三角州
加茂大橋からの光景です。
右の高野川と左の加茂川が合流して鴨川となります。
三角州の奥に見える森は「糺の森(ただすのもり」と称される原生林で、
その中に旧三井家下鴨別邸やその奥に下鴨神社があります。
糺の森の「ただす}の由来には諸説ありますが、
かって、木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ=蚕の社)で
行われていた潔斎(けっさい)の儀に由来しているのかもしれません。
第52代・嵯峨天皇の御代(809~823)にその場が、糺の森へ遷されたことにより、
蚕の社に「元糺」の言葉が残されています。
平安京が造営された当時、糺の森は約495万㎡でしたが、応仁・文明の乱(1467~1477)の
戦乱で総面積の7割を焼失し、明治時代初期の上知令による寺社領の没収などを経て、
現在の約12万4千㎡(東京ドームの約3倍)の面積となりました。
平安時代やそれ以前の植物相をおおむね留めている原生林であり、
国の史跡に指定されています。
高野川の上流に下鴨神社の祭神・賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が
降臨したとされる御蔭山があります。
加茂川の上流には賀茂建角身命の孫神を祀る上賀茂神社があります。
社号標
京阪と叡山電鉄の出町柳駅の西、高野川に架かる河合橋を渡り、
その先で右折して北上した所に社号標が建っています。
下鴨別邸-入口
その先の鳥居の手前、左側(西側)に旧三井家・下鴨別邸への入口があります。
庭を愛でながら食事やスィーツなどが楽しめます。
下鴨別邸
三井家の始まりは近江国に土着した武士で、
六角氏に仕えるようになったとされています。
織田信長の上洛により六角氏は滅ぼされ、三井氏は逃亡して伊勢国の津付近から
松坂近くの松ヶ島へ居を移しました。
慶長年間(1596~1615)には三井高俊(みつい たかとし:?~1633)が武士を廃業して
松坂に質屋兼酒屋を開き、「越後殿の酒屋」と呼ばれました。
寛永年間(1624~1645)の初め頃、高俊の嫡男・俊次は江戸本町四丁目に
小間物店を開き、後に呉服も手掛けるようになりました。
高俊の四男・高利(たかとし)は俊次の元で手代同様に働きながら
経験を積んでいましたが、母の看病のため松坂へ帰ることとなりました。
延宝元年(1673)に俊次が病死したのを機に高利は、息子たちに指示して
江戸本町一丁目に「三井越後屋呉服店」を開業しました。
これまでの慣習を破った新商法により店は栄え、京都に仕入れの店も開きました。
天和3年(1683)に店舗を拡張して両替店を開き、貞享3年(1686)に高利は本拠を松坂から
京へ移し、京都にも両替店を開店しました。
江戸・大阪間に為替業務を開設し、幕府の御用為替方となりました。
高利は元禄7年(1694)に73歳で亡くなり、真如堂で葬られました。
以後、真如堂は三井家の菩提寺となりました。
高利没後、その遺産は嫡男・高平以下子供たちの共有とされ、各家は元禄7年(1694)に、
家政と家業の統括機関である「三井大元方」を設立しました。
その後、「三井十一家」と称される同族の11家が一体となって
三井家を盛りたてました。
下鴨別邸-玄関
高利の長男・高平(1653~1737)は宝永元年(1673)に江戸での呉服店に開業を高利に
願い出て、江戸本町一丁目で「三井越後屋呉服店」を開業しましたが、
高平の当初の役割は京都での仕入れでした。
元禄4年(1691)には家族を呼び寄せ、三井総領家の「北家」と称された油小路二条下ルに
屋敷を構えました。
その8代目の三井高福(みつい たかよし:1808~1885)は、
三井銀行と三井物産を創業し、明治13年(1880)の引退に際して木屋町三条上ルに
「木屋町別邸」を建造しました。
10代目の高棟(たかみね:1857~1948)は、明治39年(1906)に麻布区今井町
(現・東京都港区六本木)に大邸宅の「今井町邸」を建設した他、
「下鴨別邸」を建造しました。
明治31年(1896)に約2万㎡の土地を購入し、木屋町別邸の建物を
主屋として移築し、玄関棟が新たに建築されて大正14年(1925)に完成しました。
明治42年(1909)に高利の祖父・高安の300回忌に合わせて蚕の社にあった
三井家の祖霊社・顕名霊社(けんなれいしゃ)が下鴨へ遷座されたのに伴い、
その参拝の休憩所としても使用されました。

戦後、三井財閥は解体され、顕名霊社は油小路邸へ遷され、
下鴨別邸は昭和24年(1949)に国に譲渡されました。
平成19年(2007)までは隣接する京都家庭裁判所の所長宿舎として
使用されていましたが、
平成23年(2011)に国の重要文化財に指定されたのに伴い、約4年間にわたる工事を経て、
平成28年(2016)10月1日から一般公開されるようになりました。
拝観料は500円で、京都市内在住の70歳以上や
市内の小・中学校に在学する生徒は無料となります。
秀穂舎
参道を北上すると泉川に架かる橋があり、その手前の右側(東側)に
秀穂舎(しゅうすいしゃ)がありますが閉門中でした。
第三十四回式年遷宮の折に、下鴨神社の神職(学問所画工)が住んでいた社家
旧浅田家住宅を改修して開館した資料館で、
下鴨神社所蔵の資料などが展示されていますが、当日は閉門されていました。
秀穂舎-華表門
表門は「華表門(かひょうもん)」と称されています。
「華表」とは鳥居のことで、門は鳥居をかたどっており、
下鴨神社の社家に多く見られるそうです。
秀穂舎-石人文官
門の前に立つ石像は「石人文官(せきじんぶんかん)」と称されています。
下鴨神社への参道の一帯は、神職の屋敷街で、
このような石像が、その証となったそうです。
泉川
裏には泉川が流れ、流れに面にして禊場があります。
御蔭通
更に北上すると、表参道を御蔭通が横切っています。
毎年、5月15日の賀茂祭(葵祭)に先だって、
5月12日には御蔭祭(御生神事=みあれしんじ)が御陰神社で行われます。
社伝では御陰神社のある地に、下鴨神社の祭神・賀茂建角身命
(かもたけつぬみのみこと)が降臨したとされ、神霊が御陰神社から
下鴨神社へと遷されます。
その祭列が通ることから「御陰通」と名付けられました。
御蔭祭の起源は、第2代・綏靖天皇(すいぜいてんのう)の
時代(BC581~BC549)と伝わります。
世界遺産の碑
御陰通を横断すると表参道の脇に「世界文化遺産」の碑が建立されています。
下鴨神社は、平成6年(1994)に「古都京都の文化財」の構成遺産として
ユネスコの世界遺産に登録されました。
下鴨神社は正式には「賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)」と称され、
山城国一宮で、旧社格は官幣大社、現在は神社本庁の別表神社に列せられています。
神仏霊場の第101番札所でもあります。
表参道
表参道の少し離れた東側には泉川、西側には「瀬見の小川」が流れています。
紅葉橋
直ぐ先の左側に「紅葉橋(もみじばし)」が架けられています。
こがらし社跡
下を流れるのが「瀬見の小川」で、下流側には禊場らしきものが見られます。
無社殿地唐崎社(からさきのやしろ)紅葉橋揺拝所かと思われます。
唐崎社は高野川と賀茂川の合流地の東岸に鎮座し、
瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)が祀られ、賀茂祭の解除(げじょ=お祓い)の
社とされていましたが、応仁・文明の乱(1467~1477)で社殿が焼失しました。
元禄7年(1694)、御手洗池に井上社として再建され、
明治4年(1871)に唐崎社の旧社地は上地令の対象となりました。
平成27年(2015)の第34回式年遷宮事業の一環として紅葉橋揺拝所が再興されました。

また、紅葉橋の辺りに雨乞いを祈る「こがらし社」がありました。
願いが叶うと泉川の小石が飛び跳ねたとの伝承が残され、
鴨の七不思議の一つに数えられています。
表参道の東に泉川が流れているので
「こがらし社」は、もう少し東にあったのかもしれません。
河合神社-鳥居
橋を渡るとその先に鳥居が建っています。
河合神社の東側鳥居で、先に見えるのが西側鳥居です。
西側鳥居から北へ延びるのが旧馬場ですが、現在は舗装されています。
河合神社-三井社
鳥居をくぐると左側(南側)に三井社があります。
三井社は「三塚社」とも呼ばれ、社殿前に立つ駒札には「古い時代の下鴨神社は、
古代山代国・愛宕(おたぎ)、葛野郷(かずぬごう)を領有していた。
その里には下鴨神社の分霊社が祀られていた。
この社は、鴨社蓼倉郷(たてくらごう)の総(祖)社として祀られていた神社。
摂社・三井神社の「蓼倉里三身社」とは別の社。」と記されています。

鴨社蓼倉郷の現在地を特定するのは困難ですが、下鴨神社の北部に
「左京区下鴨蓼倉町」の地名が残されています。
また、東部の高野川を越えた所に高野蓼倉町の地名も見られます。

祭神は中社に賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)、
東社に伊賀古夜媛売命(いかこやひめのみこと)、
西社に玉依媛売命(たまよりひめのみこと)が祀られています。
伊賀古夜媛売命は賀茂建角身命の妻で、玉依媛売命は子ですが、
豊玉姫の妹ではなく、一般に巫女を指す名とされています。
河合神社-山門
三井社の前に下鴨神社・第一摂社である河合神社の神門があります。
創建は初代・神武天皇の御代(BC660~BC585)とされています。
河合神社-社殿
社殿の配置図
河合神社-拝殿
拝殿
正式には「鴨川合坐小社宅神社(かものかわいにいますおこやけのじんじゃ)」と
称され、平安時代の延長5年(927)に編纂された『延喜式』
「神名帳」にその名が記されています。
「小社宅(こそべ)は、『日本書紀』では「社戸(こそべ)」とも記され、
本宮・賀茂御祖神社の祭神と同じ神々との意味があります。
河合神社-本殿
本殿
天安2年(858)に名神大社に列し、元暦2年(1185)には正一位の神階に列せられ、
明治10年(1887)に賀茂御祖神社の第一摂社となりました。
現在の社殿は延宝7年(1699)に行われた式年遷宮の古社殿が修造されたものです。

祭神は玉依媛売命(たまよりひめのみこと)で、初代・神武天皇の母神で、
より美しなりたいという願望と縁結びを叶え、
更には安産や子育ての神とされています。
河合神社-鏡絵馬
右側に、多数の鏡絵馬が奉納されています。
河合神社-鏡絵馬-描き方
玉依姫命は美貌の持ち主とされ、美貌成就を祈願して奉納されています。
河合神社-貴布禰社
左側に貴布禰神社(きふねじんじゃ)があり、
高龗神(たかおかみのかみ)が祀られています。
応保元年(1161)収録の『神殿屋舎等之事』に、
河合神社の御垣内に祀られていたことが記載されています。
河合神社-任部社
その左に任部社(とうべのやしろ)「古名 専女社(とうめのやしろ)」があり、
八咫烏命(やたがらすのみこと)が祀られています。
河合神社創祀のときより祀られています。
古名の「専女」とは、稲女とも書き
食物を司る神々が祀られていたことを示しています。
鎌倉時代末期に成立した『百練抄(ひゃくれんしょう』の
安元元年(1157)十月二十六日の条にある「小烏社」と合祀され、
この時より祭神が八咫烏命に改められたと推察されています。
八咫烏は、下鴨神社の祭神である賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の
化身とされ、神武東征では神武天皇を大和・橿原の地まで先導したとされています。
その後、『山城国風土記』(逸文)によれば、大和の葛木山から山代の岡田の
賀茂(岡田鴨神社がある)に至り、葛野河(高野川)と
賀茂河(鴨川)が合流する地点に鎮まったとされています。

昭和6年(1931)、八咫烏命が日本の国土を開拓された神の象徴として
日本サッカー協会のシンボルマークとなって以来、サッカー必勝の守護神となり、
サッカーボールが多数奉納されています。
河合神社-鴨長明資料館
西端には鴨長明資料館があります。
大炊殿(おおいどの)と秀穂舎(しゅうすいしゃ)との共通拝観券(500円)で
拝観できるそうですが、秀穂舎が閉まっていたため、拝観は後日とします。
河合神社-六社
境内の左側(西側)には六社(むつのやしろ)があり、右側から
諏訪社[祭神:建御方神(たけみなかたのかみ)]、
衢社(みちしゃ)[祭神:八衢毘古神(はちまたひこのかみ)、
八衢比賣神(やちまたひめのかみ)]、
稲荷社[祭神:宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)]、
竈神(かまどのかみ)[祭神:奥津日子神(おくつひこのかみ)、
奥津比賣神(おくつひめのかみ)]、
印社(いんしゃ)[祭神:霊璽(れいじ)]、
由木社(ゆうきしゃ)[祭神:少彦名神(すくなひこなのかみ)]が祀られています。
建仁元年(1201)の第八回、新年遷宮のために描かれたとみられる
「鴨社古図」によると、河合神社の御垣内にそれぞれ別々に祀られていましたが、
江戸時代の式年遷宮のとき各社が一棟となっていました。
いずれも、衣食住の守護神です。
河合神社-鴨長明方丈
境内の右側(東側)には鴨長明の方丈が再現されています。
鴨長明は久寿2年(1155)、下鴨神社最高位の地位にある
正禰宜(しょうねぎ)惣官(そうかん)、鴨長継(かものながつぐ)の
次男として誕生しました。
元久元年(1204)、かねてより望んでいた河合社(ただすのやしろ)の禰宜の
職に欠員が生じたことから、長明は就任を望み後鳥羽院から推挙の内意も得ました。
しかし、賀茂御祖神社・禰宜の鴨祐兼(すけかね)が長男の
祐頼(すけより)を推して強硬に反対したことから、長明の希望は叶わず、
神職としての出世の道を閉ざされました。
その後、長明は出家し、東山に次いで大原、晩年は京の郊外・日野山
(京都市伏見区日野町)に方丈を結んで隠棲し、
建暦2年(1212)に『方丈記』を著しました。
『方丈記』は、長明が庵内から当時の世間を観察し、書き記した記録であり、
日本中世文学の代表的な随筆とされ、約100年後の『徒然草』、
『枕草子』とあわせ「日本三大随筆」とも呼ばれています。
馬場
河合神社の東の鳥居を出ると、北側へと馬場が伸びています。
毎年、5月3日に行われる流鏑馬神事では、勇壮に馬が駆け抜け、
馬上から的にめがけて矢が放たれます。
瀬見の小川
「瀬見の小川」は馬場に沿って流れています。
河崎社-1
馬場を北上すると左側(西側)奥に末社の河崎社(こうさきのやしろ)があります。
河崎社-2
承和11年(844)に山城国粟田郷(あわたごう)が賀茂御祖神社の社領と制定され、
現在の知恩寺付近の山城国粟田郷河崎里に創建されました。
知恩寺には現在でもその名残として加茂明神鎮守堂が残されています。
京都大学から田中神社一帯にあった、鴨長明一族の鴨氏の集落・鴨村の社でした。
その後、度重なる兵火を受け、集落は鴨社神館御所跡へ移住し、
河崎社も天明5年(1785)に御所跡へ遷座されました。
大正10年(1921)に京都市都市計画法により、河崎社境内が下鴨本通となり、
鴨社神宮寺跡の賀茂斎院歴代斎主神霊社へ合祀されました。
平成27年(2015)の第34回式年遷宮事業の一環として社殿が再興されました。
賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)系譜の始祖神が祭神として祀られています。
糺の池
背後には糺の池が復元されていますが、まだ整備中で立入が禁止されています。
二十二所社
北側に隣接して摂社の二十二所社があります。
創祀されたのは不詳ですが、元々この鴨社神宮寺境内に祀られていました。
正徳元年(1711)の第24回式年遷宮により造替えされ、
末社・雄太夫社と相殿となりました。
明治10年(1877)3月21日に摂社七社の内、第六社として制定され、
21年ごとの遷宮に合わせて開帳される珍しい社であることから、
明治43年(1910)4月8日に特別保護建造物に指定され、
平成27年(2015)の第34回式年遷宮事業の一環として社殿が再興されました。

賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)系譜を始祖とする氏とその祖神魂命、
更に第9代・開花天皇の皇子・彦坐命(ひこにますのみこと)の系譜と
初代・神武天皇や第10代・崇神天皇より賜った姓の氏祖の神々が祀られています。
賀茂建角身命の御子神である玉依媛売命(たまよりひめのみこと)が祀られ、
日吉大社の祭神でもあったことから、日吉大社の揺拝所として、
一時「日吉社」とも呼ばれていました。
雑太社
北側に雑太社(さわたしゃ)があり、神魂命(かんたまのみこと)と
賀茂建角身命が祀られています。
元は鴨社神舘御所内の雑太という字地に御所の鎮祭社として祀られていた神社です。
神舘御所は下鴨村の南にあり、賀茂祭の時に内親王が清服に改める所とあります。
その後、応仁・文明の乱(1467~1477)で鴨社神舘御所は焼失し、
雑太社は鴨社神宮寺域へ遷されました。
しかし、宝永5年(1708)に鴨社神宮寺も火災を受け、河合神社へと遷されました。
第二十三回・正徳元年(1711)式年遷宮では、神宮寺域内にあった
日吉神社との相殿となり、昭和34年の第三十二回式年遷宮事業により
造替のため昭和20年(1945)末に解体され、遷宮事業が遅延のため仮殿のままでしたが、
平成27年(2015)の第34回式年遷宮事業の一環として社殿が再興されました。
雑太社-ボール
社殿前にはラグビーのボールが祀られています。
第一蹴の地
また、「第一蹴の地」の碑が建立されています。
明治32年(1899)、日本に伝わったラグビー(蹴球)は、
明治43年(1910)になって、京都に伝わり、糺の森でラグビーの
「第一蹴」が行われたとされています。
この「第一蹴の碑」は、昭和44年(1969)に三高(京都大学の前身)
蹴球部OBによって建立されました。
令和元年(2019)に日本で開催されるラグビーワールドカップの抽選会が、
平成29年(2017)5月に京都迎賓館で行われ、日本はプールAと決まりました。
その抽選に先立ち、各国の関係者が「第一蹴の碑」と「雑太社」の前に集まって、
蹴鞠の奉納・体験が行われました。
垂水
北側の垂水(たるみ)は、平成27年(2015)の第34回式年遷宮事業の一環として
新たに造られたと思われます。
第38代・天智天皇の志貴皇子が
「いけばしる 垂水の上の さ蕨(わらび)の 萌え出づる 春になりにけるかも」と
詠まれたことから造られたと思われます。
斎主神霊社
その北側には賀茂斎院歴代斎主神霊社(いつきのみやのみたまのおやしろ)があり、
35代にわたる斎王の神霊が祀られています。
斎院(さいいん)とは、賀茂社に奉仕した皇女のことで、
伊勢神宮の「斎宮」と併せて「斎王」と呼ばれています。
平安時代、平城上皇が都を平城京へ戻そうとした際、第52代・嵯峨天皇は
賀茂社が自分に味方するならば、皇女を神迎えの儀式に奉仕させると祈願しました。
弘仁元年(810)の薬子の変で嵯峨天皇側が勝利し、
4歳の有智子内親王(うちこないしんのう:807~847)が初代・賀茂斎院となりました。
歴代の斎王は内親王あるいは女王から選出され、宮中初斎院での2年の潔斎の後、
3年目の4月上旬に平安京北辺の紫野に置かれた本院(斎院御所)に参入しました。
斎王はここで仏事や不浄を避ける清浄な生活を送りながら、賀茂神社や本院での祭祀に
奉仕し、賀茂祭では上賀茂・下鴨両社に参向して祭祀を執り行いました。
その時の行列は華麗なもので、清少納言が『枕草子』で
祭見物の様子を書き留めています。
斎院は、平安時代末期となると源平の争乱でしばしば途絶するようになり、
第82代・後鳥羽天皇の皇女・礼子内親王(れいし/いやこないしんのう:1200~1273)が
第35代・斎院を退下したのを最後に承久の乱の混乱と皇室の資金不足で廃絶しました。
切芝
馬場のその先に、右へと折れる参道があります。
「瀬見の小川」に架かる橋を渡ると表参道となり、その南東側に切芝があります。
鴨の七不思議の一つで、切芝は糺の森のへそ(真中)とされ、古代からの斎場でした。
御神木
その西側の御神木は、現在は枯れてしまっています。
御神木-枯れる前
平成29年(2017)の参拝時には樹皮が剥がれて白く枯れた幹が
見え、つっかえ棒によって支えられていましたが、青々と葉を茂らせていました。
あけ橋
馬場へ戻って北上すると、右側に「あけ橋」が架かっています。
平安時代末期の社頭を描いた『鴨社古図』に見える橋で、
古くからこの下を流れる「瀬見の小川」を渡ることがお祓いであり、禊でした。
祓い清め、身が改まることから「あけ橋」と呼ばれてきました。
あけ橋-涸れ沢
しかし、現在は「瀬見の小川」の流路が変わり、橋の下に流れは無く、
東から流れてきて、この橋の南で流路を南へ変えています。
お休み処
橋を渡って東へ進むと、表参道に面して「おやすみ処」があります。
手水舎
参道の東側に手水舎があります。
覆屋は第10代・崇神天皇7年(BC91)に糺の森神地で瑞垣の造替を賜った
記録をもとに再現した透塀です。
手水舎-鉢
御手洗は、祭神の神話伝承に因む舟形磐座石で、御神水をそそぐ樋は、
「糺の森の主」と呼ばれていた樹齢600年のケヤキです。
古代から糺の森は、清水の湧く所、鴨川の水源の神地として信仰されてきました。
「糺」は「直澄(ただす)」とも記され、語源の一説ともなっています。
奈良の小川
その南側には「奈良の小川」が流れています。
この流れが下り、南北の流れとなると「瀬見の小川」と呼ばれます。
奈良殿橋
表参道の「奈良の小川」に架かる石橋は「奈良殿橋」と呼ばれ、
正面に見える鳥居は「南口鳥居」です。
奈良の小川-復元
その南側に平安時代の流路が復元されています。
烏の縄手
新旧の「奈良の小川」の間にある参道は、鴨の七不思議の一つで
「烏(からす)の縄手」と呼ばれています。
縄手とは「狭い、または細い、長い道」という意味で、
八咫烏は下鴨神社の祭神である賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の
化身とされていることから、八咫烏の神様へお参りする長い参道を意味しています。
かっては、幾筋もこのような参道がありましたが、その一部が復元されました。
奈良の小川-復元-水源
「烏の縄手」へ入って行くと、南側に復元された「奈良の小川」の水源があります。
祭祀遺構
その南側に平安時代後期の、糺の森の祭祀遺構が復元されています。
祭祀遺構-図面
平成13年(2001)から実施された発掘調査で検出された祭祀遺構の内、
石敷遺構1と石敷遺構2が復元されています。
奈良殿神地への参道
「烏の縄手」へ戻り、北へ進むと「奈良殿神地/直会殿・楼門」の立札があります。
奈良殿神地への分岐
その先で参道が分岐し、右は直会殿・楼門、左は奈良殿神地への参道となり、
奈良殿神地の方へ進みます。
奈良殿神地
奈良殿神地(ならどののかみのにわ)は古代祭祀遺構の一つです。
周囲東西18m、南北25m、高さ1.6mの小島で、島の東西を流れるのは、
みたらし池からの湧水、南側は泉川からの支流です。
二つの流れが合流する清浄な地とされ、本宮の祭神・賀茂建角身命が
天鳥舩(あまのとりふね)に乗り降臨されたとの神話伝承や、
島の形が舩に似ていることから「舩島(ふなしま)」とも呼ばれています。
舩島の中央が磐座で、磐座の地中に井戸のような遺跡があります。
古代、中州は全く新しい、生まれたばかりの神聖な清らかな土地と考えられ、
神々が鎮まるに相応しい土地として清浄視されてきました。
『日本外史』では賀茂斎王が楢刀自神(ならとじのかみ)の祭祀を
行っていたことが記され、「奈良殿」の由来となっています。
刀自とは、宮中の台所などで調理を勤めた女官であり、
古代、神饌は楢の葉に乗せて配膳されていたことから、
神饌を司る神として祀られたと考えられています。
島の周辺に卯の花が群生していたことから、神事は「卯の花神事」とも呼ばれ、
賀茂祭を前にして解除(げじょ=お祓い)の神事が行われていました。
また、祈雨や止雨の祭祀も行われていた記録も残されています。

南口鳥居まで戻り、本宮を参拝します。
続く

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