山門
善峯寺のゲート出て、平坦な参道を3分足らず歩いた所に三鈷寺があります。
三鈷寺は釈迦岳の北東、鴨瀬山(かもせやま)中腹に位置しています。
三鈷寺は山号を「華台山(けたいさん)」、院号を「往生院」と号する西山宗の総本山で、
天台・真言・律・浄土四宗兼学の道場となっています。
また、京都洛西観音霊場の第5番札所でもあります。
(画像は全て平成28年(‎2016‎)‎10‎月‎9‎日参拝時のものを使用しています)
カリンの木
門をくぐった右側に石地蔵が祀られ、その背後にはカリンの木が実を付けていました。
庫裏
庫裏
華台廟
三鈷寺は、平安時代の承保元年(1074)に源算上人が草庵を結び、
自ら阿弥陀像を刻んで本尊とし、北尾往生院と号したのが始まりです。
応保2年(1162)、二祖・観性法橋(かんしょうほっきょう)は、自ら浄布を織り、
これに佛眼曼荼羅を画いて本尊とし、左右に釈迦如来像・阿弥陀像を安置しました。
鎌倉時代の建保元年(1213)、証空上人善慧(しょうくうしょうにんぜんえ)は、
ここを不断如法念仏道場とし、三鈷寺と改称しました。
背後にあるカモシカ嶽の三峰が「三鈷杵(さんこしょ)」に似ていることからと伝わります。
旧三鈷寺は、ここより更に登った山頂近くにあってその跡が残されているそうです。
山門を出て約200m西へ行くと当山が浄土宗西山派の根本山であるという
後嵯峨天皇宣旨になる碑が建っています。
さらに旧三鈷寺跡へ通ずる道の途中に樹齢八百年からなる
「証空上人逆さ杖の桂の木」の巨木がそびえているそうです。
残念ながら今回は時間の関係で訪れることができませんでした。

証空上人善慧は、法然上人に23年間常随して浄土教の深義に達し、
円頓菩薩戒を相伝した高弟です。
西山浄土宗、浄土宗西山禅林寺派、浄土宗西山深草派の西山三派の祖となり
西山(せいざん)上人とも称されています。
建暦2年(1212)、法然上人が入滅後、三祖であった天台座主大僧正・慈円の
譲りをうけて北尾往生院に入りました。
宝治元年(1247)11月26日、白河遣迎院において71歳で入滅された際は、
門弟達が遺身を三鈷寺で荼毘に付しました。
証空上人善慧に深く帰依された実信房蓮生(じっしんぼうれんじょう)が
華台廟を造って祀りました。

宇都宮頼綱は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて武将でしたが、
元久2年(1205)34歳の時、北条時政と牧氏の陰謀に加担したとして謀反を疑われたため、
出家して実信房蓮生と号しました。
出家後は、法然上人に弟子入りし、法然没後は証空上人に師事しました。
出家するも京に住み、京錦小路と嵯峨小倉山の邸宅で風雅な暮らしを送り、
藤原定家と交流し、娘を定家の息子為家に嫁がせています。
文歴2年(1235)頃定家に古今の歌人の色紙染筆を依頼し、
これが小倉百人一首のもととなったと云われています。
しかし、証空上人亡き後は、蓮生は一人三鈷寺にとどまり、供養を続けられました。

建長年中に蓮生が願主となり、華台に塔を造立し観念三昧院と名付け、
不断念仏を始めました。
正元元年(1259)証空上人十三回忌の準備の中、11月12日往生を遂げられ、
遺言により、嫡子の宇都宮泰綱により証空上人の傍らに墓を築き、供養されました。

南北朝時代に、勅願により、天台宗・真言宗・律宗・浄土宗の四宗兼学となりました。
北朝の貞治元年(1362)に後光厳天皇の論旨により、三鈷寺は西山流根本地されました。
平安時代から鎌倉時代にかけて寺運は栄えましたが、室町時代になって、
応仁の乱(1467~1477)の兵火により本堂と華台廟を残し焼失しました。
その後、三鈷寺は荒廃し、新たに寺領を賜るも再興がならず、安土桃山時代になって
羽柴秀吉によって寺領は没収されました。
江戸時代、善峯寺が復興されたことに伴い、寺域は縮小されてしまい、
天保年間(1830~1844)に三鈷寺は、現在地に移されたそうです。
昭和の時代になってようやく第52祖・台龍上人の徳望により、
四宗兼学の西山総本山として独立しました。
平成14年(2002)に完了した平成の大修理を経て現在に至っています。
本堂
500円を納めて本堂へ上がることができます。
生憎、当日はご住職が不在で説明を伺うことができませんでした。
手前の華台廟は、江戸時代中期頃に西山国師500回忌時に建て直され、
彩色された西山上人像が祀られています。
三鈷寺が、最も栄えた功労者です。
次の間には金色で来迎印を組まれた、平安時代後期の作とされる
阿弥陀如来坐像が安置されています。
ふっくらと、穏やかな姿をされていて、前に座っていると心から癒されます。
そして、一番奥に本堂があります。
本尊の佛眼曼荼羅は、かつての三鈷寺の壮大な本堂に祀られたものですが、
現在の本堂には納まりきれないため、奈良国立博物館に寄託されています。
現在の本尊は、平安時代・智証大師円珍作と伝わる「金身不動明王」で、
全身がやや古色交じりの金色を呈しています。
「十一面観世音菩薩立像」は古色を呈し、西山上人作とされ、
京都洛西観音霊場第5番札所の本尊です。
「抱止(だきとめ)阿弥陀如来立像」は古色を呈し、左手を胸に置き、
右手を下げた独特の姿をされ、慈覚大師円仁作と伝わります。
この像には伝承が残されています。
宇都宮頼綱は、正真の阿弥陀如来を拝せんと称名念仏していますと、
三尊二十五菩薩を具して現れ、空に帰らんとされる姿に名残り悲しみの余り、
抱止めてみればこの阿弥陀如来であったと云われています。
十一面観世音菩薩像と抱止阿弥陀如来像の間に円光大師(法然上人)の小像が安置されています。
客殿
客殿-室内
客殿
本堂から渡り廊下を経て庫裏に続く客殿へと案内され、お茶とお菓子をいただきました。
展望
客殿からの眺めは、江戸時代に書かれた「都名所図会」に「二大仏七城俯瞰の地」と
記されたほどみごとなものです。
比叡山を始めとする東山三十六峯、宇治、木津方面と京都盆地を一望できる天空の寺です。
「二大仏」とは、京都方広寺と奈良東大寺の大仏のことで、「七城」とは、二条城、伏見城、
淀城、高槻城、大坂城等の京都内外の城を意味しますが、
少々誇大広告であったような気がします。
大阪方面は、天王山の陰に隠れて望むことができません。
稲荷社
境内に出ます。
稲荷社の小さな祠があります。
参道からの正面
善峯寺バス停付近の山道から上がってきた正面です。
「西山善慧上人霊廟」と刻まれた石柱が建ち、山号「華台山」の扁額が掛かっています。
地蔵
かわいい地蔵尊像は、心地の良さに居眠りをしているようにも見えます。
地蔵からの下り
本堂前の急な石段を下ります。
イチョウの木
傍らのイチョウの木は、銀杏の実をたくさん落とし、石段にも散らばっていました。
小塩と灰谷の道標
石段を下って来ると、道は二手に分かれ、小塩の方へ向かいますが、
ここからは山道になります。
三鼓寺への道標
三鈷寺への入口は、善峯寺のバス停から少し下った所にあります。
看板には、徒歩10分と記されていますが、体力に自信があって休まずに
登った場合の時間だと思われます。

バイクを置いた駐車場まで戻り、安岡寺(あんこうじ)へ向かいます。
続く

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