白壁の土蔵
春の梅が開花する季節と秋の紅葉の季節には、南側にある梅花苑と西側にある
御土居が有料で公開されます。
令和2年(2020)の秋は11月1日~12月6日まで公開され、11月14日~12月6日の
日没~午後8時まではライトアップが行われます。
入苑の初穂料は千円でお菓子とお茶のサービス付きです。
絵馬所の先に白壁の土蔵があり、直進すると御土居で、
左折した南側に梅花苑があります。
御土居図
御土居は豊臣秀吉が、長い戦乱で荒れ果てた京都の都市改造の一環として、
外敵の来襲に備える防塁として、天正19年(1591)に築きました。
東は鴨川、北西部は紙屋川沿いで、氾濫から市街を守る堤防としても築かれ、
川は堀を兼ねていました。
土塁の内側は「洛中」、外側は「洛外」で、御土居が諸国との街道を横切る場所は
「口」と呼ばれ、「京の七口」として知られていますが、御土居の築造当時には
10箇所だったそうです。
北野天満宮境内の御土居は延長250mが残された最長遺跡で、昭和40年(1965)に
国の史跡に指定されました。
しかし、他に残された御土居は昭和5年(1930)に史跡に指定され、
また一部は指定されずに残されている箇所もあります。
梅紅軒
少し北へ進むと茶室・梅紅軒があり、その西側には舞台が建立されています。
もう少しすれば、舞台から素晴らしい紅葉が鑑賞できるようで、
「御土居の紅葉」として称賛されています。
道真の歌碑
菅原道真の歌碑
「このたびは 幣(ぬさ)もとりあへず 手向山 紅葉(もみじ)の錦 神のまにまに」
昌泰元年(898)に菅原道真が宇多法皇の巡幸に供奉(ぐぶ)された際に、
手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)へ参拝され、詠まれた歌で、
「突然の参拝に供物の用意ができず、美しく織りなされた錦のような境内の紅葉を
神前に捧げましょう」との意味になります。
本殿の屋根
御土居の一部から本殿の屋根などが見渡せます。
本殿の屋根-2
手前に張り出しているのが西側の楽の間で、その右側に廻廊の西門があり、
開門されています。
西門の背後に三光門の屋根が見えます。
欅
樹齢600年とされる欅(けやき)の大樹が御土居上に聳えています。
背後に天狗山があり、その高台が御土居として利用されているようです。
「天狗山」の名の由来は、昔は天狗が住んでいたという伝説から、
室町時代の『北野天満宮社頭絵図』に烏天狗が描かれていたことによるもので、
天狗山へ登ることは禁じられています。
ここから紙屋川の方へ下ります。
紙屋川沿いの苑路
紙屋川沿いの苑路
紅葉するのはまだ先です。
悪水抜き
「悪水抜き」と呼ばれる排水口の遺構が残されています。
悪水抜き-説明
御土居を貫通する全長19.3mの切石組暗渠(あんきょ)で、雨水などが神域を
浸さないような配慮がなされています。
紙屋川と鶯橋
紙屋川には鶯橋が架かり、苑路は対岸へと渡ります。
橋の名は、この辺りで鶯(うぐいす)のさえずりが聞かれることに由来しています。
鶯橋
昭和8年(1933)4月に現在地より少し上流に架けられていましたが、昭和10年(1935)の
豪雨で流失し、親柱のみが現在の場所辺りに流れ着いていました。
現在の橋は、平成19年(2007)11月に史跡・御土居の紅葉苑開苑に際し、
木製太鼓橋として再建されました。
枝垂れ梅
懸崖造りの茶室・梅紅軒の舞台が見えます。
手前に植栽されているのは枝垂れ梅のように思えます。
三又の楓
三又の楓は樹齢400年以上で、御土居の築造以前から自生していた
紅葉苑最大の樹木です。
度々の紙屋川の氾濫にも耐え、楓科としては極めて珍しい大木です。
紅葉
僅かに色づき始めた木も見られます。
竹林
御土居が築造された当時は竹が植えられ、江戸時代になって街道を分断していた部分や
一部が寺社や公家に払い下げられて御土居が取り壊されましたが、多くは残され、
幕府により竹林として管理されていました。
梅園-1
梅花苑の方へ戻ります。
梅園-2
梅花苑は現在は工事中で、苑路の散策はできませんでした。

約1500本の梅が植えられ、2月初旬から3月末にかけて、白梅、紅梅、一重、八重と
様々な梅が開花します。
梅園-茶店
秋でも茶屋が開かれ、団子などの販売が行われています。
梅園内の文堂会館
東側の文堂会館では各種イベント、コンサートなどに使用されるようです。
楼門
梅花苑を出て楼門の方へ向かいます。
楼門が建立された年代は不明ですが、本殿と同じ頃と思われます。
随身-右

随身-左

楼門では随身が門番をしています。
楼門-扁額
門には「文道大祖 風月本主(ぶんどうの たいそ ふうげつの ほんしゅ)」と
記された扁額が掲げられています。
大江匡衡(おおえの まさひら)の筆で、菅原道真を称えたものです。
文堂会館-玄関
楼門を出た西側に文堂会館の玄関があります。
太閤井戸
玄関前を東に進み、その先で南へ曲がった所に太閤井戸があります。
天正15年10月1日(1587年11月1日)、この年の7月に九州平定を終えた豊臣秀吉は、
聚楽第の造営を行うと共に、北野大茶会(きたのだいさのえ)を催しました。
その際使われた井戸です。
北野大茶湯の碑
その東側には「北野大茶湯之址」の碑が建っています。
北野天満宮の拝殿を3つに区切り、その中央に黄金の茶室を持ち込み、
茶頭として千利休・津田宗及・今井宗久が招かれました。
当日は京都だけではなく大坂・堺・奈良からも身分の差無く大勢の参加者が駆けつけ、
総勢1,000人にも達したと伝わります。
しかし、当初10日間開催される予定が、初日のみで中止されました。
秀吉が大勢の人に茶をたてるのに疲れてしまったためとも、当日の夕方に
肥後国人一揆が発生したという知らせが入ったため中止されたなど諸説あります。
筆塚
西側の参道へ戻り、南へ進むと西側に筆塚があります。
菅原道真は、文才に長けていたことから、手習い(習字)の神として信仰され、
各地の天満宮に使い古した筆を埋めて供養する筆塚が建てられています。
北野天満宮の筆塚は天保5年(1834)に商人の小野英棟により建立されました。
三の鳥居
参道を南へ進むと三の鳥居が建っています。
伴氏社-鳥居
三の鳥居の南側に伴氏社(ともうじ しゃ)があります。
神社前の石鳥居は鎌倉時代のもので、国の重要美術品に指定されています。
伴氏社
伴氏社には菅原道真の母が祀られています。
大伴氏は天忍日命(あめのおしひのみこと)の子孫とされ、「大伴」は、
宮廷を警護する皇宮警察や近衛兵のような役割を負っていたことに因んでいます。
平安時代の弘仁14年(823)に大伴親王が第53代・淳和天皇として即位すると、
その諱(いみな)を避けて、一族は「伴(とも)」と氏を改めました。
道真の母は伴真成(とものまさしげ)の娘とされ、
貞観14年(872)正月14日に亡くなりました。
伴氏社にはかって、石造りの五輪塔がありましたが、
明治の神仏分離令後に東向観音寺に遷されました。
親子牛の像
伴氏社の南側の牛の像には子牛が寄り添っています。
境内には多数の臥牛の像が奉納されています。
菅原道真は承和12年(845)の乙丑(きのとうし)年の生まれで、
延喜3年(903)に大宰府で亡くなられた際には遺骸は
「人にひかせず牛の行くところにとどめよ」と遺言されました。
遺骸が載せられた牛車を引いていた牛は安楽寺の付近で動かなくなり、
道真は安楽寺に葬られました。
後に安楽寺の廟は朝廷により安楽寺天満宮(大宰府天満宮)に改修されました。
これらの故事から牛は天満宮の「神使い」とされています。
二の鳥居
更に参道を南へ進むと、二の鳥居が建っています。
二の鳥居から南側の参道は、左へと緩やかに曲がり、
西側に東向観音寺がありますが、後で参拝します。
萩狛犬
鳥居前の狛犬は長州藩の寄進によるもので「萩狛犬」と称されています。
松向軒
東向観音寺の先に茶室・松向軒(しょうこうけん)がありますが、
通常非公開で門は閉ざされています。
天正15年(1587)に豊臣秀吉が開催した北野大茶会の際に建立されましたが、
その後、大徳寺の塔頭・高桐院(こうとういん)に移築されたため、
復元されて、毎月15日にお茶会が催されるようになりました。
松向軒は、利休の茶を忠実に継承したといわれる細川忠興(三斎)により、
「影向の松」に向かい合うように建立され、「松向軒」と名付けられました。
敷地内には当時の井戸が残され、「三斎井戸」と称されています。
影向の松
影向の松(ようごうのまつ)には、三冬(初冬~節分)間の初雪の時に、
祭神・菅原道真が降臨して雪見の歌を詠んだとの伝承が残されています。
露の五郎兵衛顕彰碑
影向の松の北側に露の五郎兵衛(ごろべえ)顕彰碑があります。
初代・露の五郎兵衛(1643~1703)は、京都出身で、元は日蓮宗の談義僧でしたが、
還俗して辻咄(つじばなし)を創始し、京都の北野、四条河原、真葛が原や
その他開帳場などで笑い咄、歌舞伎の物真似、判物を演じました。
上方落語の祖とされていますが、晩年に再び剃髪し、露休を号しました。
この碑は二代目・露の五郎が、落語生活50年を記念して、
平成11年(1999)3月に建立しました。
一の鳥居
一の鳥居の前の狛犬は高さが約5mあり、府内最大の大きさです。
新門辰五郎の石灯籠
一の鳥居の西に「新門辰五郎(しんもん たつごろう)の石灯籠」があります。
新門辰五郎(1800?~1875)は、江戸時代後期の町火消の頭で、寛永寺の座主だった
舜仁法親王(しゅんにんほっしんのう)が、浅草新門あたりに隠棲した際、
幕府より周辺の警護を命じられ、以降「新門」を名乗るようになりました。
元治元年(1864)に禁裏御守衛総督(きんりごしゅえいそうとく)に任じられた
徳川慶喜が上洛した際に呼び寄せられ、子分250名と息子の松五郎と共に
慶喜の元で、二条城の警備などを行いました。
この石灯籠は辰五郎の寄進によるもので、「江戸 消防方」と刻まれ、
新門辰五郎の名が見えます。

洛陽三十三所観音霊場・第31番札所である東向観音寺へ向かいます。
 続く

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村