丹生都比売神社から南進し、国道480号線へ左折して
東方向へ進んだ先に大門があります。
大門が創建されたのは平安時代の永治元年(1141)と推定されていますが、
かっては九十九折(つづらおり)谷に鳥居を建て、それを総門としていたそうです。
その後、落雷や山火事等で再三焼失し、その都度再建されてきましたが、
現在の建物は江戸時代の宝永2年(1705)に再建されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
五間三戸の二階二層門で、高さ約25.1m、横幅約21.4m、奥行約10mあります。
門には「日々の影向(ようごう)を闕(かか)さずして、処々の遺跡を檢知す」という
聯(れん)が掲げられています。
「弘法大師は毎日御廟から姿を現され、所々を巡っては我々を救ってくださっている」という
意味であり、同行二人信仰を表しています。
門の左右に安置されている仁王像は江戸中期に活躍した大仏師である
運長と康意の作で、東大寺南大門の仁王像に次ぐ大きさを誇ります。
大門前で国道は大きくカーブして進んだ先、中門前に駐車場があります。
満車でしたが、隅っこにバイクを置き、少し戻って南へ進んだ所に櫻池院(ようちいん)があります。
宿坊で建物内の拝観はできませんが、庭園は国の登録記念物に指定されています。
昭和27年(1952)に重森三玲氏によって作庭され、龍安寺の石庭と同数の
15石を用いて石を組み、周囲を苔地、全体には白砂を敷いた枯山水の庭園です。
玄関
櫻池院は平安時代末期に白河天皇の第四皇子である覚法親王によって開基されました。
創建当初は光恩寺養智院と称されていましたが、鎌倉時代の正嘉2年(1258)3月に
第88代・後嵯峨天皇が高野山へ御幸の際、養智院を訪れました。
天皇は養智院の池の畔に咲く桜が池に映る光景に感銘を受け、
「桜咲く 木の間もれ来る 月影に 心も澄める 庭の池水」と詠みました。
このことから「櫻(桜)池院」と改称されました。
櫻池院の精進料理はNHKの「アサイチ」でも紹介されました。
また、隣接している成慶院の管理も行っています。
成慶院は竹田信玄の菩提寺として、 信玄公に関する宝物が多数残されています。
奥之院の櫻池院墓所には信玄及び竹田一族の墓があります。
櫻池院の南側を西へ進んだ所に宝亀院があり、御衣寺(おころもでら)とも呼ばれています。
延喜21年(921)10月21日の夜、第60代・醍醐天皇の枕元に空海が現れました。
その姿は、髪や髭が伸び放題で、袈裟や衣も汚れて破けていました。
そして、「高野山 結ぶ庵に 袖朽ちて 苔の下にぞ 有明の月」と
詠むと突如として姿を消しました。
天皇は10月27日に「弘法大師」の号を授けると、勅使を高野山へと遣わしました。
すると、11月5日の暁になって高野山奥之院の弘法大師御廟の前で祈っていた
東寺長者の観賢僧正の眼前に、
髪や髭は伸び放題で袈裟や衣も汚れて破けている空海が現れました。
観賢僧正は空海の髪や髭を剃って奇麗にし、
新しい袈裟と衣に着替えてもらうと、空海は消えました。
以来、毎年空海の命日である3月21日に新しい衣を弘法大師御廟に供えるようになりました。
この報告を受けた醍醐天皇は、観賢を開山として高野山内に勅願寺を建立し、
空海が宝亀5年(774)6月15日に生まれたことから、寺の名を宝亀院としました。
玄関の左側には観賢僧正が掘ったとされる井戸があり、毎年3月17日に
井戸から汲ん水で衣を染める「弘法大師御衣加持」が行われ、
それを3月21日に弘法大師御廟に供える「弘法大師御衣替法要」が営まれます。
井戸の左側を奥へ進んだ所に本堂があります。
本尊は弘法大師作と伝わる十一面観世音菩薩像で、第52代・嵯峨天皇の御代から
宮中で祀られていたものを、醍醐天皇が宝亀院の本尊としました。
また、新西国霊場・第6番の札所本尊でもあり、国の重要文化財に指定されています。
堂内には弘法大師作と伝わる弁財天像が安置されています。
壇上伽藍へ向かいます。
続く
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