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応挙記念碑
穴太寺の仁王門から東へ進むと民家のガレージに円山応挙記念碑(中央)が建ち、
この付近の農家で応挙(1733~1795)は誕生しました。
寺号標
穴太寺の仁王門から西は右へカーブして北へ進み犬飼川に架かる橋を渡って
西へ入り、小幡神社の横を北へ進んだ先に金剛寺があります。
9歳の時に応挙は金剛寺に小僧として預けられました。
金剛寺は山号を「福寿山」と号する臨済宗天龍寺派の寺院で、
夢窓国師(1275~1351)の師匠に当たる仏国国師(1241~1316)を開山とし、
正応2年(1289)に創建され、元文3年(1738)に玉堂和尚によって中興再建されました。
鐘楼門
山門は鐘楼門で明和8年(1771)に建立されました。
応挙が15歳の時に玉堂和尚が入寂され、それを機に応挙は上洛しました。
水嶋元(はじめ)氏の著書「円山応挙伝 報恩の画」によると、
大乗寺を再建した密蔵法印は、京都東寺に向かう途中、絵師になる志を持ち
裸一貫で京に上ろうとする応挙と出会い、金銭を与え励ましたと記されています。
応挙は京都のビードロ道具を扱う「尾張屋」で奉公することになりました。
ビードロとはガラスの意味で、当時まだ珍しかったガラスのレンズを使った
望遠鏡やのぞき眼鏡は「ビードロ道具」と呼ばれていました。
なかでも、輸入されたのぞき眼鏡は、レンズを通して見ると、
絵の遠近感が強調されて立体的に見えるのが珍しく、流行していました。
のぞき眼鏡に使用される絵は、「眼鏡絵」あるいは「浮絵(うきえ)」と呼ばれ、
輸入品だけでなく、国内でも描かれるようになりました。
応挙も描くようになり、尾張屋の主人は応挙の絵の素質を見抜き、応挙17歳の頃、
狩野派の絵師、石田幽汀(いしだ ゆうてい:1721~1786)に絵を習わせました。

「応挙」と名乗り始めたのは明和3年(1766)頃からで、
中国宋末~元初の画家・銭舜挙(せん しゅんきょ:生没年不詳)に応ずるという
意味が込められているとされています。
この頃に圓満院祐常(ゆうじょう:1723~1773)門主や豪商・三井家の
援助を受け、圓満院時代と呼ばれるほど多くの作品を生み出しました。
本堂
本堂
天明8年(1788)、応挙56歳のとき両親の追善供養と幼少時代の感謝を込め、
金剛寺の本堂全面の襖と壁面57面に「山水図」「波濤図」「群仙図」を描き
寄進したことから、金剛寺は「応挙寺」とも呼ばれています。
「山水図」「波濤図」は、東京国立博物館に寄託、「群仙図」は収蔵庫に保管され、
毎年11月3日の「文化の日」に一般無料公開されています。
襖絵「波濤図」は、実物をデジタル撮影し、
京都市内の美術印刷会社によって仕上げられ、
本尊の釈迦牟尼仏の両側に6面ずつ配置されています。
事前予約すれば無料で拝観することができます。
収蔵庫
こちらが収蔵庫でしょうか?
小幡神社-鳥居
小幡神社へ戻ります。
第10代・崇神天皇(在位:BC97~BC30)の命により派遣された丹波道主命が、
第9代・開化天皇(在位:BC157~BC98)を祀ったことが始まりとされています。
丹波道主命は開化天皇の皇孫で、『古事記』では開化天皇の皇子・
彦坐王(ひこいますのみこ)が父と記されています。
『日本書紀』崇神天皇10年9月9日条では丹波道主命を丹波に派遣するとあり、
同書では北陸に派遣された大彦命、東海に派遣された武渟川別(たけぬなかわわけ)、
西道に派遣された吉備津彦命とともに「四道将軍」と総称されています。
和銅元年(708)に丹波国司・大神朝臣狛麻呂(おおみわのあそんこままろ)が
霊域に社殿を建立したと伝えられています。
小幡神社-拝殿
拝殿
延長5年(927)に編纂された『延喜式神名帳』に記載のある式内社で、
文和元年(1442)に管領・細川政元(1466~1507)により社殿が造営されたの
記録が残され、現在の社殿は天和3年(1683)に再建されました。
小幡神社-本殿
本殿は一間社流造、檜皮葺の建物で、亀岡市内で妻に、
二重虹梁大瓶束(こうりょうたいへいそく)を用いた早い事例であり、
京都府の登録文化財となっています。
小幡神社-本殿-2
主祭神は開化天皇で、皇子の彦坐王と彦坐王の御子・大俣王(おおまたのみこ)が
配祀されています。
また、社宝として全国に三幅といわれる円山応挙の絵馬の一つが保存されています。 
小幡神社-遷之宮
境内社の遷之宮
神仏習合の名残なのか多数の地蔵菩薩像が祀られています。
小幡神社-神馬舎
こちらは神馬舎でしょうか?
小さな神馬の像とその下には鞍が奉納されています。

稗田野神社(ひえだのじんじゃ)へ向かいます。
続く
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鯉のぼり
自宅を5:30に発ち、国道9号線から県道4号線に入って進んだ先で、
左側を流れる矢田川に鯉のぼりが渡されていました。
長楽寺
山側には東大寺・大仏殿に似た建物と、
日本第二位の高さを誇る70mの五重塔が建立されています。
長楽寺は「但馬大仏」とも呼ばれていますが、奈良時代の天平年間(729~749)に
行基がこの地に足を留め、自ら一刀三拝して薬師如来像を刻み、
安置したことが始まりとされています。
天平9年(737)には六坊及び三重塔の七堂伽藍が創建され、八鹿山薬師寺と称しました。
延暦年間には弘法大師も訪れたと伝わる由緒ある古刹です。
天文年間(1532~1555)に洪水災害によって流失し、天文11年(1543)に現在地で再建され、
川会山長楽寺と改められました。
しかし、江戸時代から明治時代までの度重なる火災により、古建築と文化財の大半は焼失しました。
昭和61年(1986)に大阪の相互タクシー株式会社の創業者で「タクシー王」と呼ばれた
故・多田清氏の寄進により、現在の伽藍が着工されることになりました。
大仏殿は高さ40mの重層寄棟造りで、屋根には対の鴟尾(しび)が光り輝いています。
この鴟尾は高さ2.7m、重さが1.1tあり、1.8万枚の金箔が貼られています。
大仏殿の中央には、木造座像としては世界最大の像高15.8mで、
光背と須彌壇と蓮座で総高は25.3mにもなる釈迦如来坐像が安置されています。
中尊の左側には像高15.2mの阿弥陀如来坐像、
右側には像高15.2mの薬師如来坐像が安置されています。
これらの三躯の仏像は中国人仏師延べ2万人余りが、3年の歳月をかけて製作し、
日本に運ばれ大仏殿で組み立てられました。
樟材の寄せ木作りに、金箔132万枚(21.8kg)が使用され、
平成6年(1994)4月に落慶開眼されました。

大仏殿の北側には本堂(薬師堂)があり、薬師瑠璃光如来像が安置されていますが、
7年ごとに10日間だけ開扉される秘仏とされています。
但し、行基が刻んだとされる薬師如来像は焼失したそうです。

大門には像高8.2m、重量9.5tの阿形像と像高8.4m、重量10tの吽形像が安置されています。
大門と大仏殿は、直径42cmの欅の柱と桧で軒、天井が作られた回廊で結ばれ、
その長さは100m近くにも及びます。
開門は午前9時からで、30分以上待たなければならないので
最初の目的地である大乗寺へ向かうことにしました。
山門
大乗寺は山号を亀居山と号する高野山真言宗の寺院で、
西国薬師四十九霊場・第28番札所となっています。
江戸中期の画家・円山応挙やその一門の画家たちの襖絵など、重要文化財に指定されている
165点が残され通称で「応挙寺」と呼ばれています。
駐車場からは石段があり、その上にある山門は兵庫県の文化財に指定されています。
客殿
山門をくぐった正面に客殿があり、県の文化財に指定されています。
大乗寺は天平17年(745)に行基が自ら一刀三拝して聖観世音菩薩像を刻み、
安置したことが始まりとされています。
その後、戦乱を受け寺勢は衰退し、安永年間(1772~1781)になって密蔵法印により再興されました。
円山応挙像
大玄関には円山応挙像が祀られています。
円山応挙は享保18年(1733)に穴太寺がある、穴太村の農家の次男として生まれました。
生い立ちについての詳細はこちらをご覧ください。

水嶋 元(はじめ)氏の著書「円山応挙伝 報恩の画」によると、
密蔵法印は京都東寺に向かう途中、絵師になる志を持ち裸一貫で
京に上ろうとする応挙と出会い、金銭を与え励ましたと記されています。

応挙は明和3年(1766)頃から「応挙」と名乗り始めました。
中国宋末~元初の画家・銭舜挙(せん しゅんきょ)に応ずるという
意味が込められているとされています。
この頃、圓満院の祐常(ゆうじょう)門主や豪商・三井家の援助を受け、
圓満院時代と呼ばれるほど多くの作品を生み出しました。

天明6年(1786)に密蔵法印が亡くなり、翌年、後を継いで再建に乗り出した
密英上人が京都に出かけ、応挙に襖絵製作を依頼しました。
客殿は中央に仏間があり、十一面観音立像が安置され、その周囲の部屋には
四天王が守護するのと同様の意味を持たせた図が描かれて
立体曼荼羅の空間が形成されています。
また、オリジナルの襖絵保護のため、一部が平成15年(2003)5月に竣工した
収蔵庫で保管され、再製画に置き換えられています。
楠の根
客殿前の楠木は樹齢1200年と伝わりますが、根の部分だけ撮って、
木そのものを撮るのを忘れました。
欅の巨木
山門をくぐった左側には欅の巨木が聳えています。
鐘楼
客殿前を左に進み石段を上った左側に鐘楼があります。
薬師堂
鐘楼先の石段を上った所に瑠璃光殿の扁額が掲げられた薬師堂があります。
薬師堂-本尊
瑠璃光殿の本尊・薬師如来坐像は西国薬師四十九霊場・第28番札所本尊でもあり、
県の文化財に指定されています。
鎮守社-1
鎮守社-2
薬師堂と観音堂の間にある石段を上った所に鎮守社があります。
観音堂
薬師堂の右側に観音堂があり、「大悲殿」の扁額が掲げられています。
観音堂には聖観世音菩薩立像、四天王立像が安置され、聖観世音菩薩立像は
国の重要文化財、四天王立像は県の文化財に指定されています。
地蔵堂-1
地蔵堂-2
観音堂の奥に地蔵像があり、水子地蔵尊が祀られています。

客殿の右側にある庫裡から客殿の拝観ができますが、室内の撮影は禁止されています。
拝観料は800円で、ガイドの説明があり、所要時間は約40分です。

山陰海岸国立公園内にあり、国の名称に指定されている岡見公園へ向かいます。
続く

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