百萬遍知恩寺から今出川通りを東へ進むと北側に
第94代・後二条天皇(1285~1308)の北白川陵があります。
後二条天皇は、第91代・後宇多天皇の第一皇子で、伏見天皇・後伏見天皇と
持明院統の天皇が2代連続したため、祖父・亀山法皇による幕府への強い働きかけ
があって、大覚寺統の後二条天皇の即位が実現しました。
正安3年(1301)3月24日に即位したのですが、徳治3年(1308)8月25日に病を患い、
在位後7年にして崩御されました。
西側には後二条天皇の第一皇子・邦良親王(くによししんのう/くにながしんのう:
1300~1326)の墓があります。
親王が9歳の時に後二条天皇が崩御されました。
第95代天皇として持明院統の花園天皇が即位し、本来ならば邦良親王が立太子される
はずでしたが、幼いことを理由に第96代天皇には大覚寺統の後醍醐天皇が即位し、
その皇太子となりました。
大覚寺統の天皇が2代連続することになりますが、大覚寺統・持明院統間の
皇位移譲約束である10年より短い7年で後二条天皇が崩御されたための
配慮がありました。
しかし、親王には持病があったとされ、譲位されることなく
正中3年3月20日(1326年4月23日)に薨去されました。
隣接して像高2mの大きな石仏が祀られています。
「子安観音」と称され、鎌倉時代中期の作とされていますが、
顔は普通の人間の顔のようです。
天正15年(1587)、豊臣秀吉は平安京内裏の跡地に政庁兼邸宅として聚楽第を
建立しました。
秀吉はこの石仏を気に入り、聚楽第の庭に運び入れました。
しかし、夜になると白川に戻りたいと勝手に動き、
それを阻止するために首が切り落とされたと伝わり、現在地に戻されました。
その真偽は定かではありませんが、顔は近年に彫り直されたそうです。
また、白川女(しらかわめ)はこの石仏に花を供えて商いに出るのが習わしでした。
白川女は、平安時代に切り立ての草花を頭上に載せて内裏に献上したことが
起源とされ、この辺りに住んでいた女性が、四季の草花を頭上に載せて
京都市内を売り歩いていました。
横には琵琶湖疎水の分流が流れ、この疎水沿いの道は「哲学の道」と呼ばれています。
冷泉通若王子橋を南端とする約1.5kmの散歩道で、元は明治23年(1890)に完成した
琵琶湖疏水の管理用道路でした。
その頃、この地には文人が多く住むようになり「文人の道」と称され、
大正2年(1913)に京都帝国大学の教授となった日本を代表する哲学者・
西田幾多郎(にしだ きたろう:1870~1945)らが好んで散策するようになり、
「哲学の小径」・「散策の道」・「思索の道」・「疏水の小径」などと
呼ばれるようになりました。
昭和47年(1972)に地元住民が保存運動を進めるに際し、「哲学の道」と定められ、
現在は「日本の道100選」に選定されています。
東へ進むと南側に白沙村荘(はくさそんそう)があります。
日本画家の橋本関雪(1883~1945)が大正3年(1914)頃から造営を始め、、
自身の理想郷とする建物や庭園を自ら設計して半生をかけて完成させたものです。
かなり以前に訪れた時、庭園の竹藪に「藪の羅漢」と呼ばれる数体の羅漢像が
安置されており、その表情が印象に残っています。
拝観料は1,300円とちょっと割高で、開館は10時からとまだ時間がありすぎなので、
今回は前を通り過ぎます。
その先で哲学の道は南の方へ曲がってしまいますが、
直進すると銀閣寺の総門があります。
開門は3/1~11/30は8:30~5:00で12/1~2/末は9:00~4:30です。
まだ8:00なので門は閉まっています。
左へ曲がり、進んだ先に八神社の鳥居が建っています。
かって、現在の銀閣寺の地には「浄土寺」と号する天台宗の寺院がありました。
浄土寺が創建された年代は不詳ですが、寛和2年(986)に第60代・醍醐天皇の
皇子である有明親王(ありあきらしんのう)の妃・藤原暁子(ふじわらの ぎょうし)
が出家し、有明親王の子・明救(みょうぐ:946~1020)が
寺に入ったとの記録が残されています。
八神社の創建は大同年間(806~810)または延喜年間(901~923)とされ、
浄土寺の鎮守社であったと伝わります。
八神社は「八所大明神」とも称され、古くは「十禅師大明神」とも称されていました。
本殿拝所
八神社がある浄土寺村は、嘉永6年(1858)に一帯が全焼し、古文書類も焼失したため、
詳しい歴史が明らかではありません。
祀られ、文明16年(1484)に八神殿が吉田神楽岡(現在の吉田神社大元宮)へ
遷座された後も、平安時代から八神殿を祭祀していた場所として引き続き
八神殿が祀られていると思われる」と記されています。
本殿
宮中八神殿で祀られていた神々が祀られています。
神産日神(かみむすびのかみ)、高御産日神(たかみむすびのかみ)、
玉積産日神(たまつめむすびのかみ)、生産日神(いくむすびのかみ)
足産日神(たるむすびのかみ)、大宮売神(おおみやのめのかみ)
御食津神(みけつかみ)、事代主神(ことしろぬしのかみ)
また、相殿に豊雲野神(とよくもののかみ)が祀られ、
神社ではこれを十禅師大明神としています。
十禅師大明神は平安時代~鎌倉時代に日吉大社が勢力を伸ばしたことから
祀られるようになったと由緒書には記されています。
日吉大社では、十禅師社は樹下社の旧称で、日吉大社東本宮の祭神・
大山咋神(おおやまくいのかみ)の妃・鴨玉依姫命(かもたまよりひめのみこと)が
祀られています。
日吉大社の山王祭は、大山咋神と鴨玉依姫神の結婚を再現しているとも伝わります。
八神社から下り、大文字山の登山道の方へ向かいます。
登山口には「行者の森 大文字山参道」と刻まれた石碑が建っています。
如意ヶ嶽(にょいがたけ:標高472m)の支峰が大文字山(標高465.5m)であり、
如意ヶ嶽の山中にはかって、園城寺(三井寺)の別院であった
「如意寺」(にょいじ)がありました。
山は山岳修業の場となっていたのかもしれません。
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