西国街道は、離宮八幡宮でクランク状に曲がり、京都府と大阪府の境になっています。
その境、大阪府島本町側に関大明神社(せきだいみょうじんじゃ)があります。
この地は古くは、交通の要衝として関所「山崎関」が設置されたことから、
この「関」が関大明神社の名前の由来となりました。
また、「四角四境祭(畿内堺十処疫神祭)」が行われたとされています。
仏教や儒教と共に伝わった陰陽道により、平安京に悪霊や疫病の侵入を防ぐため、
四つの国境で執り行われた国家による重要な官祭でした。
陰陽寮の官僚により、東海道の逢坂、東山道の和邇(わに)、
竜華(りゅうげ=大津市途中町)、山陰道の大江(老の坂峠)、
そして当地、山陽道の山崎の関で行われていました。
関所は平安時代に廃止され、「関戸院」として貴族や官人の
宿泊施設に使われたといいます。
その後の変遷は不明で、関大明神社の創建も定かではありませんが、
現在の関大明神社は、関所の跡地に建立されています。
本殿は室町時代の建立と推定されています。
祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)と天児屋根命
(あめのこやねのみこと)又は大智明神。
神輿庫
江戸時代の宝暦3年(1753)に、酒解神社から三基の神輿の内一基を譲り受け、
神輿庫に保管されています。
関大明神社の横には「従是 東山城國」と刻字された石碑が建ち、
間に流れる小さな川が府境になっているとのことです。
関大明神社の向かいの建物が山崎宗鑑の旧居跡とされていますが、
一般公開はされていないようで、詳細は不明です。
西国街道を南へ進むとJRの西谷踏切があり、それを渡った所に
サントリー山崎蒸溜所があります。
サントリー山崎蒸溜所の記事は平成28年(2016)のものです。
工場見学には予約が必要で、同社HPから行うことができます。
見学コースには、無料と有料(1,000円または2,000円)があり、有料のコースは
工場見学と「山崎」及び山崎構成原酒のテイスティングが付いています。
工場見学は、まずエレベーターで二階に上がります。
最初に訪れるのが、「仕込み(糖化)」と呼ばれる行程です。
原料である二条大麦と山崎の水を温め、麦芽中の酵素の働きで、
でんぷんを糖分に変えます。
これをろ過して、発酵にむかう為の麦汁がつくられます。
仕込みに使われている釜は、一階から二階に達する大きなものです。
仕込みの向かいの「発酵」の行程は、
ガラスで仕切られた中で行われています。
ここでは、仕込みで作った麦汁をアルコール分約7%の発酵液に変えます。
発酵中の麦汁に酵母を加えると、酵母は麦汁中の糖分を分解し、アルコールと
炭酸ガスに変え、ウイスキー特有の香味成分がつくられます。
酵母の種類や発酵条件によって香りなどに特長がでます。
発酵は約60時間かけて行われ、これでできた発酵液をもろみと呼び、
この段階でのアルコール分は約7%です。
次の部屋では、蒸溜が行われています。
ここでは、発酵の終わったもろみを銅製のポットスチルにいれて、
アルコール濃度を高めます。
通路を挟んで、銅製のポットスチルと呼ばれる単式蒸溜器が左右に並んでいます。
向かって左側では、一回目の初溜が行われています。
右側では二回目の再溜が行われ、アルコール濃度は65~70%に高められます。
ポットスチルは、形と大きさ、そして蒸溜方法・
加熱方式を違え、様々なタイプのモルト原酒がつくられています。
この生まれたばかりのウイスキーはニューポットと呼ばれています。
貯蔵庫は、別の建物でずら~っと並んだ樽の多さに圧倒されます。
蒸溜で出来たニューポットを樽の中で
長期間じっくり寝かせるのですが、
樽には樽材や大きさに種類があります。
樽の内面は、焼かれているのですが、
その焼き方にも違いがあり、更に気温や湿度などによって
熟成の度合いが微妙に変化します。
透明だったニューポットが、年月を経るごとに、琥珀色が濃くなり、
密度が凝縮されるかのように樽の中の量が減っていきます。
これは、「天使の取り分」と呼ばれるそうです。
長期間の熟成では、樽の蓋が膨らんだりして、原酒の力強さが感じられます。
貯蔵庫を出たところに庭園があり、「山崎の水」が湛えられています。
ここから一旦工場外へ出て、テイスティングが行われる部屋へと向かいます。
テイスティングでは、市販の「山崎」、ホワイトオーク材の樽とワイン樽で熟成された
原酒の色や香り、そして味わいの違いを感じます。
ホワイトオーク材の樽とワイン樽では、ワイン樽の方が色が濃く、
香りはホワイトオーク材の樽ではフルーティーで、
ワイン樽は若干の酸味を感じました。
原酒なのでアルコール濃度は65%以上あり、同量の水を加えて味を確かめます。
そして、山崎の天然水でつくられたソーダ水と「山崎」でハイボールをつくり味わいました。
左端のソーダ水の瓶がその時のものです。
売店でお土産を買って、工場見学を終了しました。
サントリー山崎蒸溜所から山側へ進んだ所に椎尾神社があり、
一の鳥居が建立されています。
参道を進むと二の鳥居が建っています。
鳥居をくぐった先には石段があり、その手前に手水舎があります。
手水舎の向かいに小さな水車が設置されていますが、
現在は水車は回転していませんでした。
石段を登った正面に拝殿があります。
拝殿の右側に石段があり、その脇に「すぐたからでら」と刻まれた石碑が建っています。
その横には「右たからでら三町 てん王九町」の碑が建てられ、
本殿の奥に天王山への登山道があります。
石段を登った所に朱塗りの社殿がありますが、詳細は不明です。
北側には五八郎稲荷大神が祀られています。
本殿は覆屋の中に納められています。
かって、この地の「閼伽谷(あかだに)」で役行者が修行し、呪術で閼伽を湛え、
堂前の滝に不動明王を安置し、山上に弁才天社を勧請したと伝わります。
その後、天平18年(746)に聖武天皇の勅を受けた行基が西観音寺を創建しました。
創建当初の西観音寺は、現在地より西南の方角にあり、寺域には
大谷、中谷、閼伽谷の3つの谷があったことから「谷の観音」とも呼ばれました。
本尊は、聖武天皇の念持仏であった像高一寸八分(約5.4cm)の十一面千手観音菩薩で、
閻浮檀金(えんぶだごん=想像上の金の名称で、
最も優れたもの)の像であったとされています。
脇時には左に不動明王、右に毘沙門天が安置されていました。
境内の入り口付近に閻魔堂があり、小野篁(おの の たかむら)が自作した
十王像が安置されていました。
小野篁は3組の十王像を刻み、西観音寺の他に越中国中野と
筑後国古津郡に安置されたと伝わります。
西観音寺はその後、寛弘年間(1004~1012)に焼失し、
久寿元年(1154)に河内の豪族・八戸重忠によって再建されました。
再建された西観音寺には水瀬離宮から後鳥羽上皇も参拝されたと伝わり、
上皇の崩御後は西観音寺で毎年命日の2月22日に
御忌仏事(ぎょきぶつじ)が行われていました。
江戸時代初期には総門、七間四面の本堂、法華堂、経蔵、常行堂、三重塔、
閻魔堂の他12坊があり、境内地は山腹から
現在のサントリー工場にまで及びました。
しかし、その後衰微して明治の神仏分離令により西観音寺は廃寺となり、
明治元年(1868)に神社として残され「椎尾神社」に改められました。
椎尾神社は明治5年(1872)に村社に列せられています。
西観音寺の本堂、聖天堂、鐘楼などは観音寺(山崎聖天)に移築され、
閻魔像などは宝積寺へ遷されました。
壽屋(ことぶきや=後のサントリー)の創業者・鳥井信治郎は大正12年(1923)に
この地でウイスキーを製造するため山崎蒸溜所が開設しました。
初代工場長には後のニッカウヰスキー株式会社を創業した竹鶴政孝が就任しました。
鳥井信治郎は村人と協力し、荒廃してた椎尾神社を再興し、
蒸溜所が竣工した11月11日に秋季祭礼が行われることとなりました。
祭神として素戔嗚尊、第45代・聖武天皇、第82代・後鳥羽天皇が祀られています。
神前にはサントリーのウイスキーの樽が奉納されています。
本殿の左側に小さな祠があります。
西観音寺の鎮守社であった、天照大神、鴨別雷命(かもわけいかづちのみこと)、
応神天皇(八幡神)を祀る尾上神社が境内に遷座されたそうですが、
この祠が尾上神社なのかは不明です。
小さな祠の左側の石碑、左側の「護国天神社」と右側の「陸鼻社」は、
昭和17年(1942)に谷から掘り出されたそうです。
奥へ進むと天王山への登山口があり、杖が置かれています。
登山道へは入っていないので、定かではありませんが、
途中で宝積寺(宝寺)と天王山山頂への道が分岐しているようです。
谷側には、上部に名神高速道路・天王山トンネルの一部が露出しています。
トンネル下をくぐって滝の下へと進む道は土砂崩れで寸断されていました。
神社の西側の谷は「慈悲尾谷」と称され、慈悲尾(じひお)が
転訛して「椎尾(しいお)の社号となったとされています。
水無瀬の滝へ向かいます。
続く
にほんブログ村