タグ:待賢門院

地蔵院
花園西陵から西へ進むとカーブして南北の通りとなり、
南へ進んだ東側に地蔵院があります。
待賢門院が法金剛院を再興された際に地蔵院が建立されました。
応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失後、地蔵院は法金剛院の塔頭となりましたが、
享保18年(1733)に焼失し、安永8年(1779)に再建されました。
しかし、明治32年(1899)の水害で倒壊し、明治41年(1908)に
本堂の南100mへ場所を移して再建されました。
明治45年(1970)の丸太町通り拡張工事に伴い、地蔵院は取り壊され、
現在地に移転されました。
本尊の地蔵菩薩坐像は像高270cmで、眼が金色であることから「金目地蔵」と呼ばれ、
「要(かなめ)地蔵」、「叶(かなえ)地蔵」と転訛したとも伝わります。
「要」とは、扇のかなめを意味し、宇田川と御室川が合流する地点であり、
花園扇野町の町名の由来となったとされています。
金目地蔵は通常非公開ですが、毎月23日に法要が営まれ、
その日には自由に参拝できるそうです。
表門
地蔵院から南へ進み、丸太町通りへ左折して
少し東へ進んだ北側に法金剛院があります。
法金剛院は新型コロナの影響で長い間拝観が停止されていましたが、6月中旬の
蓮の季節から再開され、それが済んだ8月3日から再び拝観停止となっています。
幸いにも8月1日に時間が取れ、拝観してきました。
拝観には予約が必要ですが、予約をしなくても入山を拒まれることはありませんでした。
但し、拝観時間は7:30~11:30の間で12:00には閉門されてしまいます。
本堂への参拝とトイレの使用は中止され、庭園のみの拝観となります。
御朱印は書置きタイプのみ授与されますが、予約が必要です。
但し、法金剛院は京都十三仏霊場の第十番札所及び関西花の寺二十五霊場
第13番札所で、霊場巡りの御朱印は予約なしでも授与されます。
丸太町通りに面して表門があり、その西側に駐車場への入口があります。
法金剛院は、山号を五位山と号し、唐招提寺に属する律宗の寺院ですが、
明治維新までは真言宗の寺院でした。
中門
現在は表門は閉じられ、駐車場から入り、その先の中門が拝観入口となりますが、
新型コロナの影響で中門の向かい側にテントが張られ、
臨時の拝観入口となっています。
天長7年(830)頃、この地には右大臣・清原夏野
(きよはら の なつの:782~837)が営む山荘がありました。
承和4年(837)に夏野が没すると、山荘は寺に改められ、
「双丘寺(ならびがおかでら)」と称されました。
境内には珍花奇花が植えられ、「花園」の地名の由来となりました。
第52代・嵯峨天皇、第53代・淳和天皇、第54代・仁明天皇などの行幸が相次ぎ、
承和14年(847)に仁明天皇は内山に登られて景勝を愛で、
五位の位を授けられたことから内山は「五位山」と呼ばれるようになりました。
天安2年(858)、第55代・文徳天皇の発願で伽藍を建立し、
定額寺に列せられて寺号は「天安寺」と改められました。
元慶3年(879)に第87代・陽成天皇は、応天門事件で失脚した大納言・伴善男
(とも の よしお)の荘園を没収し、天安寺に施入されました。
寺は栄えますが、その後の火災などで荒廃し、大治5年(1130)に
待賢門院(たいけんもんいん)により再興され、「法金剛院」と称されました。
前年の大治4年(1129)に養父だった白河法皇が崩御され、
その菩提を弔う意味があったのかもしれません。
花園西陵がある五位山を背に中央に池を堀り、池の西に西御堂、
南に南御堂(九体阿弥陀堂)、東に女院の寝殿が建てられ、
庭に青女(せいじょ)の滝を造り、極楽浄土を模した庭としました。
その後、三重塔、東御堂、水閣が建立され、法金剛院に多くの荘園を集積して
「女院領」を形成した最初の女院となりました。
しかし、後ろ盾でもあった白河法皇が崩御されからは、待賢門院の人生は暗転し、
康治元年(1142)に出家して法金剛院で過ごし、
3年後の久安元年(1145)に崩御されました。
法金剛院は、待賢門院の子・統子内親王(とうし/むねこないしんのう)に継がれますが、
文治5年(1189)に統子内親王が崩御されると、法金剛院は衰微していきました。

法金剛院は、鎌倉時代に導御(どうご/どうぎょ:1311~1223)によって中興されました。
導御は3歳の時に父を亡くして捨て子となり、東大寺に拾われて養育されました。
18歳で唐招提寺中興第2世長老・証玄(しょうげん)の弟子として出家しました。
文永5年(1268)頃、法隆寺夢殿に参籠して融通念仏を弘めるようにとの
聖徳太子の託宣を受け、活動の拠点を京都に移しました。
法金剛院・壬生寺清涼寺などの勧進・復興活動を行うとともに、
これらの寺院において融通大念仏会を催しました。
融通大念仏の結縁者が10万人に満ちるごとに供養を行ったので、
「円覚十万上人」と呼ばれました。
その後、応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失し、
天正13年(1586)の天正大地震で被災しました。
更に文禄5年(1596)の慶長伏見地震でも被災して、
元和3年(1617)に泉涌寺の僧・照珍によって再建されました。
待賢門院により再興された法金剛院の領地は、現在の2倍以上とされ、
鉄道の開通や新丸太町通りの拡幅工事などで失われました。
平成8年(1996)のJR花園駅周辺の整備工事に伴い、
駅の南で発掘調査が行われ、池跡や三重塔の基壇などが発見されました。
庫裏
中門の先に庫裏があり、庫裏の西側に茶室、庫裡の北側に仏殿がありますが、
中門から先への立ち入りは禁止されています。
鐘楼
表門を入った西側に鐘楼があります。
梵鐘
梵鐘は元禄元年(1688)に鋳造されました。
経蔵
庭園への入口の北側に元和3年(1617)に建立された経蔵があります。
参道
参道には鉢植えのハスが並べられています。
法金剛院は「花の寺」として、春は桜、初夏は花菖蒲・アジサイ・菩提樹・沙羅双樹・
山椒バラ、秋は嵯峨菊・その後の紅葉、冬には仏手柑(ぶっしゅかん)や
千両・万両が実を付け、年が開けると椿が咲きます。
蓮-1
蓮-2
そして、夏・7月中はハスが見頃となり、法金剛院は「蓮の寺」とも呼ばれています。
車寄せ
本堂の車寄せです。
境内図では庫裏へと続き、その間の渡廊で礼堂へと結ばれています。
礼堂
北側には礼堂があります。
現在の礼堂は、元和3年(1617)に照珍により、本堂として再建されました。
昭和43年(1968)に国庫補助金を受け、新たにコンクリート造りで
収蔵庫を兼ねた仏殿(本堂)が礼堂の西側に建立されました。
旧本堂は礼堂に改められ、北側に釣殿が設けられました。
阿弥陀如来坐像
本尊は大治5年(1130)に仏師・院覚により造立された像高2.27mの阿弥陀如来坐像です。
かっての西御堂の本尊であり、定朝様で本年度(2020)に国宝に指定される予定です。
十一面観音
十一面観世音菩薩坐像は像高69.2cmで、正和5年(1316)に院派(いんぱ)仏師16人
により造立され、国の重要文化財に指定されています。
昭和4年(1929)の解体修理で、像内から1万3千人に及ぶ署名紙片が発見されました。
十一面観世音菩薩坐像としては珍しい四臂の像で、厨子内に安置されています。
地蔵菩薩
平安時代後期作で像高127.2cmの地蔵菩薩立像及び像高78cmの
僧形文殊菩薩坐像も国の重要文化財に指定されています。
他に平安時代作の不動明王立像と毘沙門天立像、
鎌倉時代作の阿弥陀如来坐像などが安置されています。
石仏群
礼堂前の奥には石仏がまとめられ、祀られています。
仏足石
礼堂の向かい側の庭園に仏足石が祀られています。
名勝の碑
その奥に「名勝 法金剛院庭園」の標石が建っています。
法金剛院庭園は、昭和46年(1971)に国の名勝に指定されました。
青女の滝
庭園の北側の滝組は「青女(せいじょ)の滝」と呼ばれ、
日本最古の人工の滝として、国の特別名勝に指定されています。
滝は大治5年(1130)には既にに完成し、造営にあたった林賢りんけん)は
滝の傍らに「衣もて なつれとつきぬ 石の上に 万代をへよ 滝の白糸」
という和歌を書きつけてました。
長承2年(1133)、法金剛院に渡御した待賢門院は、池で舟に乗り、
滝の高さを5・6尺(150~180cm)ほど上げるよう指示し、
静意がこれを受けて改作したとされています。
明治30年(1987)に京都鉄道株式会社(現在の山陰線の嵯峨野線区間)の
鉄道敷設計画に伴い、法金剛院は境内地を売却しましたが、
線路と平行して国道(現在の丸太町通り)も開通しました。
この国道は交通量が激しくなり、昭和42年(1967)に京都市は道路拡張のために
境内地の南側を買収しました。
昭和43年(1968)に京都市は法金剛院庭園の緊急発掘調査を行い、
埋もれていた滝の石組や渓流曲水、池の汀線(ていせん=池面と陸地との境界線)
などが発見されました。
庭園が復元され、境内全体が北に寄せられました。
堀川の歌碑
待賢門院堀河の歌碑です。
「長からむ 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は 物こそ思へ」
待賢門院堀河は、平安時代後期の歌人で、女房三十六歌仙・中古六歌仙の一人です。
待賢門院(藤原璋子)に出仕し、「堀河」と呼ばれるようになりました。
康治元年(1142)に璋子が落飾すると、堀河も出家しました。
池
現在の池には蓮が生い茂り、水面が見えない状況です。
蓮の見頃は終わってしまったようで、遅咲きの花がまばらに見られます。
島への橋
池の南側には橋があり、二つの島が連なっています。
島に渡ってみましたが蓮に覆われ、視界は開けませんでした。
西御堂跡
池の西南に西御堂跡があり、この小高い丘辺りかと思われます。
背後に見えるのは経蔵です。

今宮神社へ向かいます。
続く

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宇多天皇陵-参道
蓮花寺と仁和寺東門との間の車道を北へ進むと、第59代・宇多天皇の
大内山陵への入口があります。
大内山陵への参道は仁和寺の西門を出た、御室八十八ヶ所霊場・結願の
第88番・大窪寺から南へ進んだ所に入口があり、
この場所は参道の中間点辺りになります。
地蔵
参道は整備が行き届いているとは言えず、最初は歩きにくいですが、参道が
東へ方向を変える辺りから坂も緩やかになり、先には地蔵尊が祀られています。
看板には龍安寺の名が見え、龍安寺の裏山のようです。
宇多天皇陵-1
地蔵像から北へと進んだ先に大内山陵があります。
宇多天皇陵-2
宇多天皇は第58代・光孝天皇の第七皇子で、
諱(いみな)を定省(さだみ)と称しました。
光孝天皇が元慶8年(884)に26人の皇子皇女に源姓を賜い、臣籍降下させたため、
源定省(みなもと の さだみ)と名乗り、宇多源氏の祖となりました。
光孝天皇が仁和3年(887)に重態に陥ると、定省は皇族に復帰して親王宣下を受け、
同年光孝天皇の崩御に伴い、即位しました。
宇多天皇は遣唐使を停止し、諸国への問民苦使(もんみんくし
=臨時に派遣された地方監察官)の派遣、昇殿制の開始、
『日本三代実録』・『類聚国史』の編纂、官庁の統廃合などを行いました。
宇多天皇は寛平9年(897)に突然、醍醐天皇に譲位して上皇になると、
昌泰2年(899)には出家して法皇となりました。
宇多法皇は譲位直前の除目で菅原道真を権大納言に任じ、
大納言・藤原時平の次席とし、道真と時平に政務を委ねました。
昌泰2年(899)に時平は左大臣に任ぜられて太政官の首班となり、
同時に菅原道真も右大臣に任ぜられました。
しかし、宇多上皇や道真の政治手法に密かに不満を抱いていた醍醐天皇と
藤原時平・藤原菅根(ふじわら の すがね)らが政治の主導権を奪還せんと、
道真に太宰府への左遷を下しました。(昌泰の変=しょうたいのへん)
法皇は急遽内裏に向かいましたが、宮門は固く閉ざされ、
藤原菅根は醍醐天皇への取次も行わなかったと伝わります。宇多天皇陵-3
延喜元年(901)、宇多法皇は東寺で伝法灌頂を受けて、真言宗の阿闍梨となり、
弟子の僧侶に灌頂を授ける資格を得ました。
法皇の弟子となった僧侶を朝廷の法会に参加推挙し、真言宗と朝廷との関係強化や
地位の向上に貢献しました。
承平元年(931)、法皇は65歳で崩御されました。
仁清窯跡
蓮花寺の方へ戻り、南側の「仁和寺前」の信号を南へ進み、京福北野線の踏切を超えた
左側に陶工・仁清窯址の碑が建っています。
正保年間(1644~1648)頃、この地に野々村仁清(ののむら にんせい)が
御室窯(おむろがま)を開きました。
野々村仁清は丹波国桑田郡野々村(現在の京都府南丹市美山町大野)の生まれで、
通称を清右衛門(せいえもん)と称しました。
仁清は特に轆轤(ろくろ)の技に優れ、作品には仁和寺門跡から拝領した
仁和寺の「仁」と清右衛門の「清」の字を一字取った「仁清」の印を捺しました。
オムロン発祥の地
更に南へ進むと「オムロン発祥の地」の碑が建っています。
オムロン創業者の立石一真(1900~1991)はこの地で「立石電機製作所」を設立し、
「御室」の地名に因み、ブランドを「OMRON」と命名しました。
立石家は祖父・孫一が佐賀県伊万里の地で焼き物を習得した後、
熊本に移り住んで伊万里焼盃を製造販売する「盃屋」を営んでいました。
一真は大正10年(1921)に熊本高等工業学校電気科一部(現:熊本大学工学部)を
卒業した後、兵庫県庁に勤務しました。
昭和5年(1930)に京都で「彩光社」を設立した後、昭和8年(1933)に
大阪市都島区東野田で「立石電機製作所」を創業しました。
昭和11年(1936)に大阪市西淀川区に工場を新設して移転した後、
昭和20年(1945)に現在地(右京区花園土堂町)に移転しました。
現在の本部所在地は京都市下京区塩小路通堀川東入で、
平成2年(1990)には社名を「オムロン株式会社」に変更しています。
兼好法師旧跡
「オムロン発祥の地」の碑の斜め向かいに
兼好法師(1283?~1352?)の旧跡があります。
吉田兼好の父は吉田神社の神職で、
本名は卜部兼好(うらべ の かねよし)と称します。
卜部氏は古代より卜占を司り神祇官を出す神職の家柄です。
第94代・後二条天皇(在位:1301~1308)の御代には従五位下左兵衛佐にまで
昇進しましたが、30歳前後に出家遁世したと伝わります。
鎌倉には少なくとも2度訪問滞在し、南北朝時代には、現在の大阪市阿倍野区
にある正圓寺付近に移り住み、晩年に双ヶ丘二ノ丘西麓に草庵を結んだとされています。
石標が建つ長泉寺境内には兼好法師の墓がありますが、
双ヶ丘二ノ丘西麓辺りあったものが江戸時代にこの地へ移されたと伝わります。
『徒然草』は、序段を含めて244段から成り、清少納言の『枕草子』、
鴨長明の『方丈記』とならび日本三大随筆の一つと評価されています。
長年書き溜めてきた文章を貞和5年(1349)頃にまとめたとする説が有力となり、
『徒然草』にはたびたび仁和寺が登場しています。
長泉寺
長泉寺は、文禄・慶長の役の際に、日本に連行された高麗人が開いたたとも、
元禄年間(1688~1704)に吉田兼好を偲び建立されたなど
諸説あり、定かではありません。
寺は非公開のため、詳細は不明です。
花園西陵-1
長泉寺から南へ進むと逆のY字路となり、一方通行で左側を進むと突き当たりに
鳥羽天皇皇后の花園西陵があります。
かっては、法金剛院の寺領でしたが、明治以降に寺から切り離されて
宮内省(現・宮内庁)の管理となりました。
花園西陵-2
藤原璋子(ふじわら の しょうし / たまこ:1101~1145)の父は正二位、
権大納言・藤原公実(ふじわら の きんざね)でしたが、7歳の時に公実が亡くなり、
公実の従兄弟に当たる白河法皇に養われました。
永久5年(1118)に鳥羽天皇に入内、中宮となり元永2年(1119)には
第一皇子の顕仁親王を出産しました。
保安4年(1123)、白河法皇は5歳の顕仁親王を第75代・崇徳天皇として即位させ、
翌天治元年(1124)に璋子は院号を宣下されて待賢門院(たいけんもんいん)と称しました。
鳥羽帝との間に5男2女を儲けましたが、大治4年(1129)に白河法皇が崩御されると、
璋子の人生は暗転しました。
花園西陵-3
鳥羽上皇は白河院によって関白を罷免された藤原忠実を起用し、
その娘・泰子(たいし/やすこ)を皇后に立てました。
更に側妃の藤原得子(美福門院)を寵愛し、保延5年(1139)には得子が産んだ
生後三ヶ月の第八皇子・体仁親王(なりひとしんのう)を立太子させました。
永治元年(1142)には崇徳天皇に退位を迫り、体仁親王を
第76代・近衛天皇として即位させました。
この頃、得子を標的にしたと考えられる呪詛事件が相次いで発覚し、
璋子が裏で糸を引いているという風説が流されるようになりました。
翌康治元年(1142)に璋子は自らが復興した法金剛院において落飾し、
3年後の久安元年(1145)に崩御されました。
その10年後の久寿2年(1155)、近衛天皇が17歳で崩御され、璋子が出産した
鳥羽天皇の第四皇子・雅仁親王が第77代・後白河天皇として即位すると、
朝廷は後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、保元の乱が勃発しました。
仁和寺宮墓所
花園西陵の南側に仁和寺宮墓地がありますが、立ち入りは禁止されています。
仁和寺宮は、仁和寺の門跡を務めた宮家で、総法務宮とも呼ばれました。
還俗して小松宮家、小松侯爵家となりました。

法金剛院へ向かいます。
続く

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涌峯塔
表参道から石段を西側に下った広場に、高さ18.3mの涌峯塔(ゆうほうとう)が
建っていますが、本殿より高くならないように配慮されています。
昭和59年(1984)に清水九兵衛(きよみず きゅうべえ)の神刀や神職の使用する
笏(しゃく)・冠などをイメージしたデザインにより建立されました。
山上では水圧が低いため、一度ポンプで塔の高いところに上げて、
落下する水の勢いを利用して各所に配水する給水塔の役割を果たしています。

かって、この地は「西谷」と呼ばれる谷でしたが、平安時代後期に白河法皇が
大塔の建立を発願したのをきっかけに、谷が埋められて整地されました。
この付近には長久元年(1132)に待賢門院(たいけんもんいん)の発願により建立された
小塔(多宝塔)がありました。
藤原 璋子(ふじわら の しょうし / たまこ)は7歳の時に実父・公実(きんざね)を亡くし、
白河法皇が養父となり育てられました。
永久5年(1117)12月13日に第74代・鳥羽天皇に入内し、元永2年(1119)5月28日、
第一皇子・顕仁親王(あきひとしんのう=後の崇徳天皇)を出産しました。
保安4年(1123)正月28日、白河法皇は5歳になった顕仁に践祚(せんそ)させ、
璋子も翌天治元年(1124)11月24日に院号を宣下されて待賢門院と称しました。
しかし、鳥羽上皇は側妃の藤原得子(美福門院)を寵愛し、得子が生んだ
第八皇子・体仁親王(なりひとしんのう)を立太子させ、崇徳天皇に譲位を迫りました。
永治元年(1141)12月7日、体仁親王が第76代・近衛天皇として即位すると、
天皇を狙った呪詛(じゅそ)事件が相次いで発覚し、待賢門院が黒幕として疑われ、
権勢を失いました。
待賢門院は康治元年(1142)に自ら建立した法金剛院において落飾し、
3年後の久安元年(1145)8月22日に長兄・実行の三条高倉第にて崩御しました。
文禄5年/慶長元年(1596)の慶長の大地震で塔は倒壊し、
その後に再建されることはありませんでした。
大塔設計図
大塔の設計図
小塔の北側には大塔がありました。
大塔は白河法皇の発願により天永2年(1111)に建立されました。
慶長10年(1605)に豊臣秀頼に再建されましたが、その絵図面によると側柱の一辺14.9m、
高さ27.1mの規模を誇り、根来寺の大塔とほぼ同規模の日本最大級の真言形式の大塔でした。
しかし、明治の神仏分離令により失われました。
エジソン記念碑
涌峯塔の西側にエジソン記念碑があります。
トーマス・エジソンは白熱電球のフィラメントに男山の「八幡竹」を使い、
白熱電球を商用化しました。
白熱電球はイギリスの物理学者・ジョゼフ・スワンが発明・実用化しましたが、
エジソンはフィラメントに竹を使い点灯時間を飛躍的に伸ばしました。
1900年代初頭にタングステン製のフィラメントが登場するまでの
約10年間、八幡竹が使われました。
電気自動車コンセント
エジソン記念碑の前には電気自動車の充電器がありますが、
使用されているのを見たことはありません。
バッテリーと充電の改良、それに価格が下がれば電気自動車の
普及が加速されるかもしれません。
その前に、スマホでナビに使うとすぐに減ってしまうバッテリーを何とかしてほしい。
宇宙桜
エジソン記念碑の南側に「宇宙桜」が植栽されています。
高知県仁淀川町の小学生達が、樹齢500年のひょうたん桜の種を採取し、
平成20年(2008)、スペースシャトル「エンデバー」号で宇宙に運ばれ、実験棟「きぼう」で
259日間の宇宙旅行を経て、翌年若田飛行士と共に地球に生還しました。
170粒の種は、仁淀川町に返還され、翌平成22年(2010)春に4本が発芽しました。
育成された枝から接木された50本の内の1本です。
茶室
宇宙桜の南側に茶室「鳩峯庵」があります。
清峯殿(研修センター)に申し込めば、5,000円で使用できるそうです。
中尾都山の頌徳碑
茶室の南側に尺八・都山流の創始者・中尾都山の
頌徳碑(しょうとくひ)が建立されています。
中尾都山は石清水八幡宮への信仰が厚く、枚方の都山邸に石清水八幡宮を分祀して、
流の記念行事をその神前で行いました。
この伝統は現在も都山流会館で続いています。
この碑は流祖七回忌記念事業として昭和37年(1962)に建立されました。
楠峯館
広場の西側に無料の山上駐車場があり、その南側に青少年文化体育センターの
体育館「楠峯館(なんぽうかん)」があります。
茶園
楠峯館の手前を南へ進んだ所に茶園があります。
石清水八幡宮では宇治・山城地区の各献茶家から毎年献茶が奉納されていました。
昭和22年(1947)7月には益々の茶業振興を志し「石清水八幡宮献茶講」が設立されました。
献茶講では、毎年9月下旬にその献茶の審査品評会が行われ、入賞した献茶は、
10月27日に斎行される秋季献茶祭にて全献茶を御神前にお供えした後、
褒賞式にて表彰されます。
昭和26年(1951)には、更なる茶業の発展を願い境内に「鳩嶺(きゅうれい)茶園」が
開園されましたが、昭和58年(1983)春に宿泊施設・研修センターの建設に伴い閉園となりました。
現在の茶園は平成16年(2004)4月に「雄徳山(おとこやま)茶園」として復活されたものです。
石翠亭
参道の西側には「石翠亭」と呼ばれる休憩所があります。
供御井
石翠亭の北側に供御井があります。
かっては神饌(しんせん)の調理などに使われていたのかもしれません。
八角堂-古絵図
古絵図では供御井の西側、現在の三女神社の付近に八角堂、
その南側に大塔が描かれています。
八角堂は鎌倉時代初期の健保年間(1213~19)に第84代・順徳天皇の発願により、
石清水八幡宮検校・善法寺祐清(ぜんぽうじゆうせい)によって建立されました。
慶長12年(1607)に豊臣秀頼によって再建されましたが、
寛文年間(1661~73)には破損転倒していました。
元禄11年(1698)に善法寺央清(ぜんぽうじおうせい)の勧進により再建され、
神仏分離令により撤去されました。
八角院
明治3年(1807)、正法寺の住職・志水円阿(しみずえんあ)が八角堂と元三大師堂を譲り受け、
所有地であった西車塚古墳の後円部上に移築しました。
八角堂の東側に庫裏を、その南側に茶所を設け、「八角院」と称されていました。
しかし、その後荒廃し、八角堂を除いた建物は昭和50年代には撤去されました。
八角堂
平成24年(2012)に石清水八幡宮の境内が国の史跡に指定されたのに伴い、
この地も境内の一部として指定され、八幡市の所有となりました。
市は平成26年(2014)から保存修理工事を行い、平成31年(2019)3月末に完了しました。
阿弥陀如来
本尊であった像高約3mの阿弥陀如来坐像は重要文化財に指定され、
現在は正法寺の法雲殿に安置されています。
三女神社-1
三女神社(さんみょうじんじゃ)には、多紀理毘売命(たぎりびめ)、
市寸島姫命(いちきしまひめ)、多岐津比売命(たぎつひめ)の宗像三女神が祀られています。
三女神社-2
宗像三女神は比咩大神として本殿の西御前にも祀られています。
『日本書紀』巻第三「一書」では、この三女神は先ず筑紫の宇佐嶋の
御許山(おもとやま)に降臨し、宗像の島々に遷座されたとあり、宇佐八幡宮の
本殿二之御殿に祀られ、この日本書紀の記述を神社年表の始まりとしています。
地蔵尊-1
地蔵尊-2
ケーブル山上駅の方へ下って行くと駅前には地蔵尊が祀られています。
山上駅
ケーブル男山山上駅
10月1日からは「ケーブル八幡宮山上駅」に改められます。
展望台への石段
駅前には展望台への石段があります。
十三重石塔
展望台には十三重石塔が建っています。
竹細工-展示
竹細工
展望台にはNPO法人「八幡たけくらぶ」の集会所があります。
八幡たけくらぶは男山に点在する竹林の整備活動を行うボランティア団体で、
展望台や集会所には竹細工製品の展示が行われています。
谷崎潤一郎文学碑
展望台には谷崎潤一郎の文学碑が建立されています。
谷崎潤一郎は大正12年(1923))9月1日に起こった関東大震災で横浜の自宅が類焼し、
関西に移り住みました。
現在の神戸市で何度か転居を繰り返し、昭和7年(1932)に根津松子の隣に転居しました。
根津松子は『細雪』の幸子のモデルとなった人物で、この年から松子との
不倫が始まり、同年に『蘆刈(あしかり)』が発表されました。
『蘆刈』は十五夜の大山崎から橋本へ渡る淀川の中州が舞台となり、
月を背にする男山が描写されています。
また、蘆の中で出会った男が語った恋の話は、当時の潤一郎の心境だったのかもしれません。
この碑は谷崎潤一郎生誕100年に当る昭和61年(1986)7月24日に除幕されました。
京阪電車
展望台の眼下には木津川鉄橋を渡る京阪電車が望めます。
比叡山
東北方向には平安京を守護する比叡山とその奥には比良山が顔を覗かせています。
天王山
西には天王山が迫っています。
愛宕山
北西にはとんがった愛宕山があり、周囲を山で囲われている故に千年以上、
京都が都であり続けたのかもしれません。
鳥居
展望台から参道の方へ進むと鳥居が建っています。
かってはケーブル山上駅からのメインルートだったのか?
麓から別の参道があったのか?定かではありません。
大西坊跡
鳥居の手前に太西坊(たいせいぼう)跡の説明板があります。
太西坊の住職・専貞(せんてい)は赤穂藩家老・大石内蔵助(おおいしくらのすけ)の実弟で、
後を継いだ覚運は内蔵助の養子でした。
「松の廊下事件」の7日後、内蔵助は覚運に仮住まいできる邸宅を探すように依頼しています。
覚運が紹介したのが、山科の邸宅跡でしょうか?
討ち入り後、覚運が討ち入りを手伝ったことが評判となり、沢山の寄付が集まって
覚運は坊を再興したと伝わります。
近年、覚運の墓が善法律寺で見つかりました。

裏参道を下ります。
続く

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