泉涌寺道の先は、左・今熊野観音寺、直進・後月輪東山陵
(のちのつきのわひがしのみささぎ)、右・泉涌寺の大門に至る三叉路となり、
右折して進むと、右側に悲田院(ひでんいん)まで約100mの参道があります。
参道を進んだ先には、悲田院の朱塗りの山門があります。
悲田院は、泉山七福神巡りの第6番(毘沙門天)札所です。
悲田院は、仏教の慈悲の思想に基づき、貧しい人や身寄りのない老人や孤児、
そして病人など救済する施設として、聖徳太子が四天王寺の境内に建てたのが
始まりとされています。
その日付が推古天皇元年(593)9月15日だったとして
「敬老の日」の由来とする説もあります。
悲田院は平城京、平安京と引き継がれ、平安京では左京と右京の東西に設置されました。
当時の悲田院は第45代・聖武天皇(在位:723~749)の皇后・光明皇后(701~760)が設立した
施薬院の別院となり、その管理下に置かれていました。
藤原氏は、光明皇后の実家であることを理由に施薬院の運営に介入を行うようになり、
承和3年(836)頃に藤原冬嗣(ふじわら の ふゆつぐ:775~826)が、
施薬院に食封1,000戸を寄進したものの、その使い道を藤原氏の困窮者の救済に
限定させるなど形骸化して次第に衰微し、右京の西悲田院は廃絶しました。
延慶元年(1308)に無人如導宗師(むにん にょどう そうし:生没年不詳)は、
右京にあった西悲田院系譜を引き継いで一条安居院(あんごいん)に再興し、
天台・真言・禅・浄土の四宗兼学の寺「上悲田院」として復興しました。
第102代・後花園天皇(在位:1428~1464)は上悲田院を勅願寺とされたことから、
代々の住持は綸旨(りんじ=蔵人が天皇の意を受けて発給する文書)を賜り、
紫衣参内が許されるようになりました。
その後、兵乱により衰微し、正保3年(1646)に泉涌寺80世住持・如周恵公
(にょしゅう けいこう:生没年不詳)が、高槻藩主・永井直清(ながい なおきよ:
1591~1671)の帰依を受け、上悲田院を現在地へ移転し、泉涌寺の塔頭となりました。
幕末までは高槻藩の庇護のもと、大いに栄え、明治18年(1885)に泉涌寺塔頭の寿命院と
合併、再興されています。
参道の正面に毘沙門堂があり、泉山七福神巡りの第6番札所本尊である
毘沙門天像が安置されています。
毘沙門天は、元はインドのヒンドゥー教のクベーラ神で、福徳増進の神とされています。
悲田院は通常非公開ですが、不定期で特別公開も行われているようです。
その左側が本堂でしょうか?
本尊は阿弥陀如来で、仏殿の中央に安置されています。
その左側に安置されている阿弥陀如来立像は、鎌倉時代の作で、本来は左手の与願印を
右手で結ぶことから、「逆手の阿弥陀如来立像」とも呼ばれています。
右側に安置されている像高72cmの宝冠阿弥陀如来坐像は、
平成21年(2009)の京都国立博物館などの調査により、頭部から墨書きが発見され、
快慶(生没年不詳)と断定されました。
無人如導和尚像と永井直清像は共に江戸時代の作です。
本堂「東の間」の「唐人物画」と「西の間」の「松に群猿図」「走獣画」は共に
江戸時代前期の土佐派の画家・土佐光起(とさ みつおき:1617~1691)の
筆によるものです。
「中間の間」の「紅葉に芦雁図」は、光起とその子・光成(1646~1710)との
共同の筆によるものです。
また、橋本関雪(1883~1945)の襖絵が残されています。
にほんブログ村