山門
寺之内通を百百ノ辻から西へ進むと、北側に宝鏡寺があります。
山号を西山(せいざん)と号する臨済宗系の単立の尼門跡寺院で、
神仏霊場の第97番札所です。
現在の山門は江戸時代末期の弘化4年(1847)に再建されたもので、
京都市の文化財に指定されています。

宝鏡寺は、景愛寺の第六世であった北朝初代・光厳天皇(こうごんてんのう/在位:
1331~1333)の皇女・華林宮恵厳(かりんのみやえごん:?-1386)禅尼が、
景愛寺の支院であった建福尼寺に、御所で安置されていた聖観世音菩薩像を遷し、
本尊としたのが始まりとされています。
北朝第4代・後光厳天皇(ごこうごん てんのう/在位:1338~1374)から
「宝鏡寺」の寺号を賜り、開山としています。
この聖観世音菩薩像は、室町時代の応安年間(1368~1375)に伊勢の二見浦で漁網に
掛かり、引き揚げられたものでした。
丸鏡(宝鏡)を手に持つ珍しい姿をし、宝鏡が光り輝いたことに驚いた人々によって、
朝廷へと献上されたと伝わります。
また、「百々御所」とも呼ばれ、かって、この地に住んでいた豪族の百々(どど)氏に
由来しています。

景愛寺は建治3年(1277)に無学祖元(1226~1286)に師事した無外如大
(むがいにょだい:1223~1298)禅尼により上京区西五辻東町で創建された
臨済宗の寺院で、足利氏の庇護を受けて南北朝時代以降は禅宗尼寺五山の第一位に
おかれ、多くの末寺を擁して栄えました。
しかし、応仁・文明の乱(1467~1477)で寺は焼失し、足利氏の衰退もあって
寺は廃絶し、法灯は宝鏡寺で受け継がれています。
人形塚
門を入った右側に昭和34年(1959)に建立された人形塚があり、
年に1回、秋に人形供養が行われています。
碑には大正時代から昭和時代にかけての京都の日本画家、版画家である
吉川観方氏によって描かれた御所人形が彫り込まれています。
台座には武者小路実篤の詩文が刻まれています。
「人形よ 誰がつくりしか 誰に愛されしか 知らねども 愛された事実こそ
 汝が成仏の誠なれ」
宝鏡寺では皇女が入寺されていたことから御所から度々人形が贈られました。
昭和32年(1957)の秋から、第121代・孝明天皇(在位:1831~1867)ご遺愛の
人形をはじめ、皇族ゆかりの由緒ある人形が数多く保存され、
一般公開されるようになり、「人形寺」と呼ばれています。
現在では春と秋に人形展がが催され、特に3月1日の春の人形展の
オープニングイベントでは、島原太夫と和楽器等の演奏が奉納されます。
本堂
本堂は天明8年(1788)の大火で焼失後、文政13年(1830)に再建されたもので、
京都市の文化財に指定されています。
勅使門
勅使門でしょうか?
大玄関
大玄関も文政13年(1830)に再建されたもので、
京都市の文化財に指定されています。
阿弥陀堂
阿弥陀堂でしょうか?
だとしたら文政13年(1830)の再建で、京都市の文化財に指定されています。
門前には駒札がありますが、境内には無く、判別が困難です。

横には「拝観謝絶」の立札と「小川御所之跡」と刻まれた石碑が建立されています。
一説では応永33年(1426)頃、宝鏡寺は天龍寺付近にあり、応仁2年(1468)に
応仁・文明の乱(1467~1477)の兵火で焼失し、現在地へ移転しました。
現在地には足利将軍家の邸宅の1つ「小川殿」があり、その南側で再建されました。
元は管領・細川勝元が所有していた邸宅の1つでしたが、第8代将軍・足利義政(在職:
1449~1474)が利用し、将軍職を息子で9歳の義尚(よしひさ/在職:1474~1489)へ
譲った後の文明6年(1474)に居宅としました。
文明8年(1476)に室町御所が焼失し、義政の正室・日野富子、義尚及び
室町御所へ避難中であった第103代・後土御門天皇が小川殿へ移り住むようになり、
「小川御所」と呼ばれるようになりました。
将軍職を義尚へ移譲後も義政が実権を握り続けたため、義尚と富子と対立するようになり
義政は富子から逃れるように東山山荘へ移り住みました。

長享3年(1489)、第9代将軍・足利義尚が近江出兵の際、25歳で病死しました。
義尚には継嗣が無く、義尚の甥・足利義視(あしかが よしみ)の
子・義材(よしき)が義政の養子となって(一説に義尚の養子になった
ともいわれる)、延徳2年(1490)に10代将軍に就任しました。
一方で、日野富子は堀越公方・足利政知の子で天龍寺香厳院主となっていた
義尚と義材の従兄・清晃(せいこう=後の11代将軍・足利義澄)に
小川御所を譲りました。
将軍の象徴である邸宅を清晃が継ぐことを知った義視は、義材を軽視するものと
激怒して、小川御所を破却してしまいました。
その後、小川御所の跡地は宝鏡寺に併合されました。
宝鏡寺には現在も日野富子の木像が安置されています。
慈受院-寺号標
宝鏡寺を出て、寺之内通を西へ進み、その先の堀川通を少し進んだ東側に
慈受院があります。
慈受院(じじゅいん)は山号を「廣德山」と号する臨済宗系の単立の尼門跡寺院ですが、
通常は非公開です。
正長元年(1428)に室町幕府第四代将軍・義持の正室・日野栄子(1390~1431)が、
義持と子の第五代将軍・義量(よしかず/在職:1423~1425)の
菩提を弔うため、現在の京都御苑内で創建されました。
義量(1407~1425)は、応永30年(1423)に将軍職を譲られたのですが、
2年後の応永32年(1425)に19歳で病死しました。
また、義持も応永35年(1428)に43歳で死去し、栄子は出家して寺を建立し、
栄子の戒名から「慈受院」と称されました。
栄子の死後、慈受院は義持の娘・寿山瑞永(1410~1489)へ継がれ、
総持院と兼帯されました。
総持院も応永34年(1427)に日野栄子により創建され、明和元年(1764)に
第117代・後桜町天皇より「薄雲御所」の号を賜りました。
「薄雲」は『源氏物語』第19帖「薄雲」に由来し、巻名は光源氏が藤壺の死を悼んで
詠んだ和歌に因んでいます。
「入り日さす峰にたなびく薄雲はもの思ふ袖に色やまがへる」
現在語訳:夕日がさしている峰にたなびく薄雲は、悲嘆にくれる私の喪服袖に
似せているのであろう
慈受院-山門
慈受院は応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失した後は移転を繰り返し、
宝永3年(1706)に曇華院(どんげいん)を再興した第111代・後西天皇の第9皇女・
聖安女王(1668~1712)が寺に入り、幕末まで曇華院の兼帯となりました。
明治6年(1873)に曇華院は総持院へ併合され、慈受院は廃寺となりました。
大正8年(1919)に現在地で総持院を併合して慈受院が再興され、釈迦如来を本尊として
他に阿弥陀如来像などが安置されています。
慈受院-井筒
井筒に「百々町」と刻まれているのは、併合前に現在地の東、「百百ノ辻」付近に
総持院があったことを示しています。
寺格から総持院とはならず、慈受院として再興されたと思われます。
慈受院-毘沙門堂
西側に毘沙門堂とその右側に稲荷社と思われる社殿があります。
慈受院-毘沙門天の碑
毘沙門堂の前に「日本三体随一 毘沙門天三」の碑が建っています。
第100代/北朝第6代・後小松天皇の念持仏でしたが足利氏に下賜されたものです。
慈受院-大日堂
毘沙門堂の左側には地蔵尊と大日如来が祀られています。

堀川通を横断して妙蓮寺へ向かいます。
続く
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