下立売御門
下立売御門(しもだちうりごもん)は、禁門の変では桑名藩が護衛していました。
下立売御門先の梅
この記事及び画像は平成31年(2019)4月当時のもので、下立売御門を入った北側には
梅が満開となっていました。
蛤御門までは梅林になっています。
出水の枝垂れ桜-1
出水の枝垂れ桜-2
出水口からは「出水の小川」が流れ、その付近には「出水の枝垂れ桜」が
既に花を咲かせていました。
凝華洞跡
散策路を北上すると西側に出水口があり、出水口からの東西の散策路と交差します。
その東西の散策路を東へ進むと南北の建礼門前大通りと交差します。
建礼門前大通りを少し北上した東側に凝華洞跡(ぎょうかどうあと)があります。
第111代・後西天皇(在位:1655~1663)が退位後、仙洞御所として使用した屋敷が
あった場所で、元治元年(1864)に京都守護職の会津藩主・
松平容保(まつだいら かたもり:1836~1893)が仮の宿舎としました。
同年7月19日(1864年8月20日)に起こった禁門の変で、
容保はここで指揮を執ったとされています。
白雲神社
出水口からの東西の散策路まで戻り、少し西へ進んだ北側の参道を進むと
白雲神社があります。
かって、この地には西園寺邸があり、西園寺家の鎮守社として
妙音弁財天が祀られていました。
鎌倉時代の元仁元年(1224)、藤原公経(ふじわら の きんつね)は
鹿苑寺(金閣寺)の辺りに北山殿を造営し、西園寺妙音堂を建立して
家名を西園寺と称しました。
後に一時赤八幡京極寺に遷座され、明和6年(1769)に西園寺邸が御苑内に移るのに伴い、
邸内に妙音堂が再建されました。
明治以降、西園寺家は東京に移り、屋敷は取り壊されましたが妙音堂は残されました。
明治11年(1878)、妙音堂は廃仏毀釈により廃祀の危機にありましたが、
地元有志の尽力により神仏混淆の作法を神式に改め、社号を白雲神社と称しました。
また、明治2年(1869)に西園寺公望(さいおんじ きんもち:1849~1940)はこの地に
私塾立命館を創設しました。
塾はそのあり方に不穏な空気を感じた京都府庁(太政官留守官)の差留命令により
1年弱で閉鎖されましたが、塾生だった中川小十郎は明治33年(1900)に
京都法政学校(後の立命館大学)を創設しました。
薬師石
社殿の裏側には「薬師石」が祀られています。
「御所のへそ石」とも呼ばれ、この石を撫でた手で患部をさすると、
病気や怪我に効験があるとされています。
また、人の顔のようにも見えることから信仰の対象にもなったと伝わります。
福寿稲荷神社
末社の福寿稲荷神社は西園寺家の屋敷神として祀られていたとされています。
西園寺邸跡
白雲神社の北側には西園寺邸跡の石碑が建っています。
梅林-1
梅林-2
西園寺邸跡西側の梅林です。
蛤御門
梅林先の西側に蛤御門があります。
正式には「新在家御門(しんざいけごもん)」と呼ばれ、普段は閉じられていました。
江戸時代の大火で、閉ざされていた門が初めて開けられました。
「焼けて口開く蛤」になぞらえ、「蛤御門」の俗称で呼ばれるようになりました。
幕末の元治元年(1864)、この門の付近で長州藩と御所を護衛していた
会津・薩摩・桑名藩との間で激戦が繰り広げられ、「蛤御門の変」とも
「禁門の変」とも称されるようになりました。
蛤御門-弾痕
門には当時の弾痕らしき物も残されています。
かっての門は現在地よりも30mほど東の位置に建てられていましたが、
明治10年~16年(1877~1883)にかけて行われた大内保存及び京都御苑整備事業によって
現在地に移設されました。
中立売御門
蛤御門からその北の中立売御門(なかだちうりごもん)までの間には駐車場があり、
その脇にある通路を進みます。
中立売御門です。
元治元年7月19日(1864年8月20日)に起こった禁門の変で、筑前藩(福岡藩)が
守護していた中立売御門は、長州藩の国司親相(くにし ちかすけ:1842~1864)が
率いる部隊により突破されました。
更に来島又兵衛(1817~1864)隊と合流して蛤御門の辺りで激戦となりました。
来島又兵衛は薩摩藩兵に銃撃されて負傷し、自刃して果てましたが、
国司親相は帰藩しました。
しかし、幕府が禁門の変に対する処分で第一次長州征伐を計画したため、
親相は責任を取る形で自刃して果てました。
宮内庁京都事務所
中立売御門の北側には休憩所があり、更に北へ進むと宮内庁京都事務所があります。
縣井
事務所の西を北へ進んだ所に「縣井(あがたい)」があり、「染井」、
「祐井(さちのい)」と共に、御所三名水の一つに数えられていました。
かってはこの井戸のそばには「縣宮」という社があって、地方官吏に任命されたい
と願う人々がこの井戸で身を清めてから社に祈願し、
宮中に参内したといわれています。
承久年中(1219~1222)、洛中洛外に悪疫が流行した際、橘公平(たちばなのきむひら)は
「縣井」の水を飲んで縣宮に病気平癒の祈願を行いました。
10日程すると病は回復し、10日目の夜に井戸の水を汲みに行くと、
井戸の中から黄金の如意輪観音が現れ、
「この井戸の水を汲む者、必ず病が癒えるであろう」とお告げになりました。
これを聞いた順徳天皇は、この像を宮中に祀られましたが、
後に法伝寺を建立して安置されました。
その後、度々焼失し、当時、寺町今出川下るにあった真如堂の境内で再建されました。
元禄6年(1693)に真如堂が現在地へ移転されるのに伴い、真如堂で新たに縣井観音堂が
建立され、如意輪観音像が安置されるようになりました。

また、この付近は江戸時代までは一条家の屋敷内であったことから、
第122代・明治天皇の皇后となられた一条美子(いちじょう はるこ:1849~1913)の
産湯に、この井戸水が用いられたとも伝わります。
一条家は九条道家の三男・実経(さねつね:1223~1284)を祖とし、父から溺愛されて
仁治3年(1242)に一条室町にあった屋敷を父から譲られたことが家名の由来となりました。
乾御門
井戸から北上した先の西側にある門は、御所の北西に当たることから
「乾御門」と称されています。
元治元年7月19日(1864年8月20日)に起こった禁門の変では薩摩藩が守護し、
戦闘が激化した蛤御門を護衛していた会津藩へ援軍を送りました。
近衛邸跡-池
乾御門からの東西の散策路の北側は児童公園で、散策路を東へ進むと
今出川御門への南北の散策路が分岐しています。
その散策路を北へ入り、その先は池を迂回して西から北へと続きます。
池と言っても現在、水は涸れていますが、池の畔は糸桜(枝垂れ桜)の名所です。
近衛邸跡の碑
池の西側に近衛邸跡の碑が建ち、明治までは近衛家の広大な屋敷があり、
池はその庭園の遺構です。
近衛家は藤原忠通の四男・近衛基実(このえ もとざね:1143~1166)を家祖とし、
六男・九条兼実(1149~1207)は、九条家の祖となりました。
基実は長寛2年(1164)2月に父・忠通が急死した2か月後に平清盛の娘・盛子
結婚しましたが、基実は永万2年(1166)7月26日に僅か24歳で病死しました。
基実の子・基通(もとみち)が父を亡くしたのは6歳の時で、
継母・盛子の後見を受け摂関家を継承しました。
基通は平安京の近衛大路(現在の出水通)室町付近に邸宅を築き
「近衛殿」と称したことが家名の由来となりました。
近衛殿は現在の護王神社付近で、今でも「近衛町」の町名が残されています。
鎌倉時代中期には近衛家実の四男・兼平により鷹司家が創設されました。
第17代当主・近衛前久(1536~1612)は、天正3年(1575)に織田信長と対立し、
薩摩国へ逃れて島津氏の庇護を受けました。
天正6年(1578)に帰京し、現在地に屋敷を構えました。
その子・近衛信尹(このえ のぶただ:1565~1614)もまた、奔放な行動により
薩摩国の坊津に3年間配流となり、島津氏からは厚遇されました。
慶長元年(1596)に勅許が下って帰京し、慶長5年(1600)に島津義弘(1535~1619)の
美濃・関ヶ原出陣に伴い従軍しますが敗退しました。
その後、島津家と徳川家との交渉を仲介し、家康からは所領が安堵され、
慶長6年(1601)には左大臣に復職しました。
また、継嗣を欠いたため、妹の前子(さきこ)が第107代・後陽成天皇との間に儲けた
四之宮を後継に選び、近衞信尋(このえ のぶひろ:1599~1649)と称し、
近衞家19代当主としました。
以後、近衛家は皇別摂家となり、五摂家の中でも特別扱いされるようになりました。
桂宮邸跡
近衛邸跡の東側に桂宮邸跡がありますが、門は閉じられ見学はできません。
桂宮家は誠仁親王(さねひとしんのう)の第六皇子・智仁親王(1579~1629)を祖とし、
主な所領が桂周辺にあったことから家名とされました。
誠仁親王(1552~1586)は、第106代・正親町天皇(おおぎまちてんのう)の
第一皇子でしたが、朝廷の譲位に伴う儀式の経済的な問題から先送りされ、
天正10年6月2日(1582年6月21日)の本能寺の変で織田信長が自害して果てた後、
豊臣秀吉が譲位に積極的に取り組む姿勢を見せました。
しかし、誠仁親王はそれを待たず、天正14年(1586)に薨去されました。

智仁親王は、天正14年(1586)に豊臣秀吉の猶子となりましたが、
天正17年(1589)に側室・淀殿との間に鶴松(1589~1591)が誕生したため豊臣家を離れ、
八条宮家を創設しました。
八条通の沿線上にあったことから「八条宮(はちじょうのみや)」と呼ばれ、
元和6年(1620)から桂御別業(現在の桂離宮)を造営したことから後に
「桂宮」と称されるようになりました。
しかし、桂宮家は明治14年(1881)に断絶しました。
邸宅跡には智仁親王が造営した庭園および池が完全に残され、
幕末には第121代・孝明天皇(在位:1846~1867)が仮皇居としたため、
孝明天皇の異母妹である皇女・和宮親子内親王はここから江戸の
第14代将軍・家茂(いえもち/在職:1858~1866)へ嫁ぎました。
本来あった建物は二条城の本丸として移築され、現在は宮内庁職員の宿舎として、
複数の平屋の公営住宅が建っているようです。
今出川御門
桂宮家前の散策路を北へ進むと今出川御門があります。
門を出た正面の通りの両側は同志社大学で、北上した先には相国寺があります。
二条邸跡の碑
門前の今出川通を東へ進んだ同志社女子中・高校の校門前には
二条家邸跡の碑が建っていますが、江戸時代に現在地へ移転しました。
二条家は九条道家の二男・良実(よしざね:1216~1271)を祖とし、屋敷が二条富小路に
あって「二条殿」と呼ばれたことが家名の由来となりました。
第96代・後醍醐天皇の治世で関白に就任していた二条道平(1287~1335)は、
元弘元年/元徳3年(1331)に起こった元弘の乱で、後醍醐天皇の倒幕計画に関与した
として、鎌倉幕府から父・兼基に預けられ、二条家の廃絶を通告されました。
元弘3年/正慶2年(1333)に隠岐島から反撃に転じた天皇により通告は無効とされ、
左大臣及び藤氏長者に任じられました。
しかし、建武2年(1335)に道平は逝去し、その子・良基(よしもと:1320~1388)が
家督を継ぎました。
建武3年(1336)に後醍醐天皇は足利尊氏によって政権を追われ、
吉野で南朝を立てますが、良基は京都に留まり、北朝第2代・光明天皇
(在位:1336~1348)に仕えました。
二条家の邸宅で光明天皇の元服・践祚の儀式が行われ、以後明治まで新天皇の即位式で
灌頂を授ける即位灌頂の儀を掌る役目は二条家が独占していました。

中山邸跡から石薬師御門、清和院御門へ向かいます。
続く
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