タグ:定恵和尚

仁王門
大龍寺から西へ、バイクで30分弱の距離に太山寺があります。
山号を「三身山(さんしんざん)」と号する天台宗の寺院で、
新西国霊場・第24番などの札所です。
天延元年(973)12月8日に刊行された『播州太山寺縁起』によれば、
霊亀2年(716)に藤原鎌足(614~669)の孫・藤原宇合(ふじわら の うまかい:
694~737)が、第44代・元正天皇(在位:715~724)の勅願寺として、
七堂伽藍を建立したとされています。
宇合が明石浦摩耶谷の温泉で療養中に夢の中に薬師如来が出現し、
「ここより東北の地に鎌足の長男・定恵(じょうえ / じょうけい:643~666)和尚
の結縁の地があり、定恵和尚は願望を果たせず入寂した」と示現したと伝わります。
宇合はその教示に従い、当地に薬師如来を本尊として七堂伽藍を整備し、
定恵和尚を開山としたと伝えられています。

建武中興(1334)の際は、護良親王(もりよししんのう:1308~1335)の令旨を受け、
南朝方勢力として衆徒の活躍があり、寺運は栄えて支院41ヶ坊、末寺8ヶ寺を持ち、
多数の僧兵を養っていましたが、その後の戦乱や時勢の流れにより
興亡が繰り返され、現在では5ヶ坊を残すのみとなりました。

仁王門は室町時代(1336~1573)中期に再建された八脚門で、
国の重要文化財に指定されています。
元は楼門でしたが、改修して上層部が撤去されました。
仁王像‐吽形像
仁王像‐吽形像
仁王像‐阿形像
仁王像‐阿形像
龍象院
参道を進むと、茅葺屋根の塔頭の龍象院(りゅうぞういん)があります。
龍象院-地蔵尊
その先の広場には水子供養の地蔵尊が祀られています。
龍象院-不動明王
左側の石窟内には不動明王が、矜羯羅童子(こんがらどうじ)と
制吒迦童子(せいたかどうじ)を脇侍に従えて祀られています。
成就院
向かいの南側に塔頭の成就院があります。
庭園は文化年間(1804~1818)頃の作庭と伝わる三尊の枯滝と亀島を持つ枯池を
中心とした枯山水様式で、県の文化財に指定されていますが、非公開です。
安養院
更に参道を進むと塔頭の安養院があります。
本堂は安永6年(1777)に再建されましたが、平成14年(2002)に焼失しました。
安養院-庭園
安土桃山時代に作庭された枯山水庭園は、県下で最古に属し、
国の名勝に指定されていますが、春と秋にしか公開されず、
門は閉ざされていました。
山門
参道が北へと向きを変えたその先の石段上に中門があります。
三重塔
門を入った参道の右側に三重塔があります。
貞享5年(1688)に再建され、県の有形文化財に指定されています。
各層で色が異なり、下から白・緑・褐色となっています。
初層内部の須弥壇には等身大の大日如来坐像 及び四天王立像が安置されています。
阿弥陀堂
参道から左へ入ると阿弥陀堂があります。
貞享5年(1688)に再建され、元は常行堂でしたが、阿弥陀信仰の高まりにつれ、
阿弥陀堂となりました。
阿弥陀堂-阿弥陀如来
堂内に安置されている阿弥陀如来坐像は鎌倉時代(1185~1333)初期の作で、
国の重要文化財に指定されています。
像高約2.74m、時代は150年ほど異なりますが、平等院鳳凰堂に安置されている
阿弥陀如来坐像とほぼ同じ大きさで、様式も同じ定朝様です。
鐘楼
奥に鐘楼、隣接して経蔵があります。
本堂
参道へ戻ると正面の石段上に本堂があります。
弘安8年(1285)に焼失した後、永仁年間(1293~1299)に再建され、
神戸市内の建物で唯一国宝に指定されています。
正面20.82m、側面17.76mの規模で、堂内内陣の須弥壇上に
本尊の薬師如来像が安置された厨子があります。
また、新西国霊場の札所本尊の十一面観世音菩薩像が安置されています。
護摩堂
本堂の左側に護摩堂があります。
江戸時代中期に再建された宝形造の建物で、堂内には不動明王・毘沙門天・
大黒天の像が安置されています。
地蔵菩薩像
奥に地蔵菩薩像が祀られています。
羅漢堂
本堂の右側に羅漢堂があります。
江戸時代後期に再建され、堂内には四天王像と十六羅漢像が安置されています。
釈迦堂
奥に釈迦堂があります。
江戸時代後期に再建され、堂内には本尊の釈迦牟尼佛と脇侍として文殊菩薩像・
普賢菩薩像が安置されています。
普賢菩薩像は、神戸十三佛霊場・第4番の札所本尊でもあります。
太子堂への石段
本堂から下り、東へ進むと石段があり、その上に太子堂があります。
太子堂
太子堂には聖徳太子が祀られています。
稲荷社
左奥に稲荷社があります。
奥之院への参道
石段を下り、更に東へ進むと奥之院への参道があります。
奥之院は朱塗りの閼伽井橋を渡った先にあって、徒歩5分ほどの距離です。
奥之院-地蔵堂
奥之院には地蔵堂があります。
かって、この下から巌窟を通って霊水が湧き出ていました。
この霊水が仏前に供える閼伽となり、この場所はそれを汲む閼伽井となっていました。
奥之院-新地蔵堂
しかし、現在では水は枯れ、新しく地蔵堂が建立されています。
太山寺川
この先の花崗岩の岩肌に、鎌倉時代作と推定されている等身大の不動明王の
摩崖仏があるそうです。
奥之院-稲荷社
また、境内には稲荷社があります。

常楽寺へ向かいますが、カテゴリーは播磨中部地域へ変更します。
続く
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最初の石段
観音正寺から桑實寺へは山中を徒歩でも行けますが、観音正寺から下り、
桑實寺へ登るという楽なコースしかバイクで来ている以上、選択の余地はありません。
林道を走っていると、小鹿が車道に飛び出してきました。
先行車が急ブレーキをかけたのですが、小鹿はUターンして山の中に消えました。
繖山(きぬがさやま)を大きく迂回して、桑實寺の参道に到着しましたが、
民家のすぐ先から石段となり、駐車する空き地はありません。
地図
仕方なく戻ると避難場所案内図があり、それに桑實寺の駐車場が記載されていました。
駐車場と言っても民家の前の空きスペースを利用するだけなので、
乗用車なら台数は限られます。
山門
駐車場から鉄板で造られた簡易な橋を渡り、後付けされたと思われる参道を進むと
石段の続きに合流します。
下りで滑って転倒したので、特に下りには注意が必要です。
駐車場と石段の始まりの標高はそれほど大差はありません。
合流した石段の先に山門があります。
参道の地蔵
門をくぐった先の左側に地蔵菩薩の石像があります。
石橋
石橋を渡り、その先の石段を登って右に曲がります。
石橋からの石段
ようやく建物が見えてきました。
地蔵堂
しかし、地蔵堂がぽつんと建っているだけでした。
地蔵堂は明和6年(1769)に建立され、縁結び、子安地蔵尊として信仰されているそうです。
地蔵堂からの石段-1
地蔵堂の先からも石段は続きます。
三丁
三丁の石柱が建っていました。
本堂の屋根
ようやく本堂が見えてきました。
本堂までもう一息
本堂までもう一息です。
塔頭
手前には塔頭の正寺院がありますが、門は閉じられています。
本堂
本堂
パンフレットには石段400段、所要時間15分と記されていますが、
実際には山門を通過してから本堂まで40分を要しました。

桑實寺の山号も観音正寺と同じ繖山ですが、観音正寺が(きぬがささん)に対し
桑實寺では(きぬがさやま)と読むようです。
天台宗の寺院で、西国薬師四十九霊場・第46番と
びわ湖百八霊場・第71番の札所となっています。
寺伝では桑實寺が創建されたのは飛鳥時代の白鳳6年(667)11月8日に
定恵和尚によって開山されたのですが、和尚の没年が
天智天皇4年12月23日(666年2月2日)と微妙です。
湖国に疫病が流行した際、第38代・天智天皇の四女・阿閉(あべ)皇女
(後の元明天皇)も病に罹患しました。
皇女は病床で琵琶湖に瑠璃の光が輝く夢を見ました。
その話を聞いた天皇が定恵和尚(643~666年)に法会を営ませると、
湖中から生身の薬師如来が現れ、大光明が放たれました。
この光明により皇女の病も回復し、天皇の勅願により桑實寺が創建されたと伝わります。
定恵和尚は、中臣鎌足の長男で白雉4年(653)5月に遣唐使とともに唐へ渡り、
玄奘三蔵の弟子・神泰法師に師事しました。
天智天皇4年(665)9月に帰国し、同年12月に大原(現在の奈良県高市郡明日香村小原)で
亡くなったとされ、寺伝との相違があります。

桑實寺の寺号は、定恵和尚が中国より持ち帰った桑の木をこの地に植え、
日本で最初に養蚕を始めたことに由来するとされています。
寺は栄え、二院十六坊の僧坊を持つようになりました。
天文元年(1532)には室町幕府12代将軍・足利義晴が京の戦渦を逃れ、
佐々木六角氏の保護のもとに3年間ここに仮の幕府を置きました。
足利義晴は絵巻を作ることを発願し、享禄5年(1532)1月から6月にかけ制作され、
7月29日に天文と改元あった後の8月17日に、本尊薬師如来の帳中に奉納されました。
この絵巻は「桑実寺縁起絵巻」として、国の重要文化財に指定されています。

その後、寺は一時的に荒廃しましたが、天正4年(1576)に安土城を築城した
織田信長の保護を受け復興されました。
寺は戦国時代の動乱期にも戦火を被ることはありませんでしたが、天正10年(1582)に、
安土城の女中たちが信長が竹生島へ参詣した留守中に禁足を破り、
桑實寺へ参拝したことを咎め、女中たちと擁護した桑實寺の高僧たちが
信長により殺害されました。
本尊
現在の本堂は南北朝時代に再建されたもので、国の重要文化財に指定されています。
桁行五間、梁間六間、一重、入母屋造、檜皮葺の建物で、内陣と外陣に分かれ、
内陣も参拝できます。
本尊は奈良時代作の薬師如来で、30年に一度開帳される秘仏とされ御前立が安置されています。
本尊の左右には日光・月光の両菩薩像、十二神将像が安置されています。
須弥壇には桑実寺縁起絵巻から抜粋した絵が展示されています。
天台大師
須弥壇の左横側に天台大師と伝教大師の像が安置されています。
天台大師・智顗(ちぎ)は、中国・南北朝時代から隋にかけての僧で、
天台教学を大成し「智者大師」とも尊称されています。
天台宗の開祖とも、慧文(えもん)、慧思(えし)に次いで第三祖ともされています。
伝教大師・最澄は、入唐求法(にっとうぐほう)の還学生(げんがくしょう、短期留学生)に
選ばれ、唐に渡って仏教を学び、帰国後、比叡山延暦寺を創建し天台宗の開祖となりました。
大日如来
須弥壇背後の左側に安置されている大日如来像は、文明15年(1483)に建立された
三重塔内に同年に造られ安置されていました。
その右側には阿弥陀如来坐像が安置されています。
不動明王
須弥壇背後の右側には弁財天、不動明王、阿弥陀如来が安置されています。
弁才天
弁才天は一面八臂の弁財天坐像で、宝珠・宝棒・宝箭(や=矢)・
宝刀・宝弓などを持っています。
地蔵
本堂への出入り口のある左側には地蔵像が祀られています。
鐘楼
本堂の左側に寛永21年(1644)2月に再建された鐘楼があります。
梵鐘も同時に鋳造されましたが、戦時供出され現在の梵鐘は
昭和26年(1951)に再鋳されたものです。
蔵
鐘楼の左側には蔵があります。
鎮守社
本堂の右側に石段があり、それを登ると天和元年(1681)に建立された鎮守三社があります。
中央に大黒天、左側に須佐之男命、右側に須佐之男命の后が祀られています。
高天原を追放された須佐之男命は出雲の鳥髪山(現在の船通山)に降り立ち、
その地を荒らしていた八俣遠呂智(やまたのおろち)への生贄にされそうになっていた
櫛名田比売命(くしなだひめのみこと)を助け、妻としたとされています。
大師堂
更に石段を登ると大師堂があります。
大師堂は天正4年(1576)に織田信長により建立され、伝教大師が祀られていました。
しかし、明治末期の風水害で大破し、大正2年(1913)に経堂として再建されました。
現在は定恵和尚尊像、釈迦如来像、聖徳太子像が安置され、
大蔵経418巻が輪蔵に収納されています。

大師堂の先から観音正寺への登山道があります。 
パンフレットには観音正寺から徒歩25分と記されていますが、実際には約40分を要するようです。

境内には文明15年(1483)に佐々木氏により建立された三重塔がありました。
江戸末期の度重なる風水害で大破し、明治13年(1880)に解体され、
現在は再建が計画されているようです。
夕陽
帰途、西ノ湖の山際に夕陽が沈みました。
花
名前は判りませんが、湖岸には白い花が咲いていました。

次回は今年3月に善峰寺~本山寺を巡礼した記事を投稿する予定です。

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