兒神社-鳥居
「大覚寺門前」の信号まで戻り、府道29号線を東へ進んだ所に広沢池があり、
その手前に兒神社(ちごじんじゃ)があります。
兒神社の創建やその後の変遷は不詳ですが、寛朝大僧正の侍童が祀られています。
寛朝は延喜16年(916)に宇多天皇の皇子・敦実親王(あつみしんのう)の
子として誕生しました。
延長4年(926)に宇多天皇が創建した仁和寺で出家し、寛和2年(986)に
真言宗では初めて、日本では三番目に大僧正に任命されました。
永祚元年(989)に第64代・円融天皇の命により遍照寺を建立し、
天慶2年(940)に平将門が乱を起こすと、関東に下向し祈祷をしました。
寛朝は神護寺の護摩堂に安置されていた空海作の不動明王像を奉じて
総国(ふさのくに=現在の千葉県が主たる地域)へ下り、不動護摩供を修しました。
将門は戦死し、寛朝が帰京しようとしても不動明王像が動こうとしなかったため、
寛朝を開山として不動明王を本尊とする成田山新勝寺が創建されました。
長徳4年(998)に寛朝大僧正が入滅された際、遍照寺山腹の老松から
龍が昇天していくのが見えたと伝わります。
残された兒は嘆き悲しみ、大僧正の後を追って広沢池に身を沈めました。
近在の人々はこの兒を哀れみ、慰霊のために社を創建し、
「兒神社」と称されるようになりました。
兒神社-手水舎
手水舎には御神木が再利用されて花が生けられています。
兒神社-石椅子
石椅子は、寛朝大僧正が広沢池畔で座禅を組み、読経している際に、
侍童が傍らで座っていたと伝わり、神社に参拝し、
この石に座って願えば叶うとの伝承が残されています。
安産・長命・縁結びの御利益があるとされています。
兒神社-本殿
本殿
兒神社-第二のご神体
かっての本殿の跡地には、第二のご神体とされる「さざれ石」が祀られています。
千代の古道
兒神社の西側から西北に進む小路は「千代の古道(ふるみち)」と呼ばれ、
その道標が建っています。
昭和55年(1980)に梅宮大社から広沢池、大覚寺へ至る府道に
京都西ロータリークラブによりこれらの道標が建てられました。
嵯峨天皇が御所から離宮・嵯峨院(後の大覚寺)へ行幸された道とも、
貴族が京中から嵯峨野への遊行の際に通った道ともされています。
石碑にも歌が刻まれ、藤原定家など多くの歌人に詠まれました。
広沢池
広沢池まで戻ります。
池の周囲は約1.3kmで、池の付近は歴史的風土特別保存地区の指定を受け、
往古の姿が留められています。
永祚元年(989)に寛朝が遍照寺を創建する際、
本堂の南の庭池として造営したと伝わります。
池は「遍照寺池」、池の北側の山は「遍照寺山」と呼ばれ、
池の周囲に観音堂・月見堂・釣殿・潜龍亭などが建立されました。
第62代・村上天皇の第七皇子・具平親王(ともひら しんのう:964~1009)は、
寛朝から月見に招かれ、妾の大顔を伴い遍照寺へ訪れましたが、
大顔が月見の最中に池畔で急死しました。
紫式部はこれを題材に『源氏物語』第4帖「夕顔」を記したとされています。
古墳
一方で池の北側に秦氏一族が築造した嵯峨七つ塚古墳群などが残され、
嵯峨野一帯を開墾した秦氏が溜池として造ったとの説もあります。

寛朝大僧正が入滅後は寺は次第に衰微し、
鎌倉時代に第91代・後宇多天皇により復興されました。
応仁・文明の乱(1467~1477)の兵火で、遍照寺は灰燼に帰し、
その後荒廃して現在地で再建されることはありませんでした。
昭和30年(1955)に北嵯峨一帯の農業用水不足を解消するため、
清滝川の水をトンネルで導く嵯峨用水が完成し、広沢の池にも水が引かれました。
遍照寺山
遍照寺山(標高231m)はかっては「朝原山」と呼ばれ、
秦氏の支族は山の名から「朝原」を姓にしたとも伝わります。
また、優美な姿から「嵯峨富士」とも称されています。
観音寺島-への橋
池の西側に中島があり、かっては金色の観世音菩薩が祀られていたことから
「観音島」と呼ばれていました。
しかし、島は寛永年代(1624~1645)には消失していました。
明治時代(1868~1912)の中頃に、
往時を偲んだ地元の有志らにより島が復元されました。
観音寺島-千手観音
島には鳴滝音戸山(おんどやま=現在の宇多野病院の裏にある山)の山上にあった
五智山蓮華寺から遷された千手観音の石仏が祀られています。
江戸の豪商であった樋口平太夫家次が出家して常信と号し、寛永18年(1641)に
百数十年間荒廃していた蓮花寺を再興しました。
この観音像は、再建時に木喰僧・坦称上人に依頼して刻ませたものです。
観音寺島-弁財天
島の先端に小島があり、壹美白(いちびはく)弁財天社があります。
遍照寺-山門
広沢池から南へ進んだ所に遍照寺があります。
遍照寺は山号を広沢山と号する真言宗御室派の準別格本山です。
永祚元年(989)に寛朝大僧正によって創建されましたが、
長徳4年(998)に僧正が入滅されてからは次第に衰微しました。
その後、元亨元年(1321)に、第91代・後宇多天皇の御願により復興されましたが、
応仁・文明の乱(1467~1477)の兵火をうけて焼失し、廃墟と化しました。
赤不動明王と十一面観音は奇跡的に難を逃れ、寛永年間(1624~1645)に
覚深入道親王(かくじんにゅうどうしんのう)の内意により
現在地にあった草堂に遷されました。
覚深入道親王は第107代・後陽成天皇の第1皇子で、豊臣秀吉の後押しを受け
次期天皇即位を前提に親王宣下を受けました。
しかし、秀吉没後、豊臣政権色が強い親王は徳川家康により廃され、
親王は仁和寺に入り出家しました。
覚深入道親王は、応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失した
伽藍の再建に尽力し、仁和寺第21世門跡となりました。

遍照寺は文政13年(1830)に舜乗律師(しゅんじょうりっし)により復興され、
現在の寺観が整えられました。
遍照寺-広沢派の碑
山門をくぐると「真言宗広沢派根元遍照寺」の碑が建っています。
遍照寺は平安時代中期には、仁和寺を中心とする
広沢流の根本道場として名声を高めました。
真言密教を学んでいくうえで、事相(じそう)と
教相(きょうそう)が重要視されています。
事相とは、真言密教を実践する方法、すなわち修法の作法(灌頂・護摩・観法・
印契・真言などの行法)を指し、教相とは真言密教の理論です。
教相の研究が盛んになると益信(やくしん:827~906)に始まる広沢流と
聖宝(しょうぼう:832~909)を祖とする小野流に分かれました。
仁和4年(888)に仁和寺を創建した第59代・宇多天皇は、昌泰2年(899)に益信を
師として受戒・出家し、益信の後継者となると仁和寺が広沢流の中心となりました。
しかし、両派はそれぞれ六流に分かれて、「野沢十二流(やたくじゅうにりゅう)」とも
「根本十二流」とも称されました。
更には三十六流になり、やがては100余りの流派に分かれました。
遍照寺-八幡社
八幡大菩薩

画像はありませんが、現在の本堂及び収蔵庫は昭和38年(1963)に再建されました。
本尊は像高12.6cmの十一面観世音菩薩像で、
国の重要文化財に指定されています。
像高70cmの不動明王坐像は、国の重要文化財に指定されています。
顔が朱で塗られ、「赤不動」と呼ばれています。
上記の二躯は共に創建時の作で、定朝、または父・康尚の作との説があります。
康尚は「仏師職の祖」とされ、引き継いだ定朝は
洗練・優雅な「定朝様」を完成させました。
他に平安時代末期の聖観世音菩薩立像、鎌倉時代作の釈迦如来坐像、
鎌倉時代作の地蔵菩薩半跏像、鎌倉時代作の不動明王立像、
大黒天坐像などが安置されています。
大黒天坐像は像高30cmで「無動大黒天」と呼ばれ、
右手に金嚢(きんのう=財布)、左手に宝棒を持っています。
遍照寺-護摩堂
護摩堂
本堂と勘違いしていました。
遍照寺-客殿
客殿
平成9年(1997)に建立されました。

次回は嵐山から三条通りの車折神社や広隆寺などを巡ります。

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