北参道
今宮神社から南へ進み、北大路通を横断した先に建勲神社の北参道があります。
船岡山の中腹までバイクで登れ、その先に建勲神社の駐車場があります。
大鳥居
しかし、北大路通を左折して、その先の「建勲神社前」の信号を右折して
建勲神社へ向かいます。
こちらは駐車場が無いので、建勲神社の案内所横にバイクを置かせてもらいました。
建勲神社は正式には「たけいさおじんじゃ」と読み、通称で「けんくんじんじゃ」と
呼ばれています
明治8年(1875)に別格官幣社に列せられ、戦後は神社本庁の別表神社となりましたが、
令和元年(2019)に神社本庁から離脱しました。

船岡東通に東面して建つ大鳥居は、高さ7.2m、幅5.5mで、
平成20年(2008)に国の登録有形文化財に指定されました。
大鳥居の右側に見える建物が案内所です。
稲荷社鳥居-下
案内所前の石段には、朱塗りの鳥居が建っています。
東参道
境内に入り、南を見るともう一つ石段があり、こちらが東参道です。
太平和敬神の碑-2
東参道の石段を登ると、正面に「太平和敬神」の碑が建っています。
建勲神社は明治2年(1869)に明治天皇の命により、
織田信長公を祭神として創建され、ここに本殿が建立されました。
明治13年(1880)に長男の織田信忠卿が配祀され、
新たに社殿が造営されましたが、明治43年(1910)に山腹へ遷座されました。
「太平和敬神」の碑は、高さ6mあり、
昭和45年(1970)に修養団・捧誠会から奉納され、世界平和が祈念されているそうです。
本殿跡
「太平和敬神」の碑の横に、本殿跡地を示す碑も建立されています。
稲荷社鳥居-上
参道の右側には「稲荷社」の鳥居が建ち、
その先で朱塗りの鳥居が建つ石段を登った所と合流します。
義照稲荷神社
その先には義照稲荷神社があります。
和銅2年(709)にこの地を開拓した秦氏により創祀されました。
宇迦御霊大神(うかのみたまのおおかみ)、国床立大神(くにのとこたちのかみ)、
猿田彦大神が祀られています。
「義照」の由来は不明ですが、国床立大神は国土形成の根源神、国土の守護神として、
猿田彦大神は邇邇芸命(ににぎのみこと)を道案内した国津神で、
道祖神として信仰されています。
国土が形成され、地域が守られて農業や養蚕などの産業の発展が
祈願されたと推測できます。
命婦元宮

義照稲荷神社の左横に稲荷命婦(みょうぶ)元宮があります。
稲荷信仰では白狐のことを命婦とも呼び、次のような伝説からキツネは、
稲荷神の使者となりました。
「昔、船岡山の辺りに老いたキツネの夫婦がいた。
牡は銀の針を立てたような白毛で、尾は五鈷を巻きはさんだようであった。
牝は首は鹿で身体はキツネで、五匹の子狐をつれていた。
弘仁年中(810~824)、両狐が五匹の子狐をつれて稲荷山に参り、神前にぬかずいて、
我らは畜生の身だが、生まれたときから霊智を供え、
世を守り諸人を助けようとの願いをもっている。
しかし、狐である我らの身では、この願いを遂げるのは難しい。
願わくば、今日から当社の眷属となり、神威をかりてこの願いを遂げたい」と
申しでた。
これを聞いた稲荷神はよろこんで、「汝等の願いは殊勝である。
よって、今から長く当社に仕えるものとなり、参詣の人・信仰の輩を助けよ。
男狐は名を「小薄(コススキ)」と名乗って上之宮に仕えよ。
女狐は「阿古町(アコマチ)」と名乗って、下之宮に仕えよ」と告げられた。
以上の伝説から、当地は伏見稲荷大社・白狐社(命婦社)の
元宮として祀られています。
船岡稲荷他
義照稲荷神社の背後にも船岡稲荷大神など、様々な神が祀られています。
石段-1
参道に戻ると更に石段が続きます。
石段-2
右に折れてようやく上が見えてきます。
石段は約100段だそうです。
社号標
駐車場からの参道と合流し、西に向くと社号標が建っています。
「敦盛」の一節
参道を進むと有名な「敦盛」の一節
桶狭間の戦い前夜、今川義元軍の尾張侵攻を聞き、清洲城の信長は、
まず『敦盛』のこの一節を謡い舞い、陣貝(ほらがい)を吹かせた上で
具足を着け、立ったまま湯漬を食したあと甲冑を着けて出陣したとされています。
貴賓館
北側に貴賓館があり、平成20年(2008)に国の登録有形文化財に指定されています。
手水舎
参道を進むと左側に手水舎があります。
船岡妙見社
手水舎の手前を少し下ると船岡妙見社がありますが、柵で閉ざされ、
正面からの参拝はできません。
船岡山は平安京の中軸線である朱雀大路の真北に位置しているところから、
都の造営に際し、船岡山は南北軸の測量基準点となったとの説があります。
第50代・桓武天皇は、都の四方に妙見大菩薩を、四隅に法華経を納め、
建都されたと伝わり、四神相応(しじんそうおう)の思想から、
北を護る玄武を船岡山に定めたとする説があります。
しかし、当時、船岡山は埋葬地で、
船岡山が神域であったとする説は疑わしく思えます。
船岡妙見社は、船岡山の地の神として、
建勲神社の創建時頃に祀られるようになったと考えています。
宝永4年(1707)発行の『霊符縁起集説』に「玄武神は亀なり。
北方に鎮り諸厄を祓い給う。玄武神は今の妙見菩薩にして童形なり。
玄武の大元は国常立尊なり。水の神にして宅神なり。病魔退散の神なり。」と
記されています。
社務所
手水舎の北側に社務所があります。
拝殿
手水舎から石段を登った上に、国の登録有形文化財に指定された拝殿があります。
貴賓館と大文字山
石段を登った拝殿前からは、貴賓館の背後に大文字山が望めます。
本殿
神門(祝詞舎)は、昭和(1926~1989)の初期に建て替えられ、
国の登録有形文化財に指定されています。

本殿は国の登録有形文化財に指定され、主祭神として織田信長公、
配祀神として織田信忠卿が祀られています。

天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝の本能寺の変で、家臣・明智光秀の謀反により、
寺を包囲された織田信長は、寺に火を放ち自害して果てました。
妙覚寺に滞在していた長男・信忠も二条城へ入り抗戦しましたが、
まもなく火を放って自刃して果てました。
信長の遺体は発見されないまま、約4か月後に豊臣秀吉は信長の葬儀を
船岡山の北向かいにある大徳寺で行いました。
信長の後継を巡って次男・信雄(のぶかつ)と三男・信孝が争い、
秀吉は二人の妨害を避けるため、葬儀の警備に3万人の兵を配しました。
その後、秀吉は信長の菩提寺となる「天正寺」の建立を、
船岡山の東山麓に計画しました。
天正11年(1583)、大徳寺に総見院を開いた古渓宗陳(こけいそうちん:1532~1597)は
秀吉から天正寺の建立事業を任されましたが、天正16年(1588)に石田三成との衝突を
きっかけとして事業は中断し、古渓宗陳は博多に配流され、
事業が再開されることはありませんでした。
このような経緯からこの地で建勲神社が創建されたと思われます。
神饌所
本殿の左側に神饌所があります。
比叡山
駐車場の方へ向かうと比叡山への展望が開け、五山送り火の「妙」「法」が
望めます。
石仏
建勲神社から船岡山の山頂へ向かうと、建勲神社の境内の北西隅に
宝篋印塔を中心としてその周囲に数体の石仏が祀られています。
応仁・文明の乱(1467~1477)や船岡山合戦で、船岡山は合戦の地となり、
その戦死者を供養する石仏が集められたのかもしれません。

船岡山へ向かいます。
続く

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