東鳥居
花山天皇陵から西へ進み、丁字路を左折して南へ進んだ所に
平野神社の駐車場があります。
平野神社は西大路通りに面しても鳥居が建っていますが、
こちらの方が鳥居から神門、拝殿、本殿が一直線上に並ぶ表参道となります。
かって、現在地には鳥居の代わりに門がありましたが、
その門は境内の南側に移されました。

平野神社は、平安京遷都に伴い、平城京からこの地へ遷され、平安時代中期には
伊勢(内宮外宮)、賀茂(上賀茂下鴨)、石清水松尾に次ぐ名社に
数えられていました。
延長5年(927)成立の『延喜式』神名帳には名神大社に列せられ、
月次祭・新嘗祭で幣帛に預かった旨が記載されています。
明治4年(1871)5月に官幣大社に列せられ、
現在は神社本庁の別表神社に列せられています。
また、神仏霊場の第94番札所となっています。
東鳥居-扁額
鳥居には「平野皇大神(ひらのすめらのおおかみ)」の扁額が掲げられています。
「平野皇大神」とは現在の平野神社の
主祭神「今木皇大神(いまきのすめおおかみ)」の古称です。
第50代・桓武天皇の生母である高野新笠(たかの の にいがさ)の祖神として、
今木神が平城京で祀られていましたが、古くは平野神と呼ばれていました。
高野新笠は百済系渡来氏族出身で、「今木」は「今来(新来)」の意味があり、
大和の高市(たけち)郡に住みついた渡来系の人々により祀られていました。
扁額は西洞院文昭(にしのとういんよしあき)氏の揮毫(きごう)によるもので、
第26代当主・西洞院時慶(にしのとういん ときよし)は親王家、摂家、寺社、武家
などの奏請を天皇に伝え奏する「伝奏」の職に就き、平野神社の本殿を建立しました。
桜池
鳥居をくぐった右側(北側)に桜池がありますが、水は張られていません。
稲荷社
桜池に架かる石橋を渡った先に出世稲荷神社があります。
西洞院時慶が、第107代・後陽成天皇の勅許をもって平野本社の復興大工事を
完成させたところ、神徳を拝受以来、「出世導引」の霊験ありとされています。
猿田彦神社
出世稲荷神社の右側に猿田彦神社があります。
桜苑
参道の西側に桜苑への入口があります。
寛和元年(985)4月10日に花山天皇が桜を手植えされたのをはじめ、
各公家伝来の桜が奉納されたことから、境内には約50種、約400本の桜が
植えられており、桜の名所となり、毎年4月10日には桜花祭が行われています。
桜花祭では花山天皇陵へ参拝し、午後からは時代行列が氏子地域を巡行します。
また、江戸時代には「平野の夜桜」として知られるようになり、現在も続いています。
桜苑は、桜の季節には有料となります。
神門
参道を西へ進むと神門があります。
拝殿-工事中
神門をくぐった正面に拝殿がありますが、平成30年(2018)9月4日神戸市に上陸し、
近畿地方を横断した台風21号で倒壊し、現在は復興工事が行われています。
拝殿は慶安3年(1650)に東福門院の寄進により建立され、
京都府の文化財に指定されていました。
「接木(つぎき)の拝殿」と呼ばれ、接木によって組み立てられ、
釘は使用されていません。
内部には公卿・平松時量(ひらまつ ときかず)により寄進された
「三十六歌仙絵」が掲げられていました。
この「三十六歌仙絵」は寛文年間(1661~1672)に海北友雪(かいほう ゆうせつ)に
よって描かれ、書は公卿・近衛基前(このえ もとひさき)の筆によるものです。
仮拝殿
工事中の拝殿の左側に仮の拝殿が建てられています。
楠木
拝殿の左側に、御神木の楠の大樹が聳えています。
すえひろがね
楠の大樹の下には「すえひろがね」と呼ばれる
餅鉄(べいてつ)の石が祀られています。
高さ約80cm、重量約200㎏の日本最大級の餅鉄で、成分は60%以上が酸化鉄で、
砂鉄より不純物が少なく鉄にしやすいとされています。
かつては、たたら製鉄などの古代製鉄で使用され、砂鉄と並ぶ重要な原料として
盛んに採集、利用され、日本刀の材料にもなります。
磁鉄鉱なので磁石につき、授与される「授かる守」の中には磁石が入っており、
「すえひろがね」の霊石に引っ付けて霊力を得るとされています。
拝所
本殿拝所
幣殿
拝所の先に幣殿があり、その奥に二殿一体となった南北二棟の本殿が並んでいます。
平安京に遷された際は、主祭神の今木皇大神(いまきのすめおおかみ)の他、
久度大神(くどのおおかみ)、古開大神(ふるあきのおおかみ)が祀られていました。
承和3年(836)から承和10年(843)の間に比売大神(ひめのおおかみ)が合祀され、
4柱が祀られるようになりました。

久度神は、国史の延暦2年(783)に「平群郡久度神」との初見があり、
平群郡(へぐりぐん)の久度神社で祀られていた竈の神とするなど諸説あります。
古開神は古関神との記載も見られ、国史での初見は承和3年(836)で、
文献では「久度・古開」と一対として扱われています。
平野社関係記事にしか見えない神であり、渡来神であり久度神と共に久度神社に
祀られたとする説や、久度神と元は同一であったとする説などがあります。
比売神は高野新笠の母方の祖神を祀ったとする説や、
高野新笠を指すとする説があります。
これらの神々は「皇大御神」「皇御神」とも称され、天元4年(981)に
第64代・円融天皇の行幸があってからは、以後も天皇の行幸が度々行われ、
皇室の守護神として崇敬されるようになりました。
また、今木神は源氏、久度神は平家、古開神は高階氏(たかなしうじ)、
比売神は大江氏、縣社は中原清原菅原秋篠氏の氏族から氏神として
崇敬されるようになりました。

室町時代になると応仁・文明の乱(1467~1478)の兵火により焼失し、
天文5年(1536)には延暦寺が京都洛中洛外の日蓮宗寺院二十一本山を焼き払い、
大火となって下京の全域、および上京の3分の1ほどを焼失した際に
平野神社も焼失しました。
その後荒廃し、江戸時代の寛永年間(1624~1644)に第107代・後陽成天皇の勅許により
公卿・西洞院時慶(にしのとういん ときよし)が本殿を造営するなど
社殿の修造を行いました。
慶安2年(1649、またはその翌年とも...)に第108代・後水尾天皇の中宮・東福門院に
より拝殿や玉垣などが建立されました。

本殿は「比翼春日造(ひよくかすがづくり)」、または社名から
「平野造(ひらのづくり)」と称され、国の重要文化財に指定されています。
縣社
本殿の左側に縣神社があり、天穂日命(あめのほひのみこと)が祀られています。
天穂日命は天照大御神の第二子とされ、葦原中国平定のために出雲の大国主命の元に
遣わされましたが、大国主命に心服して地上に住み着き、
3年間高天原に戻りませんでした。
現在の社殿は寛永8年(1631)に造営された後、昭和12年(1937)に大修理が施され、
京都府の文化財に指定されています。
右近の橘
社殿前の右近の橘
左近の桜
平野神社の左近桜は、「衣笠」と呼ばれる平野神社原木の桜です。
平野妹背櫻
拝殿の左側に植栽されている「平野妹背櫻(ひらのいもせさくら)」は、
平野神社の代表的な桜で、原木は三世です。
突羽根櫻
「突羽根櫻(つくばねさくら)」は、境内に古くから伝わる菊桜で、
原木は二世です。
御衣黄櫻
「御衣黄櫻(ぎょいこうさくら)」は、花弁に濃緑のせんがあり、
満開時に紅色の縦線が入り、弁は外に反れる珍しい品種です。
枝垂れ桜
拝殿の左側には八重紅枝垂桜が植栽されています。
四社
境内の北側に、右から鈿女(うずめ)社、蛭子(ひるこ)社、住吉社春日社
祀られています。
鈿女社は天鈿女命(あまのうずめのみこと)が祀られ、岩戸隠れで天照大神が
天岩戸に隠れて世界が暗闇になった時に、ストリップを踊った神で、
芸能の守護神とされています。
八幡社
その右方向に八幡社が祀られています。
魁桜
神門を出た南側、手水舎の西側に植栽されている「魁桜」は、
平野神社発祥の枝垂桜で、他の品種が4月初旬から下旬にかけて開花するのに対し、
いち早く3月下旬頃に花を咲かせます。
南門
桜苑に沿って南へ進むと南門があります。
南門は慶安4年(1651)に御所の門が下賜され移築されました。
かっては東の表参道にありましたが、昭和17年(1942)に南門として
現在地に移されました。
西の鳥居
境内を西へ進むと西大路通りに面して鳥居が建っています。
桜
鳥居の手前には秋なのに桜が咲いていました。
四季を問わずに花を咲かせる「不断桜」のように見えます。
参道-2
西大路通りからの参道です。
突き当たりが桜苑で、右へ進めば南門、左は神門へと続きます。

西大路通りを北へ5分ほど歩いた所にある敷地神社(わら天神宮)へ向かいます。
続く

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