宇多天皇陵-参道
蓮花寺と仁和寺東門との間の車道を北へ進むと、第59代・宇多天皇の
大内山陵への入口があります。
大内山陵への参道は仁和寺の西門を出た、御室八十八ヶ所霊場・結願の
第88番・大窪寺から南へ進んだ所に入口があり、
この場所は参道の中間点辺りになります。
地蔵
参道は整備が行き届いているとは言えず、最初は歩きにくいですが、参道が
東へ方向を変える辺りから坂も緩やかになり、先には地蔵尊が祀られています。
看板には龍安寺の名が見え、龍安寺の裏山のようです。
宇多天皇陵-1
地蔵像から北へと進んだ先に大内山陵があります。
宇多天皇陵-2
宇多天皇は第58代・光孝天皇の第七皇子で、
諱(いみな)を定省(さだみ)と称しました。
光孝天皇が元慶8年(884)に26人の皇子皇女に源姓を賜い、臣籍降下させたため、
源定省(みなもと の さだみ)と名乗り、宇多源氏の祖となりました。
光孝天皇が仁和3年(887)に重態に陥ると、定省は皇族に復帰して親王宣下を受け、
同年光孝天皇の崩御に伴い、即位しました。
宇多天皇は遣唐使を停止し、諸国への問民苦使(もんみんくし
=臨時に派遣された地方監察官)の派遣、昇殿制の開始、
『日本三代実録』・『類聚国史』の編纂、官庁の統廃合などを行いました。
宇多天皇は寛平9年(897)に突然、醍醐天皇に譲位して上皇になると、
昌泰2年(899)には出家して法皇となりました。
宇多法皇は譲位直前の除目で菅原道真を権大納言に任じ、
大納言・藤原時平の次席とし、道真と時平に政務を委ねました。
昌泰2年(899)に時平は左大臣に任ぜられて太政官の首班となり、
同時に菅原道真も右大臣に任ぜられました。
しかし、宇多上皇や道真の政治手法に密かに不満を抱いていた醍醐天皇と
藤原時平・藤原菅根(ふじわら の すがね)らが政治の主導権を奪還せんと、
道真に太宰府への左遷を下しました。(昌泰の変=しょうたいのへん)
法皇は急遽内裏に向かいましたが、宮門は固く閉ざされ、
藤原菅根は醍醐天皇への取次も行わなかったと伝わります。宇多天皇陵-3
延喜元年(901)、宇多法皇は東寺で伝法灌頂を受けて、真言宗の阿闍梨となり、
弟子の僧侶に灌頂を授ける資格を得ました。
法皇の弟子となった僧侶を朝廷の法会に参加推挙し、真言宗と朝廷との関係強化や
地位の向上に貢献しました。
承平元年(931)、法皇は65歳で崩御されました。
仁清窯跡
蓮花寺の方へ戻り、南側の「仁和寺前」の信号を南へ進み、京福北野線の踏切を超えた
左側に陶工・仁清窯址の碑が建っています。
正保年間(1644~1648)頃、この地に野々村仁清(ののむら にんせい)が
御室窯(おむろがま)を開きました。
野々村仁清は丹波国桑田郡野々村(現在の京都府南丹市美山町大野)の生まれで、
通称を清右衛門(せいえもん)と称しました。
仁清は特に轆轤(ろくろ)の技に優れ、作品には仁和寺門跡から拝領した
仁和寺の「仁」と清右衛門の「清」の字を一字取った「仁清」の印を捺しました。
オムロン発祥の地
更に南へ進むと「オムロン発祥の地」の碑が建っています。
オムロン創業者の立石一真(1900~1991)はこの地で「立石電機製作所」を設立し、
「御室」の地名に因み、ブランドを「OMRON」と命名しました。
立石家は祖父・孫一が佐賀県伊万里の地で焼き物を習得した後、
熊本に移り住んで伊万里焼盃を製造販売する「盃屋」を営んでいました。
一真は大正10年(1921)に熊本高等工業学校電気科一部(現:熊本大学工学部)を
卒業した後、兵庫県庁に勤務しました。
昭和5年(1930)に京都で「彩光社」を設立した後、昭和8年(1933)に
大阪市都島区東野田で「立石電機製作所」を創業しました。
昭和11年(1936)に大阪市西淀川区に工場を新設して移転した後、
昭和20年(1945)に現在地(右京区花園土堂町)に移転しました。
現在の本部所在地は京都市下京区塩小路通堀川東入で、
平成2年(1990)には社名を「オムロン株式会社」に変更しています。
兼好法師旧跡
「オムロン発祥の地」の碑の斜め向かいに
兼好法師(1283?~1352?)の旧跡があります。
吉田兼好の父は吉田神社の神職で、
本名は卜部兼好(うらべ の かねよし)と称します。
卜部氏は古代より卜占を司り神祇官を出す神職の家柄です。
第94代・後二条天皇(在位:1301~1308)の御代には従五位下左兵衛佐にまで
昇進しましたが、30歳前後に出家遁世したと伝わります。
鎌倉には少なくとも2度訪問滞在し、南北朝時代には、現在の大阪市阿倍野区
にある正圓寺付近に移り住み、晩年に双ヶ丘二ノ丘西麓に草庵を結んだとされています。
石標が建つ長泉寺境内には兼好法師の墓がありますが、
双ヶ丘二ノ丘西麓辺りあったものが江戸時代にこの地へ移されたと伝わります。
『徒然草』は、序段を含めて244段から成り、清少納言の『枕草子』、
鴨長明の『方丈記』とならび日本三大随筆の一つと評価されています。
長年書き溜めてきた文章を貞和5年(1349)頃にまとめたとする説が有力となり、
『徒然草』にはたびたび仁和寺が登場しています。
長泉寺
長泉寺は、文禄・慶長の役の際に、日本に連行された高麗人が開いたたとも、
元禄年間(1688~1704)に吉田兼好を偲び建立されたなど
諸説あり、定かではありません。
寺は非公開のため、詳細は不明です。
花園西陵-1
長泉寺から南へ進むと逆のY字路となり、一方通行で左側を進むと突き当たりに
鳥羽天皇皇后の花園西陵があります。
かっては、法金剛院の寺領でしたが、明治以降に寺から切り離されて
宮内省(現・宮内庁)の管理となりました。
花園西陵-2
藤原璋子(ふじわら の しょうし / たまこ:1101~1145)の父は正二位、
権大納言・藤原公実(ふじわら の きんざね)でしたが、7歳の時に公実が亡くなり、
公実の従兄弟に当たる白河法皇に養われました。
永久5年(1118)に鳥羽天皇に入内、中宮となり元永2年(1119)には
第一皇子の顕仁親王を出産しました。
保安4年(1123)、白河法皇は5歳の顕仁親王を第75代・崇徳天皇として即位させ、
翌天治元年(1124)に璋子は院号を宣下されて待賢門院(たいけんもんいん)と称しました。
鳥羽帝との間に5男2女を儲けましたが、大治4年(1129)に白河法皇が崩御されると、
璋子の人生は暗転しました。
花園西陵-3
鳥羽上皇は白河院によって関白を罷免された藤原忠実を起用し、
その娘・泰子(たいし/やすこ)を皇后に立てました。
更に側妃の藤原得子(美福門院)を寵愛し、保延5年(1139)には得子が産んだ
生後三ヶ月の第八皇子・体仁親王(なりひとしんのう)を立太子させました。
永治元年(1142)には崇徳天皇に退位を迫り、体仁親王を
第76代・近衛天皇として即位させました。
この頃、得子を標的にしたと考えられる呪詛事件が相次いで発覚し、
璋子が裏で糸を引いているという風説が流されるようになりました。
翌康治元年(1142)に璋子は自らが復興した法金剛院において落飾し、
3年後の久安元年(1145)に崩御されました。
その10年後の久寿2年(1155)、近衛天皇が17歳で崩御され、璋子が出産した
鳥羽天皇の第四皇子・雅仁親王が第77代・後白河天皇として即位すると、
朝廷は後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、保元の乱が勃発しました。
仁和寺宮墓所
花園西陵の南側に仁和寺宮墓地がありますが、立ち入りは禁止されています。
仁和寺宮は、仁和寺の門跡を務めた宮家で、総法務宮とも呼ばれました。
還俗して小松宮家、小松侯爵家となりました。

法金剛院へ向かいます。
続く

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