タグ:岩倉

三縁寺-山門
大超寺からスマホのナビを頼りに南西方向に進んだ所に三縁寺があります。
三縁寺は山号を「法輪山」と号する浄土宗鎮西派の寺院で、
かっては三条縄手にあり、四軒寺(他に西願寺・高樹院・養福寺)の一軒でした。
昭和54年(1979)に京阪電車の三条駅周辺再開発に伴い、現在地に移転しました。
三縁寺、西願寺、高樹院は岩倉に移転したのですが、
養福寺は八瀬野瀬町に移りました。
池田屋事変殉難烈士之墓の碑
山門前には「池田屋事変殉難烈士之墓」の碑が建っています。
池田屋事変は、幕末の元治元年6月5日(1864年7月8日)に三条木屋町の旅館・池田屋に
潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、新選組が襲撃した事件です。
この戦闘及び翌日の新選組と会津・桑名藩らと連携した市中掃討で、
尊王攘夷派志士の逸材7名らの命が失われ、20名余りが捕縛されました。
この逸材7名は吉田稔麿・北添佶摩・宮部鼎蔵・大高又次郎・石川潤次郎・
杉山松助・松田重助の7名で、明治政府からは「殉難七士」と呼ばれました。

尊王攘夷派志士が池田屋に潜伏していたことは、
古高俊太郎(ふるたか しゅんたろう:1829~1864)が新選組の拷問により
自白したとされています。
古高俊太郎は「枡屋喜右衛門」と名乗り、古道具、馬具を扱いながら
諸大名や公家の屋敷に出入りし情報活動と武器の調達を行っていました。
元治元年6月5日(1864年7月8日)に新選組に捕えられ、武器弾薬を押収されたうえ、
過酷な拷問を受けて自白したとされています。

自白した内容は、「長州人らが6月下旬の強風の日を選んで御所に火を放ち
佐幕派公卿の中川宮を幽閉し、京都守護職の松平容保(まつだいら かたもり:
1836~1893)以下佐幕派大名を殺害し、天皇を長州へ連れ去る」とするものでした。
但し、内容の事実関係は確認されておらず、新選組による捏造とする説も
あります。
池田屋事変の当日、その集会に出席を予定した桂小五郎(後に木戸孝允と改名)は
その場にはおらず、『木戸孝允日記』には池田屋の集会は古高俊太郎を救うための
会合だったと記しています。
三縁寺-本堂
山門は閉じられていますので、インターホンで墓参の旨を伝え、
通用口から入り、右側の石段を登ります。

登った所に本堂があります。
三縁寺の創建は天正年間(1573~1593)とされていますが、定かではありません。
慈覚大師円仁作と伝わる阿弥陀如来を本尊として、
慶順が開基したと伝えられています。
三縁寺-鎮守社
本堂前には鎮守社と思われる小さな祠があります。
三縁寺-狸
その北側に狸の像がありますが、不謹慎にも境内で飲酒しているようです。
三縁寺-墓地への参道
本堂前を通り過ぎ、本堂の南側の坂道を登って行くと墓地があります。
三縁寺-墓地の石仏
墓地の入口には多数の石仏が祀られていますが、首の無い石仏が多く見られます。
池田屋事変殉難烈士之墓-正面
墓地の二列目の石段の最上部に鳥居が建っています。
鳥居をくぐると池田屋事変で犠牲となった
長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士の墓があります。
正面に熊本藩士・宮部鼎蔵(みやべ ていぞう:1820~1864、(いみな)=増実)と
同・松田重助(まつだ じゅうすけ:1830~1864、諱=範義)の墓があります。
池田屋事変殉難烈士之墓-左
左側手前に吉田稔麿(よしだ としまろ:1841~1864)、杉山松助(1838~1864、
諱=律義(のりよし))、北添佶磨(きたぞえ きつま:1835~1864、碑では「添」が
「副」と記されています)、望月亀弥太(もちづき きやた/かめやた
1838~1864、諱=義澄)、石川潤次郎(1836~1864、諱=直義)、
廣岡浪秀(ひろおか なみほ:1841~1864、諱=正恭)ら6名の碑が建っています。
その奥に林田藩(現在の姫路市)士・大高又次郎(1822~1864)の墓があります。
池田屋事変殉難烈士之墓-右
右側手前には上松源友胤の墓があり、宮部鼎蔵の弟子とされていますが、
詳細は不明です。
池田屋事変の犠牲者では無かったともされ、「胤(いん)」とは「血すじ」の
意味があり、上松家の墓となっているのかもしれません。
その奥には諱では無く、「宮部鼎蔵・松田重助」と刻まれた碑が建っています。
この事件をきっかけに元治元年7月19日(1864年8月20日)、
長州藩による禁門の変が起こりました。

事変後、志士の遺体は多くの寺が幕府を恐れて引き取りを拒否しました。
当時、旅館業を営み、宮部鼎蔵らも上京の際に宿泊していたとされる「小川亭」の
女主人・小川テイが尽力し、寺へ多額の志納をして三縁寺へ運ばれたと伝わります。
京阪電車の三条南出口に「維新史跡 小川亭跡」の碑が建ち、
かっての三縁寺はその向かいにありました。
また、その後の池田屋は7か月間の営業停止となり、後に廃業しました。
現在跡地で営業されている「海鮮茶屋 池田屋 はなの舞」は、池田屋とは
無関係のようで、その前には「池田屋騒動之址」と刻まれた石碑が建っています。
高樹院-寺号標
三縁寺から南下した所に高樹院があります。
高樹院は、山号を「凌雲山」と号する浄土宗の寺院で、三条縄手からは
他寺に先駆け、昭和46年(1971)に現在地へ移転しました。
移転時に萩3,000株が植えられ、「萩の寺」として親しまれたそうですが、
間もなく鹿の食害により萩は全滅しました。
参道の南側は幼稚園で、園児の元気なはしゃぎ声が聞かれます。
高樹院-庫裡
庫裡と思われます。
また、華道・都未生流の本拠でもあります。
華道・都未生流は天保6年(1835)に創流され、流祖が
華頂宮尊超法親王(かちょうのみや そんちょう ほっしんのう:1802~1852)の
華道師範であったことから、親王より「都華軒」の称号を賜わり、
歴代家元の華号として現在まで伝わっています。
高樹院は家元の邸宅でした。
背後にネットが張られているのが見えますが、ゴルフ練習場があります。
高樹院-山門
山門は、三条縄手の創建来の門が移築されました。
高樹院-延命閣
山門をくぐった南側に「延命閣」があります。
高樹院-延命閣-堂内
堂内には延命地蔵尊が祀られています。
高樹院-本堂
山門をくぐった北側に近代的な本堂があります。
本尊は阿弥陀如来です。
高樹院-三宅八幡城跡
グーグルマップでは本堂の位置に三宅八幡城跡と記されています。
左京区八瀬の御蔭山城を本城とした在地士豪の佐竹氏の支城とも推察されていますが、
詳細は不明です。
三宅八幡城は、実際には戦国時代の山城で、本堂東側の山上にありました。

左京区上高野の三宅八幡宮へ向かいます。

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

山門
妙見神社から南東方向に進んだ所に大超寺があります。
大超寺は山号を「安穏山」と号す浄土宗の寺院で、
京都十二薬師霊場の第8番札所です。
天正19年(1592)、浄福寺の勝誉泰童(たいどう)によって
浄福寺の付近に創建されました。

泰童上人の母が病を患い、念持仏であった薬師如来に祈願したところ、
病気が平癒したので、堂宇を建て、薬師如来を本尊としたとの伝えがあります。
また、第107代・後陽成天皇の母・新上東門院(1553~1620)の帰依を受け、
境内地を賜って創建され、勅願寺になったとも伝わります。
現在でも浄福寺付近には泰童町という町名が残されています。
当地には昭和59年(1984)に移転してきました。
本堂
石段を登り、山門をくぐった正面にコンクリート造りの本堂があります。
三尊石仏
山門をくぐった左側には阿弥陀三尊像でしょうか?
坪庭
納経所へ向かいます。
平日の場合は、予約が必要です!!
本堂へと案内していただきました。
廊下の横には坪庭がありました。

本堂には徳川第8代将軍・吉宗から寄進された豪華な須弥壇があります。
大超寺は江戸時代の享保15年(1730)に焼失し、その後再建されています。
再建の際に、徳川家からの援助があったと想像されます。

本尊は阿弥陀如来立像で、恵心僧都・源信作と伝わります。
京都十二薬師霊場・第8番の札所本尊である鍬形薬師(くわがたやくし)は、
鍬で畑を耕していた時に、掘り出されたとされています。
薬師如来像にはその時の傷が残り、鍬形薬師と呼ばれるようになりました。

三縁寺へ向かいます。
続く

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

社号標
普門寺の大門跡と伝わる場所から南へ進み、
その先の丁字路を左折して東へ進んだ突き当たりに長谷八幡宮がありますが、
社号標は「八幡神社」となっています。
石灯籠-参道
参道脇の愛宕灯籠
朱の鳥居
鳥居は、昭和54年(1979)に破損したため、翌年に修復されました。
鳥居に掲げられた扁額には「八幡宮」と記されています。
拝殿
短い石段を登り、鳥居をくぐった正面に拝殿があり、
その後方に神饌所があります。
本殿
本殿は覆屋の中に納められています。
長谷八幡宮は、平安時代の天安元年(857)に第55代・文徳天皇の第一皇子・
惟喬親王(これたかしんのう:844~897)の請願により創建されたと伝わります。
由緒書きには、「八幡大神並びに惟仁親王(これひとしんのう:850~881)を
勧請して」と記されていますが、惟仁親王は文徳天皇の第四皇子で、
第一皇子が第四皇子を祭神に祀るとは...?疑問に感じます。
しかも、惟喬親王は惟仁親王(後の第56代・清和天皇)に皇位を奪われ、
都を去った人物なので尚更です。

しかし、清和天皇も天安2年(858)に9歳で即位しましたが、幼少のため政治の実権は
外祖父・藤原良房が握っていました。
貞観18年(876)に第一皇子である9歳の貞明親王(第57代・陽成天皇)に譲位し、
元慶3年(879)5月に出家して、丹波国水尾の地で絶食を伴う激しい苦行を行い、
その翌年の元慶4年(881)12月に惟喬親王よりも先に崩御されました。
この事実からすれば納得できるように思えますが、八幡社が創建されたのが
惟仁親王の即位前ですので、やはり疑問が残り、
惟喬親王を祭神とする説もあります。

皇居から鬼門となる艮(うしとら)方向に当たるため、皇城鎮護の神社として
崇敬されていましたが、江戸時代初期の元和年中(1615~24)に、
社殿が大破しました。
これを憂いた第108代・後水尾天皇の中宮・東福門院が、
現在の再興したと伝わります。
石灯籠-本殿裏
本殿の裏側には灯篭が建ち、遥拝所のように見受けられます。
役行者像-1
灯篭の脇から下り、小川を渡ると山肌をくり抜いた中に右に役行者像、
左の小さい方には石仏が祀られています。
役行者像-2
役行者像は大峯修験の登山を行われた記念に祀られているようです。
蔭山神社
本殿の左側(西側)に蔭山神社があります。
蔭山神社は、かって同じ長谷の地に祀られていましたが、
明治12年(1879)に長谷八幡宮の地に遷座されました。
現在も、当社で蔭山神社の例祭が行われています。
神輿庫
蔭山神社の左前方に神輿庫と社務所があります。
10月10日の長谷八幡祭(例祭)では、神輿の巡幸が行われます。
境内社-東側
本殿の右側には、奥のちょっと大きいのは梅宮社と鴨皇社合殿で、蔵王社・疫神社・
春日社・山王社・稲荷社・神明社と続きます。
これらの末社も、長谷の地に祀られていたものを、明治12年(1879)に
当地に遷座されました。
蛭子神社
境内の南側に蛭子神社がありますが、他の社殿から離れているので
独立しているように見受けられます。
蛭子神社-石段
蛭子神社前の石段を下り、南側に出て西願寺へと向かいます。
西願寺-寺号標
西願寺の石標から少し車道を登り、大きくカーブした先に本堂が見えてきます。
石灯籠-本堂-1
西願寺は山号を「曼荼山」、院号を「極楽院」と号する浄土宗の寺院です。
創建は安土桃山時代の慶長元年(1596)で、
元は三条縄手にあり、四軒寺(他に三縁寺・高樹院・養福院)の一軒でした。
昭和49年(1974)、三条大橋東詰にバスターミナルが建設されることになり、
現在地に移転しました。
三縁寺・高樹院は、付近に移転しましたが、養福院は八瀬野瀬町へ移りました。
石灯籠-本堂-2
本堂の正面
2004年、中国の江蘇省蘇州市の寺で、日本の江戸時代中期に作られたと
見られる梵鐘が確認されました。
この梵鐘には、「宝暦四年」「山城国三条縄手西願寺」「洛陽三条住」
「国松庄兵衛」などの文字が刻まれています。
宝暦4年(1754)に、京都三条にある西願寺の依頼で、同じ京都三条の
国松庄兵衛が鋳造したと解されます。

どのような経過で中国に渡ったのか詳細は不明ですが、
西願寺の歴史が金属の戦時供出で失われることも無く残されていたことに
感慨を覚えます。
できることならば、日本に帰ってきてこの境内で見ることができれば...
と思いました。
本堂は、新しく鉄筋コンクリート造りで
本尊の阿弥陀如来像は、聖徳太子の作と伝わります。
石灯籠-観音堂
観音堂は木造で、像高60cmの聖観音菩薩立像が安置されています。
朝日観音とも呼ばれ、菅原道真の念持仏であったと伝わり、
かって北野天満宮に安置されていました。
明治の神仏分離令により、当寺に遷されたそうです。
毎年8月1日に開帳されているようです。
西願寺-書院
書院
西願寺-阿弥陀石仏
観音堂の南側には阿弥陀如来の石仏が祀られています。
西願寺-山門
石仏の先に山門があり、こちらが表側のようです。
西願寺-石段
山門から石段を下った所です。
鳥居
駐車場まで戻り、西へ進むと公園前に出て、左折して南下すると
長谷八幡宮の一の鳥居が建っています。
妙見神社-鳥居
その先の二つ目の四つ角を左折すると、道は東から南へとカーブします。
南へ進んだ先の東側に妙見神社への参道があります。
妙見宮道碑
鳥居をくぐると石段ですが、その南側に「妙見宮道」の碑が建っていましたので、
そちらを進むことにしました。
妙見神社-消防分団
明徳消防分団花園班詰所の建物があります。
妙見神社-神明社
その先に神明社があります。
妙見神社-井戸
しかし、その先は行き止まりで、鳥居からの石段へと戻ります。
消防分団の建物の裏側には井戸が残され、
かっては手水舎として使われていたように思えます。
妙見神社-石段
石段を登ります。
妙見神社-記念碑
登った所に「昭和御大典下賜建造物建設 記念碑」が建っています。
昭和3年(1928)11月10日に昭和天皇が即位され、その御大典で使われた建造物が
下賜され、現在の社殿が再建されたと思われます。
妙見神社-鳥居-上
石段はここで北向きに変わり、正面にはまだ新しい鳥居が建っています。
妙見神社-岩倉家揺拝所
鳥居をくぐると「贈 太政大臣岩倉公神霊揺拝所」の碑が建っています。
岩倉具視は明治16年(1883)に京都御所保存計画のため京都にいましたが、
咽頭癌が悪化し、船で東京へ戻され、
第122代・明治天皇から数度の見舞いを受けました。
その最後の見舞が明治16年(1883)7月19日で、その翌日に59歳で生涯を閉じました。
7月25日に国葬が営まれ、東京品川の海晏寺(かいあんじ)に葬られました。
7月23日に太政大臣、明治18年(1885)7月20日に正一位が贈られました。
妙見神社-本殿
社殿には隕石と伝わる石が祀られているそうです。
妙見信仰は、中国で道教の北極星・北斗七星信仰が
仏教と習合して日本に伝来しました。
道教に由来する古代中国の思想では、北極星(北辰)は天帝(天皇大帝)と
見なされ、「優れた視力」と意味する「妙見菩薩」と称されるようになりました。
日本に伝わると軍神として崇敬されるようになり、鎌倉時代には千葉氏などが
一族の守り神としていました。
千葉氏が日蓮宗の中山門流の檀越であった関係で
妙見菩薩は日蓮宗寺院に祀られることが多くなりました。
また、妙見信仰は陰陽道にも取り入れられ、鎮宅霊符神とも習合しました。
明治の神仏分離令により、神社では天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を
祭神とするようになりました。
天之御中主神は、天地開闢の時に最初に現れた神で、
天地万物を司る最高位の神とされています。
妙見神社-眺望-南西
妙見神社は高台にあり、南西方向には京都国際会議場が望めます。
妙見神社-眺望-北
北西方向は山際まで宅地開発され、びっしりと家屋が建ち並んでいます。

大超寺へ向かいます。
続く

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

是心寺-山門
大雲寺から南へバス道(府道108号線)まで進み、バス道を東へ進んだ先の丁字路を
左折して北へ進みます。
その先の二筋目を東へ入ると突き当たり、左へ曲がった所に是心寺があります。
是心寺は山号を「小倉山」と号する臨済宗・相国寺派で、
相国寺の塔頭・慈照院の末寺として創建されました。
山号の「小倉山」は寺の背後にある山の名で、
近江から移り住んだ山本氏が築いた小倉山城がありました。
天文20年(1551)、三好長慶勢が岩倉に攻め入り、小倉山城は焼失しました。
明治19年(1886)に、岩倉村に在した相国寺塔頭・慈照院の末寺7ヶ寺の内
5ヶ寺を合併して是心寺が再建されました。
是心寺-十王堂
山門前の十王堂は、かって十王堂橋の畔にありましたが、
明治10年(1877)に現在地に移築されました。
堂内には、閻魔大王を中心に十三像が祀られ、右側に地蔵菩薩の大小像、
左側に千手観音像と大小の諸仏、大黒天像が安置されています。
この大黒天像は、慈照院の大黒天と同じいわれの二体の内の一体とされています。
十王堂に隣接して地蔵堂があります。
来迎院-山門
是心寺の北側に来迎院があります。
来迎院は山号を「引接山」と号する浄土宗の寺院です。
来迎院-本堂
来迎院の玄関前には観音像が建ち、像も建物もまだ新しいように見受けられます。
長源寺-寺号標
来迎院から北へ進み、その先で右折して東に進んだ先の
バス通りとの角に長源寺があります。
長源寺は山号を「朗詠山」と号する浄土宗の寺院です。
知恩院の末寺で、知恩院を総本山とする浄土宗鎮西派に属します。
室町時代の寛正3年(1463)に、岩倉の長谷上ノ町に創建されたと伝わります。

江戸時代の寛文12年(1672)に浄土宗の僧・真悦によって再興され、
真悦は中興の祖となりました。
明治5年(1872)に長谷の地にあった5ヶ寺が合併され、
その1ヶ寺である地蔵院の地に移りました。
昭和38年(1963)に現在地に移転し、現在の本堂・庫裡は
明徳小学校の講堂を解体した建材が使用されました。

長源寺の本尊は、江戸時代作の阿弥陀如来立像で、その他に廃寺となった
5ヶ寺の本尊が安置されています。
恵尊寺の本尊であった、平安時代後期作の薬師如来立像は、
昭和8年(1933)に国宝に指定されましたが現在は重要文化財に指定されています。

常春庵(解脱寺を含む)の本尊であった、十一面観世音菩薩立像は、
慈覚大師の作で平安時代の公卿で歌人の藤原公任(ふじわらのきんとう)の
念持仏であったと伝わります。

その他、地蔵院の本尊であった、江戸時代作の地蔵菩薩坐像、
妙源庵の本尊であった、江戸時代作の阿弥陀如来立像、
無縁堂の本尊であった、江戸時代作の阿弥陀如来立像などが安置されています。
長源寺-鐘楼
鐘楼と十三重石塔。
長源寺-観音像
参道には観音菩薩の石像が安置され、その石台には「大悲閣」と刻まれています。
「大悲」とは慈悲に由来し、観音菩薩の心が表されています。
朗詠谷
飛騨池へ向かいますが、道が複雑でスマホのナビを利用しました。
林道へ入った池の手前に「和漢朗詠集の道
朗詠谷 御所谷とも云う」
背面には「谷風に なれすといかゝ おもふらん 心ははやく すみにしものを」
と刻まれた石碑が建っています。
藤原公任(966~1041)が詠まれたもので、晩年この地で隠棲しました。

藤原公任は、歌集や歌論書、有職故実書などを著し、『和漢朗詠集』や三十六歌仙の
元となった『三十六人撰』の選者にもなりました。
代表作は小倉百人一首(55番)
「滝の音は たえて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ」です。
この谷で詠まれたのかもしれません。
また、寛弘6年(1009)には権大納言に昇進しましたが、治安3年(1023)に次女、
翌年の治安4年(1024)に長女を亡くし、万寿3年(1026)に解脱寺で出家しました。
出家後、この地で山荘を営んで隠棲したことから
「朗詠谷」と呼ばれるようになりました。
瓢箪崩山の道標
標高532mの瓢箪崩山(ひょうたんくずれやま)の登山道となっているようです。
飛騨池
その先に飛騨池があります。
池はフェンスで囲われ、水鳥が羽を休める静かな溜池ですが、
魚影は確認できませんでした。
熊出没注意
フェンスには「熊出没注意」の注意書きが取り付けられています。
令和元年(2019)4月7日に目撃されたようです。
聖護院廟所-1
池から更に山中へ進むと「聖護院門跡 長谷廟所」があります。
聖護院廟所-2
かって、この地に常光院があったと伝わります。
智証大師円珍(814~891)の後を継いだ常光院の
増誉大僧正(ぞうよだいそうじょう:1032~1116)は、寛治4年(1090)に
白河上皇の熊野参詣の先達を務めて最初の熊野三山検校に任じられました。
また、先達を務めた功績により、岡崎聖護院町で寺を賜り、「聖体護持」の2字から、
聖護院」とされました。
聖護院廟所-3
廟所は元は長谷上ノ町の入口付近にあったそうですが、
平成25年(2013)に現在地へ遷されました。
聖護院廟所-4
奥の五輪塔が増誉大僧正の墓と思われます。
解脱寺跡への通路
飛騨池から南西方向へ進み、二つ目の四つ角で左折して南へ進み、
その先の三叉路を右折して東へ進んだ奥に解脱寺の閼伽井跡があります。
道路の突き当りは民家の敷地のように見えますが、その奥に石碑が建っています。
解脱寺跡-閼伽井跡碑
解脱寺は平安時代に、第64代・円融天皇の女御・藤原詮子(ふじわらのせんし)が
建立しました。
藤原詮子は、院号を東三条院と号し、居住地であった中京区押小路通釜座西北角には
東三条殿跡の石碑が残されています。
平安時代の中期に解脱寺に移った僧・観修が、境内に閼伽井を掘りました。
解脱寺閼伽井之碑」は、江戸時代末期の元治元年(1864)に、
観修の功績を偲んで聖護院門跡・雄仁入道親王によって建立されました。
解脱寺跡-閼伽井跡
閼伽井跡
解脱寺跡-付近の湧水
閼伽井跡付近では今も清水が湧き出ています。
解脱寺跡-瓦
解脱寺跡の物かは不明ですが、周囲には瓦のかけらが見られます。
また、この周辺には山本氏が築いた小倉山城の支城である長谷城がありました。
戦国時代(1467~1590)末期に築城されたそうです。

解脱寺跡の西側に普門寺があったと推定されています。
その南側にグーグルマップでは大門跡と伝わる場所が示されています。
康保元年(964)以前に大雲寺を創建した藤原文範(909~996)が、
子の明肇のために創建したと考えられています。
普門寺の北側に聖護院山荘があったそうで、
その山荘が常光院跡だったのかもしれません。

長谷八幡宮(はせはちまんぐう)へ向かいます。
続く

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

岩倉陵-1
石座神社の神輿庫と神饌所の間を通り抜け、右側に出て石段を登った所に
「第63代・冷泉天皇皇后・昌子内親王」の岩倉陵があります。
この地は、昌子内親王(しょうし/まさこないしんのう:950~1000)が
平安時代の永観3年(985)に創建した観音院の跡であり、
崩御後に観音院に葬られました。
岩倉陵-2
昌子内親王は、第61代・朱雀天皇第一皇女で、仏教に深く帰依し、
慎みと優しさがあり、后妃としての徳を持つ人物とされました。
昌子内親王の御所には越中守・平保衡女(たいらのやすひらのむすめ)と
その娘の和泉式部が仕えており、また晩年には歌人・藤原為頼(紫式部の伯父)が
太皇太后宮大進(たいこうたいごうぐのだいじん)を務めました。
石碑
岩倉陵から北山病院と介護老人施設の間の通路を進みますが、
北側の介護老人施設の前には大雲寺の名残と思われる石碑も見られます。
不動の滝
西へ進んだ突き当りに不動の滝と妙見の滝があります。
不動明王
不動の滝の上部には不動明王、その背後に観音菩薩が祀られています。
不動の滝は、古来より大雲寺で心の病がよくなるよう加持祈祷を受けるために
訪れた人たちの垢離場(こりば)だったそうで、
滝に打たれると本復すると伝わります。
現在の北山病院は、彼らの滞在を引受けた籠屋(こもりや・後の保養所)の
一つが発展したものです。
妙見菩薩
妙見の滝の上部に祀られている妙見菩薩は「朝日妙見」と称され、
かっては背後の山の中腹に祀られ、洛陽十二妙見霊場の筆頭でした。
洛陽十二妙見は、開運や厄除けを祈願して江戸時代から庶民の間で栄えたのですが、
その後衰退したため、現在地に遷されたと思われます。
妙見の滝は、妙見信仰の滝行場でもありました。
閼伽井
不動の滝の北側に閼伽井堂があります。
近くの説明板によると、この閼伽井には二つの伝説があるそうです。
一つは、その昔、智弁僧正(918~991)が霊水を求めて密教の秘法を
修めたという伝説です。
また、もう一つの伝説は、文慶上人(965~1046)の夢に
跋難陀龍王(ばつなんだりゅうおう)が現れて、「此の地に名水有り、
汝に与うべし」とお告げがあり、左の袂をもって大地をさすると
たちまち霊水が湧き出したという故事が残されています。

干ばつにも降雨にも増減しない「不増不減の水」と称され、
古来より霊水として崇められ、心の病や眼の病に霊験あらたかで、
平安時代から今日まで信仰されているそうです。
不動の滝近くの井戸
また、不動の滝の脇にも井戸が残されています。
閼伽井裏の石仏
閼伽井堂の裏側には、鎌倉時代の作とされる石仏が残されています。
智弁僧正の墓への石段
奥へ入ると右側に石段があります。
智弁僧正の墓
石段を登ると墓らしきものがありますが、詳細は不明です。
余慶(よけい:919~991)は、諡号(しごう)を「智弁」と号し、
大雲寺の観音院に因み「観音院僧正」とも称されました。
墓所は大雲寺にあるとのことですので、これがそうなのかもしれません。
天元2年(979)に園城寺長吏となり、その門流である寺門派を発展させました。
永祚元年(989)には第20代・天台座主に就きましたが、
山門派の反対にあい3ヶ月で辞任し、同年に権僧正に任じられました。
寺門派と山門派の対立は激しくなり、正暦4年(993)に寺門派は
比叡山を下り園城寺に入りました。
実相院宮の墓-1
石段を下り、更に奥へと進むと実相院宮の墓地があります。
実相院宮の墓-2
第111代・後西天皇の皇子・実相院宮義延親王や第112代・霊元天皇の養子となった
実相院宮義周親王など3基1塔が宮内庁から治定されています。
三面石仏
石座神社の方へ戻り、神社前を東へ進むと道路沿いに鎌倉時代作で、
像高1.9mの三面石仏が祀られています。
阿弥陀如来坐像と脇侍として右に十一面観音立像、左に地蔵菩薩立像が
彫られています。
万里小路藤房髪塔-1
東に隣接して「万里小路中納言藤房(までのこうじちゅうなごんふじふさ)卿髪塔」
があります。
万里小路藤房髪塔-2
宝篋印塔は、鎌倉時代後期から南北朝時代作とみられています。
万里小路藤房(1296~不詳)は、鎌倉時代末から南北朝時代にかけての公卿で、
第96代及び南朝初代・後醍醐天皇の側近として倒幕運動に参画しました。
しかし、幕府軍に敗れ常陸国に下ることになりました。
鎌倉幕府滅亡後の元弘3年/正慶2年(1333)6月に復官を果たし、
建武政権では要職を担いましたが、政権に失望して翌年に岩倉で出家し、
岩倉に隠棲したとも、相国寺に住したと伝わる他、各地に伝承が散見されます。
江戸時代の儒学者・安東省菴(あんどうせいあん)によって、
平重盛楠木正成とともに日本三忠臣の一人に数えられています。
大雲寺-本堂
その先の北側に大雲寺があります。
大雲寺の旧寺地は、新しく建った老人介護施設の辺りで、
「昌子内親王 岩倉陵」も境内に含まれ観音院がありました。
昭和の法難(裁判沙汰になるような金銭トラブル?)の末に、
昭和60年(1985)、現在地に移転しました。
昭和の法難では、寛永18年(1461)建立の本堂や経蔵、鐘楼、庫裏、
鬼子母神堂などが失われて更地となり、寺宝・秘仏の全てが散逸しました。
平成10年(1998)、現住職により昭和の法難に散逸した寺宝178点全てを
大雲寺に取り戻しました。

縁起によれば、天禄2年(971)日野中納言・藤原文範真覚を開山として
創建したのに始まると伝えられ、園城寺の別院でした。
第64代・円融天皇が比叡山延暦寺講堂落慶法要の際、
当山に霊雲を眺められ文範を視察に遣わしたとも伝わります。
文範は紫式部の曽祖父(式部の母の祖父)にあたります。
真覚は藤原敦忠の子で、俗名を藤原佐理といい、第62代・村上天皇に
近侍していたのですが、天皇没後に比叡山で出家しました。

紫式部が著した『源氏物語』「若紫」に登場する北山の「なにがし寺」の
候補地として、鞍馬寺と共に大雲寺も挙げられています。

大雲寺の本尊・十一面観音は、第45代・聖武天皇の姿を写した行基作の一木作りで、
内裏に伝来した像を、真覚の祖父にあたる藤原時平が下賜されたものと伝わります。
現在は秘仏となっています。

天元4年(981)、寺門派(園城寺)の僧・余慶は
一門の僧数百人を連れて大雲寺へ移り、大雲寺は寺門派の拠点寺となりました。
山門派(延暦寺)と対立し、大雲寺はたびたび兵火に見舞われ、
焼失を繰り返しました。
この頃の大雲寺は、七堂伽藍、四十九院、僧兵千人を有する大寺院でしたが、
保延2年(1136)には当時残っていた伽藍が全焼しました。
また、永観3年(985)、第63代・冷泉天皇皇后・昌子内親王は、
大雲寺の境内に余慶を開山として観音院を創建したのですが、
保延2年(1136)に焼失し、その後再建されることはありませんでした。

大雲寺はその後、再建されましたが、応仁・文明の乱でも焼失し、
元亀2年(1571)に織田信長の比叡山焼き討ちの際にも焼失しました。
江戸時代に入り寛永年間(1624~1644)に第108代・後水尾天皇の後援を得て、
実相院門跡・義尊により本堂等が再建されました。
大雲寺旧蔵の梵鐘(国宝)は、天安2年(858)の銘があり、
もと比叡山西塔に伝来したとされ、現在は佐川美術館に所蔵されています。
大雲寺-石仏
参道には地蔵尊像などが祀られています。
大雲寺-閼伽井
境内の南東方向に閼伽井堂があります。
大雲寺-閼伽井-堂内
堂内には双龍大権現が祀られています。

是心寺へ向かいます。
続く

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

↑このページのトップヘ