼ばれる単式蒸溜器が左右に並んでいます。
ポットスチルの列-左
向かって左側では、一回目の初溜が行われています。
右側では二回目の再溜が行われ、アルコール濃度は65~70%に高められます。
ポットスチル
ポットスチルは、形と大きさ、そして蒸溜方法・
加熱方式を違え、様々なタイプのモルト原酒がつくられています。
この生まれたばかりのウイスキーはニューポットと呼ばれています。
樽の列
貯蔵庫は、別の建物でずら~っと並んだ樽の多さに圧倒されます。
樽の種類
蒸溜で出来たニューポットを樽の中で
長期間じっくり寝かせるのですが、
樽には樽材や大きさに種類があります。
樽の内面は、焼かれているのですが、
その焼き方にも違いがあり、更に気温や湿度などによって
熟成の度合いが微妙に変化します。
樽の中
透明だったニューポットが、年月を経るごとに、琥珀色が濃くなり、
密度が凝縮されるかのように樽の中の量が減っていきます。
これは、「天使の取り分」と呼ばれるそうです。
長期間の熟成では、樽の蓋が膨らんだりして、原酒の力強さが感じられます。
庭園
貯蔵庫を出たところに庭園があり、「山崎の水」が湛えられています。
ここから一旦工場外へ出て、テイスティングが行われる部屋へと向かいます。
テイステイング
テイスティングでは、市販の「山崎」、ホワイトオーク材の樽とワイン樽で熟成された
原酒の色や香り、そして味わいの違いを感じます。
ホワイトオーク材の樽とワイン樽では、ワイン樽の方が色が濃く、
香りはホワイトオーク材の樽ではフルーティーで、
ワイン樽は若干の酸味を感じました。
原酒なのでアルコール濃度は65%以上あり、同量の水を加えて味を確かめます。
山崎
そして、山崎の天然水でつくられたソーダ水と「山崎」でハイボールをつくり味わいました。
左端のソーダ水の瓶がその時のものです。
売店でお土産を買って、工場見学を終了しました。
椎尾神社-一の鳥居
サントリー山崎蒸溜所から山側へ進んだ所に椎尾神社があり、
一の鳥居が建立されています。
椎尾神社-二の鳥居
参道を進むと二の鳥居が建っています。
椎尾神社-手水舎
鳥居をくぐった先には石段があり、その手前に手水舎があります。
水車
手水舎の向かいに小さな水車が設置されていますが、
現在は水車は回転していませんでした。
椎尾神社-拝殿
石段を登った正面に拝殿があります。
すぐたからでらの碑
拝殿の右側に石段があり、その脇に「すぐたからでら」と刻まれた石碑が建っています。
右たからでらの碑
その横には「右たからでら三町 てん王九町」の碑が建てられ、
本殿の奥に天王山への登山道があります。
椎尾神社-境内社-朱
石段を登った所に朱塗りの社殿がありますが、詳細は不明です。
五八郎稲荷-1
五八郎稲荷-2
北側には五八郎稲荷大神が祀られています。
椎尾神社-本殿
本殿は覆屋の中に納められています。
かって、この地の「閼伽谷(あかだに)」で役行者が修行し、呪術で閼伽を湛え、
堂前の滝に不動明王を安置し、山上に弁才天社を勧請したと伝わります。
その後、天平18年(746)に聖武天皇の勅を受けた行基が西観音寺を創建しました。
創建当初の西観音寺は、現在地より西南の方角にあり、寺域には
大谷、中谷、閼伽谷の3つの谷があったことから「谷の観音」とも呼ばれました。
本尊は、聖武天皇の念持仏であった像高一寸八分(約5.4cm)の十一面千手観音菩薩で、
閻浮檀金(えんぶだごん=想像上の金の名称で、
最も優れたもの)の像であったとされています。
脇時には左に不動明王、右に毘沙門天が安置されていました。

境内の入り口付近に閻魔堂があり、小野篁(おの の たかむら)が自作した
十王像が安置されていました。
小野篁は3組の十王像を刻み、西観音寺の他に越中国中野と
筑後国古津郡に安置されたと伝わります。

西観音寺はその後、寛弘年間(1004~1012)に焼失し、
久寿元年(1154)に河内の豪族・八戸重忠によって再建されました。
再建された西観音寺には水瀬離宮から後鳥羽上皇も参拝されたと伝わり、
上皇の崩御後は西観音寺で毎年命日の2月22日に
御忌仏事(ぎょきぶつじ)が行われていました。

江戸時代初期には総門、七間四面の本堂、法華堂、経蔵、常行堂、三重塔、
閻魔堂の他12坊があり、境内地は山腹から
現在のサントリー工場にまで及びました。
しかし、その後衰微して明治の神仏分離令により西観音寺は廃寺となり、
明治元年(1868)に神社として残され「椎尾神社」に改められました。
椎尾神社は明治5年(1872)に村社に列せられています。
西観音寺の本堂、聖天堂、鐘楼などは観音寺(山崎聖天)に移築され、
閻魔像などは宝積寺へ遷されました。

壽屋(ことぶきや=後のサントリー)の創業者・鳥井信治郎は大正12年(1923)に
この地でウイスキーを製造するため山崎蒸溜所が開設しました。
初代工場長には後のニッカウヰスキー株式会社を創業した竹鶴政孝が就任しました。
鳥井信治郎は村人と協力し、荒廃してた椎尾神社を再興し、
蒸溜所が竣工した11月11日に秋季祭礼が行われることとなりました。
椎尾神社-本殿-2
祭神として素戔嗚尊、第45代・聖武天皇、第82代・後鳥羽天皇が祀られています。
椎尾神社-樽
神前にはサントリーのウイスキーの樽が奉納されています。
椎尾神社-境内社
本殿の左側に小さな祠があります。
西観音寺の鎮守社であった、天照大神、鴨別雷命(かもわけいかづちのみこと)、
応神天皇(八幡神)を祀る尾上神社が境内に遷座されたそうですが、
この祠が尾上神社なのかは不明です。
護国天神社
小さな祠の左側の石碑、左側の「護国天神社」と右側の「陸鼻社」は、
昭和17年(1942)に谷から掘り出されたそうです。
登山道
奥へ進むと天王山への登山口があり、杖が置かれています。
登山道へは入っていないので、定かではありませんが、
途中で宝積寺(宝寺)と天王山山頂への道が分岐しているようです。
トンネル
谷側には、上部に名神高速道路・天王山トンネルの一部が露出しています。
慈悲尾谷
トンネル下をくぐって滝の下へと進む道は土砂崩れで寸断されていました。
神社の西側の谷は「慈悲尾谷」と称され、慈悲尾(じひお)が
転訛して「椎尾(しいお)の社号となったとされています。

水無瀬の滝へ向かいます。
続く

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

アサヒビール美術館
宝積寺から天王山への登山道に入った直ぐ先に、アサヒビール美術館への
下り道があり、天王山への登山道を進めば木立の間から建物も見えてきます。
アサヒビール美術館は加賀證券(後に三菱UFJ証券と合併)を設立した
実業家・加賀正太郎の山荘を美術館としたものです。
加賀正太郎は現在のニッカウヰスキー株式会社の創業にも参画し、
同社の株を70%取得する筆頭株主でした。
株式の散逸を防ぐためアサヒビールの山本為三郎に同社の株を売却している
ことから、アサヒビールが山荘の建物を復元・整備したのかもしれません。
美術館に納められているのは山本為三郎が収集したコレクションが中心となっています。
絵図-秀吉の中国返し
宝積寺から登山道を10分くらい歩くと、青木葉谷展望広場があります。
広場には「秀吉の道」の陶版画が建てられています。
山頂までの登山道は大山崎町により「秀吉の道」と名付けられ、
5枚の陶版画が建てられています。
原画は日本画家の岩井弘画伯が屏風絵として描いたもので、
広場には最初の「秀吉の中国大返し」の図が描かれています。
青木展望台-写真
展望台からは見通しが良ければ、あべのハルカスや大阪城まで望めるそうです。
青木展望台-三川合流
画像の左側から中央には三川が合流して一本の淀川となって流れています。
観音寺との合流
更に登山道を進むと観音寺からの登山道と合流します。
道標には観音寺も宝積寺からも同じ0.5kmと記されています。
旗立松展望台
道標のすぐ先に旗立松展望台があります。
旗立松展望台-布陣図
展望台には、山崎の合戦で羽柴軍と
明智軍が布陣した図と説明文が記されています。
旗立松展望台からの眺望
眼下には画面上下の名神高速道路と画面左右の京都縦貫道が立体交差し、
京都縦貫道の名神高速道路から左側が山崎合戦古戦場となっています。
その後方、直線距離で1km足らずの所、サントリービール工場の
裏辺りに明智軍の本陣が置かれました。
背後の山の左側が醍醐山です。
合戦の碑
展望台付近に「山崎合戦之地」の石碑が建っています。
天王山では明智光秀の家臣・松田政近及び亀岡の並河城主・並河易家
(なみかわ やすいえ)の軍と天王山麓に布陣していた黒田孝高(通称=官兵衛)・
羽柴秀長との交戦がありました。
旗立松
石碑の付近に「旗立松」が立っています。
羽柴秀吉が士気を高めるために軍旗を掲げたとされる松は、
明治の中頃に朽ちてしまい、その後松を植えても枯れてしまい、
現在の松は昭和63年(1988)に植えられた五代目になります。
酒解神社-鳥居
登山道には酒解神社の鳥居が建っています。
絵図-頼みの諸将来たらず
鳥居をくぐった先に「頼みの諸将来たらず◆明智光秀の誤算」の図が建っています。
光秀が頼りにし、縁戚であった細川藤孝・忠興父子は「喪に服す」として剃髪、
中立の構えを見せ、光秀の出兵要請には応じませんでした。
また、光秀が普請目付として大規模な近世城郭とした大和郡山城の城主・筒井順慶は
秘密裏に秀吉側に寝返り、出兵せずに籠城しました。
絵図-天下分け目の天王山
その隣には「天下分け目の天王山◆勝負は川沿いで決まった」の図が建ち、
右側に羽柴軍、左側に明智軍が描かれています。
淀川沿いは湿地帯で沼が描かれ、秀吉の援軍が駆けつけています。
更に中央の上部から守りの手薄な所に秀吉軍が急襲しています。
十七烈士の墓への石段
鳥居をくぐってしばらく登ると左側に石段があります。
十七烈士の墓
石段を登った所に十七烈士の墓があります。
元治元年7月19日(1864年8月20日)、長州藩勢は禁門の変を起こし、
会津藩主で京都守護職・松平容保(まつだいら かたもり)らの排除を目指して挙兵しました。
京都御所の蛤御門付近で長州藩兵と会津・桑名藩兵が衝突し、戦闘が勃発しました。
しかし、来島又兵衛は援軍に駆けつけた薩摩藩兵の狙撃を受け、自決しました。
久坂玄瑞、寺島忠三郎らは鷹司邸で自害し、入江九一は鷹司邸から脱出したところを、
越前藩士の槍に倒れました。
長州勢は長州藩屋敷に火を放って逃走し、真木和泉は敗残兵と共に天王山に
辿り着きましたが、他の勢力との合流に失敗しました。
真木和泉は敗残兵を逃がし、宮部春蔵ら17名で天王山に立て籠もりました。
21日に会津藩と新撰組に攻め込まれると、小屋に立て籠って火薬に火を放って自爆しました。
この変により尊王攘夷派の急進的指導者の大半が失われました。
毎年、10月21日には「天王山十七烈士招魂祭」が行われ、
真木和泉が自害の際に詠んだとされる和歌や漢詩が吟詠されるそうです。
厳島社
十七烈士の墓から少し進むと、ポンプ室があり、その奥に酒解神社の末社である
厳島社の小さな祠があります。
パイプ
横に置かれている太いパイプのようなものの詳細は不明です。
ポンプ室と何か関係があるのかもしれません。
しかし、太くて大きいです。
三社宮
厳島社の先には、天照大神社月讀社(つきよみしゃ)・蛭子社(ひるこしゃ)が
祀られた三社宮があります。
絵図-光秀の最後
三社宮の先に陶版画「明智光秀の最後◆古い常識人の敗北」が建ち、
小栗栖の竹藪で落ち武者狩りの竹槍で討ち取られる場面が描かれています。
明智光秀は詩歌にも礼法にも詳しい博識を買われ、織田信長の家臣となりました。
僅か4年で坂本城主となり、やがて丹波一国を領地とする
織田家屈指の有力武将にのし上がりました。
しかし、光秀は信長の改革の過激さに反発を感じるようになりました。
「古い常識にこだわる知識人の弱さ」と記されています。
酒解神社-倒れた鳥居
陶版画の先に酒解神社が見えてきます。
石鳥居の柱の根元部分を残して上部は倒れてしまって失われています。
何か文字が刻まれていますが判読するのは困難でした。
酒解神社-神輿庫
壊れた鳥居から境内に入った左上方に神輿庫があります。
鎌倉時代後期に建立された切妻造り板倉式の建築物で、
国の重要文化財に指定されています。
板倉式とは、柱に溝を彫り、この神輿庫では14cmの厚板を落とし込む工法で、
鎌倉時代以降は次第に土蔵に代わっていったため、
酒解神社の神輿庫は現存する最古のものです。

神輿庫内には2基の神輿が納められています。
江戸時代の宝暦3年(1753)に3基の神輿が新造され、
内1基が関大明神社(せきだいみょうじんじゃ)に譲られました。
酒解神社-宮主社
神輿庫と本殿との間には宮主社があり、足名稚命(あしなづちのみこと)と
手名椎命(てなづちのみこと)の夫婦神が祀られています。
二神は大山津見神(おおやまつみのかみ)の子で、
出雲国の肥の川の上流に住み八人の娘と共に暮らしていました。
しかし、毎年八俣遠呂智(やまたのおろち)がやって来るようになり、
その度に娘がさらわれ、食べられてしまいました。
最後に残った櫛名田比売(くしなだひめ)が八俣遠呂智の生贄にされようとした時に
素戔嗚尊(すさおのみこと)が現れ、素戔嗚尊は八俣遠呂智を退治し、
櫛名田比売を妻としました。
素戔嗚尊は須賀の地に宮殿を建て、足名稚命を宮の首長に任じて
稲田宮主須賀之八耳神(いなだのみやぬしすがのやつみみのかみ)の名を
与えたとされています。
酒解神社-本殿-
本殿
酒解神社は、正式には自玉手祭来酒解神社(たまでよりまつりきたるさかとけじんじゃ)と称し、
養老元年(717)建立の棟札が残されていることから奈良時代の創建と推定されています。
旧名を山埼杜といい、現在の離宮八幡宮の地に祀られていました。
平安時代の『延喜式神名帳』では名神大社に列せられ、
月次、新嘗の官祭を預かっていました。
中世には離宮八幡宮の勢力が強まり、天王山の頂上近くに遷座されて
牛頭天王(こずてんのう)を祀る「山崎天王社」と呼ばれるようになりました。
天王山は、元は「山崎山」と呼ばれていましたが、同社に因んで
「天王山」と呼ばれるようになりました。
山崎天王社の社殿は、江戸時代の文化10年(1813)に大部分を焼失し、
文政3年(1820)に再建されました。
酒解神社-本殿-2
明治10年(1877)6月、山崎天王社は「自玉手祭来酒解神社」に改称しました。
現在の祭神・酒解神、素戔嗚尊他九柱はそのときに定められました。
国の有形文化財に指定された現在の本殿は、雨漏りがするのでしょうか?
前面がブルーシートで覆われています。
酒解神社は現在では離宮八幡宮によって管理されているそうで、
朱印も離宮八幡宮で授与されます。
酒解神社-拝殿
本殿前に拝殿があり、本殿と拝殿の間を登山道が横切っています。
酒解神社-拝殿内部
拝殿は鉄骨で補強されています。
酒解神社-後見社
本殿の右側には後見社があり、大己貴命(おおなむちのみこと=
大国主命)が祀られています。
山頂手前の道標
酒解神社の200m先に、山頂と小倉神社への三叉路があり、
山頂まで残り100mの急坂を登ります。
山頂-1
山頂-2
標高270mの天王山の山頂です。
絵図-天下人秀吉
最後の陶版画「秀吉の天下人への道はここから始まった」が建てられています。

天王山には南北朝時代の延元3年/暦応元年(1338)に城が築かれていた記録が残され、
南朝側の赤松範資(あかまつ のりすけ)が城に入りました。
しかし、建武の新政で赤松範資は後醍醐天皇から冷遇されたため足利尊氏に与し、
室町幕府成立後には尊氏から摂津守護に任じられました。
応仁元年(1467)に起こった応仁・文明の乱では、天王山の山城は東軍によって支配され、
乱後の文明14年(1482)には細川勝元の子・政元が城に入りました。

大永7年(1527)の桂川原の戦いで、管領・細川高国に対して波多野元清と
柳本賢治(やなぎもと かたはる)は反旗を翻し、波多野軍は山崎城を攻撃して
城に詰めていた摂津守護代・薬師寺国長を高槻城への逃亡へと追い込みました。
細川晴元に出陣を命じられた三好長家、三好政長は山崎城で波多野軍と合流し、
桂川を挟んで細川高国軍と対峙しました。
合戦は波多野・三好連合軍が勝利し、細川高国は
第12代将軍・足利義晴を奉じて坂本へ逃げ去りました。

天文7年(1538)に細川晴元は城を修造し、翌年起こった
三好長慶(みよし ながよし)と三好政長の同族争いで、
晴元は政長に肩入れしたため三好長慶の攻撃に備えました。
六角定頼の仲介で大規模な戦闘には至らず、小競り合いで収まりました。

天正10年(1582)の山崎の合戦では、明智光秀軍は一時城に入りました。
しかし、なぜか光秀軍は勝竜寺城へ撤退し、
翌日には羽柴軍が布陣し、優勢となりました。
合戦後のその年、秀吉は天王山(山崎山)に山崎城を築城し、本拠としました。
城には天守台が備わり、天王山から宝積寺一帯にかけて布陣されました。
しかし、天正11年(1583)には大坂城が築かれ、秀吉の本拠が移されたことから、
天正12年(1584)に山崎城は廃城となりました。
山頂南側の平地
山頂から南側に少し下ると、広く平地に整地されています。
井戸跡
平地の少し東側には井戸跡が残され、雨水を溜めて利用していたと考えられています。
山頂付近の石仏
更に東側に行くと石仏が祀られています。
納集仏
山頂から小倉神社の方へ下ると石仏が祀られています。
平成8年(1996)に竹藪や落ち葉に埋もれていた石仏が
この場所に集められ、祀られています。
龍神池
更に下ると登山道の右側に池が見えます。
龍が池に舞い降りたとの伝承があり、「龍神池」と称されています。
かって、池の畔には竜王神社があり、円明寺村の鎮守として祀られていましたが、
江戸時代の末期に小倉神社へ遷されました。
水利が悪く水に苦しんでいた円明寺村の村民は、その社で雨乞いを行い、
その風習は昭和10年(1935)頃まで続いていました。

登ってきた宝積寺の方へ下山して離宮八幡宮へ向かいます。
続く

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

稲荷社
観音寺は小倉神社から円明教寺の方まで戻り、
西へ進んだ先の右側に駐車場への登り口があります。
天王山への登山口から駐車場への分岐点に稲荷大明神が祀られた社殿があります。
薬師堂への石段
稲荷社の北側に石段があります。
石段脇の「不許肉輩入山内」と刻字された石碑は倒れてしまい、
門は閉じられていますが、石段を登ると薬師堂の横、本堂の正面へ出られます。
見張り小屋
観音寺は天王山の東側山麓にあり、JRや阪急の線路が無ければ
この参道からも下の西国街道が見渡せるように思います。
この建物の詳細は不明ですが、見張り小屋のように見えます。
しかしそのための窓もなく、何のための建物か...? 気になります。
仁王門
仁王門の横に駐車場があります。
仁王門は昭和になってから建立されました。
仁王像-右
仁王像-左
仁王像もそれに合わせて造立されたように思われます。
庫裏への石段
仁王門をくぐると石段が二手に分かれ一方は庫裏の方に直進し、
もう一方は途中で曲がって無料休憩所の前に出ます。
休憩所内
無料休憩所には鎮宅霊符神、大弁財天女、毘沙門天王が祀られています。
鎮宅とは、家宅の災禍を祓い消し鎮めるとの義で、下記のような由来があります。
「風水・宅相に精通していた漢の孝文帝が、あるとき孔農県に行幸したとき、
滅茶苦茶凶相の地に、立派な邸宅のあるのを怪しみ、その主人をよんで
尋ねたところ、その昔、災禍打ち続きど貧民となり不幸のどん底にあったとき、
いずこともなく書生二人が現れ、七十二霊符を伝授され、十年にして大富豪となり、
二十年にして子孫栄え、三十年にして天子までが訪ねて来るであろうと預言し、
忽然と消えたという。
ここに孝文帝はこの霊符の法を深く信仰し、天下に伝えた」
お守りやお札の元祖の神で、節分や七夕など星祭りは、
この神の家内安全、商売繁盛のお祭りです。
本堂
本堂
観音寺は山号を妙音山と号する真言宗系単立の寺院で、
通称で「山崎聖天(やまざきしょうてん)」と呼ばれています。
寺伝では昌泰2年(899)に宇多法皇の御願寺として創建されたと伝わります。
第59代・宇多天皇は寛平9年7月3日(897年8月4日)に皇太子の敦仁親王
(後の醍醐天皇)に譲位し、昌泰2年(899)10月24日に出家しました。
東寺で受戒した後、仁和4年(888)に自らが創建した仁和寺に入り、法皇となりました。
高野山、比叡山、熊野三山にしばしば参詣するようになり、昌泰4年(901)正月、
留守中に譲位直前の除目で権大納言に任じた菅原道真に大宰府への左遷が下されました。
昌泰4年が改元され、延喜元年となった12月13日、法皇は東寺で
伝法灌頂を受けて、真言宗の阿闍梨となり、朝廷と真言宗の関係強化や
地位の向上に資することになりました。
病弱であった醍醐天皇に代わって政務を執っていた可能性もあるとみられていましたが、
承平元年7月19日(931年9月3日)に65歳で崩御されました。

後に地中から薬師如来の石像が出現し、「妙音山寛平法皇(=宇田法皇)剏建地
(そうけんち=創建地)」と彫られていたことから山号を「妙音山」としたとされています。
しかし、観音寺は創建後、徐々に衰退し、江戸時代初期になった延宝9年(1681)に、
宮中に出入りしていた摂津勝尾寺の僧・木食以空(もくじきいくう)によって再興されました。
木食とは、肉類,五穀を食べず、木の実や草などを食料として修行することで、
その修行を続ける高僧が木食上人です。
木食以空は、この地にあった聖徳太子作と伝わる十一面千手観世音菩薩を
本尊として中興開山しました。
天和2年(1682)に歓喜天(かんぎてん)が勝尾寺から遷され、鎮守として祀りました。
その際、住友家、鴻池家、三井家などの豪商から寄進があり、
また、第112代・霊元天皇から続けて東山天皇、中御門天皇の帰依を受け、寺は栄えました。
宝永4年(1707)には徳川第五代将軍・綱吉から寺領安堵と
諸役免除の朱印状が与えられました。

観音寺は元治元年7月19日(1864年8月20日)に起こった禁門の変で、
長州藩の義勇隊が境内を占拠し、会津藩の攻撃により全山焼失しました。
事前に避難させた本尊の十一面千手観世音菩薩と歓喜天像は難を逃れました。
明治13年(1880)に廃寺となった島本町の西観音寺から本堂、聖天堂、鐘楼などが
移築されて再興され、明治23年(1890)には三井、住友などの財閥からの支援を受け、
現在の姿に再建されました。

本堂には中央の厨子内に本尊の十一面千手観世音菩薩立像が安置され、
厨子は開扉されています。
左側に不動明王像とそれを囲うように四天王像が安置されています。
灯籠
本堂前の大灯籠は高さが3m余りあり、元禄3年(1690)に伊予の国
(現在の愛媛県)で発見された別子銅山で採掘された銅で鋳造されました。
元禄10年(1697)に京都発祥で当時は大坂を拠点としていた
住友家の三代目・友信によって寄進されました。
友信は岡山県の吉岡銅山や秋田県の阿仁銅山などの経営に乗り出し、
幕府御用の銅山師となって日本一の銅鉱業者へと発展させました。
平成7年(1995)の阪神淡路大震災で一部損傷しましたが、
住友家と住友グループによって修復されました。
歓喜天の鳥居
本堂前の南側に鳥居が建ち、「歓喜天」と記された扁額が掲げられています。
聖天堂-1
本堂の南側の聖天堂のもので、聖天堂の前には礼堂があります。
聖天堂-2
聖天堂と礼堂とは金網で仕切られ、堂内は暗く仏像が安置されているのは見えますが
はっきりとはせず、秘仏の歓喜天像で無いことだけは確かです。

歓喜天はヒンドゥー教のガネーシャ(=群集の長)に起源を持ち、
ヒンズー教最高神の一柱・シヴァ神を父とし、シヴァの軍勢の総帥を務めたとされています。
古代インドでは、もともとは障害を司る神でしたが、やがて障害を除いて
財福をもたらす神として信仰されました。
仏教に帰依し、護法善神となったとして仏教に取り入れられるようになりました。

本尊の歓喜天の像容は頭が象で、首から下は人の姿とされ、男女二躯が
向かい合って抱擁されている陰陽和合の「男女合体神」で、秘仏とされています。
ガネーシャが象の頭を持つ理由には、「シヴァが帰還した際、ガネーシャが
シヴァだと知らずに入室を拒んだのでシヴァが激怒して
ガネーシャの首を切り落とし、投げ捨てました。
シヴァはガネーシャが自分の子と知り、首を探しに出かけたのですが見つからず、
象の首を切り落としてガネーシャの頭として取り付け
復活させた」との説があります。
仏教では「象は瞋恚強力(しんにごうりき)ありと雖(いえど)も、
能(よ)く養育者及び調御者に随(したが)ふ。」され、
歓喜天は帰依した人を裏切らないと信仰されています。

大聖歓喜天使咒法経(だいしょうかんぎてんししゅほうきょう)では、
除病除厄、富貴栄達、恋愛成就、夫婦円満、除災加護の現世利益が説かれています。

山崎聖天の歓喜天像には逸話が残されています。
廃仏毀釈の頃、寺を訪れた役人が歓喜天像に手をかけたところ、
その役人の子が池でおぼれ死んだと伝わります。
また、歓喜天像が黄金でできていると思い込んだ泥棒が、歓喜天像を盗み出し刀傷を付けました。
泥棒は山門で腰を抜かして捕まりましたが、刀傷は今も像の肩に二か所残されているそうです。
裏門
天王山への登山道
聖天堂の南側に裏門があり、裏門から出ると天王山への登山道となっています。
裏門-貼り紙
裏門には張り紙が...
土蔵
聖天堂前の南側にある土蔵は、禁門の変で唯一焼け残りました。
光明殿
光明殿は、仁和寺より移築されたもので、大正13年(1924)までは
浴油堂(よくゆどう)と称され、浴油供が修されていました。
現在では聖天堂で毎年11月10日から一週間、人肌に温められた
ごま油を歓喜天の像に108回注ぐ修法が行われています。
堂内には後水尾、明正、霊元、中御門天皇の位牌と東山天皇の坐像が祀られています。
鐘楼
鐘楼
梵鐘
梵鐘は桂昌院によって奉納され、四方に梵字が刻まれています。
薬師堂
開基薬師堂は、山号由来の開基薬師如来像が祀られています。
地蔵像
休憩所前には地蔵菩薩像が祀られています。
玄関
庫裏に隣接して南側に客殿があり、その玄関だと思われます。
二の鳥居
庫裏から仁王門、更に石段を下ると二の鳥居が建っています。
一の鳥居
車道を横断して石段を下り、阪急とJRのガードをくぐった先に一の鳥居が建っています。
山崎津跡
鳥居は西国街道に面し、西国街道を南に進み、一筋目を左折して東へ進んだ
マンションの玄関前に山崎津跡の説明板が立てられています。
現在の桂川の堤防からは500mくらい離れています。
昭和63年(1988)にマンション建設に先立つ発掘調査で、船着場の遺構が見つかりました。
山崎津は延暦3年(784)、長岡京造営に伴い設置されたと考えられています。

山崎津跡-絵図
絵図では上に描かれている瓦窯から港までの近さが把握でき、
舟を使えば大量の瓦も運べただろうと想像できます。
瓦窯跡
二の鳥居まで戻り、車道を南側へ進むと左側には「桜の広場公園」があり、
南側に隣接して瓦窯跡がありますが、現在は保存整備工事が行われています。
瓦窯跡-絵図
工事前には説明板が立てられ、絵図が掲載されていました。
実際には高槻の瓦窯の図で、大山崎はこれとは少し異なるようです。
大山崎瓦窯跡は、平成16年(2004)の発掘調査で発見され、国の史跡に指定されました。
平安京造営やその後の修理の際に瓦を
供給していた国営の瓦窯だったと推定されています。
蛇姫池
瓦窯跡から南へ進むと右側に蛇姫池があります。
幕末かそれ以前、若い娘がこの池に落ちて亡くなったそうで、
その後近在では不幸な事件が続きました。
蛇姫池-祠-1
村人が祠を建てて祀り、娘の霊を慰めると不幸は止んだと伝わり、
現在も祠が残されていますが、その数は三社に及びます。
禁門の変が起こり、この地でも長州藩と会津藩との戦闘で
この池の付近にも多くの戦死者が出たそうで、
その慰霊のために祠が新たに建てられたのかもしれません。
サギ
サギは池の魚を狙っているのでしょうか?
遠くを見つめて、物思いにふけっているようにも見えます。

駐車場まで戻り宝積寺へ向かいます。
続く

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

石倉神社
円明教寺から山裾と言っても住宅街なので分かりずらいですが、
北西の方向に進んだ所に小倉神社があります。
神社前から北へ進み、「奥海印寺納所線」と呼ばれる
府道204号線の角に石倉神社があります。
石倉神社は、小倉神社の末社で、小倉神社にお参りする前に、
お祓いと禊を授ける社で、投石信仰がありました。
石倉神社の小さな社に、小石を投げてから小倉神社にお参りするという風習は
明治の中頃まで続いていました。

かって、石には神さまの他、人の魂もやどるとされていました。
石は“おはらい”と“みそぎ”を受ける“人の身がわり”だったのです。
また、石倉神社は、いつも寝ている寝坊な神様が祀られているそうで、社に石を投げて、
神様を起こさないと願い事が聞いてもらえないとの伝承もあります。
社号標
石倉神社から戻ると、小倉神社の石標が建っています。
一の鳥居
一の鳥居は江戸時代の元禄年間(1688~1703)に建立されました。
一の鳥居-扁額
神額「正一位小倉大明神」は、小野道風の筆と伝わります。
巨大な石
鳥居の手前には巨石が配されています。
神輿庫
参道を進んで右側を登って行くと小倉神社の第二駐車場があり、
その南側にコンクリート造りの神輿蔵があります。
江戸時代の作とされる神輿2基が納められています。
5月3日の春季例大祭で、神輿が巡幸されるそうです。
古墳
駐車場の西側は宅地が造成され、その奥に鳥居前古墳があるそうで、
かってこの地を支配した豪族が被葬者と推定されています。
小泉川流域を支配し、大きな力を持っていたと推測され、
その一族により小倉神社が創建されたと考えられています。
龍王神社-鳥居
神輿庫の南側に龍王神社が祀られています。
龍王神社
龍王神社は、かって、天王山の山頂近くにある竜神池の畔に祀られていたのですが、
江戸末期に現在地に遷座されました。
水利が悪く水に苦しんでいた円明寺村の民を助けるために龍神が池に舞い降り、
恵みの雨を降らせたと伝わり、村の守護神として信仰を集めていました。
稲荷神社-鳥居
稲荷神社
龍王神社の左側にある稲荷神社。
若宮神社-鳥居
若宮神社
稲荷神社の左側にある若宮神社。
天満宮-鳥居
若宮神社の左側にある天満宮。
天満宮
天満宮には天神の神使いである牛が祀られています。
二の鳥居
二の鳥居も元禄年間に建立されました。
手水者
鳥居をくぐった左側には手水舎があります。
熊野神社
手水舎の斜め奥には、境内に背を向けて熊野神社が祀られています。
噴水
境内の中央には噴水があります。
やちまた宮
噴水の南側には、方除交通安全の「やちまた宮」が祀られています。
割拝殿
やちまた宮の横、天王山への登山道を挟んで
斜めの石段を登った先に、割拝殿があります。
絵馬-神幸祭
割拝殿の中、右側に享保2年(1717)の「神幸祭板絵」が掛かっています。
絵馬-相撲
左側には文政10年(1827)正月の「奉納相撲板絵」が掲げられていますが、
現在は土俵も残されていません。
これらの絵馬には近年補彩が行われています。
滝不動
割拝殿の横に滝不動が祀られています。
御神木
割拝殿の左背後に立つ杉と樅の御神木は、樹齢500~600年と推定されています。
拝殿
割拝殿の先に拝殿があります。
安永9年(1780)に編纂された『都名所図会』には、境内に能舞台、楽屋が描かれ、
かっては祭礼時には「小倉能」と呼ばれた能が演じられていました。
三社宮
拝殿の先、右奥には三社宮があります。
右から八幡宮、天照皇大神宮、若宮社が祀られています。
亀の手水
本殿への石段脇には天王山、小倉山から湧き出している清水を手水としています。
亀の口から水が流れ出ていますが、奥の亀さんはお休みしています。
本殿-1
本殿
小倉神社は、乙訓地方(おとくにちほう)で最も古い神社の一つとされています。
奈良時代の養老2年(718)に創建され、
平安遷都の際は御所の鬼門除けとして祈願されました。
嘉祥3年(850)には、神階最高位である「正一位小倉大明神」と号しました。
山崎合戦の際は、秀吉が家臣を遣わし、戦勝を祈願しました。
江戸時代には、徳川幕府から寄進を受け、
禁門の変では幕府軍の戦勝祈願が行われました。
本殿-2
現在の本殿は江戸時代の文化8年(1811)に再建され、
明治30年(1897)、昭和10年(1935)に改修、修築が行われました。
平成29年(2017)に京都府暫定登録文化財に登録されています。

祭神は武甕槌神(たけみかづちのかみ)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、
斎主命(いわいぬしのみこと)、比売大神(ひめのおおかみ)で、
以上の四神は春日大社の祭神で「春日神」と呼ばれています。
斎主命は経津主神(ふつぬしのかみ)とも称され、
香取神宮の祭神であることから「香取神」、「香取大明神」とも呼ばれています。
磐座
本殿の裏に「小倉神社磬座(いわくら)、地磁波発生の処」と記された丸い石碑があります。
その横に建つ説明文で、地磁波は、
「地球の持っている磁気が特定の場所で強く認められ、機器測定によると
此の周辺の空間には磁力波が流れ出しています。」と記されています。

磬座は、「古来、自然崇拝の中心として、山を崇高な神の宿るところとの考えから、
御神体の中心とされた岩盤の多い場所」とされています。
現代人よりも、五感が敏感だったであろう古代人は、このような場所に霊感を
得て社寺を創建したと思われ、小倉神社も創建当初は春日神以外の
正体不明の小倉大明神が祀られていたと思われます。
天王山の登山口
久保川に架かる橋を渡ると天王山への登山道で、JR大山崎駅の方へ下ることもできます。
十二支
久保川沿いに下ると、十二支の像が祀られています。

観音寺(山崎聖天)へ向かいます。
続く

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

↑このページのトップヘ