大酒神社から三条通りまで戻って東へ進み、三条通りが南東方向へと
カーブする手前で直進方向へ進んだ先に木嶋坐天照御魂神社があります。
創建に関する詳細は不明ですが、一説では推古天皇12年(604)の
広隆寺創建に伴い、秦氏によって勧請されたと伝わり、
「木嶋神社(このしまじんじゃ)」とも呼ばれていました。
社号標の左側に「蚕神社」の石標が建ち、
「蚕の社(かいこのやしろ)」とも呼ばれました。
木製の鳥居をくぐり参道を進みます。
境内は京都市の史跡に指定されています。
参道を進むと右側(東側)に社務所があります。
社務所の先に祭具庫があります。
参道の左側にも祭具庫があります。
左側の祭具庫の先に「椿丘大明神」の石標が建っています。
椿丘大明神への参道には狛犬では無く、
稲荷神の使いである狐の像が代役を務めています。
先に進むと末社三社がありますが、詳細は不明です。
椿丘神社を特定することはできませんが、付近で祀られていたものが遷されました。
奥に白清社があり、石室の中に宇迦之御魂神が祀られています。
かって、天塚古墳に祀られていましたが、明治19年(1886)頃に
古墳の発掘調査が行われ、当社境内に遷座されました。
天塚古墳の石室内に祀られていたことから、当地でもそれが再現されています。
参道の正面には拝殿があります。
鎌倉時代、承久3年(1221)の承久の乱の際、後鳥羽上皇の討幕軍に加わった
三浦胤義(みうら たねよし)父子は奮戦しましたが木嶋神社へと逃れ、
末路を悟って自害しました。
郎従が社に火を放ったとされ、その後の文献への記載が見られず、変遷は不明です。
明治時代に現在の社殿が再建されています。
本殿の拝所
社名の「木嶋坐天照御魂神社」から、かっては辺りは「木嶋」と呼ばれ、
当初は天照御魂神(あまてるみたまのかみ)を祀っていたと推察されます。
天照御魂神は『日本書紀』では「天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほ
あかりのみこと)」、『古事記』では天火明命
(あめのほあかりのみこと)と記されています。
「天照国照」は太陽を表し、「火明」には稲穂が熟して赤らむ意味があり、
太陽神、農業神とされています。
籠神社(このじんじゃ) では、彦火明命は冠島に降臨され、籠神社の社家、
海部氏(あまのべし)の始祖となったとされています。
また、子孫が尾張国に移り、尾張氏の始祖となったとも伝わり、
かってこの地に海部氏か尾張氏に関わる人々が住み、
天照御魂神が奉斎されていたと推察されます。
国史での初見は『続日本紀』大宝元年(701)条で、月読神・樺井(かばい)神・
波都賀志神(羽束志神)と共に神稲を同年以後は
中臣氏に給付せよと記されています。
貞観17年(875)及び元慶元年(877)には雨乞のための奉幣が遣わされた
旨が記され、祈雨の神として信仰されていたようです。
延長5年(927)成立の『延喜式』神名帳には名神大社に列せられ、
朝廷の月次祭・相嘗祭・新嘗祭では幣帛に預かった旨が記載されています。
平安時代末期の『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』では、木嶋社が伏見稲荷大社や
石清水八幡宮と並んで参拝者が絶えず、賑わい門前には市が立っていたようです。
現在の祭神は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・大国魂神
(おおくにたまのかみ)・穂々出見命(ほほでみのみこと)・鵜茅葺不合命
(うがやふきあえずのみこと)・瓊々杵尊(ににぎのみこと)の五柱で、
明治16年(1883)の『葛野郡神社明細帳』に記載され、継承されています。
本殿の右側に蚕養神社(こがいじんじゃ)があり、通称で「蚕の社」と呼ばれています。
蚕養の神・保食神(うけもちのかみ)・木花咲耶姫命(このはなのさくやびめ)が
祀られています。
蚕養の神は、養蚕、機織り、染色などの技術を有していた秦氏の祖神とされています。
保食神は、陸を向いて口から米飯を吐き出し、海を向いて口から魚を吐き出し、
山を向いて口から獣を吐き出し、それらで月夜見尊をもてなしました。
月夜見尊は「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒り、
保食神を斬り殺しました。
それを聞いた天照大神は怒り、月夜見尊と会わなくなったことから、
太陽と月は昼と夜とに別れて出るようになったとされています。
また、保食神の屍体から蚕の他、牛馬や粟、稲、麦、
大豆などが生まれたとされています。
木花咲耶姫命は、邇邇芸命と結婚し、一夜で身篭りました。
邇邇芸命は我が子かと疑い、木花咲耶姫命は疑いを晴らすため、
産屋に入り火を放ちました。
炎の中で生まれたのが天火明命で、無事に出産できたことにより、
天津神の子であることが証明されました。
本殿の左側に八社殿がありますが、詳細は不明です。
本殿前を左に進むと鳥居が建っています。
鳥居をくぐった先の立ち入りは禁止されていますが、先には「元糺の池
(もとただすのいけ)」の中に珍しい三柱鳥居(みはしらとりい)が建っています。
三柱鳥居の方位は、冬至には稲荷山から朝日が昇りって松尾山へ沈み、
夏至には比叡山四明岳から朝日が昇り愛宕山に沈むのに関係するとされています。
木嶋神社から比叡山四明岳への線上に下鴨神社の糺の森があります。
第52代・嵯峨天皇の御代(809~823)に潔斎(けっさい)の場が、
この地から下鴨神社の糺の森へ遷されたことに因み「元糺」の言葉が残され、
元糺の池周辺の森は「元糺の森」と呼ばれています。
また、三柱鳥居の三面の延長線上に秦氏ゆかりの伏見稲荷大社、
松尾大社、双ヶ岡があり、揺拝方位を表しているとされています。
正確には比叡山、愛宕山、当社境内を結ぶと逆三角形になるとされています。
三柱鳥居の中央に石が積まれ、幣帛が立てられています。
池を磐座とし、祭祀の場として池の三方から拝されたのかもしれません。
元糺の池は現在は枯れてしまっていますが、かっては豊富な湧水があり、
夏の土用の丑の日にこの泉に手足を浸すと諸病に良いとの信仰がありました。
元糺の池から境内に水路が導かれています。
水路の脇に東屋があります。
付近に「かいこのやしろ」と刻まれた手水があり、その脇にある
円い石には方位が刻まれています。
木嶋坐天照御魂神社から東へ進み、国道162号線へ右折して南へ進み、
京福電車の踏切を超えた所で右折して西へ進みます。
その先の信号を超えた所で左折して西へ進んだ住宅街の奥に
天塚古墳があり、入口には鳥居が建っています。
天塚古墳は6世紀前半に造られたと推定される全長70m余りの前方後円墳で、
太秦古墳群の中で蛇塚古墳に次ぐ規模があります。
秦氏一族の墓と推定され、明治20年(1887)に行われた発掘調査で、
銅鏡や勾玉など約400点の副葬品が出土しました。
石段を登ると「白清稲荷大明神」の標石が建っています。
社務所らしき建物があります。
右端には社殿もありますが、詳細は不明です。
鳥居から左側へ参道が続いています。
後円部と思われる方には鳥居が建っています。
鳥居をくぐって登って行くと、幾つかの小さな祠があります。
下って後円部の周囲を進むと三尊の石仏が祀られています。
更に進むと石室があります。
石室の奥に白清稲荷大明神が祀られています。
明治20年(1887)の発掘調査の際に木嶋神社へ遷座されましたが、
明治31年(1898)に信者の希望により元に戻されました。
石室は建物の裏側にあり、建物横の細い通路で入口の鳥居へと戻れます。
国道162号線まで戻り、国道を北上して高雄の先、高山寺へ向かいます。
続く
にほんブログ村