堰
承和年間(834~847)、法輪寺を中興した道昌は勅願により大堰川(おおいがわ)を
修築し、現在の渡月橋より上流約100mに橋を架けました。
欄干-大堰川
大堰川とは渡月橋の上流から松尾の辺りを指し、それより上流は「保津川」、
下流は「桂川」と呼ばれています。

この地を開拓した秦氏により、洪水対策や農業用水の確保に葛野大堰(かずのおおい)と
下嵯峨から松尾にかけての東岸に「罧原堤(ふしはらづつみ)」が築かれ
「大堰川」と呼ばれるようになりました。
橋は「法輪寺橋」と呼ばれ、交通の便が開かれると共に、
下流域の荒野に河水を引き、田畑を開墾しました。
後に橋を見た亀山上皇(1274~1287)は、「くまなき月の渡るに似たり」として
「渡月橋」と命名されました。
渡月橋
江戸時代初期に角倉了以(すみのくらりょうい)により保津峡改修が行われ、
現在の位置に渡月橋が架けられたとされています。
欄干-渡月橋
現在の橋は昭和9年(1934)に架けられ、中ノ島公園から桂川右岸の
短い橋は「渡月小橋」と呼ばれています。
琴きき橋の碑
渡月橋北詰に「琴きき橋跡」の石碑が建っています。
小督局(こごうのつぼね)は美貌の持ち主で琴の名手でした。
第80代・高倉天皇は小督局を寵愛したことから、天皇の中宮・徳子の父・平清盛の
怒りにふれ、小督局は密かに宮中を去り、嵯峨野に身を隠しました。
嘆き悲しんだ天皇は、腹心の源仲国に小督局を捜すように命じました。
仲国が、現在は嵐山頓宮前に移されている「琴聴橋」とも「駒留橋」称された橋付近で
琴の音を聞き、小督局を捜し出したことが、この碑の由来となっています。
碑の側面には「一筋に 雲ゐを恋ふる 琴の音に ひかれて来にけん 望月の駒」と
刻まれています。
琴きき橋
渡月橋北詰の上流、右側(北側)に車折神社(くるまざきじんじゃ)の嵐山頓宮があります。
神社前には「琴きき橋」が残されています。
「琴聴橋」はかって、渡月橋北詰にありましたが、
道路の拡張に伴い橋は現在地に移されました。
かっての橋は木造で、明治13年(1880)に幅・長さとも3mの石橋に架け替えられ、
欄干にはその旨が刻まれています。
嵐山頓宮
毎年5月の第3日曜日に大堰川で行われる三船祭は、車折神社の例祭で平安時代の
舟遊びが再現されますが、その際にこの頓宮で神事が行われるようです。
三船祭は昌泰元年(898)に宇多上皇が嵐山へ御幸した際、大堰川で舟遊びを楽しんだ
ことに始まり、その後第72代・白河天皇(在位:1073~1087)が、和歌・漢詩・奏楽に
長じたもの3隻に乗せ、遊びをされたことが「三船祭」の名の由来となりました。
昭和御大典を記念して昭和3年(1928)から始められました。
小督塚
嵐山頓宮から上流へ進み、次の丁字路を右折した先に小督塚があります。
小督局が隠れ住んでいた住居跡とされています。
小督局はこの地で「想夫恋(そうぶれん)」の曲を琴で奏でていた際に、源仲国が
その音の方へ向かい、得意の笛で調べを合わせたとされています。
源仲国から高倉天皇の真意が伝えられ、小督局は宮中に戻り、ひっそりと逢瀬を重ね、
治承元年(1177)に範子内親王が誕生しました。
平清盛の知るところとなり、小督局は出家させられました。
治承5年1月14日(1181年1月30日)に天皇が崩御され、清閑寺で葬られると、
その付近に移り、天皇の菩提を弔ったとされています。
宝巌院-拝観入口
拝観入口
大堰川畔まで戻り、上流へと進むと突き当りとなって右に進みます。
左側(西側)に天龍寺塔頭の宝巌院があります。
宝巌院は春と秋に特別公開され、それ以外は非公開です。
春の特別公開は3月19日~6月30日の予定でしたが、4月13日~5月6日までの
期間中は新型コロナの影響で休止されていました。
宝巌院-山門
宝巌院は寛正2年(1461)に室町幕府の管領・細川頼之の寄進により、夢窓国師から
三世の法孫にあたる聖仲永光禅師を開山に迎え、現在の上京区辺りに創建されました。
応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失し、天正年間(1573~1585)に豊臣秀吉により
再建され、その後は徳川幕府により幕末まで外護されました。
宝巌院-3
その後の変遷は不明ですが、昭和47年(1972)に天龍寺塔頭・弘源寺境内に移転し、
平成14年(2002)に現在地で再興されました。
羅漢像-1
羅漢像-2
羅漢像-3
宝巌院の向かい側には、多数の羅漢像が祀られ、「嵐山羅漢」と称されています。

天龍寺へ向かいます。
続く