延暦寺は令和2年(2020)3月1日から巡拝料が700円から1,000円に改定されました。
東塔、西塔、横川の全てを巡拝することが出来、個別の入山料は設定されていません。
国宝殿
駐車場から入った左側に国宝殿がありますが、拝観料500円が必要です。
「国宝殿」という名称は、伝教大師最澄が著わした『山家学生式』の中の
「一隅を照らす。これ則ち国宝なり。」という言葉から名付けられ、
「国宝」とは物ではなく、人の心であると説かれています。
館内では延暦寺に伝来する数多くの仏像・仏画・書跡等の文化財が
保管・展示されています。
大講堂
参道を進んだ所に大講堂があります。
昭和31年(1956)に消失し、昭和39年(1964)に坂本の讃仏堂を
移築して再建されました。
本尊は大日如来で、その左右には比叡山で修行した各宗派の
宗祖の木像が祀られています。
外陣に掲げられている釈迦を中心とした仏教・天台宗ゆかりの高僧の肖像画は、
国の重要文化財に指定されています。
4年に一度天台宗僧侶の最終試験として
「法華大会広学竪義(ほっけだいえこうがくりゅうぎ)」が行われます。
瑞雲院
大講堂の左奥に瑞雲院があります。
かっては「教光坊」と称されていましたが、貞享元年(1684)に再興された際に
瑞雲院に改められ、法華三昧道場となりました。
昭和48年(1973)に天台宗大僧正・岡野正道と岡野貴美子により大講堂の政所として
復興されました。
岡野正道は、昭和11年(1936)に孝道教団を開宗したことから、
平成24年(2012)秋に「孝道教団始祖伝法堂」の別称が定まりました。
前唐院
東側に第3代天台座主・円仁の住坊であった前唐院(ぜんとういん/さきのとういん)
があり、慈覚大師円仁が祀られています。
第5代天台座主・智証大師円珍より先に入唐したので、円珍の後唐院に対し、
「前唐院」と称されるようになりました。
慈覚大師円仁(794~864)は、大同3年(808)の15歳の時に延暦寺に入り、
最澄に師事しました。
弘仁6年(815)に得度し、翌年に東大寺具足戒を受戒しました。
弘仁8年(817)には大乗戒を受戒し、
自らが教授師として諸弟子に授けるようになりました。
弘仁13年(822)に最澄が入寂された後、承和2年(836)に最後の遣唐使に
選出されましたが、2度渡航を失敗し、承和5年(838)に短期留学僧として
唐へ渡りました。
遣唐使一行から離れ、五台山を巡礼した後、当時の世界最大の都市であった
長安を訪れ、9年6ヶ月の承和14年(847)に帰国しました。
423部・合計559巻の仏典や曼荼羅を持ち帰り、前唐院はそれらを所蔵する
経蔵としての機能も果たしていました。
大鐘楼
大講堂の方へ戻り、東へ進むと大鐘楼があります。
昭和31年(1956)に焼失し、その後再建されました。
大鐘楼-梵鐘
梵鐘は焼失を免れ、現在は国宝殿で保存されています。
再鋳された梵鐘は、「開運の鐘」とも「平和の鐘」とも呼ばれ、
一打50円で撞くことが出来ます。
巳講坂
大鐘楼から萬拝堂前の広場へと下る石段は
「巳講坂(いこうざか)」と呼ばれています。
「巳講」とは学問を究めた僧侶の階位のことで、いまでも主な行事の時、
巳講は石段のほうを上がって大講堂へ向かいます。
また、左側の参道を進んでも大講堂へ行けます。
臥牛像
巳講坂の石段の脇に宗教法人・福田海(ふくでんかい)から奉納された
臥牛像が祀られています。
福田海の開祖・中山通幽(なかやま つうゆう:1862~1936)は、明治維新の
神仏分離や境内地の没収などで、延暦寺が困窮に陥った時に、
根本中堂の不滅の法灯のための種油を、自ら背負って寄進を続けられました。
更に、昭和9年(1934)秋に根本中堂付近の参道に牛の銅像が寄進されたのですが、
戦時供出され、その代わりに石像が安置されました。
福田海は、神道・儒教・仏教・道教を折衷した宗教団体で、
明治41年(1908)に大阪で開宗され、不滅の法灯が分灯されています。
昭和2年(1927)、岡山県吉備中山の有木山・青蓮寺を福田海の聖地とし、
牛の鼻ぐり塚を造り、食肉の犠牲となる動物を供養しています。
登天天満宮
臥牛像の少し上に天満宮があり、「登天天満宮」と称されています。
第13代天台座主・尊意(そんい:866~940)は、菅原道真の仏教学の師とされ、
『北野天神縁起絵巻』には、以下の伝承が残されています。
「ある時、尊意のもとへ道真の霊が現れ、自分を陥れた者の復讐を行うが、
天皇からの命令であっても阻止しないでほしいと頼まれました。
尊意がこれを断ると、霊は差し出されていたザクロの実を口に含み、
種ごと吹き出しました。
種は炎となって燃え上がりましたが、尊意は印を結び水を放ち消し止めました。
尊意が霊を追って鴨川まで来ると、突然、川の水位が上がり始め、
土手を越えて町中に流れ込みました。
尊意が祈ると流れは二つに分かれ、石が現れてその上に道真の霊が立っていました。
尊意と霊が問答した結果、霊は雲の上へ飛び去り、それまで荒れ狂っていた
雷雨がぴたりと止んだ」と伝えています。
護良親王遺跡
根本中堂へと下る坂道の右側に「大塔宮護良親王御遺跡」の石碑があります。
護良親王(もりよししんのう:1308~1335)は、第96代・後醍醐天皇の第三皇子
とされ、通称を「大塔宮(おおとうのみや)」と称しました。
還俗(げんぞく)前は尊雲法親王と称し、6歳の頃に梶井門跡(三千院門跡)に入り、

20歳で天台座主となりました。
元弘元年(1331)に後醍醐天皇が元弘の乱を起こしましたが、鎌倉幕府討幕計画が
露見し、天皇は笠置山へ逃亡しました。
しかし、幕府軍に攻められ、天皇は捕えられて隠岐の島へ流されました。
大塔宮は般若寺から十津川村を経て吉野へと逃亡し、還俗して護良親王と名乗り、
吉野城(金峯山城)を仮の本拠地として挙兵するも敗退し、
高野山へと落ち延びました。

元弘3年(1333)に後醍醐天皇が隠岐の島を脱出して挙兵すると、足利尊氏は
幕府に背いて天皇方につき、鎌倉幕府は滅亡しました。
同年、後醍醐天皇は建武の新政を開始しましたが、護良親王と足利尊氏が対立し、
親王は捕えられて鎌倉へ配流され、建武2年(1335)に殺害されました。
大黒堂
東側の大黒堂は元亀2年(1571)の織田信長による比叡山焼き討ちで焼失し、
寛永年間(1624~1643)に再建され、根本中堂御供所、
食堂としても使用されてきました。
最澄が比叡山へ登った際、この地に大黒天が顕れ、寺の財政を約束したと伝わり、
日本の大黒天信仰の発祥の地とされています。
本尊は豊臣秀吉が開運と福徳を祈願したことから「三面出世大黒天」と呼ばれ、
正面は大黒天、左は毘沙門天、右は弁財天の三面の顔を持っています。
最澄が根本中堂建立の際に、守護神として自ら刻み、
一山の平安と庶民の財福を祈願しました。
摩尼車
大黒堂前の摩尼車は、本来は経文が刻まれ、一回転するとそれを読んだ功徳があると
するものですが、大黒堂前のは「願い事をして車を回すと願いがかなう」と
記されています。
要の地蔵尊
大黒堂と並ぶように地蔵尊の小さな祠があります。
「要の地蔵尊」と呼ばれ、本坂(坂本~東塔)の要の宿(やどり)にあったものが
ここに遷されました。
宿(やどり)とは和労堂(わろうどう)とも言い、急な登山路の休憩所の意味です。
萬拝堂
広場南側の萬拝堂は、平成時代に建立され、人類の平和が祈願されています。
萬拝堂-堂内
堂内には千手千眼観世音菩薩・伝教大師最澄像・天台大師智顗(ちぎ:538~598)像
の他、日本全国の神社仏閣の諸仏諸菩薩諸天善神が勧請され、祀られています。
東側の一隅会館は、無料休憩所で、比叡山全体の立体模型が設置され、
延暦寺を紹介するビデオが放映されています。
根本中堂への下り坂
坂を下り、根本中堂へ向かいます。
根本中堂は現在、2026年完成予定の10年間にわたる大改修が行われ、
覆屋の中に収められています。
根本中堂
延暦寺は、最澄が延暦7年(788)に現在地で、南に経蔵、中央に薬師堂、
北に文殊堂の三堂を建立し、「一乗止観院」と称して寺号を「比叡山寺」
と号したのが始まりとされています。
薬師堂には最澄自ら刻んだ薬師如来像が本尊として安置されていました。
延暦13年(794)、第50代・桓武天皇の行幸を仰ぎ、一乗止観院の落慶法要が
営まれた後に平安京遷都の詔が発せられました。
弘仁14年(823)に第52代・嵯峨天皇より「延暦寺」の寺号を賜り、一乗止観院は
「根本中堂」に改称されました。
根本中堂-変遷
仁和3年(887)、第5代天台座主・智証大師円珍は根本中堂を九間四面の大堂に改修し、
三堂を合わせて一つの堂とし、孫庇(まごひさし)が加えられました。
天元3年(980)、第18代天台座主・慈恵大師良源(元三大師)は谷を埋め立て、
現在と同規模の十一間の大堂に改修し、廻廊や中門が新造されました。

元亀2年(1571)の織田信長による焼き討ちで焼失し、寛永19年(1642)に
第3代将軍・徳川家光の命により現在の根本中堂が再建されました。
寛政10年(1798)に本堂の屋根がとち葺きから銅板葺きに改められ、
昭和30年(1955)の半解体修理を経て、現在本堂の銅板葺きと廻廊のとち葺きの
葺き替え工事などが行われています。
本堂は国宝に、廻廊は国の重要文化財に指定されています。
延暦寺は神仏霊場の第150番札所です。
根本中堂-図
本尊は薬師如来で、寛永19年(1642)の再建時に新たに造立されたもので
秘仏とされ、御前立が安置されています。
その前には千二百年間灯り続けている
「不滅の法灯」が安置されています。
信長の焼き討ちの際には失われましたが、立石寺(りっしゃくじ)の
分灯から彩灯され、現在に引き継がれています。
立石寺は松尾芭蕉の句「閑さや 巖にしみ入る 蝉の声」で有名ですが、
貞観2年(860)に第56代・清和天皇の勅命により、
第3代天台座主・慈覚大師円仁が開山し、不滅の法灯が分灯されました。
大永元年(1521)に立石寺が天童頼長の兵火を受けて焼失した際には、
天文12年(1543)の再建時に延暦寺から再び分灯されました。
根本中堂-天井画
根本中堂の内陣には護摩壇があり、毎日薬師護摩が焚かれています。
天井には「百花の図」が描かれた200枚もの天井板が張られています。
内陣と中陣との境の欄間には紫雲に踊る天人などの彫刻が施されています。

廻廊内の中庭の竹台の北は「筠篠(いんじょう)」と呼ばれ、
国内3700社の神が祀られています。
南は叢篠(そうじょう)」「篆篠(しゅうしょう)」と呼ばれ、
山王七社が祀られています。
また、二つの鎮壇塚には18神が祀られています。
根本中堂-工事
堂内で参拝した後に、工事の模様を見学することが出来ます。
山家学生式
廻廊前の東側に天台法華宗分学生式一首(山家学生式=さんけがくしょうしき)の
碑があります。
「国宝とは何物ぞ、宝とは道心(どうしん)なり。
道心ある人を名づけて国宝と為(な)す。
故(ゆえ)に古人(こじん)言わく、径寸十枚(けいすんじゅうまい)、
是れ国宝にあらず、一隅(いちぐう)を照す、
此(こ)れ則(すなわ)ち国宝なりと。
古哲(こてつ)また云(い)わく、能(よ)く言いて行うこと能(あた)わざるは
国の師なり、能く行いて言うこと能わざるは国の用(ゆう)なり、能く行い能く言うは

国の宝なり。
三品(さんぼん)の内、唯(ただ)言うこと能わず、
行うこと能わざるを国の賊(ぞく)と為す。
乃(すなわ)ち道心あるの仏子(ぶっし)、西には菩薩(ぼさつ)と称し、
東には君子(くんし)と号す。
悪事を己(おのれ)に向(むか)え、好事(こうじ)を他に与え、
己(おのれ)を忘れて他を利するは、慈悲の極みなり。」

伝教大師童形像は昭和12年(1937)の比叡山開創千百五十年を記念して建立されました。
「我れ生まれてよりこのかた、口に麤言(そげん=荒々しい言葉)なく、
笞罰(ちばつ=むちで打つこと)せず、今我か同法(道を同じくする者)
童子を打たずんば、我が大恩となさん、努力せよ、努力せよ。」とあり、
伝教大師の児童に対する心を世に伝えました。
この像は全国小学校児童の一銭醵出金(きょしゅつきん)によって建立されました。

右側には伝教大師像が祀られています。
宮沢賢治歌碑
北へ進むと宮沢賢治の歌碑が建立されています。
「ねがはくは 妙法如來 正遍知 大師のみ旨 成らしめたまへ」
正遍知とは「あまねく正しい智慧のある方」といういみで、
根本中堂の本尊・薬師如来の智慧により、伝教大師の国の平和を願う祈りが
叶えられるようにと詠まれました。
大正10年(1921)4月初めに賢治は、父とともに関西旅行に旅立ち、伝教大師生誕
千百年大法要会が営まれた比叡山に訪れました。
この碑は「関西宮沢賢治の会」の初代会長で、千日回峰行を達成した
葉上照澄大阿闍梨(1903~1989)の発願により建立されました。
賢治の命日である9月21日に、延暦寺によって賢治忌法要が営まれています。
経蔵
経蔵と思いますが、定かではありません。
最澄が一乗止観院を建立した際、経蔵・薬師堂・文殊堂が横一列に並んでいました。
円珍はその三堂を一堂とし、良源がその堂をさらに拡大させて改修した際に
経蔵は移築されています。
星峯稲荷-鳥居
その先に星峯稲荷社の鳥居が建っています。
星峯稲荷
鳥居をくぐり登って行くと星峯稲荷社があります。
本尊は茶枳尼天(だきにてん)で、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)の
衆生を救ってくださる辰狐王菩薩(しんこおうぼさつ)です。
延暦寺が創建された頃に茶枳尼天が白狐(びゃっこ)に姿を変え、
この地、星の峰に出現されて諸人の罪や穢れを祓い、福徳を施したと伝わります。
文殊楼
星峯稲荷社横を登って行った所に文殊楼があります。
文殊楼は延暦寺の山門であり、かっては坂本からの本坂を登り、
最初にくぐる門でした。
第3代天台座主・慈覚大師円仁は、貞観3年(861)に中国・五台山の霊石5つを
周囲に埋めて建立を開始し、貞観8年(866)に五台山の香木を納めた
文殊菩薩像を安置しました。
康保3年(966)に焼失した際は、第18代天台座主・慈恵大師良源が五台山の
文殊菩薩を勧請して再建されました。
現在の文殊楼は、寛文8年(1668)に再建されたもので、
大津市の指定文化財となっています。
根本中堂への石段
根本中堂と20mの高低差があり、根本中堂の屋根と文殊楼へ登ってきた石段の
最上部が同じ高さになっています。
楼内の参拝もでき、急勾配の階段を上ると、本尊の文殊菩薩他多数の仏像が
安置されています。
世界平和の鐘
南側の「世界平和の鐘」は、世界106ヵ国から寄せられたコインやメダルにより
鋳造されました。
国連本部の世界平和の鐘を継承し、戦争の悲惨さ、核兵器廃絶、平和の尊さを
訴えるために平成19年(2007)に寄贈されました。
大書院
下ると大書院があります。
延暦寺の大本坊であり、迎賓館としての役割を果たしています。
比叡山開創1,150年を記念して、もと東京赤坂にあった村井氏の山王荘の一部を
移築して建立されました。
大書院-門
大書院の門
大書院は「特別保存建造物であることから立ち入りを禁止します」と記されています。
延暦寺会館
更に少し下ると、宿坊である延暦寺会館があります。
かってはここに灌頂堂がありました。
見た目にには、宿坊というよりホテルです。

画像はありませんが、延暦寺会館前に厄除不動尊が祀られています。
元は正覚院で祀られていましたが、延暦寺会館が建てられたのに伴い、
宿泊者や参拝者の旅行安全・厄難消除を祈願して現在地に遷されました。
本坂
延暦寺会館の横から坂本へと下る参道があり、これが本坂であると思われますが、
定かではありません。
法然上人碑
下って行くと「法然上人得度御霊場」の石碑が建っています。
法然上人は、長承2年(1133)に美作国久米(現在の岡山県久米郡久米南町)で誕生し、
幼名を「勢至丸」と称しました。
現在その地には、熊谷直実により誕生寺が建立されています。
保延7年(1141)、9歳の時に父が土地争論に関連して殺害され、
母方の叔父の僧侶・観覚に預けられました。
観覚は、勢至丸の能力に気付き、当時の仏教の最高学府であった
延暦寺での勉学を勧めました。
天養2年(1145)に勢至丸は比叡山に登って源光に師事し、久安3年(1147)に
皇円の下で得度し、第48世天台座主・行玄を戒師として受戒しました。
法然堂
下って行った所に金勝院(こんしょういん)法然堂があります。
かって、ここは皇円の住坊であり、当時は功徳院と称されていました。
皇円は、その広い学徳により「肥後阿闍梨」と尊称され、功徳院は後に
「金勝院」と改称されましたが、明治39年(1906)に廃されました。
昭和7年(1932)に楊谷寺の住職で翌年、西山浄土宗総本山・光明寺の第70代管長に
就いた日下俊隆(くさか しゅんりゅう)大僧正が願主となって再建されました。
堂内には法然上人得度の御尊像が安置され、昭和10年(1935)には
浄土宗西山深草派・真宗院が秘蔵していた「法然上人晩年の尊影」と
「法然上人一代絵伝」が安置されました。
蓮如堂
下ってきた坂を登り、延暦寺会館の方へ戻ります。
延暦寺会館の駐車場から奥の車道は通行が禁止されていますが、
その先に蓮如堂があり、通行禁止を破らないと行くことは出来ません。
蓮如堂は、浄土真宗第八祖「蓮如上人」が十八歳の頃、ここで念仏の修行をしたと
されています。
蓮如堂-堂内
堂内
蓮如(1415~1499)は、本願寺第7世・存如の長子として誕生しましたが、
その頃の本願寺は衰退の極みにあり、青蓮院の末寺に過ぎませんでした。
蓮如は17歳の時の永享3年(1431)に中納言・広橋兼郷の猶子となり、
青蓮院で得度しました。
親鸞足跡を尋ねて比叡山に登り、この地で5年間を過ごしたとされていますが、
訪れた信徒の一人が、修行姿の痛ましさに泣いたと伝えられています。
宝徳元年(1449)には父と共に北国で布教していましたが、長禄元年(1457)に
父の死去に伴い本願寺第8代を継ぎました。
当時の本願寺は、青蓮院の一末寺に過ぎず、宗旨について弾圧が加えられるように
なると、蓮如は延暦寺への上納金を拒絶しました。
寛正6年(1465)、 延暦寺は本願寺と蓮如を「仏敵」と定め、同年1月10日に
大谷本願寺を破却しました。
蓮如は近江を転々とした後、文正2年(1467)3月に本願寺を延暦寺西塔の末寺とし、
蓮如の隠居と長男の順如の廃嫡を条件に事態は収束されました。
応仁3年(1469)延暦寺と敵対していた園城寺(三井寺)は順如を庇護し、
大津南別所に顕証寺を建立し、宗祖・親鸞の真影(木像)が安置されました。
文明3年(1471)に蓮如が越前吉崎で、吉崎御坊を建立すると多くの信者が集まり、
文明10年(1478)には山科に移り、坊舎の造営を開始しました。
蓮如の下には浄土真宗他派や他宗からも集結し、浄土真宗宗派の中心寺院としての格
を取り戻して文明15年(1483)8月22日に山科本願寺が落成しました。
蓮如は現在の本願寺教団(本願寺派・大谷派)の礎を築いたことから、
「本願寺中興の祖」と呼ばれています。

画像はありませんが、蓮如堂の西側の山間の窪地に本願堂旧跡の碑が建っています。
伝教大師最澄が最初に比叡山に入って草庵を結び、仏教の研究に没頭された場所と
伝わり、東塔北谷虚空蔵尾(こくぞうお)と称されていました。
最澄は、虚空蔵尾にあった霊木で本尊の薬師如来と西塔釈迦堂の釈迦如来像、
及び浄土院の阿弥陀如来像を一刀三礼して自ら刻んだと伝わります。
但し、現在はその地へ下る参道も無く、行くのは困難です。
総持坊
蓮如堂から車道はその谷を迂回するように南へ進みます。
その東側に総持坊があります。
玄関は閉じられていましたが、玄関の真上に一つ目・一本足の奇妙な僧の額が
掲げれていて、比叡山七不思議伝説の一つとして伝えられています。
この僧とは、慈忍和尚の変身で、真夜中に一眼一足に鐘をぶら下げるという
奇妙な格好をして山中を廻り、怠け者や悪僧を見つけると胸につるした
鐘を鳴らして警告しました。
こうして怠け者や悪僧を次々と下山させたと伝わります。
戒壇院への石段
大講堂まで戻り、阿弥陀堂へと向かうと、途中に戒壇院への石段がありますが、
戒壇院は後で行きます。
阿弥陀堂への石段
参道を進むと52段の石段下に出ます。
人が悟りを開くには52の段階があり、それを一段一段修行を積み重ねて、
 成仏に至ることができるといわれています。
阿弥陀堂
石段を登った正面に阿弥陀堂があります。
阿弥陀堂は昭和12年(1937)に建立された、檀信徒の先祖回向の道場です。
本尊は丈六の阿弥陀如来像で、全国の檀信徒の位牌が祀られています。
阿弥陀堂-鐘楼
鐘楼は昭和58年(1983)に坂本の讃仏堂から移築されました。
東塔
法華総持院東塔は、木造桧造りの重層多宝塔で高さ30m、
昭和55年(1980)に再興されました。
伝教大師最澄は日本を護るため、全国に6ヶ所の宝塔建設を計画され、
その中心の役割を果たすのがこの塔としました。
第3代天台座主・円仁は、中国の長安青龍寺の鎮国道場の形態を模して
この塔を創建し、胎蔵界の五仏を本尊として安置して天台密教の根本道場としました。
度々の焼失でも再建が繰り返されてきましたが、元亀2年(1571)の織田信長による
比叡山焼き討ちで焼失してからは再建されず、約400年振りに
伝教大師出家得度千二百年度讃大法会を祈念して再建されました。
現在の東塔には本尊として胎蔵界の五仏が安置され、正面柱に四菩薩、
両面壁画に妙法蓮華経の四用品、裏面壁画に金剛界五仏が描かれ、
上層に仏舎利、法華経千部が納められています。

背後の廻廊や楼門などは昭和61年(1986)に建立されました。
灌頂堂
東塔の左に灌頂堂(かんじょうどう)がありますが、立ち入りは禁止されています。
法華総持院の中の一堂で、元亀二年織田信長の焼き打ちで焼失しましたが、
昭和59年(1984)に復興された天台密教の伝法道場です。
桓武天皇の勅命により、伝法灌頂結縁灌頂など伝教大師が中国から伝承した秘法が、

僧侶や信者に伝えられています。
僧侶の伝法は毎年九月に、信者のため結縁灌頂は年中適当に執り行われています。
道標
阿弥陀堂から石段を下るとこのような道標が立っています。
戒壇院
西塔の方へ曲がるとすぐに右手に戒壇院があり、参道からの石段を登らずに済みます。
戒壇院は、天台宗の僧侶になるために必要な大乗戒を受ける所で、
比叡山中で最も重要なお堂とされています。
戒壇院-2015
平成27年(2015)参拝時の画像です。
堂内には大乗仏教の戒律を授ける釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)、文殊菩薩、
弥勒菩薩が祀られていますが、現在は工事中でした。
伝教大師は、我が国初の大乗戒壇院の建立に心血を注がれましたが、
勅許が下されたのは大師の没後7日後でした。
初代天台座主・義真(ぎしん:781~833)が天長5年(828)に創建し、
延宝6年(1678)に現在の建物が再建されて、国の重要文化財に指定されています。

西塔へ向かいます。
続く

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