上流
愛知橋の上流
川の水は昨日までの雨で濁っています。
下流
下流
永源寺をスマホのナビで検索すると、愛知川(えちがわ)上流の愛知橋を渡り、
そこから山側へ登るように指示されます。
しかし、永源寺会館の駐車場があり、そこから山側の先は土砂崩れで通行止めとなり、
寺側は関係者以外の乗り入れが禁止されていました。
永源寺会館の駐車場も関係者以外駐車禁止になっていますので、
脇の空き地にバイクを置き、寺まで歩くことにしました。
茶筅塚
5分余り歩くと受付がありますが無人で、本堂脇の志納所で
入山料500円を納めるようにと注意書きがされています。
その先に茶筅塚があります。
永源寺では、永源寺を開山した寂室元光(じゃくしつげんこう)禅師の
生誕日5月15日に近い日曜日に「寂室禅師奉賛茶会」が行われています。
風穴-1
茶筅塚から下ると風穴がありますが、この窪んだ所がそうなのかと思い、
石垣に手を当ててみましたが風は感じませんでした。
専用道場
風穴から左に曲がると専用道場がありますが、一般には開放されていません。
含空院
右側にある含空院は10月30日~11月28日まで庭園が公開されています。
(拝観料:お菓子、お抹茶付きで500円)
含空院は永和3年(1377)に考槃庵(こうはんあん)として創建され、
足利義持が入山の際に含空院と改められました。
その後、永禄6年(1563)の兵火で焼失した後、
現在の建物は正保4年(1647)に再建されました。
蔵
含空院の右側に蔵があります。
標月亭
蔵の右側に標月亭がありますが、非公開です。
経堂
含空院から少し下った南側に経堂があります。
応永11年(1404)に創建され、現在の経堂は延宝4年(1676)に再建されました。
傅大士
堂内前面には傅大士(ふだいし)とその長男・普建、
及び次男の普成(ふしょう)の像が安置されています。
傅大士は中国・南北朝時代の在俗仏教者で、大蔵経を閲覧する便をはかって、
転輪蔵を創始しました。
転輪蔵
堂内中央には転輪蔵があり、明版大蔵経が納められています。
開山堂
経堂の向かい側に開山堂があります。
享保10年(1725)に彦根藩第8代藩主・井伊直惟(なおのぶ)より
能舞台の寄進を受け再建されました。
永源寺を開山した寂室元光(じゃくしつげんこう)禅師が祀られています。
寂室元光は、正応3年5月15日(1290年6月23日)に美作国(みまさかのくに)高田
(現在の岡山県)で生誕し、13歳で山城国三聖寺(東福寺塔頭)で出家しました。
元応2年(1320)に元(中国)へ渡り、天目山の中峰明本(ちゅうほう みんぽん)に参禅し、
中峰から寂室の道号を与えられました。
嘉暦元年(1326)に帰国してから25年間は中国地方、中部地方など各地を行脚し、
正平16年/康安元年(1361)に近江守護・六角氏頼(ろっかく うじより)の帰依を得て、
永源寺を開山しました。
師・中峰の隠遁的な禅を受け継ぎ、世俗から離れ、生涯黒衣の平僧として過ごしました。
法堂
開山堂から下った所に「大雄宝殿」と称される法堂(はっとう)があります。
創建当初は大雄宝殿と称し、現在の建物は享保13年(1728)に再建されました。
法堂は、僧侶が仏教を講義する建物で、堂内に安置されている釈迦牟尼佛・
迦葉尊者・阿難尊者の三尊像は第108代・後水尾天皇から寄進されました。
鏡文字
法堂の東側にある池には「永源寺」の文字が
水面に反射すれば読めるように掲げられています。
観音像-1
観音像-2
池のから奥へと進むと観音像が祀られています。
禅堂
法堂の向かいには禅堂があります。
方丈
法堂から下ると方丈(本堂)があります。
古例の法要が行われる道場で、正平16年/康安元年(1361)に
近江守護・六角氏頼(佐々木氏頼)により「安心室」と号して創建されました。
寂室元光を慕い2千人余りの僧が入寺し、56坊もの末庵を有するまでに栄えました。
応仁の乱(1467~1478)では京都五山の名だたる高僧も当地に避難して修行をされました。
明応元年(1492)、次いで永禄6年(1563)と二度も大きな戦火を受けて全山焼失し、
衰亡の危機にありましたが、寛永20年(1643)に一糸文守(いっし ぶんしゅ)が招かれ、
再興されました。
一糸文守は岩倉家の祖である岩倉具堯(いわくら ともたか)の三男で、
近衞信尋(このえ のぶひろ)などの公家と交流があり、第108代・後水尾天皇とも近侍しました。
一糸文守は永源寺に入った3年後、正保3年(1646)3月19日、39歳で逝去され、
没後30年目の延宝3年(1675)に後水尾院より「定慧明光仏頂国師」の号を贈られました。
永源寺は後水尾天皇や東福門院、彦根藩などの帰依を受けて再興されました。
現在の建物は明和2年(1765)に井伊家の援助により再建されました。

創建当初、山号は「飯高山」と号していましたが、開創後「瑞石山」と改号されました。
正面広縁の開山・寂室禅師の真蹟「瑞石山」には、「石」の字の口の上に丶が付けられています。
「石」が角のない丸石に対し、「丶」付きの石」は角のある割れ石を意味していると伝わります。
明治6年(1873)に明治政府の政策により、臨済宗東福寺派に属したましが、
明治13年(1880)に永源寺派として独立しました。

本尊は「世継観世音菩薩」で、寂室元光禅師が元からの帰途、嵐に見舞われ船が
難破しかけましたが、禅師が祈りを捧げると海上に白衣の観世音菩薩が顕れ、嵐が治まりました。
禅師が永源寺を開山すると、寺の東の峰から光明が放たれ、禅師がそこを訪れると
大きな石の上に丈一寸八分(約5cm)の小さな観世音菩薩の像がありました。
禅師は、元からの帰途、嵐の海上に顕れた観世音菩薩であると確信して中国から仏師を招き、
かって修行した中国の土で観世音菩薩を造らせました。
その像の額の宝冠の中に、小さな観世音菩薩の像を埋め込み本尊としました。
佐々木氏頼の子・満高は跡取りに恵まれませんでしたが、本尊に熱心に祈願したところ、
9代目の当主となる満綱が誕生し、いつしかこの本尊は「世継観世音菩薩」と
呼ばれるようになりました。
現在は秘仏とされています。
鐘楼
本堂の向かい側には安永元年(1772)に再建された鐘楼があります。
梵鐘は戦時供出され、昭和23年(1948)に再鋳されました。
宗務所
方丈の西側に志納所や庫裡及び宗務所があります。
鉄筋コンクリート造りで、昭和54年(1979)に建立されました。
志納所では朱印を受けることができ、永源寺は神仏霊場・第140番札所となっています。
不動堂
宗務所の向かい側には不動堂があり、休憩所になっているようですが
当日は施錠されていました。

山門は寛政7年(1795)に井伊家の援助等により着工され、5年の歳月を経て
享和2年(1802)に竣工し、滋賀県の文化財に指定されています。
五間三戸二階二重門ですが、画像を撮り忘れました。
上層には釈迦如来と文殊菩薩、普賢菩薩及び十六羅漢像が安置されています。

バイクを置いた所まで戻り、太郎坊宮(阿賀神社)へ向かいます。
続く

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