山門
上御霊神社の北の鞍馬口通を西へ進み、新町通を南下した先に東西の寺之内通があり、
これを西へ進めば妙顕寺ですが、予定を変更して新町通を更に南下し、
光照院門跡へ向かいます。
新町通を寺之内通から100m足らず南下した西側に光照院門跡があります。
山号を「佛日山」と号する浄土宗の単立寺院で「常盤御所」とも呼ばれています。
仙洞御所の碑
山門前に「持明院仙洞御所跡」の碑が建っています。
かって、この地には平安時代末期に創建された持明院(じみょういん)がありました。
藤原基頼(ふじわら の もとより:1040~1122)は、自らの邸宅内に持仏堂を建立し、
「持明院」と名付けました。
その子・通基(みちもと:1090~1148)は持明院を拡充して、寺号を
「安楽光院(安楽行院)」と改め、持明院を家の号としました。
鎌倉時代、持明院基家の娘・陳子(ちんし/のぶこ:1173~1238)は、
第80代・高倉天皇(在位:1168~1180)の第二皇子・守貞親王(1179~1223)の妃となり、
茂仁親王(とよひとしんのう=後の第86代・後堀河天皇)を出産しました。
承久3年(1221)に起こった承久の乱の後、後堀河天皇(在位:1221~1232)が即位すると、
守貞親王に「太上天皇」の尊号が贈られ、院政が行われました。
「持明院宮」と呼ばれ、後堀河上皇から光明上皇が仙洞御所として使用し、
この系統は「大覚寺統」に対して「持明院統」と称されるようになり、
その対立が後に南北朝の争いの起因の一つとなりました。

文和2年/正平8年(1353)に安楽光院は焼失して荒廃し、
その跡地に光照院が移転しました。
光照院は、南北朝時代の延文元年/正平11年(1356)に、持明院統の第93代・後伏見天皇
(在位:1298~1301)の皇女・進子内親王(生没年不詳)が22歳の時、泉涌寺の
無人如導(むにん にょどう:生没年不詳)により落飾し、「自本覚公」と称して
室町通一条北で光照院を創建しました。
33歳の時に律を基本とし天台・真言・禅・浄土の四宗兼学の道場となりました。
応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失し、第103代・後土御門天皇(在位:1464~1500)
により現在地を賜って移転し、「安楽光院」と呼ばれるようになりました。
その後、光照院へ戻され、第107代・後陽成天皇(在位:1586~1611)の
第9皇女・尊清女王(そんせいじょおう:1613~1669)が入寺して以来、
比丘尼(びくに)御所となりました。
享保15年(1730)、「西陣焼け」と呼ばれる大火で焼失し、宝暦2年(1752)に
第115代・桜町天皇(在位:1735~1747)の寄進により復興されました。
天明8年(1788)の天明の大火での焼失後は、寛政元年(1789)に
第119代・光格天皇(在位:1780~1817)の寄進により復興され、
この時、「常盤御所」の称号を贈られたと伝わります。
明治6年(1873)に浄土宗へと改宗され、大正8年(1919)に旧桂宮御殿の一部が
移築されて宸殿などが再建されました。
常盤会館
現在の境内は駐車場へと化しています。
庫裡らしき建物も、常盤会館となっています。
古文化保存協会
北側は門は閉ざされ、公益財団・京都古文化保存協会の管理となり、普段は非公開です。
鳥居
山門を出ると北側には鳥居が建っています。

新町通を北上して寺之内通まで戻り、
西へ進んで妙顕寺(みょうけんじ)へ向かいます。
続く
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村