京阪宇治駅は宇治橋の東詰にあります。
駅前から道路を横断した正面に「お茶の老舗・通圓」があります。
通圓家の初代は源頼政の家臣で、古川右内という武士でした。
晩年隠居して頼政の政の一字を賜って太敬庵通圓政久と名乗り、
平治元年12月9日(1160年1月19日)に起こった平治の乱
直後に宇治橋東詰に庵を結びました。
治承4年(1180)に頼政が以仁王(もちひとおう)を奉じて平家打倒の兵を挙げると、
頼政の元へ馳せ参じ、宇治橋の合戦で平家軍と戦ったのですが、討ち死にしました。
太敬庵通圓政久の子孫は、代々、通圓の姓を名乗って宇治橋の橋守(守護職)を仰せつかり、
道往く人々に茶を振る舞い、橋の長久祈願と旅人の無病息災を願いました。
その後、永暦元年(1160)に「通圓」が創業され、その子孫により現在も引き継がれています。
現在の建物は寛文12年(1672)に建てられました。
宇治橋は20年~30年ごとに幕府によって架け替えられ、その際、通園の建物も
幕府により建て替えられたり、修理が行われました。
太平洋戦争末期の昭和20年(1945)に強制立ち退きを迫られましたが、
寸前のところで終戦となり、回避されました。
店内には7代目と親交のあった一休和尚作の初代・通園が茶筅と茶碗を持ち
舞っている姿の像が安置されています。
その下には、豊臣秀吉が茶の湯に用いる水を宇治川で汲ませるために、
千利休に作らせた釣瓶(つるべ)が保存されています。
また、数百年を経た茶壷が棚に並べられています。
宇治橋が初めて架けられたのは大化2年(646)に道登(どうとう)により架設されたと伝わり、
日本で最も古い本格的な木造橋とされています。
宇治川の上流、瀬田川に架かる「瀬田の唐橋」、宇治川の下流、淀川に架かる
「山崎橋」と共に、日本三古橋の一つに数えられ、
「勢多次郎」、「宇治三郎」、「山崎太郎」と称されました。
山崎橋は、神亀2年(725)に行基によって架けられたと伝わりますが、その後、
度々の洪水で流され、豊臣政権下で一時復活されましたが、その後失われてからは
再建されず、昭和37年(1962)まで渡船が運行されていました。
道登は山城に生まれ、高句麗に留学し、帰国後は飛鳥寺に住したと伝わり、
大化元年(645)に仏教の僧尼を教導したと想定される僧官の職である
「十師(じっし)」に任命されたことが記されています。
また、白雉元年(650)に穴戸国(後の長門国=現在の山口県の西半分)の国司が
白雉を献上した際に、高句麗の故事を引いて祥瑞であることを上奏し、
「白雉(はくち)に改元されたという記事が残されています。
一方で、『続日本紀』には架設したのは道昭だと記されています。
道昭は舒明天皇元年(629)生まれで、白雉4年(653)に入唐学問僧として唐に渡り、
玄奘三蔵に師事して法相教学を学びました。
斉明天皇6年(661)に多くの経典や仏舎利を携えて帰国し、飛鳥寺の一隅に
禅院を建立して住し、日本へ初めて禅を伝えました。
その後、日本で初めて大僧正に任じられ、晩年は全国を遊行し、
各地で土木事業を行いました。
仮説では、宇治橋は大化2年(646)に道登により架設されたのですが、その後流出し、
第38代・天智天皇が大津宮に遷都した頃に、近江朝廷の支援を受けて道昭が
大津と飛鳥を結ぶ官道に相応しい宇治橋を架けたとされ、この説を支持したいと思います。
現在の橋は平成8年(1996)3月に架け替えられたもので、長さは155.4m、
幅25mあり、桧造りの高欄に宝珠を冠しています。
擬宝珠は現存する最古の寛永13年(1636)の刻印があるものと、形状と大きさが
合わせてあり、鎌倉時代後期に描かれた『石山寺縁起』にも擬宝珠が描かれています。
橋の上流側には、川の増水などでの流木などが橋脚に衝突し損傷しないように
木除杭(きよけぐい)が設置されています。
橋を渡ると中ほどの上流側の欄干に一部突き出ている所があります。
ここは「三の間」で、橋の守り神である橋姫を祀ったことから「橋姫」さんとも呼ばれています。
宇治川上流の桜谷に鎮座していた瀬織津姫(せおりつひめ)の神像が洪水で流されて
宇治橋に止まったとの由縁でここに祀られるようになったと伝わり、
現在はあがた通りに面した橋姫神社に祀られています。
慶長2年(1597)に二度目の伏見城を築城した豊臣秀吉は、度々茶会を催し、
茶の湯に当時「天下の名水」と言われた宇治川水を用いました。
日の出前の約二時間余りの間に三の間から釣瓶を使って汲み上げ、伏見城へ運ばれました。
現在も10月の第一日曜日には「名水汲み上げの儀」が行われています。
三の間からの宇治川上流の光景
橋を渡った西詰は「夢浮橋ひろば」と称され、紫式部の像が建立されています。
平安時代、風光明媚な宇治川周辺には貴族達がこぞって別荘を設けました。
紫式部は『源氏物語』の第三部、第45帖から第54帖は「宇治十帖」と呼ばれ、
宇治を舞台として記されています。
「夢浮橋」は源氏物語を締めくくる第54帖のタイトルです。
また、広場には「明治天皇御駐輦之地(めいじてんのうごちゅうれんのち)」の碑が建っています。
明治10年(1877)2月7日に明治天皇は京都から奈良へ行幸と行幸された際に、
現在の中村藤吉・平等院店に宿泊されたことにより、この碑が建てられました。
紫式部像前の府道15号線には縣神社(あがたじんじゃ)の鳥居が建ち、
通称で「あがた通」と呼ばれています。
鳥居手前から斜めの通りが平等院の表参道ですが、鳥居をくぐって府道を進みます。
蔵の壁です。
宇治橋西詰から約1分歩いた左側(東側)に橋姫神社があります。
橋姫神社は、宇治川上流の桜谷に鎮座していた瀬織津姫(せおりつひめ)の神像が
洪水で流されて宇治橋に止まり、宇治橋の三の間で祀られるようになったのが始まりとされています。
その後、宇治橋西詰に祀られるようになりましたが、明治3年(1870)の洪水によって
宇治橋も社殿も流失しました。
明治39年(1906)に橋を旧観に復興した際に、あがた通りに面する現在地に社殿が造営されました。
橋姫神社の社殿
瀬織津姫は水神や祓神、瀧神、川神とされていますが、橋姫と同一視されるようになり、
いつしか次のように語り継がれるようになりました。
「平安時代、嵯峨天皇の時代に、大変激しい嫉妬心を抱いた女がいたという。
その夫はその余りにも嫉妬深い感情に、嫌気がさして離縁をして追い出した。
女は夫に棄てられてからは、恋しさが一層募るばかりで、
ついに宇治川の水神に百夜の願をかけた。
夜ごと川辺に行き、髪を水に浸して「願わくば私は鬼神となって、
わが夫の現在の妻を殺してしまいたい」と水面を叩いて水神に誓い続けた。
その形相はは物凄く、その呪いは川波の音を更にざわめかせ、その恐ろしさは言語に絶したという。
やがて満願の百夜が来ると女はたちまち鬼と化し、夫の妻を殺した。」
このことから、橋姫は嫉妬深い神様になり、嫁入りする時にこの神社の前を通ったり、
宇治橋を渡ると、その夫婦は円満には過ごせないとの言い伝えがあります。
「橋姫神社の神像は鬼女の裸体に緋袴を着け、左手に蛇を握り、右手に釣具を持った坐像で、
物凄い形相をしている。」と「京都故事物語(奈良本辰也編)」で紹介されています。
蛇は川の流れ、釣具は漁業を象徴し、昔の人は、橋姫神社に川の流れを治め、
豊漁を祈ったのではないかと推察されます。
そして、物凄い形相は橋姫を信じない者に対しての怒りを表し、力ずくでも信じさせるという
姿勢が示されているように思われます。
また、『源氏物語』宇治十帖の最初、第45帖は光源氏の子・薫が詠んだ歌
「橋姫の心をくみて高瀬さす 棹のしづくに袖ぞ濡れぬる」に因み、「橋姫」とされています。
この和歌に詠まれている橋姫は、繊細で可憐、愛しい人を待つ姫で、
神社の橋姫とは似ても似つきません。
橋姫神社と並んで右側に祀られている住吉社は、宇治川の水運業者の守護神とされています。
橋姫神社にはかって、宇治七名水の一つに数えられている公文水が湧きだし、
「公文水」の石碑が建っていますが、現在は枯れてしまっています。
縣神社(あがたじんじゃ)へ向かいます。
続く