大超寺からスマホのナビを頼りに南西方向に進んだ所に三縁寺があります。
三縁寺は山号を「法輪山」と号する浄土宗鎮西派の寺院で、
かっては三条縄手にあり、四軒寺(他に西願寺・高樹院・養福寺)の一軒でした。
昭和54年(1979)に京阪電車の三条駅周辺再開発に伴い、現在地に移転しました。
三縁寺、西願寺、高樹院は岩倉に移転したのですが、
養福寺は八瀬野瀬町に移りました。
山門前には「池田屋事変殉難烈士之墓」の碑が建っています。
池田屋事変は、幕末の元治元年6月5日(1864年7月8日)に三条木屋町の旅館・池田屋に
潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、新選組が襲撃した事件です。
この戦闘及び翌日の新選組と会津・桑名藩らと連携した市中掃討で、
尊王攘夷派志士の逸材7名らの命が失われ、20名余りが捕縛されました。
この逸材7名は吉田稔麿・北添佶摩・宮部鼎蔵・大高又次郎・石川潤次郎・
杉山松助・松田重助の7名で、明治政府からは「殉難七士」と呼ばれました。
尊王攘夷派志士が池田屋に潜伏していたことは、
古高俊太郎(ふるたか しゅんたろう:1829~1864)が新選組の拷問により
自白したとされています。
古高俊太郎は「枡屋喜右衛門」と名乗り、古道具、馬具を扱いながら
諸大名や公家の屋敷に出入りし情報活動と武器の調達を行っていました。
元治元年6月5日(1864年7月8日)に新選組に捕えられ、武器弾薬を押収されたうえ、
過酷な拷問を受けて自白したとされています。
自白した内容は、「長州人らが6月下旬の強風の日を選んで御所に火を放ち
佐幕派公卿の中川宮を幽閉し、京都守護職の松平容保(まつだいら かたもり:
1836~1893)以下佐幕派大名を殺害し、天皇を長州へ連れ去る」とするものでした。
但し、内容の事実関係は確認されておらず、新選組による捏造とする説も
あります。
池田屋事変の当日、その集会に出席を予定した桂小五郎(後に木戸孝允と改名)は
その場にはおらず、『木戸孝允日記』には池田屋の集会は古高俊太郎を救うための
会合だったと記しています。
山門は閉じられていますので、インターホンで墓参の旨を伝え、
通用口から入り、右側の石段を登ります。
登った所に本堂があります。
三縁寺の創建は天正年間(1573~1593)とされていますが、定かではありません。
慈覚大師円仁作と伝わる阿弥陀如来を本尊として、
慶順が開基したと伝えられています。
本堂前には鎮守社と思われる小さな祠があります。
その北側に狸の像がありますが、不謹慎にも境内で飲酒しているようです。
本堂前を通り過ぎ、本堂の南側の坂道を登って行くと墓地があります。
墓地の入口には多数の石仏が祀られていますが、首の無い石仏が多く見られます。
墓地の二列目の石段の最上部に鳥居が建っています。
鳥居をくぐると池田屋事変で犠牲となった
長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士の墓があります。
正面に熊本藩士・宮部鼎蔵(みやべ ていぞう:1820~1864、諱(いみな)=増実)と
同・松田重助(まつだ じゅうすけ:1830~1864、諱=範義)の墓があります。
左側手前に吉田稔麿(よしだ としまろ:1841~1864)、杉山松助(1838~1864、
諱=律義(のりよし))、北添佶磨(きたぞえ きつま:1835~1864、碑では「添」が
「副」と記されています)、望月亀弥太(もちづき きやた/かめやた
1838~1864、諱=義澄)、石川潤次郎(1836~1864、諱=直義)、
廣岡浪秀(ひろおか なみほ:1841~1864、諱=正恭)ら6名の碑が建っています。
その奥に林田藩(現在の姫路市)士・大高又次郎(1822~1864)の墓があります。
右側手前には上松源友胤の墓があり、宮部鼎蔵の弟子とされていますが、
詳細は不明です。
池田屋事変の犠牲者では無かったともされ、「胤(いん)」とは「血すじ」の
意味があり、上松家の墓となっているのかもしれません。
その奥には諱では無く、「宮部鼎蔵・松田重助」と刻まれた碑が建っています。
この事件をきっかけに元治元年7月19日(1864年8月20日)、
長州藩による禁門の変が起こりました。
事変後、志士の遺体は多くの寺が幕府を恐れて引き取りを拒否しました。
当時、旅館業を営み、宮部鼎蔵らも上京の際に宿泊していたとされる「小川亭」の
女主人・小川テイが尽力し、寺へ多額の志納をして三縁寺へ運ばれたと伝わります。
京阪電車の三条南出口に「維新史跡 小川亭跡」の碑が建ち、
かっての三縁寺はその向かいにありました。
また、その後の池田屋は7か月間の営業停止となり、後に廃業しました。
現在跡地で営業されている「海鮮茶屋 池田屋 はなの舞」は、池田屋とは
無関係のようで、その前には「池田屋騒動之址」と刻まれた石碑が建っています。
三縁寺から南下した所に高樹院があります。
高樹院は、山号を「凌雲山」と号する浄土宗の寺院で、三条縄手からは
他寺に先駆け、昭和46年(1971)に現在地へ移転しました。
移転時に萩3,000株が植えられ、「萩の寺」として親しまれたそうですが、
間もなく鹿の食害により萩は全滅しました。
参道の南側は幼稚園で、園児の元気なはしゃぎ声が聞かれます。
庫裡と思われます。
また、華道・都未生流の本拠でもあります。
華道・都未生流は天保6年(1835)に創流され、流祖が
華頂宮尊超法親王(かちょうのみや そんちょう ほっしんのう:1802~1852)の
華道師範であったことから、親王より「都華軒」の称号を賜わり、
歴代家元の華号として現在まで伝わっています。
高樹院は家元の邸宅でした。
背後にネットが張られているのが見えますが、ゴルフ練習場があります。
山門は、三条縄手の創建来の門が移築されました。
山門をくぐった南側に「延命閣」があります。
堂内には延命地蔵尊が祀られています。
山門をくぐった北側に近代的な本堂があります。
本尊は阿弥陀如来です。
グーグルマップでは本堂の位置に三宅八幡城跡と記されています。
左京区八瀬の御蔭山城を本城とした在地士豪の佐竹氏の支城とも推察されていますが、
詳細は不明です。
三宅八幡城は、実際には戦国時代の山城で、本堂東側の山上にありました。
左京区上高野の三宅八幡宮へ向かいます。
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