仁王門
車折神社から三条通りを東へ進むと通りに面して広隆寺の駐車場があり、
駐車券に参拝受付で印を押してもらうと、駐車料金は無料となります。
広大な駐車場にかっては大型バスが並んで止まり、大勢の団体客が境内へと
入って行くのを見て、長らく参拝を断念していましたが、新型コロナの影響で
他の都府県への移動が制限されているため、
駐車場は我がバイクが隅っこで独り占めしています。
駐車場から境内に入り、三条通りまで戻ります。
仁王門は交通量の少ない早朝に撮影したので門は閉まっています。
仁王門は元禄15年(1702)に再建されました。

広隆寺は山号を蜂岡山(はちおかやま)と号する真言宗系の単立寺院で
聖徳太子霊跡の第24番札所です。
秦氏の氏寺として創建され、平安京遷都以前から存在する山城最古の寺院です。
平野神社付近(北野廃寺跡に比定)に創建され、平安京遷都前後に
現在地に移転したとする説が有力視されています。
かっては、蜂岡寺や秦公寺(はたのきみでら)、太秦寺とも呼ばれました。
「広隆寺」と呼ばれるようになったは、開基・秦河勝(はた の かわかつ)の
実名「広隆」に因むとされています。

その後、弘仁9年(818)の大火で広隆寺は全焼しました。
承和3年(836)に空海の弟子・道昌が広隆寺別当に就任して復興し、
道昌は中興の祖とされています。
道昌は法輪寺も中興し、渡月橋を架橋するなど行基の再来と称されました。
仁王像
仁王像は室町時代の作と伝わります。
薬師堂
仁王門をくぐった左側に薬師堂があり、平安時代前期作で像高101.3cmの
薬師如来立像が安置されています。
通常の薬師如来像と異なり、神仏習合の型をとった天部形の薬師如来で、
吉祥天像のような像容に造られています。
昔、乙訓社(向日明神)の前に時々光を放つ神木があり、
向日明神が化身して薬師如来像を刻みました。
延暦16年(797)5月5日、乙訓社に安置されていた薬師如来像が
瑠璃光明を放ち、勅により願徳寺へ遷されました。
貞観6年(864)に第56代・清和天皇が病を患われた際、道昌僧都が勅許を得て
薬師如来像を広隆寺へ遷し、七日間の修法を行うと天皇の病は治癒しました。
長和3年(1014)5月5日にも延暦16年と同じ日時に光明を放ったため、
この日を拝謁日と定められました。
能舞台
薬師堂の北側に能楽堂がありますが、現在でも能が演じられているかは不明です。
聖徳太子は秦河勝(はた の かわかつ)に「六十六番の物まね」を作らせ、
紫宸殿で舞わせたものが「申楽」の始まりとされ、広隆寺を創建した秦河勝は、
歌舞芸能の神として信仰されています。
地蔵堂
能楽堂の北側に地蔵堂があり、「腹帯地蔵尊」と呼ばれる
地蔵菩薩像が安置されています。
空海が、諸人安産、子孫繁栄請願に基づき自ら刻んだと伝わります。
現在は不明ですが、かっては腹帯が授与されていたようで、
その腹帯を締めることにより地蔵尊が出産の苦しみを引き受け、
安産が授けられたとの伝承が「腹帯地蔵尊」の由来となっています。
講堂-1
参道の東側に永万元年(1165)に再建された講堂がありますが、
付近への立ち入りが禁止されています。
正面5間、側面4間、寄棟造、本瓦葺きの建物で、かっては「金堂」と呼ばれ、
国の重要文化財に指定されています。
講堂-2
講堂-西側
市内に残る数少ない平安時代の建物ですが、永禄年間(1558~1570)に改造され、
近世にも修理を受けて、建物の外観や軒回りには古い部分はほとんど残っていません。
堂内の須弥壇に、国宝に指定されている、平安時代作で像高264cmの
阿弥陀如来像が安置されています。
脇侍として右側に像高182.4cmの地蔵菩薩坐像、左側に像高233.3cmの
虚空蔵菩薩坐像が安置されています。
共に平安時代(9世紀)の作で、国の重要文化財に指定されています。
手水舎
講堂の北側に手水舎があります。
太秦殿
手水舎の左奥に天保12年(1841)に再建された太秦殿があり、太秦明神(秦河勝)、
漢織女(あやかとりめ)、呉織女(くれはとりめ)が祀られています。
第29代・欽明天皇(在位:539~571)は、夢の中に童子が現れ
「吾は秦の始皇帝の再誕なり、縁有りてこの国に生まれたり」と告げられました。
その後、初瀬川が氾濫し、三輪大神の社前に童子が流れ着きました。
欽明天皇は、「夢にみた童子は此の子ならん」として殿上に召し、始皇帝の夢に因んで
童子に「秦」の姓(かばね)を下し、また初瀬川氾濫より助かったことから
「河勝」と称したと伝わります。
聖徳太子の側近として仕え、聖徳太子が諸国を巡った際に山城国「蜂丘」の
南に宮を建て、その宮を賜り、一族を率いました。
推古天皇11年(603)には太子から弥勒菩薩像を賜り、河勝は宮を寺に改め、
「蜂岡寺」と称したと伝わります。
一方で広隆寺は推古天皇30年(622)に薨去された聖徳太子の供養のために
創建されたとの説もあり、弘仁9年(818)の火災で古記録を失ったことで、
初期の歴史は必ずしも明確ではありません。

漢織女と呉織女は渡来した4人の織女の2人とされています。
秦氏は日本に養蚕や機織の技術を伝え、「秦」には機織りに由来するとも、
絹布の意味があるとの説があります。
上宮王院太子殿
講堂の北側に享保15年(1730)に再建された上宮王院太子殿があります。
入母屋造、檜皮葺の建物で、広隆寺の本堂です。
上宮王院太子殿-2
上宮王院太子殿-西側
堂内には平安時代作で像高148cmの聖徳太子立像が安置されています。
像内に元永3年(1120)、仏師・頼範作の造立銘が残されています。
聖徳太子が秦河勝に仏像を贈った年齢である、太子33歳時の像とされています。
太子像は、天皇が即位などの重要儀式の際に着用する
黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)と同様のものが着せられています。
第105代・後奈良天皇(在位:1526~1557)以降の装束や冠が現存し、
現在の太子像は平成天皇が平成2年(1990)の即位の礼に際し、
調進された御袍と同じ染織技法を用い、天皇着用のものの
約8割の寸法で製作された黄櫨染御袍を着用しています。
客殿への門
上宮王院太子殿の西側に新霊宝殿への参拝受付所があり、
その手前に客殿への門がありますが、非公開です。
受付で800円を納め先へ進みます。
桂宮院への道標
「左 桂宮院(けいぐういん)」の石標が建っていますが、通常非公開で駐車場の
北側辺りの塀で囲まれた一画にあることから、建物を見ることもできません。
法隆寺夢殿と同じ八角円堂で、聖徳太子像が祀られていますが、
現在は太子像は新霊宝殿に遷されています。
建長3年(1251)の中観上人澄禅(ちょうぜん)による当堂建立のための勧進帳が
あることから、おおむねその頃の建立と推定され、国宝に指定されています。
弁天社
東側には池があり、池の中に弁財天社があります。
旧霊宝殿
その先、正面には旧霊宝殿がありますが、非公開です。
大正11年(1922)の聖徳太子1300年忌を祈念して建立されました。
新霊宝殿
旧霊宝殿の東側に新霊宝殿があります。
新霊宝殿内の撮影は禁止されています。

新霊宝殿に入った西側中央に薬師如来像が安置されています。
平安京遷都後の延暦16年(797)、広隆寺は勅願により、本尊を薬師如来とされました。

薬師如来の右側に像高175cmの日光菩薩、左側に像高174cmの
月光菩薩像が安置されています。
康平7年(1064)に定朝の弟子・長勢の作で、国の重要文化財に指定されています。

更にその両側に像高113~123cmの十二神将立像が安置されています。
康平7年(1064)に定朝の弟子・長勢の作と伝わりますが、
作風はいくつかのグループに分かれ、12躯は長勢と弟子などの協力者により
造立されたと推定され、国宝に指定されています。

霊宝殿の四隅には四天王像が安置されています。
共に平安時代の作で、国の重要文化財に指定されています。

北側の壁面、中央に国宝第一号に指定されている宝冠弥勒菩薩半跏思惟像が
安置されています。
像高123.3cmで、推古天皇11年(603)に秦河勝が、
聖徳太子から賜った像とされています。
像は朝鮮半島のアカマツ材の一木造で、内刳りの背板にはクスノキに似た
広葉樹が使用されています。
このことから、朝鮮半島からの渡来像であるとする説を覆し、朝鮮半島から輸入された
アカマツ材を用い、国内で制作されたとする説が有力になりつつありますが、
韓国の国立中央博物館にある金銅弥勒菩薩半跏像との様式の類似が指摘されています。
また、明応8年(1499)成立の、『広隆寺来由記』には推古天皇24年(616)、
坐高二尺の金銅救世観音像が新羅からもたらされ、
当寺に納められたという記録が残されています。
一説では推古天皇31年(623)に新羅から請来された仏像とする説もあり、
現在ではその真偽を確認するのは不可能と思われます。

宝冠弥勒菩薩半跏像の右側に「宝髻(ほうけい)弥勒」と称される、
もう一躯の半跏思惟像が安置されています。
像高90cm、クスノキ材の一木造で白鳳時代(645~710)の作とされ、
瞳が潤んだように見えることから「泣き弥勒」とも呼ばれ、国宝に指定されています。

宝冠弥勒菩薩半跏思惟像に向かい合うように、中央に千手観音菩薩立像、
東側に不空羂索観音菩薩立像、西側に十一面観音菩薩立像が安置されています。
千手観音菩薩立像は藤原時代(平安時代中・後期)の作で像高260cm、
国宝に指定されています。
新霊宝殿が開館するまでは講堂外陣の西北隅に安置されていました。

不空羂索観音菩薩立像は奈良時代末期~平安時代初期の作で像高313.6cm、
国宝に指定されています。
新霊宝殿が開館するまでは講堂外陣の東北隅に安置されていました。

十一面観音菩薩立像は像高260cmで平安時代の作です。

その他、東面にも国の重要文化財に指定されている多数の仏像が安置されています。

大酒神社へ向かいます。
続く

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