法堂
宝巌院前の車道には杭が立てられ、乗用車では通行できませんが、先へ進むと
天龍寺の自転車・原付の無料駐車場があり、そのすぐ先には法堂(はっとう)があります。

元治元年7月19日(1864年8月20日)の禁門の変で、長州藩は天王山と
伏見の長州藩邸及び天龍寺に陣を敷いていたことから幕府軍である薩摩藩兵の
攻撃を受け、法堂他多くの諸堂が焼失しました。
法堂は明治32年(1899)に、江戸時代に建立された僧堂(雲居庵:うんごあん)の
選佛場(座禅場)を移築して再建されました。
鏡天井には鈴木松年(すずき しょうねん)画伯により雲龍図が描かれました。
その雲龍図も現在では損傷が激しく、大方丈にて一部が保存され、
毎年2月に一般公開されています。
法堂には平成9年(1997)の夢窓国師650年遠諱記念事業として、
加山又造画伯により新しく雲龍図が描かれ、春・夏・秋の特別参拝期間と、
それ以外の土・日・祝日に公開されていますが、500円の参拝料が必要です。
本尊は釈迦三尊像で、光厳上皇及び歴代住持の位牌、開山・夢窓疎石と
開基・足利尊氏の木像が祀られ、仏殿としても使用されています。

法堂の右側に納経所があります。
天龍寺は神仏霊場の第88番札所です。
庫裏
納経所から北へ進むと庫裏があり、屋根には煙出しがあります
庫裏の左側は方丈の玄関でしょうか?
庫裏は明治32年(1899)に再建され、台所兼寺務所の機能を持ち、
諸堂参拝の受付があります。
天龍寺の庭園拝観は500円で、それに300円を追加すると諸堂の参拝ができます。
祥雲閣
庫裏から多宝殿へと向かう渡廊の右側に茶室・祥雲閣があります。
多宝殿が建立された際に、その記念事業として昭和9年(1934)に、
表千家の茶室・残月亭を模して建立されました。
残月亭は聚楽第の周りにあった千利休の屋敷内に造営した、豊臣秀吉を
迎えるための茶室で、秀吉が上段の柱にもたれ、名残の月を眺めたことが、
その名の由来となりました。
表千家の茶室・残月亭はそれを写したものと思われます。
茶室前にある「大堰川」と記された柱は、渡月橋の欄干だったと思われます。

かっては渡月橋までが天龍寺の境内地だったのかもしれません。
夢窓国師は渡月橋も天龍寺十境に含め下記のように詠まれています。
「虹勢は流れを截(た)ちて両岸に横たわり、一條の活路は清波を透かす、
驢(つき=月)を渡し馬を渡して未だ足らんと為さず、玉兎は三更に縠を推して過ぎる」
※玉兎(ぎょくと)=月に住み、臼と杵で餅をつく架空の生物。
※三更(さんこう)=およそ現在の午後11時または午前零時からの2時間
※縠(こめ)=縠織(こめおり=織目がもみ米状で透き通ったもの)の略
甘雨亭
祥雲閣の左側に同時に建立された茶室・甘雨亭(かんうてい)があります。
4畳半台目の茶室で、通い口前に三角形の鱗板をつけるのが特徴とされています。
台目畳とは通常の丸畳の4分の3の大きさの畳で、
鱗板(うろこいた)とは、三角形の板畳のことです。
渡廊
渡廊
渡廊の鐘
更に渡廊を進むと鐘が吊るされています。
経蔵
渡廊の先に見えるのは経蔵でしょうか?
多宝殿
多宝殿は昭和9年(1934)に、禅宗最初の道場である檀林寺の旧跡地に、
吉野朝時代の紫宸殿造りで建立されました。
多宝殿-堂内
中央に後醍醐天皇像が安置され、両側基に歴代天皇の尊牌が奉安されています。
平安時代の承和2年(835)、第52代・嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子
(たちばな の かちこ:786~850)は唐から禅僧・義空を招いて開山とし、
尼寺の檀林寺を創建しました。
広大な境内に12坊を数えたと伝わり、皇后の崩御後は官寺となりましたが、
平安時代の中期頃に荒廃し、廃絶しました。

鎌倉時代、後嵯峨上皇は檀林寺の跡地に離宮・亀山殿を造営しました。
第88代・後嵯峨天皇は寛元4年(1246)に在位4年で後深草天皇に譲位し、
文永5年(1268)に亀山殿で出家し、文永9年(1272)に同所で崩御されました。
後嵯峨上皇が、後深草上皇の皇子ではなく、亀山天皇の皇子である
世仁親王(よひとしんのう=後の第91代・後宇多天皇)を皇太子にして、
治天の君を定めずに崩御されたため、後の北朝・持明院統(後深草天皇の血統)と
南朝・大覚寺統(亀山天皇の血統)の確執のきっかけとなり、
南北朝の争いの端緒となりました。

後嵯峨天皇の皇子・第90代亀山天皇は、文永11年(1274)に後宇多天皇に譲位し、
退位後は伝領した亀山殿を仙洞とし、嘉元3年(1305)に同所で崩御されました。
その後、第96代/南朝初代・後醍醐天皇が幼少期を当地で過ごし、修学されました。
天龍寺は後醍醐天皇が崩御された後、その菩提を弔むために
足利尊氏により創建されました。

建武の新政後、後醍醐天皇と足利尊氏は敵対しましたが、天龍寺を創建したのは
後醍醐天皇の怨霊を恐れたからとも、後醍醐天皇を尊敬していたとの説があります。
多宝殿-枝垂桜
もう少一週間早ければ、多宝殿の前は満開の枝垂桜で彩られていたそうです。
達磨図
渡廊を戻って方丈の方へ向かいます。

方丈は大方丈と小方丈(書院)から成り、大方丈は明治32年(1899)、
小方丈は大正13年(1924)に再建されました。

渡廊は小方丈へと接続されています。
小方丈の達磨図の掛け軸
曹源池-手水鉢
小方丈の西南角の手水鉢
小方丈
小方丈
大方丈-裏側
大方丈には東西各3室あり、天龍寺最大の建物で、表側(東側)と裏側(西側)に
幅広い広縁があり、さらにその外に落縁を巡らされています。
大方丈-龍
東西を仕切る襖には「雲龍の絵」が描かれていますが、ガラスに阻まれ、
撮影は困難でした。
昭和32年(1957)に第8代管長・関牧翁(せき ぼくおう)老師の友人・物外道人
(もつがい どうじん)画伯によって描かれましたが、
その4ヶ月後に70歳で亡くなりました。
大方丈-表側
表側、中央は仏間で本尊の釈迦如来座像が安置されています。
像高88.5cm、平安時代後期の作で、国の重要文化財に指定されています。
天龍寺は創建以来8回の大火を蒙りましたが、本尊は都度運び出され、護られました。
中門
大方丈の表側の前には、慶長年間(1596~1615)に建立された禅宗様・四脚門の
「中門(ちゅうもん)」があります。
中門と大方丈との間の庭は「方丈庭園」と呼ばれ、
ほぼ長方形の庭に白砂が敷かれ、砂紋が引かれています。
龍門亭
大方丈の南側に龍門亭があります。
貞和2年(1346)に夢窓国師が天龍寺境内の十ヵ所を名勝(天龍寺十境)に定め、
偈頌(げじゅ=詩句の形式をとった教理などをほめたたえた言葉)を残しました。
その一ヵ所が龍門亭で、平成12年(2000)の夢窓国師650年遠諱記念事業として
再建されました。
龍門亭には直営の精進料理店「篩月(しげつ)」がありますが、予約が必要です。

龍門亭は以下のように詠まれています。
「巨霊は分破する拳を借りず、両山は一洪川を放出す、三更の夜半に来客は無く、
数片の帰雲は檻前に宿る」
※三更(さんこう)=現在の午後11時または午前零時からの2時間
※檻前(かんぜん)=欄干の前
一滴の碑
龍門亭の入り口付近に「一滴之碑」が建っています。
禅の神髄を指す言葉に「曹源(そうげん)の一滴水」があります。
禅宗の事実上の開祖とされる慧能(えのう)は、曹渓(中国の広東省)に住んでいた
ことから「曹渓」とも呼ばれ、慧能によって禅法が大成したことから、
慧能を一滴の源泉と見なして、禅法の源泉を「曹源」と称されます。
また、天龍寺管長を務めた由理滴水(ゆり てきすい:1822~1899)禅師が
修業時代に手桶の僅かな余り水を何気なしに捨てたところ、
「一滴の水をも活かせ、一滴の水を無駄にすることこそ殺生なり」と
叱責された言葉にも由来しています。
曹源池-愛宕山
大方丈の裏側(西側)は、天龍寺十境の一、曹源池庭園に面しています。
曹源池庭園は開山・夢窓国師による作庭で、当時の面影を留めていることから
我が国初の史跡・特別名勝に指定されました。
左手に嵐山、正面に亀山・小倉山、右手遠景に愛宕山を借景とした池泉回遊式庭園で、
優美な王朝文化と禅文化が融合した庭とされています。
池は、夢窓国師が池の泥をあげた時、池中から「曹源一滴」と記した石碑が現れ、
「曹源池」と名付けられました。
曹源池-嵐山
曹源池は左側(南側)の幅が広く、右側(北側)の幅は狭く造られています。
遠近法が取り入れられ、嵐山の山並みが近くに、
愛宕山は遠くに見えるように設計されています。
曹源池-正面
正面の三段の石組みは「龍門の滝」と称され、中国の故事「登龍門」に由来します。
江戸時代には、水が流れていましたが、現在は枯山水となっています。
本来は滝の下段の鯉魚石(りぎょせき)が中段に配され、滝を登った鯉が
龍になろうとする姿が表されています。
下の水落石の左は「碧巌石(へきがんせき)」、上段の水落石の右は「観音石」、
左は「不動石」、滝の上は「遠山石」と呼ばれているそうです。
碧巌石は大きな岸壁の前を鳥が飛び交う様思い浮かべる役石で、
遠山石は遠くの山を表しています。
曹源池-龍門瀑
龍門瀑は宋より帰化し、宋風の本格的な臨済宗を広めた蘭渓道隆
(らんけい どうりゅう)禅師が日本に伝え、夢窓疎石がその形を
造り上げたとされています。
龍門瀑には「厳しい修行の後に悟りを開き、仏への道を開く」との
戒めが込められています。
雲水は夜、曹源池に向かい「夜坐」と呼ばれる修行をされるそうです。
滝の前方の橋は3枚の平石から成り、日本最古の橋石組で、
平石は「三橋石」と呼ばれています。
儒教、仏教、道教の三賢者が一同に合して話をしたところ、お互いにつきない興味を感じ、
すっかり夢中になってしまったという「虎渓三笑」の故事に因むとされています。
橋の右側の石組みは「釈迦三尊石」と称され、釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩が
表されているそうですが、判別できませんでした。
その手前の島は鶴島で、右の石が鶴の首を表しています。
亀島
右側には鶴島に対する亀島があり、石橋が架けられています。
曹源池-南側
夢窓国師が曹源池(そうげんち)を十境に定め、次のように詠まれました。
「曹源は涸れず直に今に臻(いた)り、一滴の流通は広く且つ深し、
曲岸の回塘は著眼を休め、夜たけなわの波心に月の落ちる有り」
※回塘(かいとう)= 池や入り江などの周囲をめぐっている堤
曹源池-松
夢窓疎石は建治元年(1275)に伊勢で生まれ、
4歳の時に甲斐国(山梨県)に移住しました。
9歳の時に平塩山寺の空阿(くうあ)のもとで密教を学び、
18歳の時に東大寺戒壇院で具足戒を受けました。
中国の疎山(そざん)と石頭(せきとう)に遊ぶ夢をみて「疎石」と改名し、
永仁2年(1294)に建仁寺の無隠円範(むいんえんぱん:1230~1307)に
参じて禅に転じました。
その後、各地を転々として禅を学び、元弘3年/正慶2年(1333)に
第96代/南朝初代・後醍醐天皇に請われて上洛し、南禅寺に入りました。

亀山上皇の離宮「亀山殿」の別殿「川端殿」を受け継いだ後醍醐天皇の
第二皇子・世良親王は、川端殿に禅寺の創建を意図しましたが、21歳で
薨去(こうきょ)され、代わって後醍醐天皇が建武2年(1335)に夢窓疎石を開山として
臨川寺(りんせんじ)を創建しました。
同年、夢窓国師の号を特賜(とくし)され、また、
臨川寺は後に門人1万人以上と言われた夢窓派の本拠となりました。
曹源池-大方丈
建武の新政で足利尊氏と対立した後醍醐天皇は吉野へと逃れ、南朝政権を
樹立しましたが、延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日)に崩御されました。

夢窓国師は足利尊氏、直義兄弟の外護を受け、安国寺利生塔の創設を進言しました。
尊氏、直義兄弟は元弘の乱からの戦没者の菩提を弔うため、北朝・光厳上皇の
院旨を得て、延元3年/暦応元年(1338)から北海道、沖縄を除く日本各地に
安国寺と利生塔を建立しました。
曹源池-北側
更に足利尊氏は暦応2年(1339)に、後醍醐天皇の菩提を弔うため、
夢窓国師を開山として創建されたのが天龍寺です。
尊氏や光厳上皇が荘園を寄進して造営費用とし、亀山殿が寺に改められました。
しかし、造営費が不足し、元冦以来途絶えていた元との貿易を再開して
その利益が費用に充てられました。
室町幕府公認の寺社造営料唐船で、当時は「造天龍寺宋船」と呼ばれ、
康永元年(1342)8月に元へ渡航し、莫大な利益を上げました。
天龍寺の建設が進められ、康永2年(1343)11月に竣工し、貞和元年8月29日
(1345年9月25日)には、後醍醐天皇七回忌にあわせて落慶供養が行われました。
寺号は当初、年号から「暦応資聖禅寺」の予定でしたが、尊氏の弟・直義が大堰川で
金龍の舞う夢を見たことから「天龍資聖禅寺」としました。
平和観音
曹源池から苑路を多宝殿へと向かいます。
多宝殿の左奥に平和観音が祀られ、その前に愛の泉があります。
この観音像は中国より伝来したもので、夢窓国師が南北両朝の和平に尽くしたことから、
いつしか「平和観音」と称されるようになりました。
また、夢窓国師は観音菩薩を信仰し、念持仏としていたと伝わります。
愛の泉は、地下80mから湧き出ており、この水を喫すると、
「愛と幸」が受けられると伝わり、「愛の泉」と称されています。
百花苑
多宝殿から北門への苑路は「百花苑(ひゃっかえん)」と称され、
昭和58年(1983)に整備されました。
百花苑には、その名の通りに色とりどりの花が咲き誇っています。
山吹
山吹
蜆花
蜆花(しじみばな)
楊貴妃桜
楊貴妃桜
光源氏椿
光源氏椿
シャクナゲと竹林
シャクナゲと竹林
硯石
硯石
第3代管長・橋本峨山(がざん:1853~1900))は、明治32年(1899)に
選佛場(座禅堂)を法堂として再建された際、鏡天井には鈴木松年
(すずき しょうねん)画伯により仏法を守護するとされる雲龍図が描かれました。
硯石は両名の遺徳を顕彰して建立され、書画が上達する御利益があるそうです。
シャクナゲ-1
シャクナゲ-2
多宝殿から曹源池の裏側への参道脇にはシャクナゲの苑路となっています。
灯台躑躅
灯台躑躅(どうだんつつじ)

総門へ向かいます。
続く

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