多宝塔跡
平等院の南受付所を出て東へ進むと平等院の多宝塔跡があり、基壇が復元されています。
平成6年(1994)の調査で発見され、鳳凰堂の基壇を参考にして復元されました。
多宝塔跡-復元図
多宝塔は鳳凰堂建立後の康平4年(1061)に藤原頼通の娘・寛子(かんし)に
よってが建てられました。
文献では「多宝塔」と記されていますが調査の結果、珍しい
単層の塔(宝塔)の可能性が指摘されています。
中島橋-対岸
基壇から東へ進むと河岸へと下る石段があり、下った正面には
右側の塔ノ島から左の橘島へと渡る中島橋が架かっています。
鵜飼
河岸には鵜飼の船が係留されています。
宇治川の鵜飼は、例年6月中旬~9月下旬に開催され、
全国で3番目の女性鵜匠が活躍されています。
宇治川の鵜飼の歴史は古く、『蜻蛉日記』にも表されていることから、
平安時代に鵜飼が行われていたことが証明されています。
鵜飼漁で獲れる魚には傷がつかず、鵜の食道で一瞬にして気絶させるため、
鮮度を保つことができることから、平安貴族たちに重宝されていたと思われます。
鵜飼-図
鎌倉時代まで鵜飼記事は散見されたのですが、その後歴史から消えてしまいました。
鵜飼は漁獲効率のよい漁法ではないため、何かしらの保護がないと
存続が厳しかったのかもしれません。
宇治川の鵜飼は、昭和初年になって復興されましたが、
観光目的として現在も受け継がれています。
観光センター
下流側には宇治市観光センターがあり、観光ビデオが放映され、
宇治茶の無料サービスもあります。
喜撰橋
川沿いに上流へ向かうと喜撰橋があり、橋を渡って塔ノ島へと向かいます。
十三重石塔
塔の島は叡尊律師が宇治橋を再建するに当たり、十三重石塔を建立して放生会を行い
宇治橋の安全と魚霊の供養を祈る道場とするため、舟を模した形に築いた人工島です。
宇治橋上流での殺生を禁じ、漁具をこの塔の下に埋め、塔中には仏像や経本が納められ、
橋の再建成就の祈願が行われました。
弘安7年(1286)、宇治橋再建の際には亀山上皇の御幸を拝し、橋の落慶法要と
塔の開眼供養が行われ、橋の永世護持が祈願されました。

この石塔は、高さ15.2m、石塔としてはわが国最大・最古で、重要文化財に指定されています。
また、平成15年(2003)3月14日には、塔内納置品が京都府指定有形文化財となりました。
島はその後の度々の洪水に耐え、いつしか「浮島」と呼ばれるようになりましたが、
塔は倒壊と修復・再興が繰り返され、宝暦6年(1756)の大洪水による流失以降、
約150年間、川中に埋没していました。

明治40年(1907)になって、ようやく発掘に着手、同年11月から再興工事が始まりました。
しかし、九重目の笠石と頂の九輪石が見つからず、それを補って再興されました。
九重目の笠石は、石川五右衛門に盗まれ、伏見区の藤森神社の
境内の手水鉢の台石に流用されたとの説が流されました。
礎石には、こうした経緯を詳しく説明した碑が埋め込まれていますが、
石川五右衛門以下の文は除かれています。
九重目の笠石と頂の九輪石はその発見され、
現在ではこれから向かう興聖寺で保管されています。
鵜小屋
塔ノ島を下流側に進むと鵜の飼育小屋があります。
鵜小屋-分離
捕獲された野生の鵜と、人工孵化で誕生した鵜の小屋に分けられています。
人工孵化で誕生した鵜は、幼い頃から英才教育を受け、
優秀な鵜に育っていると思われます。
中島橋-柳
中島橋の袂にはしだれ柳がまだ緑の葉を残しています。
枝垂れ桜
橘島には枝垂桜が植栽され、春には宇治散策に花見が加わりますが、
自分的には秋の紅葉の方が相応しいと思います。
橘橋
島の下流側の端には橘橋が架かり、橋を渡ると平等院の表参道へと繋がります。
朝霧橋
島の中間辺りには対岸の宇治神社と結ばれる朝霧橋が架かっています。
宇治川先陣之碑
橋の袂には「宇治川先陣之碑」が建っています。
古代より水陸交通の要衝の地であった宇治は、幾多の合戦の舞台になりました。
特に宇治川で繰り広げられた木曽義仲軍と、源義経の合戦は有名です。
義仲勢は信濃の豪族仁科・高梨ら五百余騎が宇治橋の橋板を外し、川底には乱杭を立て、
その杭に太い網を張り、綱には逆茂木(棘のある木の枝を逆さにして並べる)を
結びつけて待ち構えていました。

一方、義経軍は圧倒的有利な二万五千余騎で宇治橋の袂に押寄せました。
当時の宇治川は、雪解けで増水し、激流と化していました。
この場面で先陣を買って出たのが佐々木高綱と梶原景季(かげすえ)です。
その頃、頼朝は生食(いけずき)、磨墨(するすみ)という二頭の名馬を秘蔵していました。
鎌倉を出陣する際、梶原景季には磨墨を、佐々木高綱には生食を与えました。
橘の小島より武者二騎が激しく駆け出しました。
磨墨(するすみ)と生食(いけずき)に乗った梶原景季と佐々木高綱、
激しい先陣争いの始まりです。
梶原景季の乗った磨墨は川の中ほどから押流され、はるか川下に打上げてしまいました。
生食という天下一の名馬に乗った佐々木高綱は、水中の大綱を八幡太郎義家が用いていた
名刀「面影」で切り裂き、少しも流されることなく敵陣に突撃しました。
高綱が先陣を遂げ、これを境に綱切と改名されました。
「宇治川先陣之碑」は、寿永3年(1184)の故事に因んで、昭和6年(1931)に建立されました。
神輿洗い場-対岸
対岸には宇治神社の神輿洗い場が見えます。
源氏物語
朝霧橋を渡った正面は宇治神社で、橋の下流側には、『源氏物語』
「宇治十帳」のモニュメントが建っています。
光源氏の異母弟・八の宮の山荘は、現在の宇治神社、或いは宇治上神社辺りに想定され、
夕霧の別荘は対岸の平等院とされています。
八の宮は妻・北の方を病で亡くし、二人の美しい娘・大君(おおいきみ)と中君と
山荘に篭り、仏法に帰依しました。
光源氏の次男・薫は、やがて仏法に興味を抱き、山荘へ通うようになりました。
神輿洗い場
更に下流側には宇治神社の神輿洗い場があります。
夕陽
思っていたより橋の下流側に日が沈みました。
これで終わってしまうようですが、午前中に参拝した宇治神社に続きます。

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