タグ:惟喬親王

高雲禅寺-寺号標
鞍馬街道の市原から西へ進むと賀茂川に架かる橋を渡って
雲ケ畑街道に突き当たります。
賀茂川に沿って上流の方へ雲ケ畑街道を登って行くと、
京都市北区役所雲ケ畑出張所があり、その向かい側に
高雲禅寺があります。

高雲禅寺は山号を「九龍山」と号する臨済宗永源寺派の寺院です。
惟喬親王(これたかしんのう)が隠棲した高雲宮でしたが、
貞観11年(869)に親王が出家した際に寺に改められました。
当初は真言宗寺院として栄え、里人が集まって謡曲『田村』が奉納されました。
その後、文政年間(1818~1831)に永源寺の末寺となり、臨済宗に改宗されました。
高雲禅寺-地蔵像
参道を登って行くと地蔵菩薩像が祀られています。
高雲禅寺-本堂への石段
更に本堂への石段を登りますが、本堂は扉が閉じられています。
高雲禅寺-本堂
本堂
本尊は釈迦牟尼仏で、他に薬師如来像などが安置されています。
また、惟喬親王の位牌が祀られています。
惟喬親王は、文徳天皇の第一皇子でしたが、皇位は第四皇子の惟仁親王が継承し、
後に第56代・清和天皇として即位することになりました。
惟仁親王の母は、当時の右大臣藤原良房の娘で、良房らの圧力により
惟喬親王は皇位を奪われ、都を出ることになりました。
伝承によると、惟喬親王は貞観9年(867)、現在の桟敷ヶ岳(さじきがたけ)
辺りに隠棲し、翌年雲ケ畑に迎えられ、高雲宮に移り住み、
そこで出家しました。
桟敷ヶ岳には、惟喬親王が山上に高楼(桟敷)を構えて都を眺望したという
伝説があり、それが山の名の由来となったとされています。
高雲禅寺-句碑
境内の奥に「親王へ 火の文字今も 里の盆」と記された句碑が建っています。
毎年8月24日の午後8時頃に点火される雲ヶ畑松上げは、高雲禅寺境内の
出合橋付近の山の中腹と、福蔵院から北西に見える山の中腹で行われています。
雲ヶ畑松上げは惟喬親王を慰めるために村人が行ったのが始まりとされ、
その後一時途絶えましたが、明治時代に復活されました。
現在では、火除けと五穀豊穣を祈願する愛宕信仰の献火行事として行われています。
当日は、松明で記された火文字が夜空に浮かび上がりますが、
文字は毎年異なり、どの文字になるかは点火まで秘密にされています。
厳島神社-社号標
街道に戻り北上すると右側に厳島神社があります。
厳島神社の創建やその後の変遷に関する詳細は不明ですが、延長5年(927)に
編纂された延喜式神名帳に記されている「天津石門別稚姫神社
(あまついわとわけわかひめじんじゃ)」に比定されています。
その後、弁財天信仰により「石門別弁財天(いわとわけべんざいてん)」、
「雲ケ畑弁財天」とも称されましたが、明治の神仏分離令による廃仏毀釈で
「厳島神社」と改称されました。
厳島神社-本殿
拝殿の背後に本殿があります。
天津石門別稚姫が祭神として祀られ、この地周辺の雲ケ畑中畑町・中津川町の
産土神として信仰されています。
厳島神社-境内社
本殿前の右側には中畑町・中津川町の各所にあった宮が集められて祀られています。
手前から天御中主神社・大山祇神社・稲荷神社・八幡神社
厳島神社-巨石
本殿裏の右側の山麓に約5mの巨岩が15mほど離れて聳え立ち、
祭神の天津石門別稚姫が降臨した所とされています。
天津石門別稚姫とは...?
太陽の神である天照大御神が素戔嗚命の横暴な行動に嘆き、天岩戸に隠れ
暗闇の世界となりました。
その時、天鈿女命(あめのうずめのみこと)の歌と踊りで天照大御神が
天岩戸の扉を開けたと伝わり、天津石門別稚姫とは天鈿女命では...?
と思われます。
その後、天鈿女命は邇邇芸命(ににぎのみこと)に随伴して
葦原中国(あしはらのなかつくに)に降臨し、その際道案内した猿田彦神を
伊勢まで送り、猿田彦神に仕えたとも、嫁になったとも伝わります。
持越峠
厳島神社から進んだ先に持越峠への分かれ道があります。
雲ケ畑は賀茂川の水源地で、死者を埋葬することは穢れとされ、
賀茂川の水を汚すことになりました。
そのため遺体はこの峠を越えて隣の真弓集落まで運ばれ、
遺体を持ち越すから「持越峠」と呼ばれるようになりました。
福蔵院-入口
街道を更に北上すると街道の右側(東側)に福蔵院があります。
石段の脇には観音像と思われる石仏が祀られています。
福蔵院-童地蔵
その下には童地蔵尊が祀られています。
福蔵院-本堂-1
現在の本堂は安政元年(1854)に再建されたもので、堂内には本尊の
阿弥陀如来像が安置されています。
福蔵院-本堂-2
福蔵院は山号を「帰命山」、寺号を「無量寿寺」と号する
浄土宗知恩院派の寺院です。
福蔵院は延暦11年(792)に最澄の門弟・空忍が当地で修行中に阿弥陀三尊を
感得し、像を刻んで一宇に安置したのが始まりとされています。
当初は天台宗で、比叡山三千坊の一つに数えられていました。
文明5年(1473)に室町幕府第9代将軍・足利義尚(よしひさ:1465~1489)の
命により浄土宗へ改宗させられました。
福蔵院-桜-写真
本堂前には、明和年間(1764~1772)に、最後の女性天皇である
第117代・後桜町天皇(在位:1762~1771)から紫宸殿の南庭にあった
左近の桜の種が移植され、昭和37年(1962)当時の写真が残されています。
福蔵院-桜
しかし、その後枯死し、その種からの苗木が植栽されましたが、
鹿による食害で悲惨な姿となっています。
福蔵院-山
本堂から北西方向に見える山は福蔵院の境内地で、
毎年8月24日に行われる「雲ヶ畑松上げ」では山頂付近で午後8時頃に点火されます。
「雲ヶ畑松上げ」は昭和58年(1983)に京都市無形文化財に指定されました。
福蔵院-観音堂
本堂の左側に観音堂があり、十一面観世音菩薩像が安置されています。
豊臣秀吉の守護仏と伝わり、かっては石清水八幡宮の豊蔵坊
安置されていましたが、天正年間(1573~1592)に福蔵院へ遷されました。
残念なのは腕の一部に檀家さんによる雑な補修が施されていることです。
惟喬神社-社号標
福蔵院の先で右から祖父谷川が賀茂川に合流し、街道は祖父谷川沿いに進みます。
画像はありませんが、その先で祖父谷川に架かる岩屋橋があります。
かってはここのバス停まで京都バスが運行されていましたが、
平成24年(2012)に撤退し、同年から雲ケ畑自治振興会が運営主体となった
9人乗りジャンボタクシーの「 雲ケ畑バス~もくもく号~」が運行されています。
雲ケ畑地域と北大路駅前を結び、1日2往復で料金は片道700円です。

雲ケ畑街道から外れて岩屋橋を渡った先に惟喬神社があります。
惟喬神社-本殿
寛平9年2月20日(897年3月30日)に惟喬親王が薨去された後、
親王を祭神として創建されました。
惟喬神社-本殿-扁額
社殿には「雌宮(めんどりのみや)」の扁額が掲げられています。
親王が寵愛した雌鷹が死に、この地に葬られたことから
社殿が建てられたと伝わります。
親王が薨去された時、雌鷹の鳴き声がしたとの伝承から
「雌宮」とも「雌社(めんどりのやしろ)」とも呼ばれています。
親王の墓所は大原にあります。
惟喬神社-拝殿
拝殿の脇には巨木の切り株が残されています。
志明院-本坊
惟喬神社から賀茂川の源流へを北上した所に志明院があります。
岩屋橋から歩くと約20分の距離となります。
駐車場から石段を登った右側に本坊があります。
志明院は山号を「岩屋山」、寺号を「金光峯寺(きんこうほうじ)」と
号する真言宗系の単立寺院です。

寺伝では白雉元年(650)に役行者が開山し、修験道の行場となっていました。
その後、天長6年(829)に弘法大師が、第53代・淳和天皇の命により
堂宇を建立して再興し、鎮護国家の祈祷を行ったとされています。
また、雲ケ畑からは平安京造営の際に木材が切り出され、
近世まで薪や炭などが朝廷に献上されていました。
東京奠都後も明治中期から大正にかけて「御猟場」(ごりょうば)が設けられるなど
皇室とのつながりがありました。
志明院も代々天皇の勅願寺となり、また室町幕府からの寄進を受けて栄えました。
享禄元年(1528)に第105代・後奈良天皇は諸堂開扉の詔を発し、
天下静謐の祈願を行いました。
その祈願が成就したとして勅額「志明院」を賜り、それが寺号となりました。
この頃には坊の数は40を超え、谷々を埋めていたと伝わります。
第113代・東山天皇(在位:1687~1709)から山桜800本が寄進され、
境内に植えられましたが明治以降に大半が伐採されました。
天保2年(1831)の火災で、仁王門・鐘楼・僅かの仏像を除いて焼失し、
更に明治の上知令で領地を失い、寺は荒廃しました。
その後、明治期(1868~1912)に有志の方々により再建されました。
志明院-仁王門
本坊前に受付があり、入山料400円を納めます。
この先に仁王門がありますが、仁王門から先は撮影が禁止され、
手荷物やカメラは預けなければなりません。

仁王門は室町時代に再建されました。
以後、画像はありませんが、仁王門に安置されている金剛力士像は
運慶とその実子・甚慶の作で、扁額「岩屋山」は小野道風の筆と伝わります。

仁王門をくぐり石段を登ると右側に鐘楼があります。
平成30年(2018)の台風21号で倒壊し、その2年後に再建されました。
鐘楼の脇に「お静明神碑」がありますが、詳細は不明です。
その先の岩には天照大御神が祀られています。

石段の左側には四国八十八ヶ所霊場の各本尊が祀られ、
山中に遍路道があるようですが、現在は閉鎖されています。

更に石段を登った所に本堂があります。
本尊は不動明王で、弘法大師の作と伝わります。
脇檀には鎌倉時代作の大日如来像と毘沙門天像が安置されています。
但し、通常は非公開です。

本堂から左へ進むと地蔵菩薩像が祀られています。
その左側に「お滝」があり、その上部に飛龍権現が祀られています。
弘法大師が入山行法の際に、山の守護神が飛龍となって
この滝壺に入ったとの伝承が残されています。

「お滝」の右側を登り、その上部に架かる橋を渡って左側へ進み、
更に「お滝」の上流に架かる橋を渡って進んだ先に
鳴滝岩屋と薬師の岩屋があり、どちらも手前に柵が建てられ、
窟内に入ることは出来ません
右側の薬師の岩屋には薬師如来と思われる石仏が祀られています。

左側の鳴滝岩屋では護摩行が修せられているようで、不動明王が祀られています。
弘法大師が石に経文を書いて納経した場所ともされています。
また、歌舞伎十八番のひとつである『鳴神(なるかみ)』の舞台ともされています。
世継ぎのない天皇から依頼を受け、鳴神上人は戒壇建立を約束に
皇子誕生の祈願を行いました。
成就して皇子が誕生したにも拘らず、天皇は戒壇建立の約束を反故にしました。
怒った上人は呪術を用いて、雨を降らす龍神をこの洞窟に封じ込めました。
旱魃に見舞われ、困った朝廷は内裏一の美女・雲の絶間姫(くものたえまひめ)を
上人の許に遣わしました。
姫に酒を勧められ、上人が酔いつぶれて眠った隙に、
姫が洞窟前の注連縄を断ち切り封印を解くと、雨が降り出したという
筋書きになっています。

最初に渡った橋まで戻り、橋の手前の石段を登ると、
その先は立入禁止となっています。
右側に曲がると「神降窟(しんこうくつ)」と呼ばれる
高さ約30mの大岩窟があります。
その横に組まれた階段を登ると懸崖造りの根本中院があり、
第59代・宇多天皇の勅願により
菅原道真公が一刀三礼して刻んだと伝わる眼力不動明王が安置されています。
秘仏とされ、即位に際し勅使を迎えて開扉され、宝祚(ほうそ=皇位)延長、
万民安穏の祈願が行われます。

神降窟の岩間からは難病を治すと伝わる霊水が今も湧き出ています。
その昔、岩屋山に薬王菩薩が顕れ、薬王菩薩がこの霊水で諸薬をすすぎ洗うと
薬草となり、山全体に広がったと伝わります。
その香りたなびく様子が、「紫雲」のようであったことが
「雲ケ畑」の地名となったという説があります。

山頂まで行場が開かれ、かっては一般の人々も登れたそうですが、
現在はここから先の立ち入りは禁止されています。
作家の司馬遼太郎が新聞記者だった頃、志明院に宿泊した時の
奇っ怪な体験をエッセイにしました。
宮崎駿監督は、司馬遼太郎と対談した時にその話を聞き、
アニメ映画「もののけ姫」を着想したそうです。

西賀茂の方へ下ります。

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

常盤井
建勲神社の大鳥居前を東へ進み、智恵光院通りを北へ進んだ一筋目の東側に
常盤井があります。
京都の名水の一つで、碑文には霊泉の功徳が記されています。
しかし、現在、水は枯れています。
かって、この辺りに源義朝の邸宅があり、その側室で源義経の母である
常盤御前(ときわごぜん)に因み名付けられたと、
江戸時代の地誌類で記すものがあります。
また、西園寺公経(きんつね)の子・西園寺實氏(さねうじ)が
「常盤井相國」と号したことに因むとの説もあります。
常盤井-猫
猫が座る細い路地を入った所に衣懸塚(きぬかけづか)があります。
衣懸塚
常盤御前が着物を掛け、常盤井に姿を映して化粧をしたとの伝承から
「鏡塚」とも呼ばれています。
しかし、江戸時代の文化年間(1804~1817)の天皇陵調査で、第69代・後朱雀天皇・
第73代・堀河天皇・第78代・二条天皇の三人の天皇陵の候補地とされ、
『文化山陵図』にも塚は描かれています。
当時は田畑の中にあって、盛り上がった墳丘の周りには水をたたえた溝があり、
塚上には、大きな樹木がありました。
しかし、その後の天皇陵調査では陵墓参考地にも成らず、
現在のような状況となりました。
このまま保存されるのかも不安に思えます。
今宮神社御旅所
一方通行の関係で智恵光院通りを南進し、鞍馬口通りへ左折して東へ進み、
更に大宮通りへ左折して北上した東側に今宮神社の御旅所があります。
毎年5月5日の今宮祭神幸祭(いまみやまつりしんこうさい)では、
この御旅所まで三基の神輿を中心に約800名の行列が巡幸します。
玄武神社-鳥居
御旅所の東側に玄武神社がありますが、一方通行の関係で一旦北上して東へ進み、
南へ戻らなければなりません。
玄武神社は王城の北に位置し、北方を護る玄武を社号としています。
玄武は亀と蛇の合わさった姿で表されたことから、かって玄武神社には
小池があり、多くの亀が飼育され、「亀宮」とも呼ばれていました。
また、惟喬親王(これたかしんのう)を祭神として祀ることから「惟喬社」とも
呼ばれていました。
惟喬親王(844~897)は第55代・文徳天皇の第一皇子で「小野宮」と号しました。
母は、政治的には力を持っていない紀一族の更衣・紀静子(き の しずこ)でした。
一方で藤原良房の娘・明子(あきらけいこ)が天皇の女御となり、
第四皇子の惟仁親王を出産しました。
天皇は惟喬親王に期待し、立太子を望みましたが、良房の圧力に屈し、
惟仁親王が皇太子となりました。
天安2年(858)、天皇は病に倒れ、幼い皇太子の中継ぎとして
惟喬親王に皇位の継承を願ったのですが、これも実現せずに崩御されました。

僅か9歳の惟仁親王が第56代・清和天皇として即位すると、良房は摂政に任じられ
良房が外戚として政治の実権を握りました。
惟喬親王は、天安2年(858)に大宰府の長官である大宰帥(だざいのそち)に
任じられ、貞観14年(872)に病のため出家しました。
初めは小野(近江と大原の説がある)に隠棲し、
後に北区雲ケ畑の岩屋山金峯寺(志明院)に宮を建て、移り住んだとされています。
寛平9年(897)に54歳で薨去され、三千院近くの大原の里に葬られました。
玄武神社-本殿
玄武神社は元慶年間(877~884)に、惟喬親王の母方の末裔・星野市正紀茂光
(ほしの いちのかみ き の しげみつ)により創建され、
現在の社殿は昭和38年(1963)に再建されました。
社伝では、親王の慰霊と王城北面の鎮護とこの地守護神として創建されたと
記されていますが、親王の薨去の年と符合していません。
親王の外祖父・紀名虎(き の なのとら)が所有し、親王が寵愛したと伝わる剣を
この地に祀り、御霊代(みたましろ)としたとされています。

玄武神社では、毎年4月の第2日曜日に「玄武やすらい祭」が行われています。
鞍馬の火祭、太秦の牛祭と共に、京都の三大奇祭の一つに数えられ、
その起源は平安時代の中期頃にさかのぼります。
康保2年(965)に大水害が発生し、後に疫病が流行しました。
これを鎮めるため、勅命により大神神社(おおみわじんじゃ)の鎮花祭(薬まつり)
が玄武神社で行われました。
やすらい祭の発祥は玄武神社であり、
「玄武やすらい祭」は国の重要無形民俗文化財に指定されています。
三輪明神
本殿の左側に三輪明神社があり、三輪明神が祀られています。
玄武神社-稲荷社
その左側に玄武稲荷社があります。
紫式部の墓-入口
玄武神社から南へ進み、鞍馬口通りへ左折して、その先の堀川通りへ左折して
北上した島津製作所の北側に小野篁と紫式部の墓があります。
紫式部の墓
紫式部は天禄元年(970)~天元元年(978)の間に、
現在の廬山寺(ろざんじ)の地で生まれ、幼い頃には母を亡くしたたとされています。
父・藤原為時は、師貞親王(もろさだしんのう)の読書役として漢学を教え、親王が
第65代・花山天皇として即位すると蔵人式部大丞(しきぶだいじょう)と
出世しました。
しかし、天皇が山科の元慶寺で出家すると失職し、約10年後に
第66代・一条天皇に詩を奉じたことにより、越後守となりました。
紫式部も越後で父と共に約2年過ごしたとされ、長徳4年(998)頃、
親子ほども年の差がある山城守・藤原宣孝と結婚しました。
長保元年(999)に一女・藤原賢子(ふじわら の けんし)を儲けたましたが、
長保3年4月15日(1001年5月10日)に宣孝と死別しました。
その後、石山寺で七日間の参籠を行い、その時、琵琶湖に映える名月を眺め、
『源氏物語』を起筆したとされています。
寛弘2年(1006)かその翌年、紫式部は藤原道長に召し出され、道長の長女で
一条天皇の中宮・彰子(しょうし/あきこ)に仕えるようになり、
『源氏物語』を完成させました。
また、宮中の様子を書いた『紫式部日記』も執筆しました。
この地には第53代・淳和天皇の離宮があり、紫式部が晩年この地で過ごし、
寛仁3年(1019)以降に亡くなったと推定されています。
小野篁の墓
小野篁(おの の たかむら:802~853)は、一説では小野小町小野道風
祖父で、昼間は朝廷で官吏を、夜間は冥府において閻魔大王のもとで
裁判の補佐をしていたという伝説が残されています。
夜になると六道珍皇寺の井戸から冥府に往き、朝に嵯峨の福正寺の井戸から
現世に還り、役所に出勤したとされています。
『源氏物語』に狂言綺語(きょうげんきぎょ)を記して好色を説いた罪で
地獄に落ちた紫式部を、篁が閻魔大王にとりなしたという伝説に基づき、
二人の墓が並んで建立されました。

大徳寺へ向かいます。
続く

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

轟橋
西光院から北へ進むと府道29号線に合流し、
府道を更に北へ進むと法輪寺があります。

府道から境内に入ると轟橋が架けられていますが、現在川はありません。
山門
北向きの石段を登ると山門があり、左側に無料駐車場があります。
稲荷社
無料駐車場の向かいに稲荷社があります。
法輪寺櫻 
フェンス内には法輪寺桜が植栽されています。
法輪寺桜とは、嵐山界隈に古くから植えられている珍種の桜だそうです。
電電塔
山門をくぐると右側に電電塔が建ち、その左側にヘルツ、右側にエジソンのレリーフ

が祀られています。
法輪寺には鎮守社の電電宮があることから、電気・電波の発展の基を築かれた両名を

顕彰して建立されました。
石段
石段を登ります。
電電宮-参道
途中の左側に電電宮への参道があります。
獣魂供養塔
参道を進むと電電宮の手前に「獣魂供養塔」が建っています。
電電宮-鳥居
天長6年(829)に道昌(どうしょう)は、葛井寺(かづのいでら)で
虚空蔵求聞持法百日間参篭修行を行いました。
虚空蔵菩薩は、広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持った菩薩であり、
その修法「虚空蔵求聞持法」は、一定の作法に則って真言を百日間かけて
百万回唱えるというものです。
これを修した行者は、あらゆる経典を記憶、理解して
忘れる事がなくなるとされています。
満願の日に井戸で水を汲んでいると明星が天空より降りそそいで、
虚空蔵菩薩が来迎したと伝えられています。
本尊の顕現としての明星天子を本地として『電電明神』を主神とする
『明星社』(みょうじょうしゃ)が鎮守社のひとつとして奉祀されました。
電電宮-社殿
しかし、元治元年(1864)の禁門の変の際に社殿が焼失しました。
昭和31年(1956)、それまでの仮宮であった社殿を電気電波関係業界の発展を
祈願するため『電電宮』として新たに奉祀され、電電宮護持会が発足しました。
ヤギの像
参道に戻り、石段を登った右側にヤギの像が祀られていますが、
虚空蔵菩薩は山羊座・射手座生まれの守り本尊とされています。
虎の像
牛の像
また、本堂前には牛と虎の像が狛犬の代わりをしていますが、虚空蔵菩薩は
丑年寅年生まれの守り本尊でもあります。
本堂
現在の本堂は元治元年(1864)の禁門の変で焼失後、
明治17年(1884)に再建されました。
古墳時代初期の300年代、この地には金星を神格化した三光明星尊を祀る
「葛野井宮(かずのいぐう)」がありました。
第21代・雄略天皇の御代(457~479)、百済から渡来した秦氏が山背国葛野郡
(現在の京都市右京区太秦)へと進出し、この地を開拓して
葛野井宮を一族の守護神としました。
一族によりもたらされた農耕や製糸、染色の技術などにより当地は発展し、
付近一帯は「葛野(かずね)」と呼ばれるようになりました。
奈良時代の和銅6年(713)、第43代・元明天皇(げんめいてんのう:661~721)の
勅願により、行基は木上山葛井寺(もくじょうざんかづのいでら)を創建しました。
これが法輪寺の始まりとされています。
古義眞言宗の寺院として、以後歴代天皇の勅願所となりました。

天長6年(829)、虚空蔵求聞持法百日間参篭修行を行った道昌は、
満願の日に虚空蔵菩薩を感得し、一木をもってその像を刻みました。
神護寺において弘法大師自らの供養を経て、葛井寺に安置され、
本尊として祀られるようになりました。
貞観10年(868)に葛井寺を「法輪寺」と改め、貞観16年(874)には山腹を開いて
堂塔の整備が行われました。
道昌は同年に少僧都に任じられています。

道昌(798~875)は讃岐国香川郡の出身で、俗姓は秦氏です。
14歳で元興寺の明澄に三論教学を学んだ後、
弘仁9年(818)に東大寺で得度、受戒しました。
その後、天長5年(828)に神護寺にて空海に真言密教を学び灌頂を受けました。
葛井寺を中興してからは、承和年間(834~847)に勅願により大堰川を修築し、
橋を架け、船筏の便を開きました。
橋は「法輪寺橋」と呼ばれていましたが、後に橋を見た亀山上皇(1274~1287)は、
「くまなき月の渡るに似たり」として「渡月橋」と命名されました。
橋を架けたことにより交通の便が開かれると共に、下流域の荒野に河水を引いて
田畑を開墾したことから、行基菩薩の再来と称されました。

第53代・淳和天皇の第二皇子で、第54代・仁明天皇の皇太子だった
恒貞親王(つねさだしんのう:825~884)は、承和の変により皇太子を廃され、
後に出家して恒寂と号し、道昌の弟子となりました。
恒寂は後に嵯峨大覚寺の初祖となりました。

道昌は薬師寺最勝会、興福寺維摩法会の講師など多くの法会に招かれ、
生涯までに講じた法華経は570回にのぼったと伝わり、承和3年(836)には
広隆寺・隆城寺・元興寺の別当を歴任しました。

法輪寺は応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失し、その後衰微しました。
応仁元年(1467)、西軍・畠山義就(はたけやま よしひろ/よしなり)は
東軍の筒井光宣(つつい こうせん)を法輪寺の門前で迎撃し、
戦火は付近の建物から法輪寺にも類焼しました。
本堂-扁額
安土・桃山時代の慶長2年(1597)、第107代・後陽成天皇は法輪寺再興勧進の
勅旨を下賜され、諸国から造営の浄財を募りました。
また、加賀・前田家の帰依を得て諸堂が再建・改築され、後陽成天皇から
「智福山」の勅号を賜って木上山から改められました。
以後、堂塔修理の際は朝廷より大勧進の勅旨を与えられることが例となり、
幕末まで前後七回に及んだと云われています。

元治元年(1864)7月に起こった禁門の変の際では、19日に天龍寺に集結した
長州藩の浪士との戦闘となり、法輪寺の建物はことごとく灰燼に帰しました。
またこの日、長州藩士の隠れているとされた中立売御門付近の家屋を会津藩が
攻撃して、火の手が上がり、更に長州勢が伏見の長州藩屋敷に火を放って
逃走したため「どんどん焼け」と呼ばれる大火となって21日の朝まで延焼しました。
北は一条通から南は七条の東本願寺に至る広い範囲の街区や社寺が焼失しました。
その後、法輪寺は明治17年(1884)に本堂が再建され、客殿、玄関、回廊、庫裏、
山門等が順次竣工し、大正3年(1914)に現在の姿に復されました。

本尊は道昌作と伝わる虚空蔵菩薩ですが、秘仏とされ、非公開です。
脇侍は像高167cmの木造持国天と像高167.5cmの多聞天立像で、鎌倉時代の作とされ、

国の重要文化財に指定されています。
法輪寺では13歳になった少年少女が虚空蔵菩薩に智恵を授かりに行く十三詣りという

行事が行われています。
平安時代、第56代・清和天皇(在位:856~876)が数え年十三歳になった折、
成人の証として法輪寺で勅願法要を催したのが始まりとされています。
空海は虚空蔵求聞持法を修したことにより、記憶力を飛躍的に増大させたと伝わり、

また、虚空蔵菩薩は十三番目に誕生した智恵と福徳を司る菩薩とされること、
及び13歳という年齢が元服の時期と合致したことが由来とされています。
法輪寺では現在、4月13日の前後1ヶ月(3月13日~5月13日)の春と
10月~11月の秋にも行われています。
また、法輪寺は京都十三仏霊場の第13番札所(三十三回忌)でもあります。
針供養塔への石段
本堂の右側の石段上に針供養塔があります。
針供養塔
皇室で使用された針を、勅命により供養したことに始まり、現在では12月8日に
全国から針が集められ、大きなコンニャクに差して供養されます。
裁縫などに関わる人々から上達を祈願された針は昭和16年(1941)に建立された
針供養塔に納められます。
不明な建物
駒札の文字が読めず、この建物の詳細は不明です。
多宝塔
多宝塔の高さは17.4mで、昭和17年(1942)に建立されました。
鐘楼
鐘楼
うるしの碑
うるしの碑
惟喬親王(これたかしんのう:844~897)は第55代・文徳天皇の第一皇子でしたが、

天皇の伯父・藤原良房の圧力により皇太子には第四皇子の惟仁親王
(後の第56代・清和天皇)が立てられました。
貞観14年(872)に出家して近江国蛭谷(ひるたに=現在の滋賀県東近江市)で隠棲し、
周辺の杣人に木工技術を伝授したことが木地師(きじし)の始まりとされ、
木地師の祖とする伝承が全国的に見られます。
惟喬親王が法輪寺に参籠され、虚空蔵菩薩から漆の製法と漆塗りの技法を伝授され、

国内に広めたと伝わります。
参籠満願の日が11月13日であったことから、漆業関係者は当日を「うるしの日」と
定め、法輪寺に参拝して漆業の発展を祈願されています。
舞台
境内の東側に舞台があります。
舞台からの展望
舞台からは嵯峨野が一望でき、京都五山送り火の夜には一般に開放されます。

宗像神社・櫟谷神社(いちたにじんじゃ)へ向かいます。
続く

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社
仏閣へ
にほんブログ村

↑このページのトップヘ