楼門
長等神社は京阪電車・大津線の三井寺駅で下車して疎水沿いに徒歩5~6分の距離にあります。
現在の楼門は明治37年(1904)に、鎌倉様式を基本として、平安、室町時代の
和様建築の粋を取り入れて復興されたもので、大津市の文化財に指定されています。
随身-黒
随身-赤
随身像が門番をしています。
拝殿
楼門をくぐった正面に拝殿があります。
天智天皇6年(667)、天智天皇は飛鳥から近江へと都を遷し、大津宮で正式に即位しました。
天皇が都の鎮護として、須佐之男命を志賀の長等山岩座谷の地に
祀られたのが長等神社の始まりとされています。
天智天皇8年(669)5月5日、天皇が宇治の山科から帰途、
長等神社へ弓矢を奉納されました。
天智天皇の孫であり、後に園城寺を開基した大友与多王(おおとものよたのおおきみ)が
その日を祭日と定め、 今も五月五日に例祭が行われています。
歌碑
拝殿の左側に平清盛の末弟である平忠度(たいら の ただのり)の歌碑が建立されています。
 「さざなみや 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな」
平忠度は藤原俊成に師事し、歌人としても優れていたのですが、
寿永2(1183)に木曽義仲に都を攻められ兵庫へと敗走しました。
義仲軍は、平家が援軍を求めるであろう比叡山にも手を伸ばし、
東坂本には五万騎が集結していたと云われています。
 忠度は、都落ちした後に6人の従者と都へ戻り、俊成の屋敷に赴いて
自分の歌が百余首収められた巻物を俊成に託しました。
 『千載和歌集』の撰者となった俊成は、
その中から上記の一首を「詠み人知らず」として掲載しました。
この碑は長等山の山上に建てられているものを、
より多くの人の目に触れるように、山上のものを模して建てられました。
中門と回廊
拝殿を廻りこんで進むと中門があり、回廊が本殿を囲んでいます。
貞観2年(860)、園城寺の開祖・智証大師円珍が日吉大神を勧請合祀され、
園城寺の鎮守社として、新日吉社・新宮社としました。
天喜2年(1054)、庶民参詣のため明尊が山上から現在地に遷座し、
その所は神出と名付けられました。
永保元年(1081)には白河天皇が勅使を遣わし、国家安寧の祈願を行い、
官符を下して「日吉祭り」が勤行されました。
以来、日吉大社と対比して「湖南の大社」として崇敬されましたが、
山門・寺門の衆徒の闘争により、度々の兵火で被災しました。
鎌倉幕府は、宇津宮頼綱(うつのみやよりつな)に命じて社殿を造営しましたが、
延元元年/建武3年(1336)には南北朝の戦乱による兵火で焼失しました。
興国元年(1340)、足利尊氏により再建され、社殿は壮麗にして十二の廻廊や
楼門その他多くの建造物があり、皇室を始め武将や
多くの民衆から深く崇敬され隆盛を極めました。
その後、寛文11年(1671)に大修理が施されて以降、天明年間(1781~1789)、
寛政年間(1789~1801)にも修理が行われています。
明治16年(1883)に長等神社に改称され、明治43年(1910)には縣社に列せられました。
右回廊
回廊の右側
左回廊
回廊の左側
回廊の太鼓
回廊の太鼓
本殿
現在の本殿には建速須佐之男大神(たてはやすさのをのおおかみ)と
大山咋大神(おおやまくいのおおかみ)が祀られています。
1月14日~16日には、建速須佐之男大神が退治した八岐大蛇(やまたのおろち)に
災厄を託す「綱打祭(つなうちさい)」が行われます。
大山咋大神は、神代の昔より比叡山に鎮座する地主神で、日吉大社・東本宮の祭神です。
配祀神に市杵島姫大神(いちきしまひめのおおかみ)、宇佐若宮下照姫大神
(うさわかみやしもてるひめのおおかみ)、八幡大神(やはたのおおかみ)が祀られています。

市杵島姫大神は、天照大神と建速須佐之男大神が誓約(占い)を行った際に、
建速須佐之男大神の十握劒(とつかのつるぎ)から生まれた
宗像三女神の一柱で、海運の守り神とされています。
稲荷神社
本殿の左側には栄稲荷神社、末春稲荷神社・権平稲荷神社、駒竹稲荷神社がありますが、
台風の影響か栄稲荷神社の社殿が破壊され立入禁止になっていました。
馬神神社-鳥居
本殿の右側には両御前神社と馬神神社があります。
馬神神社
馬神神社はかって、大津東町に鎮座され、馬の守護神として、徃古から道中の馬の無事、
安全が祈願されてきましたが、明治34年(1901)に長等神社境内地に遷座されました。
最近では競馬や乗馬関係者、馬の愛好者、馬年生まれの方の参詣者が増えています。
笠森神社
楼門を入った南側には笠森神社があります。

長等神社の横にある三井寺の入口から三井寺を巡ります。
 続く

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