鞍馬街道の市原から西へ進むと賀茂川に架かる橋を渡って
雲ケ畑街道に突き当たります。
賀茂川に沿って上流の方へ雲ケ畑街道を登って行くと、
京都市北区役所雲ケ畑出張所があり、その向かい側に
高雲禅寺があります。
高雲禅寺は山号を「九龍山」と号する臨済宗永源寺派の寺院です。
惟喬親王(これたかしんのう)が隠棲した高雲宮でしたが、
貞観11年(869)に親王が出家した際に寺に改められました。
当初は真言宗寺院として栄え、里人が集まって謡曲『田村』が奉納されました。
その後、文政年間(1818~1831)に永源寺の末寺となり、臨済宗に改宗されました。
参道を登って行くと地蔵菩薩像が祀られています。
更に本堂への石段を登りますが、本堂は扉が閉じられています。
本堂
本尊は釈迦牟尼仏で、他に薬師如来像などが安置されています。
また、惟喬親王の位牌が祀られています。
惟喬親王は、文徳天皇の第一皇子でしたが、皇位は第四皇子の惟仁親王が継承し、
後に第56代・清和天皇として即位することになりました。
惟仁親王の母は、当時の右大臣藤原良房の娘で、良房らの圧力により
惟喬親王は皇位を奪われ、都を出ることになりました。
伝承によると、惟喬親王は貞観9年(867)、現在の桟敷ヶ岳(さじきがたけ)
辺りに隠棲し、翌年雲ケ畑に迎えられ、高雲宮に移り住み、
そこで出家しました。
桟敷ヶ岳には、惟喬親王が山上に高楼(桟敷)を構えて都を眺望したという
伝説があり、それが山の名の由来となったとされています。
境内の奥に「親王へ 火の文字今も 里の盆」と記された句碑が建っています。
毎年8月24日の午後8時頃に点火される雲ヶ畑松上げは、高雲禅寺境内の
出合橋付近の山の中腹と、福蔵院から北西に見える山の中腹で行われています。
雲ヶ畑松上げは惟喬親王を慰めるために村人が行ったのが始まりとされ、
その後一時途絶えましたが、明治時代に復活されました。
現在では、火除けと五穀豊穣を祈願する愛宕信仰の献火行事として行われています。
当日は、松明で記された火文字が夜空に浮かび上がりますが、
文字は毎年異なり、どの文字になるかは点火まで秘密にされています。
街道に戻り北上すると右側に厳島神社があります。
厳島神社の創建やその後の変遷に関する詳細は不明ですが、延長5年(927)に
編纂された延喜式神名帳に記されている「天津石門別稚姫神社
(あまついわとわけわかひめじんじゃ)」に比定されています。
その後、弁財天信仰により「石門別弁財天(いわとわけべんざいてん)」、
「雲ケ畑弁財天」とも称されましたが、明治の神仏分離令による廃仏毀釈で
「厳島神社」と改称されました。
拝殿の背後に本殿があります。
天津石門別稚姫が祭神として祀られ、この地周辺の雲ケ畑中畑町・中津川町の
産土神として信仰されています。
本殿前の右側には中畑町・中津川町の各所にあった宮が集められて祀られています。
手前から天御中主神社・大山祇神社・稲荷神社・八幡神社
本殿裏の右側の山麓に約5mの巨岩が15mほど離れて聳え立ち、
祭神の天津石門別稚姫が降臨した所とされています。
天津石門別稚姫とは...?
太陽の神である天照大御神が素戔嗚命の横暴な行動に嘆き、天岩戸に隠れ
暗闇の世界となりました。
その時、天鈿女命(あめのうずめのみこと)の歌と踊りで天照大御神が
天岩戸の扉を開けたと伝わり、天津石門別稚姫とは天鈿女命では...?
と思われます。
その後、天鈿女命は邇邇芸命(ににぎのみこと)に随伴して
葦原中国(あしはらのなかつくに)に降臨し、その際道案内した猿田彦神を
伊勢まで送り、猿田彦神に仕えたとも、嫁になったとも伝わります。
厳島神社から進んだ先に持越峠への分かれ道があります。
雲ケ畑は賀茂川の水源地で、死者を埋葬することは穢れとされ、
賀茂川の水を汚すことになりました。
そのため遺体はこの峠を越えて隣の真弓集落まで運ばれ、
遺体を持ち越すから「持越峠」と呼ばれるようになりました。
街道を更に北上すると街道の右側(東側)に福蔵院があります。
石段の脇には観音像と思われる石仏が祀られています。
その下には童地蔵尊が祀られています。
現在の本堂は安政元年(1854)に再建されたもので、堂内には本尊の
阿弥陀如来像が安置されています。
福蔵院は山号を「帰命山」、寺号を「無量寿寺」と号する
浄土宗知恩院派の寺院です。
福蔵院は延暦11年(792)に最澄の門弟・空忍が当地で修行中に阿弥陀三尊を
感得し、像を刻んで一宇に安置したのが始まりとされています。
当初は天台宗で、比叡山三千坊の一つに数えられていました。
文明5年(1473)に室町幕府第9代将軍・足利義尚(よしひさ:1465~1489)の
命により浄土宗へ改宗させられました。
本堂前には、明和年間(1764~1772)に、最後の女性天皇である
第117代・後桜町天皇(在位:1762~1771)から紫宸殿の南庭にあった
左近の桜の種が移植され、昭和37年(1962)当時の写真が残されています。
しかし、その後枯死し、その種からの苗木が植栽されましたが、
鹿による食害で悲惨な姿となっています。
本堂から北西方向に見える山は福蔵院の境内地で、
毎年8月24日に行われる「雲ヶ畑松上げ」では山頂付近で午後8時頃に点火されます。
「雲ヶ畑松上げ」は昭和58年(1983)に京都市無形文化財に指定されました。
本堂の左側に観音堂があり、十一面観世音菩薩像が安置されています。
豊臣秀吉の守護仏と伝わり、かっては石清水八幡宮の豊蔵坊に
安置されていましたが、天正年間(1573~1592)に福蔵院へ遷されました。
残念なのは腕の一部に檀家さんによる雑な補修が施されていることです。
福蔵院の先で右から祖父谷川が賀茂川に合流し、街道は祖父谷川沿いに進みます。
画像はありませんが、その先で祖父谷川に架かる岩屋橋があります。
かってはここのバス停まで京都バスが運行されていましたが、
平成24年(2012)に撤退し、同年から雲ケ畑自治振興会が運営主体となった
9人乗りジャンボタクシーの「 雲ケ畑バス~もくもく号~」が運行されています。
雲ケ畑地域と北大路駅前を結び、1日2往復で料金は片道700円です。
雲ケ畑街道から外れて岩屋橋を渡った先に惟喬神社があります。
寛平9年2月20日(897年3月30日)に惟喬親王が薨去された後、
親王を祭神として創建されました。
社殿には「雌宮(めんどりのみや)」の扁額が掲げられています。
親王が寵愛した雌鷹が死に、この地に葬られたことから
社殿が建てられたと伝わります。
親王が薨去された時、雌鷹の鳴き声がしたとの伝承から
「雌宮」とも「雌社(めんどりのやしろ)」とも呼ばれています。
親王の墓所は大原にあります。
拝殿の脇には巨木の切り株が残されています。
惟喬神社から賀茂川の源流へを北上した所に志明院があります。
岩屋橋から歩くと約20分の距離となります。
駐車場から石段を登った右側に本坊があります。
志明院は山号を「岩屋山」、寺号を「金光峯寺(きんこうほうじ)」と
号する真言宗系の単立寺院です。
寺伝では白雉元年(650)に役行者が開山し、修験道の行場となっていました。
その後、天長6年(829)に弘法大師が、第53代・淳和天皇の命により
堂宇を建立して再興し、鎮護国家の祈祷を行ったとされています。
また、雲ケ畑からは平安京造営の際に木材が切り出され、
近世まで薪や炭などが朝廷に献上されていました。
東京奠都後も明治中期から大正にかけて「御猟場」(ごりょうば)が設けられるなど
皇室とのつながりがありました。
志明院も代々天皇の勅願寺となり、また室町幕府からの寄進を受けて栄えました。
享禄元年(1528)に第105代・後奈良天皇は諸堂開扉の詔を発し、
天下静謐の祈願を行いました。
その祈願が成就したとして勅額「志明院」を賜り、それが寺号となりました。
この頃には坊の数は40を超え、谷々を埋めていたと伝わります。
第113代・東山天皇(在位:1687~1709)から山桜800本が寄進され、
境内に植えられましたが明治以降に大半が伐採されました。
天保2年(1831)の火災で、仁王門・鐘楼・僅かの仏像を除いて焼失し、
更に明治の上知令で領地を失い、寺は荒廃しました。
その後、明治期(1868~1912)に有志の方々により再建されました。
本坊前に受付があり、入山料400円を納めます。
この先に仁王門がありますが、仁王門から先は撮影が禁止され、
手荷物やカメラは預けなければなりません。
仁王門は室町時代に再建されました。
以後、画像はありませんが、仁王門に安置されている金剛力士像は
運慶とその実子・甚慶の作で、扁額「岩屋山」は小野道風の筆と伝わります。
仁王門をくぐり石段を登ると右側に鐘楼があります。
平成30年(2018)の台風21号で倒壊し、その2年後に再建されました。
鐘楼の脇に「お静明神碑」がありますが、詳細は不明です。
その先の岩には天照大御神が祀られています。
石段の左側には四国八十八ヶ所霊場の各本尊が祀られ、
山中に遍路道があるようですが、現在は閉鎖されています。
更に石段を登った所に本堂があります。
本尊は不動明王で、弘法大師の作と伝わります。
脇檀には鎌倉時代作の大日如来像と毘沙門天像が安置されています。
但し、通常は非公開です。
本堂から左へ進むと地蔵菩薩像が祀られています。
その左側に「お滝」があり、その上部に飛龍権現が祀られています。
弘法大師が入山行法の際に、山の守護神が飛龍となって
この滝壺に入ったとの伝承が残されています。
「お滝」の右側を登り、その上部に架かる橋を渡って左側へ進み、
更に「お滝」の上流に架かる橋を渡って進んだ先に
鳴滝岩屋と薬師の岩屋があり、どちらも手前に柵が建てられ、
窟内に入ることは出来ません
右側の薬師の岩屋には薬師如来と思われる石仏が祀られています。
左側の鳴滝岩屋では護摩行が修せられているようで、不動明王が祀られています。
弘法大師が石に経文を書いて納経した場所ともされています。
また、歌舞伎十八番のひとつである『鳴神(なるかみ)』の舞台ともされています。
世継ぎのない天皇から依頼を受け、鳴神上人は戒壇建立を約束に
皇子誕生の祈願を行いました。
成就して皇子が誕生したにも拘らず、天皇は戒壇建立の約束を反故にしました。
怒った上人は呪術を用いて、雨を降らす龍神をこの洞窟に封じ込めました。
旱魃に見舞われ、困った朝廷は内裏一の美女・雲の絶間姫(くものたえまひめ)を
上人の許に遣わしました。
姫に酒を勧められ、上人が酔いつぶれて眠った隙に、
姫が洞窟前の注連縄を断ち切り封印を解くと、雨が降り出したという
筋書きになっています。
最初に渡った橋まで戻り、橋の手前の石段を登ると、
その先は立入禁止となっています。
右側に曲がると「神降窟(しんこうくつ)」と呼ばれる
高さ約30mの大岩窟があります。
その横に組まれた階段を登ると懸崖造りの根本中院があり、
第59代・宇多天皇の勅願により
菅原道真公が一刀三礼して刻んだと伝わる眼力不動明王が安置されています。
秘仏とされ、即位に際し勅使を迎えて開扉され、宝祚(ほうそ=皇位)延長、
万民安穏の祈願が行われます。
神降窟の岩間からは難病を治すと伝わる霊水が今も湧き出ています。
その昔、岩屋山に薬王菩薩が顕れ、薬王菩薩がこの霊水で諸薬をすすぎ洗うと
薬草となり、山全体に広がったと伝わります。
その香りたなびく様子が、「紫雲」のようであったことが
「雲ケ畑」の地名となったという説があります。
山頂まで行場が開かれ、かっては一般の人々も登れたそうですが、
現在はここから先の立ち入りは禁止されています。
作家の司馬遼太郎が新聞記者だった頃、志明院に宿泊した時の
奇っ怪な体験をエッセイにしました。
宮崎駿監督は、司馬遼太郎と対談した時にその話を聞き、
アニメ映画「もののけ姫」を着想したそうです。
西賀茂の方へ下ります。
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