稲荷社
観音寺は小倉神社から円明教寺の方まで戻り、
西へ進んだ先の右側に駐車場への登り口があります。
天王山への登山口から駐車場への分岐点に稲荷大明神が祀られた社殿があります。
薬師堂への石段
稲荷社の北側に石段があります。
石段脇の「不許肉輩入山内」と刻字された石碑は倒れてしまい、
門は閉じられていますが、石段を登ると薬師堂の横、本堂の正面へ出られます。
見張り小屋
観音寺は天王山の東側山麓にあり、JRや阪急の線路が無ければ
この参道からも下の西国街道が見渡せるように思います。
この建物の詳細は不明ですが、見張り小屋のように見えます。
しかしそのための窓もなく、何のための建物か...? 気になります。
仁王門
仁王門の横に駐車場があります。
仁王門は昭和になってから建立されました。
仁王像-右
仁王像-左
仁王像もそれに合わせて造立されたように思われます。
庫裏への石段
仁王門をくぐると石段が二手に分かれ一方は庫裏の方に直進し、
もう一方は途中で曲がって無料休憩所の前に出ます。
休憩所内
無料休憩所には鎮宅霊符神、大弁財天女、毘沙門天王が祀られています。
鎮宅とは、家宅の災禍を祓い消し鎮めるとの義で、下記のような由来があります。
「風水・宅相に精通していた漢の孝文帝が、あるとき孔農県に行幸したとき、
滅茶苦茶凶相の地に、立派な邸宅のあるのを怪しみ、その主人をよんで
尋ねたところ、その昔、災禍打ち続きど貧民となり不幸のどん底にあったとき、
いずこともなく書生二人が現れ、七十二霊符を伝授され、十年にして大富豪となり、
二十年にして子孫栄え、三十年にして天子までが訪ねて来るであろうと預言し、
忽然と消えたという。
ここに孝文帝はこの霊符の法を深く信仰し、天下に伝えた」
お守りやお札の元祖の神で、節分や七夕など星祭りは、
この神の家内安全、商売繁盛のお祭りです。
本堂
本堂
観音寺は山号を妙音山と号する真言宗系単立の寺院で、
通称で「山崎聖天(やまざきしょうてん)」と呼ばれています。
寺伝では昌泰2年(899)に宇多法皇の御願寺として創建されたと伝わります。
第59代・宇多天皇は寛平9年7月3日(897年8月4日)に皇太子の敦仁親王
(後の醍醐天皇)に譲位し、昌泰2年(899)10月24日に出家しました。
東寺で受戒した後、仁和4年(888)に自らが創建した仁和寺に入り、法皇となりました。
高野山、比叡山、熊野三山にしばしば参詣するようになり、昌泰4年(901)正月、
留守中に譲位直前の除目で権大納言に任じた菅原道真に大宰府への左遷が下されました。
昌泰4年が改元され、延喜元年となった12月13日、法皇は東寺で
伝法灌頂を受けて、真言宗の阿闍梨となり、朝廷と真言宗の関係強化や
地位の向上に資することになりました。
病弱であった醍醐天皇に代わって政務を執っていた可能性もあるとみられていましたが、
承平元年7月19日(931年9月3日)に65歳で崩御されました。

後に地中から薬師如来の石像が出現し、「妙音山寛平法皇(=宇田法皇)剏建地
(そうけんち=創建地)」と彫られていたことから山号を「妙音山」としたとされています。
しかし、観音寺は創建後、徐々に衰退し、江戸時代初期になった延宝9年(1681)に、
宮中に出入りしていた摂津勝尾寺の僧・木食以空(もくじきいくう)によって再興されました。
木食とは、肉類,五穀を食べず、木の実や草などを食料として修行することで、
その修行を続ける高僧が木食上人です。
木食以空は、この地にあった聖徳太子作と伝わる十一面千手観世音菩薩を
本尊として中興開山しました。
天和2年(1682)に歓喜天(かんぎてん)が勝尾寺から遷され、鎮守として祀りました。
その際、住友家、鴻池家、三井家などの豪商から寄進があり、
また、第112代・霊元天皇から続けて東山天皇、中御門天皇の帰依を受け、寺は栄えました。
宝永4年(1707)には徳川第五代将軍・綱吉から寺領安堵と
諸役免除の朱印状が与えられました。

観音寺は元治元年7月19日(1864年8月20日)に起こった禁門の変で、
長州藩の義勇隊が境内を占拠し、会津藩の攻撃により全山焼失しました。
事前に避難させた本尊の十一面千手観世音菩薩と歓喜天像は難を逃れました。
明治13年(1880)に廃寺となった島本町の西観音寺から本堂、聖天堂、鐘楼などが
移築されて再興され、明治23年(1890)には三井、住友などの財閥からの支援を受け、
現在の姿に再建されました。

本堂には中央の厨子内に本尊の十一面千手観世音菩薩立像が安置され、
厨子は開扉されています。
左側に不動明王像とそれを囲うように四天王像が安置されています。
灯籠
本堂前の大灯籠は高さが3m余りあり、元禄3年(1690)に伊予の国
(現在の愛媛県)で発見された別子銅山で採掘された銅で鋳造されました。
元禄10年(1697)に京都発祥で当時は大坂を拠点としていた
住友家の三代目・友信によって寄進されました。
友信は岡山県の吉岡銅山や秋田県の阿仁銅山などの経営に乗り出し、
幕府御用の銅山師となって日本一の銅鉱業者へと発展させました。
平成7年(1995)の阪神淡路大震災で一部損傷しましたが、
住友家と住友グループによって修復されました。
歓喜天の鳥居
本堂前の南側に鳥居が建ち、「歓喜天」と記された扁額が掲げられています。
聖天堂-1
本堂の南側の聖天堂のもので、聖天堂の前には礼堂があります。
聖天堂-2
聖天堂と礼堂とは金網で仕切られ、堂内は暗く仏像が安置されているのは見えますが
はっきりとはせず、秘仏の歓喜天像で無いことだけは確かです。

歓喜天はヒンドゥー教のガネーシャ(=群集の長)に起源を持ち、
ヒンズー教最高神の一柱・シヴァ神を父とし、シヴァの軍勢の総帥を務めたとされています。
古代インドでは、もともとは障害を司る神でしたが、やがて障害を除いて
財福をもたらす神として信仰されました。
仏教に帰依し、護法善神となったとして仏教に取り入れられるようになりました。

本尊の歓喜天の像容は頭が象で、首から下は人の姿とされ、男女二躯が
向かい合って抱擁されている陰陽和合の「男女合体神」で、秘仏とされています。
ガネーシャが象の頭を持つ理由には、「シヴァが帰還した際、ガネーシャが
シヴァだと知らずに入室を拒んだのでシヴァが激怒して
ガネーシャの首を切り落とし、投げ捨てました。
シヴァはガネーシャが自分の子と知り、首を探しに出かけたのですが見つからず、
象の首を切り落としてガネーシャの頭として取り付け
復活させた」との説があります。
仏教では「象は瞋恚強力(しんにごうりき)ありと雖(いえど)も、
能(よ)く養育者及び調御者に随(したが)ふ。」され、
歓喜天は帰依した人を裏切らないと信仰されています。

大聖歓喜天使咒法経(だいしょうかんぎてんししゅほうきょう)では、
除病除厄、富貴栄達、恋愛成就、夫婦円満、除災加護の現世利益が説かれています。

山崎聖天の歓喜天像には逸話が残されています。
廃仏毀釈の頃、寺を訪れた役人が歓喜天像に手をかけたところ、
その役人の子が池でおぼれ死んだと伝わります。
また、歓喜天像が黄金でできていると思い込んだ泥棒が、歓喜天像を盗み出し刀傷を付けました。
泥棒は山門で腰を抜かして捕まりましたが、刀傷は今も像の肩に二か所残されているそうです。
裏門
天王山への登山道
聖天堂の南側に裏門があり、裏門から出ると天王山への登山道となっています。
裏門-貼り紙
裏門には張り紙が...
土蔵
聖天堂前の南側にある土蔵は、禁門の変で唯一焼け残りました。
光明殿
光明殿は、仁和寺より移築されたもので、大正13年(1924)までは
浴油堂(よくゆどう)と称され、浴油供が修されていました。
現在では聖天堂で毎年11月10日から一週間、人肌に温められた
ごま油を歓喜天の像に108回注ぐ修法が行われています。
堂内には後水尾、明正、霊元、中御門天皇の位牌と東山天皇の坐像が祀られています。
鐘楼
鐘楼
梵鐘
梵鐘は桂昌院によって奉納され、四方に梵字が刻まれています。
薬師堂
開基薬師堂は、山号由来の開基薬師如来像が祀られています。
地蔵像
休憩所前には地蔵菩薩像が祀られています。
玄関
庫裏に隣接して南側に客殿があり、その玄関だと思われます。
二の鳥居
庫裏から仁王門、更に石段を下ると二の鳥居が建っています。
一の鳥居
車道を横断して石段を下り、阪急とJRのガードをくぐった先に一の鳥居が建っています。
山崎津跡
鳥居は西国街道に面し、西国街道を南に進み、一筋目を左折して東へ進んだ
マンションの玄関前に山崎津跡の説明板が立てられています。
現在の桂川の堤防からは500mくらい離れています。
昭和63年(1988)にマンション建設に先立つ発掘調査で、船着場の遺構が見つかりました。
山崎津は延暦3年(784)、長岡京造営に伴い設置されたと考えられています。

山崎津跡-絵図
絵図では上に描かれている瓦窯から港までの近さが把握でき、
舟を使えば大量の瓦も運べただろうと想像できます。
瓦窯跡
二の鳥居まで戻り、車道を南側へ進むと左側には「桜の広場公園」があり、
南側に隣接して瓦窯跡がありますが、現在は保存整備工事が行われています。
瓦窯跡-絵図
工事前には説明板が立てられ、絵図が掲載されていました。
実際には高槻の瓦窯の図で、大山崎はこれとは少し異なるようです。
大山崎瓦窯跡は、平成16年(2004)の発掘調査で発見され、国の史跡に指定されました。
平安京造営やその後の修理の際に瓦を
供給していた国営の瓦窯だったと推定されています。
蛇姫池
瓦窯跡から南へ進むと右側に蛇姫池があります。
幕末かそれ以前、若い娘がこの池に落ちて亡くなったそうで、
その後近在では不幸な事件が続きました。
蛇姫池-祠-1
村人が祠を建てて祀り、娘の霊を慰めると不幸は止んだと伝わり、
現在も祠が残されていますが、その数は三社に及びます。
禁門の変が起こり、この地でも長州藩と会津藩との戦闘で
この池の付近にも多くの戦死者が出たそうで、
その慰霊のために祠が新たに建てられたのかもしれません。
サギ
サギは池の魚を狙っているのでしょうか?
遠くを見つめて、物思いにふけっているようにも見えます。

駐車場まで戻り宝積寺へ向かいます。
続く

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