タグ:平治の乱

永谷宗円生家
正寿院から国道307号線まで戻り、西へ進んで「宗円交遊庵」の看板を目印に左折し、
南へ進んだ突き当たりに茶宗明神社(ちゃそうみょうじんしゃ)があり、
その手前に永谷宗円の生家があります。
但し、内部見学は土・日・祝日のみ可能で、維持管理協力金100円が必要です。
永谷宗円(1681~1778)は、文禄元年(1592)に湯屋谷へ移り住み、
青製煎茶製法(あおせいせんちゃせいほう)を発明して
煎茶の普及に大きな功績を残しました。
江戸時代になると大衆が日常的に茶を飲むようになり、茶の栽培は他地域に広がり、
宇治茶に陰りが見え始めました。
その頃によく飲まれていたのは「煎じ茶」で、色は赤黒く香りも味も薄い
粗末なものでしたが、宗円は15年の歳月をかけて製茶法を研究し、
芳しい香りと味もすぐれた緑の新しい煎茶の製法を完成させ、
その色合いから「青製煎茶製法」と名付けました。
更に販路を求め、大消費地の江戸へ向かい、煎茶の価値を認めた
日本橋の茶商・山本嘉兵衛(現在の山本山)が委託販売を引き受け、
莫大な財を成して、明治8年(1875)まで毎年小判25両をお礼として贈り続けました。
宇治茶の全国的な販売網の礎が築かれ、宇治田原は茶産地として復活しました。
茶宗明神社-鳥居
茶宗明神社へ向かいます。
永谷園本舗
永谷家の分家は明治28年(1895)に東京へ進出し、9代目・武蔵(1897~)は
煎茶の販売だけでなく、昆布茶やアイスグリーンティーなどを開発、
その中に細かく切った海苔に抹茶や食塩などを加え、
お湯を溶いて飲む「海苔茶」がありました。
太平洋戦争の敗戦で日本経済は壊滅状態に陥り、
永谷園も一時的に看板を下ろさざる事態となりました。
10代目の当主・嘉男(よしお:1923~2005)は昭和27年(1952)に「海苔茶」をヒントに
「お茶づけ海苔」の製品化に成功して翌年、永谷園を復興して
株式会社永谷園本舗を設立しました。
境内にはその顕彰碑が建立されています。
茶宗明神社-本殿
本殿
大道寺-1
来た道を戻り、国道へ出る手前で左折して道なりに進んだ先に大道寺があります。
当地は、これから向かう金胎寺(こんたいじ)の北側登山口として早くから開かれ、
天平勝宝8年(756)に施基皇子(しきのみこ:?~716)の次男・
湯原王(ゆはらおう/ゆはらのおおきみ:生没年不詳)の発願で
越智泰澄(おちのたいちょう:682~767)が開基しました。
越智泰澄は、大宝年間(701~704)に愛宕山、養老元年(717)に白山を開き、
養老6年(722)に鷲峰山(じゅぶせん/じゅうぶさん)金胎寺を中興しました。
大道寺には大伽藍が造営されていましたがその後衰微し、
嘉承元年(1106)に藤原忠実(1078~1162)の帰依により再興されました。
以来、「大道寺大御堂」と称され、忠実の三男・頼長(1120~1156)に伝領されました。
保元元年(1156)の保元の乱で、崇徳上皇(すとくじょうこう:1119~1164)を立てた
頼長と第77代・後白河天皇(在位:1155~1158)側の藤原忠通(1097~1164)が
武士の力を借りて争い、頼長は敗死し上皇は讃岐に配流されました。
頼長の所領は没収され、後に大道寺は信西(1106~1160)の所有となりました。
藤原通憲(ふじわら の みちのり)は天養元年(1144)に出家して「信西」と
名乗っていましたが、保元の乱を画策し、乱後は強引に政治を刷新しました。
しかし、旧来の院近臣や貴族の反感を買い、平治元年(1159)12月に
平清盛(1118~1181)が熊野詣に出て留守の時に信西は反信西派に襲撃されました。
信西は事前に危機を察知して当地まで逃げ延びましたが、敵に発見され
自害して果てました。(平治の乱
大道寺-2
その後、台頭した地侍が「大道寺氏」を名乗り、寺を氏寺として管理するようになり、
以後数百年間の興亡の後、織田信長(1534~1582)により寺領が没収され、
寺は荒廃しました。
更に昭和28年(1953)の南山城水害で裏山の土砂崩れで堂舎が壊滅し、
残された仏像などが書庫とされていた建物に安置されていましたが老朽化のため、
平成16年(2004)に現在の建物が新築されました。
信西塚
大道寺から少し後戻りした所に信西塚があります。
信西は当地まで逃れて土中に埋めた箱の中に隠れていましたが発見され、
掘り起こされる音を聞き、喉を突いて自害したとされています。
首は都で晒され、信西が要職に就けた息子たちは配流されました。
胴は近くの寺で葬られ、胴塚とされていたそうで、晒されていた首を
大道寺の領民がもらい受け、この塚が築かれました。
近くには「信西首洗いの池」と称する小池があるようです。
大正5年(1916)8月に有志により供養塔が建てられました。
大道神社-鳥居
向かいには「大道神社(おおみちじんじゃ)」があります。
紅葉が美しく、隠れた名所だそうです。
大道神社-本殿
元は「天満宮」と称され、中世から存在していたことが明らかで、
大道寺の鎮守社だったと思われます。
大道神社-本殿-2
現在の本殿は延宝6年(1678)に再建された一間社流造で、
木像男神立像と共に町の文化財に指定されています。
菅原道真が祀られています。
大道神社-狛犬
狛犬は愛嬌のある顔のように見えます。

三宮神社へ向かいます。
続く
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西塔橋から下流方向

西塔橋からの下流方向。
高野川沿いの大原街道を川の上流方向へ進むと町名は上高野から八瀬に変わります。
高野川に西塔橋が架かる辺りは、川を挟んで両側から山が迫り、
現在は右側の山の麓が削られて街道が通されていますが、
平安時代は難所であったと思われます。
現在は市内から大原への最短ルートですが、文治年(1186)4月下旬、
後白河法皇は忍びの御幸で建礼門院の閑居を訪ねた際は、
鞍馬街道から江文峠を越えて大原へ向かっています。
若狭へも鞍馬街道が使われていました。
川は急流となって八つの瀬があったことから川は
「八瀬川」と呼ばれ、町の名の由来となった説があります。
子供の頃、西塔橋の下は、橋から飛び込めるほど深かったのですが、
現在は少し浅くなったように見えます。

養福寺会館
西塔橋の先を斜め左へ登った所に研修施設である養福寺会館があります。
大・小会議室の他、宿泊施設もあるようです。

養福寺-南山亭
手前には休憩所の南山亭があります。

養福寺-山門
石段を登ると養福寺の山門があります。
養福寺は山号を「告験山」と号する浄土宗西山禅林寺派の寺院で、
知恵の寺めぐり(京都文殊霊場)の第4番札所です。
かっては三条縄手にあり、四軒寺(他に西願寺三縁寺・高樹院)の一寺でした。
昭和49年(1974)に京阪電車の三条駅周辺が再開発されることになり、
昭和51年(1976)に現在地に移転しました。
他の三寺は岩倉へ移転しましたが、養福寺のみこの地へ移りました。

養福寺-鐘楼
山門をくぐった右側に鐘楼があります。

養福寺-水子地蔵
正面に本堂への石段があり、その脇に水子地蔵尊が祀られています。

養福寺-本堂
本堂
本尊として阿弥陀如来像が安置されています。
養福寺は慶長16年(1611)に、現在の京阪電車三条駅付近の大国町で創建されました。
江戸時代の明和2年(1765)には有栖川家の祈願所となり、
職仁親王(よりひとしんのう:1713~1769)から山号・寺号を賜りました。
文久年間(1861~1864)には長州の清末藩(きよすえはん)主・毛利氏の
本陣となりました。
天明8年1月30日(1788年3月7日)に発生した天明の大火では、
当時の京都市街の8割以上が焼失しましたが、養福寺は焼失を免れました。
養福寺には池大雅筆の「火の用心」の額があり、これが功を奏したとして
現在も残されています。

養福寺-薬師堂
本堂前の右側に薬師堂があります。

養福寺-石薬師
堂内には石薬師が祀られています。

養福寺-慈光
左側には阿弥陀如来に子供が寄り添う像が祀られ、「慈光」と記されています。

かけ観音寺への石段

養福寺から更に街道を北上し、街道と旧道とが分れる角に
𥒎観音寺(かけかんのんじ)への参道があります。

かけ観音寺-寺号標
歩道から石段を登った所に、山門はありませんが寺号標が建っています。
𥒎観音寺は、山号を「真山」と号する真言宗泉涌寺派の寺院で、
源頼朝が本尊の観音菩薩に源氏再興の祈願を行ったと伝わります。

かけ観音寺-本堂
寺号標から進んだ正面に本堂がありますが、現在地に寺が再建されたのは
昭和8年(1933)で、かっては背後の山の崖に寺があったそうです。
平治元年(1159)の平治の乱で平清盛軍に敗れた源頼朝は、
東国への逃亡を図ったのですが、当地で延暦寺の僧兵から襲撃されました。
頼朝は馬ごと高野川へ転落しましたが命に別状は無く、
これは観音菩薩の加護があったとして崖の大きな岩に矢じりで
観音菩薩を刻んだのが𥒎観音寺の始まりとされています。
現在でもその観音像を刻んだ岩が残されているそうですが、
そこへ行くのは困難なため、それを揺拝する現在地に本堂が建立されました。

かけ観音寺-かけ大龍王
本堂前には鎮守社として𥒎大龍王が祀られています。

かけ観音寺-弁財天
その左側に弁財天女が祀られています。

北上して九頭龍大社へ向かいます。
続く
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大イチョウ
融神社から県道47号線を北上すると国道477号線に合流し、更に国道を北上すると
和邇川(わにがわ)に架かる橋があります。
その橋を渡った所に還来神社があります。
神社前の大イチョウは幹回り約4.7mあり、鳥居が小さく見えます。
鳥居
鳥居は両部鳥居で、密教の金剛・胎蔵の両部を表し、神仏習合の名残を示しています。
梛の木
鳥居をくぐると「梛の木(なぎのき)」が御神木として祀られています。
と言っても、祀られているのは切り株です。
還来神社は藤原旅子(ふじわら の たびこ:759~788)が祀られています。
当時この辺り一帯は藤原氏の荘園で、それを治めていた
旅子の父・藤原百川(ふじわら の ももかわ:732~779)の邸宅があり
旅子はそこで生まれました。
藤原百川は第50代・桓武天皇擁立の功労者であり、
延暦4年(785)に旅子は「宮人(きゅうじん/くにん)」として宮中に入りました。
翌延暦5年(788)に夫人に叙され、大伴親王(後の第53代・淳和天皇)を
出産しましたが、2年後の延暦7年(788)に30歳で薨去されました。
病が重くなられた時に「出生の地・比良の南麓に梛の大木があり、
その下に葬ってほしい」と遺言されたので、神として祀られるようになりました。
拝殿
拝殿
雪対策でしょうか?
本殿への石段
本殿への石段
大杉の切り株
石段の脇に大杉の切り株が残されています。
樹齢850年とされ、高さ35.3m、幹回り5.4mの大木でしたが、
強風ごとに枝が落下するなど、危険と判断されて平成30年(2018)に伐採されました。
本殿
本殿
平治元年(1160)に第77代・後白河天皇から抜擢された藤原信頼は、同じく天皇の
近臣であった信西と対立し、源義朝と平治の乱を起こし信西を斬首しました。
朝廷の最大の実力者となりましたが、二条天皇親政派と組んだ平清盛に敗北し、
信頼は斬首されました。
源義朝は一族を率いて東国へと逃れましたが、追討軍との戦闘で勢力が削がれ、
ついには年来の家人の裏切りにより殺害されました。
義朝の三男・源頼朝(1147~1199)は一行からはぐれ、還来神社にたどり着いて
源氏の再興を祈願したとされています。
その後、近江国で捕えられ、清盛の継母である池禅尼の嘆願などにより
助命され、伊豆国への流罪となりました。
治承・寿永の乱(1180~1185)で源頼朝は挙兵し、平家は滅亡しました。

祭神の藤原旅子が故郷へ還り来たとの由緒から、明治時代になると
日清や日露の戦地に赴く際に、無事の帰還が祈願されるようになりました。
太平洋線戦争に至ると江若鉄道(現在のJR湖西線)和邇駅から神社までの
約6kmを歩いて参拝する人々が絶えなかったと伝わります。
現在では旅の安全や健康回復の祈願が行われているようです。
地蔵尊
地蔵尊
平成30年(2018)に杉の大木が伐採されたのに伴い、境内の危険と見做される場所の
伐採も行われました。
その作業で地蔵尊が地中より発見され、祀られるようになりました。

葛川息障明王院(かつらがわそくしょうみょうおういん)へ向かいます。
続く

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山門
華厳寺から東へ進み、突き当りを左折した先に西光寺があります。
西光寺は山号を帰峰山と号する浄土宗西山禅林寺派の寺院で、
京都洛西観音霊場の番外札所です。

本尊は阿弥陀如来で、札所本尊は如意輪観音ですがここには安置されていません。
華厳寺から来る途中で横に見た谷ヶ堂最福寺延朗堂に安置され、
西光寺によって管理されています。
御朱印はこちらで受けられますが、「延朗上人」と記されます。
釈迦誕生仏
西光寺の境内には釈迦誕生仏と涅槃像が祀られています。
涅槃像
涅槃像を囲む立石は十六羅漢が表されているようです。
延朗堂
谷ヶ堂最福寺延朗堂まで戻ります。
奈良時代末期、この地には松尾山寺がありましたが、平治元年(1159)に起こった
平治の乱により焼失したと伝わります。

安元2年(1176)、河内源氏の流れをくむ源義信(みなもと の よしのぶ)の
長男・延朗は松尾山寺の跡地に最福寺を創建しました。
延朗上人は延暦寺や園城寺で天台宗を学び、顕教・密教両面の
内典・外典に通じた博学であったと伝わります。
最福寺は西芳寺川の谷口に創建されたことから「谷ヶ堂」とも呼ばれ、
七堂伽藍が建立されました。
子院は49を数え、華厳寺(鈴虫寺)も最福寺の跡地に建てられものです。
更に文治年間(1185~1190)には源義経が、平重衡の所領だった丹波国篠村庄
(現在の亀岡市篠町)を賜り、更なる寺の交流を願い延朗上人に寄進しました。
承元2年(1208)、延朗上人が79歳で入寂されましたが、伽藍の整備は続けられました。

承久年間(1219~1222)、延朗上人の弟子・証月房慶政は最福寺から
南西方向に法華山寺を開きました。
関白・九条道家が寺領を寄進して大伽藍が建立され「峰ヶ堂」とも呼ばれました。
戦乱の石碑
「平治、元弘、応仁、元亀の乱 戦火ゆかりの地」の石碑が建っています。
元弘元年(1331)、後醍醐天皇は密かに鎌倉幕府討伐を画策していましたが、
計画が幕府側に漏れ、三種の神器を携えて御所を脱出し、
笠置山で挙兵しました。(元弘の乱)
元弘3年/正慶2年(1333)、峰ヶ堂一帯に布陣した後醍醐天皇の
近臣・千種忠顕(ちくさ ただあき)を攻撃した六波羅探題軍の兵火により、
法華山寺と共に最福寺も焼失しました。
最福寺と法華山寺は再建されましたが、応仁・文明の乱(1467~1477)では
東軍が最福寺に布陣し、文明元年(1469)に西軍の攻撃を受け、
最福寺、西芳寺、地蔵院、法華山寺など一帯は悉く灰燼に帰しました。
更に法華山寺は、大永7年(1527)に起こった桂川原の戦いで焼失し、
寺跡には峰ヶ城が築かれて寺は再建されませんでした。
元亀2年(1571)の織田信長による比叡山焼き討ちで、天台宗だった
最福寺も焼き討ちされ、最福寺のその後の再建は成りませんでした。
宝篋印塔
この宝篋印塔は最福寺跡から出土したものですが、造られた年代は不詳です。
側面に「此の下に経典を石に書いて埋めた」と刻まれていましたが、経典は発見されず、
「最福寺旧蹟地」の碑前の「笠地蔵」と呼ばれる石仏が発掘されました。
延朗堂-堂内
延朗堂には札所本尊の如意輪観音像、延朗上人像などが安置されています。
かっては最福寺に安置されていました。
延朗堂-尊鏡像
また松尾山寺の尊鏡大法師の像も安置されています。
座禅石
座禅石は松尾明神が坐したと伝わります。
さしのべ観音
「さしのべ観音」と宝篋印塔は平成17年(2005)9月に
延朗上人800年大遠忌を祈念して造立されました。
仏足石
仏足石
六体地蔵
六体地蔵-説明
六体地蔵
地蔵堂
地蔵堂
庭園
庭園

松尾大社の境外摂社・月読神社へ向かいます。
続く

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