タグ:承元の法難

阿弥陀堂
西本願寺の南に隣接して興正寺があります。
山号を「圓頓山(えんとんざん)」と号する真宗興正派の本山です。
江戸時代までは西本願寺の末寺でしたが、明治9年(1876)に独立しました。

親鸞聖人(1173~1263)は、建永元年(1206)に法然上人(1133~1212)の弟子が
後鳥羽上皇の熊野詣の留守中に院の女房たちを出奔同然で出家させたことにより、
上皇の怒りに触れ、建永2年(1207)に法然上人と共に流罪に処せられました。
5年後の建暦元年(1211)11月17日に第84代・順徳天皇(在位:1210~1221)から
勅免の宣旨が下され、翌、建暦2年(1212)に親鸞聖人は京都へ一時戻り、
山科に草庵を結んだとされています。
「正しき法を興し、さかえさす(正法を興隆する)」との聖徳太子の事績に因み、
順徳天皇から「興隆正法寺」と名付けられました。

その後、建保2年(1214)に親鸞聖人は東国での布教活動のため、
現在の茨城県笠間市稲田で草庵を結び、20年間にわたり布教活動を行うとともに
教行信証』を執筆し、60歳頃に京都へ戻られました。
親鸞聖人は弘長2年11月28日(1263年1月16日)に実弟の尋有(じんう:生没年不詳)が
院主である「善法院」にて、90歳(満89歳)で入滅され、
鳥辺野の南あった延仁寺にて荼毘に付された後、大谷の地に埋葬されました。

元応2年(1320)に第7世・了源(りょうげん:1295~1336)は、
布教活動の拠点を京都へ移し、寺基を山科から今比叡汁谷(しるたに)
または渋谷(しぶたに=現在の京都国立博物館の辺り)へ移しました。
ある夜、「興正寺」から本尊などが盗まれました。
第96代及び南朝初代・後醍醐天皇(在位:1318~1339/治天:1321~1339)が
夢枕に東南の方向から一筋の光が差し込むのを見、その場所から本尊が発見されました。
その霊験から勅額により「阿弥陀佛光寺」、
略して「佛光寺」の寺号を賜わったと伝わります。

応仁・文明の乱(1467~1477)で佛光寺は焼失した一方で、
蓮如上人(れんにょしょうにん:1415~1499)は文明3年(1471)に
越前国吉崎で布教活動を再開し、本願寺教団は急速に発展しました。
文明13年(1481)には佛光寺第14世・経豪(きょうごう:1451~1492)が
佛光寺に属する48坊のうち42坊を引き連れて蓮如上人に帰依して「蓮教」と改名し、
山科西野に「興正寺」を再建しました。
その後は本願寺と共に移転を繰り返し、天正19年(1591)に羽柴秀吉(1537~1598)の
命を受け、現在の西本願寺と共に現在地へ移転しました。

現在の阿弥陀堂門は明治45年(1912)の宗祖650回大遠忌を期して
再建された四脚門で、興正寺の正門です。
門扉には牡丹唐草、柱には龍の彫刻が施されています。
三門
南側には同年に再建された三門があります。
三門とは、は空門・無相門・無願門の三境地を経て仏国土に至る門、
三解脱門(さんげだつもん)を表すとされています。
空は「物事にこだわらない」、無相は「見かけで差別しない」、
無願は「欲望のまま求めない」ことを意味し、
涅槃に達するために通らなければならない門とされています。
鐘楼
その門を入ると左側に鐘楼があります。
安永4年(1774)に第116代・桃園天皇(在位:1747~1762)の13回忌に際し、
皇太后・恭礼門院(きょうらい もんいん:1743~1796)から
梵鐘と共に寄進されました。
興正寺は明治350年(1902)の火災により、殆どの堂宇が焼失しましたが、
鐘楼は焼失を免れました。
御影堂
正面にある御影堂は明治350年(1902)に本堂の阿弥陀堂が焼失したため、
明治45年(1912)の再建時に本堂と御影堂の両堂様式が懇望されて
新たに建立されました。
堂内中央に親鸞聖人40歳の姿と伝わる木像、
左右には興正寺御歴代の御影、九字名号、十字名号が安置されています。
阿弥陀堂
北側に本堂の阿弥陀堂があります。
大正4年(1915)に再建され、堂内中央に本尊の阿弥陀如来像が安置されています。
左右にはインド、中国、日本の七高僧と聖徳太子の影像が安置されています。
経蔵
境内の北東側に経蔵があり、一切経が納められています。
嘉永元年(1848)に建立され、「法宝蔵」の勅額は第121代・孝明天皇(在位:1846~1867)
から下賜されました。
題字は右大臣・近衛忠煕(このえ ただひろ:1808~1898)の筆によるものです。
飛雲閣
背後には西本願寺の飛雲閣の裏側が望めます。

島原大門から法華寺へ向かいます。
続く
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山門
粟田神社の二の鳥居前を東へ進んだ南側に仏光寺本廟があります。
現在の山門(唐門)は明治時代(1868~1912)中期に建立されました。
仏光寺本廟は、浄土真宗仏光寺派の墓所で、
親鸞聖人(1173~1263)の御真骨が安置されています。

仏光寺の公式H.P.では、親鸞聖人が建永2年(1207)2月の承元の法難(同年10月に承元と
改元)により、後鳥羽上皇(1180~1239)から越後国国府(現、新潟県上越市)へ
配流され、建暦元年(1211)に赦免されて、京都へ戻りました。
山科の地に「興隆正法寺」を開創したのが仏光寺の始まりとされています。
その後、建保2年(1214)に親鸞聖人は東国での布教活動のため、
現在の茨城県笠間市稲田で草庵を結び、20年間にわたり布教活動を行うとともに
教行信証』を執筆し、60歳頃に京都へ戻られました。
親鸞聖人は弘長2年11月28日(1263年1月16日)に実弟の尋有(じんう:生没年不詳)が
院主である「善法院」にて、90歳(満89歳)で入滅され、
鳥辺野の南あった延仁寺にて荼毘に付された後、大谷の地に埋葬されましたが、
この時仏光寺にも分骨されたのかもしれません。
光寿堂
門を入った左側の光寿堂は納骨堂で、寺務所でもあります。
本堂
本堂は安永4年(1775)に建立され、本尊として阿弥陀如来像が安置されています。
江戸時代(1603~1868)にこの地を取得し、下京区の本山・仏光寺で安置されていた
親鸞聖人の御真骨が当地へ遷され、ご廟所と本堂が建立されました。
御廟
御廟(おたやま)
親鸞聖人の御真骨が、足利尊氏(1305~1358)寄進の舎利容器に納められ、
地下に埋葬されています。
鐘楼
鐘楼
三条小鍛
境内に三条小鍛冶宗近が、刀剣を鍛える時に使った井水があったと伝わり、
当地は「鍛冶町」と名付けられています。
三条小鍛冶宗近は、粟田口三条坊に住したので「三条小鍛冶」と称されました。
平安京へ遷都されてから刀工が集まるようになり、宗近を祖として三条派が形成され、
その後、綾小路派、粟田口派、来派などに分派しました。
京都の刀工は「五箇伝(ごかでん)」と称される日本刀の五大刀工流派の一つに
数えられ、「山城伝」と称されるようになりました。

次回は立山雪の大谷と倶利伽羅峠の旅です。
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石垣
銀閣寺の総門を出た直ぐ前を南へ5分余り歩くと法然院の石垣に突き当たります。
寺号標
石垣沿いに西から南へと進んだ先に法然院への参道があります。
金毛院
参道を登ると塔頭・金毛院の門がありますが、非公開です。
金毛院は法然院を再興した忍澂和尚(にんちょう)の住坊で、「金毛老人」と
呼ばれた忍澂和尚から名付けられたと思われます。
つながる-1
山門前に平成31年(2019)にガラス造形作家・西中千人(にしなか ゆきと:1964~)に
よって作庭されたガラスアートによる枯山水の庭があり、
「つながる」と称されています。
つながる-2
「循環する命とつながっていく宇宙」が題材とされています。
つながる-3
使用済みのガラス瓶がリサイクルされ、大小20ほどが
オブジェとして配置されています。
山門
山門は市内で唯一の茅葺・数寄屋造りで、昭和(1928~1989)の初期に倒壊し、
その後復元されました。

法然院は正式には「善気山・法然院・萬無教寺」と号し、
建永元年(1206)に法然上人が弟子たちと共に六時礼讃行を修した
草庵に由来するとされています。
法然上人は天養2年(1145)に比叡山に登り、久安3年(1147)に皇円の下で得度し、
第48世天台座主・行玄を戒師として受戒しました。
比叡山で修行を行っていた法然上人は、承安5年(1175)に浄土宗を開こうと考え、
比叡山を下って岡崎に草庵・白河禅房(現・金戒光明寺)を開きました。
建永元年(1206)に六時礼讃行を修した際、後鳥羽上皇の熊野詣の留守中に
院の女房たちが参加したため、後鳥羽上皇の怒りを買い、
上皇は念仏停止の断を下しました。
弟子の遵西(じゅんさい=安楽)と住蓮は女房を感化し、
出奔同然で出家させたことにより処刑されました。
法然上人は還俗して「藤井元彦」と名乗らさせられ、土佐国に流される
予定でしたが、配流途中に九条兼実の庇護により配流先は讃岐国へと変更されました。

その後、草庵は荒廃し、江戸時代になった寛永年間(1624~1643)に京極・浄教寺
住持・導念(道念)が、この地で草庵を結び、「法然院」と名付けました。
延宝8年(1680)に知恩院第38世・萬無和尚(ばんぷ/まんむ:1607~1681)により、
法然上人ゆかりのこの地に念佛道場を建立することが発願され、
弟子の忍澂和尚(にんちょう:1645~1711)によって、
現在の伽藍の基礎が築かれました。
浄土宗内の独立した一本山でしたが、昭和48年(1953)に浄土宗から独立し、
単立宗教法人となりました。
白砂壇
山門をくぐると参道の両側に白砂壇(びゃくさだん)が設けられています。
水が表され、その間を通ることにより心身を清めて浄域に入ることを意味しています。
蛇行する砂紋の中に花びらの模様が見えますが、季節によってこの模様は変化します。
鐘楼への石段
右側に鐘楼への石段がありますが、登るのは禁じられています。
鐘楼
門の外から見上げた鐘楼です。
講堂
石段の右側に講堂があります。
元は元禄7年(1694)に建立された浴室でしたが、昭和52年(1977)に内部が改装され、
現在は講堂として、講演会・個展・コンサートなどに利用されています。
放生池
参道の先に放生池があり、橋を渡ると丁字路となります。
橋を渡って山門の方を振り返りました。
丁字路
丁字路の角
十万霊塔
丁字路を右(東側)へ進むと十万霊塔が建っています。
本堂-1
塔から左に折れた左側に本堂があります。
本堂-2
延宝9年(1681)5月に客殿として建立され、
貞亨5年(1688)に佛殿と拝殿が別設されました。
本尊は阿弥陀如来坐像で、観世音菩薩と勢至菩薩を両脇侍としています。
本尊前の須弥壇上には、二十五菩薩を象徴する二十五の生花が散華されています。
地蔵菩薩像-1
本堂正面の石段上に地蔵菩薩像が安置されています。
地蔵菩薩像-2
元禄3年(1690)、忍澂和尚(にんちょう)が46歳の時に、自身と等身大の
地蔵菩薩像を鋳造させ、安置されました。
方丈への門
本堂の北側に方丈がありますが、門は閉じられ、カメムシが描かれています。
強烈な臭いを発するカメムシが、なぜ描かれているのかは不明です。
方丈は、元は延宝3年(1675)に建立された第111代・後西天皇皇女・
誠子内親王 (ともこないしんのう:1654~1686)の御殿でした。
内親王が薨去後の貞亨4年(1687)に移築されました。
上の間の襖絵「桐ニ竹図」は国の重要文化財に指定され、法然院の公式HPでは
狩野光信(1565~1608)の筆とされていますが、異説もあり狩野永徳の次男・孝信
(1571~1618)や光信と同じ「右京」と号した狩野時信(1642~1678)との説があります。
また、堂本印象(1891~1975)が昭和46年(1971)に描いた「新襖絵」があり、
抽象画による障壁画の数少ない例とされています。

方丈前には貞享4年(1687)頃に作庭されたと推定されている浄土庭園があり、
中央に阿弥陀三尊を象徴する三尊石が配置されています。
心字池があり、池中の「善気水」と呼ばれる湧水が水源になっています。
善気水は忍澂和尚が錫杖(しゃくじょう)で突いたことにより湧き出たと伝わり、
茶の湯にも用いられ、名水の一つに数えられています。
玄関
丁字路まで戻り、左(西側)へ進むと玄関があります。
法然院は毎年4/1~4/7と11/1~11/7に特別公開が行われています。
参拝したのは3/23で、方丈庭園などの画像を収めることが出来ませんでした。
庫裡
左側には庫裡があります。
経蔵
庫裡から南へ進むと経蔵があります。
元文2年(1737)に建立され、中央に釈迦如来像、両脇に毘沙門天像と韋駄天像が
安置され、多数の経典の版木が所蔵されています。
多重石塔
経蔵の南西側に多重石塔が建っています。
十三重石塔と二重石塔が組み合わされ、大正10年(1921)に建立されました
墓地への石段
山門を出て南へ進み墓地へ向かいます。
墓地の入口には江戸時代に建立された阿育王(アショーカオウ)の塔があります。
滋賀県東近江市にある石塔寺(いしどうじ)に伝わる阿育王塔を、
江戸時代に模造したものとされています。
阿育王塔
石塔寺の伝承では、「インドのアショーカ王が仏教隆盛を願って三千世界に建立した
8万4千基の仏舎利塔のうち2基が日本に飛来し、1基は琵琶湖の湖中に沈み、
1基は近江国渡来山(わたらいやま)の山中に埋もれ、それを掘り出したもの」と
されています。
実際には奈良時代(710~794)前期頃に朝鮮半島系の渡来人によって建立されたと
みられています。
石造層塔としては日本最古であり、石造三重塔としては日本最大で高さは7.6mあり、
国の重要文化財に指定されています。
河上肇の墓
阿育王塔の北側に河上肇夫妻の墓があります。
河上肇(1879~1946)は京都帝国大学でマルクス経済学の研究を行い、
後に共産党員となって獄中生活を送りました。
有名な『貧乏物語』の他に多数の著作があり、学生時代に副読本として使用した
記憶もあります。
経塚
背後には経塚があります。
金毛塔
墓地を南へ進むと「金毛塔」と称される忍澂和尚(にんちょう)の墓があります。
忍澂は正保2年(1645)に武蔵国で生まれ、早くに両親を亡くし、9歳で出家を志して
増上寺の直伝(じきでん)のもとで修学しました。
後に萬無を師とし、師命により増上寺の林冏(りんげい)のもとで修学しました。
江ノ島の弁才天、近江浄信寺の地蔵尊、竹生島の弁才天等に参籠するなどして
修行を重ね、延宝8年(1680)に萬無の命を受けて法然院の再建を始めました。
宝永3年(1706)に建仁寺蔵『高麗版大蔵経』と『黄檗版大蔵経』との対校を
始めましたが、病を発症し正徳元年(1711)11月10日に入寂されました。
福田平八郎の墓
その手前に福田家の墓があり、左側に福田平八郎夫妻の墓があります。
福田平八郎(1892~1974)は日本画家で、大正7年(1918)に京都市立絵画専門学校
(現:京都市立芸術大学)を卒業し、後に同校の教授となりました。
谷崎潤一郎の墓‐空
その手前に谷崎潤一郎の墓があり、潤一郎の筆による
「空」と「寂」が刻まれています。
谷崎潤一郎の墓‐寂
「寂」の方にだけ塔婆が立てられていますので、こちらが潤一郎の墓かもしれません。
青春時代に好きな作家の一人でした。
今、改めて読み直すと新たな発見があるのかもしれません。

法然院には哲学者・九鬼周造(1888~1941)や昭和56年(1981)にアジアで初めて
ノーベル化学賞を受賞した福井謙一(1918~1998)などの著名人の墓があります。
総門
墓地から下ると総門があります。
圓光大師
圓光大師(法然上人)御舊(旧)跡の碑
安楽寺-山門
法然院の総門を出て南へ数分の東側に安楽寺があります。
山号を「住蓮山」と号する浄土宗の単立寺院で鎌倉時代に現在地より
東へ約1kmの山中に創建されました。
法然上人の弟子・住蓮と安楽が当地辺りを散策していた際に白鹿が現れ、
鹿に導かれて山に分け入り、
その鹿が消えた所に霊告を感じて草庵を結んだとされています。
安楽寺-浄土礼讃根元地の碑
門前には「浄土礼讃根元地」の碑が建っています。
住蓮と安楽は唐の善導大師(ぜんどうだいし)の『往生礼讃』に大原魚山
礼讃声明(らうさんしょうみょう)を転用して浄土礼讃を完成されました。
二人は音楽的才能に恵まれ、指導する浄土礼讃は大衆の多くの支持を得ました。

建永元年(1206)、後鳥羽上皇の熊野詣の留守中に上皇の女官・松虫と鈴虫が
夜中秘かに小御所を抜け出し、住蓮と安楽のもとで剃髪・出家しました。
この事は上皇の逆鱗に触れ、住蓮と安楽は斬首刑、法然上人は流罪となり、
以後草庵は荒廃しました。(承元の法難
承元元年(1207)に法然上人は赦免され、箕面の勝尾寺に滞在した後、
建暦元年(1211)に京都へ戻り、二人の菩提を弔うため草庵の復興を命じられ、
「住蓮山安楽寺」と名付けられました。
法然上人はその翌年の1月25日に78歳で入寂されました。
その後、天文年間(1532~1555)に現在地で本堂が再建され、復興されました。
安楽寺-拝観謝絶
山門には「拝観謝絶」と記されています。
春は4月上旬の土日(さくら)、5月上旬の土日・祝日(つつじ)、
5月下旬~6月上旬の土日(さつき)と開花に合わせて公開されています。
秋は11月全土日・祝日及び12月上旬の土日に紅葉に合わせて公開されています。
また、7月25日に「鹿ケ谷カボチャ供養」が修せられ、この日も公開されます。
江戸時代の末期、当時の住職・真空益隋(しんくう やくずい)が、
人々を病苦から救済するため、本堂で100日間の修行を行いました。
すると本尊の阿弥陀如来から「夏の土用のころに、鹿ケ谷カボチャを食べれば中風に
ならない」との霊告を受け、カボチャをふるまったのが
「鹿ケ谷カボチャ供養」始まりとされています。
江戸時代に粟田村の百姓が津軽への旅の途中で種を譲り受け、
栽培が始められて昭和30年(1955)までは盛んに収穫されていました。
その後、新品種の登場で栽培農家が減少しましたが、栄養価の高さから
見直されているようです。

本尊は像高85cmの阿弥陀如来坐像で、脇侍として左に勢至菩薩立像、
右に観音菩薩立像が安置されています。
右端に地蔵菩薩立像、左端には龍樹菩薩立像が安置されています。
龍樹(りゅうじゅ)は2世紀頃にインドに実在した僧で、サンスクリットの
「ナーガールジュナ」の漢訳名です。
大乗仏教を体系化した人物で、『十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)』を
著し、その巻第五「易行品第九」で浄土往生の思想が強調されて
浄土教の祖ともされています。

本堂西側に安置されている「法然上人張り子像」は、上人の74歳の姿と伝わり、
上人の書簡、名号などの反古紙(ほごし)が張り合わせられています。
その左側の「親鸞聖人旅姿像」は、承元の法難で越後国国府(現、新潟県上越市)
への流罪となり、その旅での35歳の姿とされています。
住蓮坐像は合掌し、安楽坐像は右手に剃刀、左手に宝珠を載せ、
その下に松虫坐像と鈴虫坐像が安置されています。

地蔵堂に安置されている「くさの地蔵」は、平成3年(1991)の解体修理で墨蹟が
発見され、正嘉2年(1258)に慶派仏師により造立されたことが判明しました。
皮膚病の瘡(くさ=湿疹)の平癒に御利益があるとされています。

また、境内の南東側に松虫・鈴虫の、南側に住蓮と安楽の供養塔があります。

霊鑑寺へ向かいます。
続く
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参道入口
観音寺から東へ進み、丹波街道を北上した先の「光明寺前」の信号を左折した先に
光明寺の無料駐車場があります。
光明寺は山号を報国山、院号を念仏三昧院と号する
西山(せいざん)浄土宗の総本山です。
浄土門根元地の碑
参道の右側に建つ「浄土門根元地」と記された石碑は、
法然上人が初めて念仏の教えを説かれたのが、この地であることから、
第106代・正親町(おおぎまち)天皇から賜った
「法然上人ノ遺廟、光明寺ハ浄土門根元之地ト謂イツベシ」という言葉によるものです。
山門
光明寺の総門は、高麗門で江戸時代の天保16年(1845)に建立されました。
紅葉坂との別れ
総門をくぐって、まっすぐに石段の参道が続いているのが表参道で、
傾斜が緩やかなことから「女人坂」と呼ばれ、
女性やお年寄りでも楽に登れるように配慮されています。
左側の細い参道は「紅葉参道」と呼ばれています。
蓮生の石像-1
表参道と紅葉参道との分岐点にある石碑には、
馬の背に逆さに乗っている僧の姿が刻まれています。
蓮生の石像-2
正直に言って、石の模様が邪魔になって図の判別が難しいです。
法然の弟子であった法力坊蓮生(れんせい)が、関東への布教の旅に出るとき、
馬に逆さに乗って浄土とされる西方を拝みながら進んで行った
「東行逆馬」のエピソードが残されています。

寿永3年(1184)2月の一ノ谷の戦いに参陣した熊谷直実(くまがい なおざね)は、
平敦盛の首をはねました。
敦盛は当時17歳で、我が子・直家と同じくらいの年齢でした。
これ以後、直実には深く思うところがあり、仏門に帰依する思いが
いっそう強くなり、建久4年(1193)頃、法然の弟子となって出家し、
法名を法力房・蓮生(ほうりきぼう・れんせい)と称しました。

須磨寺には一騎打ちの像と敦盛の首塚が残され、
須磨寺公園付近には敦盛塚があります。

光明寺の前身は念仏三昧寺で、鎌倉時代の建久9年(1198)に
法然上人を開山として、法力坊蓮生が建立しました。
塩田紅果句碑
女坂を登ると左側に塩田紅果(しおた こうか)の句碑が建っています。
「うつし世の 楽土静けし 花に鳥」
塩田紅果、本名:塩田親雄、三重県で生まれ作家を志しましたが、
父に反対され判事となり、その後弁護士となりました。
昭和2年(1927)に「蟻乃塔」を創刊し、金沢蟻塔会を主宰しました。
御影堂
御影堂
入母屋、総欅(ケヤキ)造りで、十八間四面(約33m四方)の大きさを誇る威風ある建物です。
現在の御影堂は、江戸時代の享保19年(1734)に焼失し、宝暦3年(1753)に再建されました。
本尊は、法然上人が自作した「張子の御影」です。
承元の法難(じょうげんのほうなん)によって建永2年(1207)に法然は、
讃岐国(現、香川県)に配流され、その船上で母親から法然に宛てられた
手紙を材にして、形見として作られたものが「張子の御影」です。

光明寺は京都洛西観音霊場の第七番札所で、第八番札所の観音寺と
併せて御影堂で納経することができます。
法然上人像
御影堂の前に建つ「法然上人立教開宗の像」は、昭和57年(1982)に
法然上人の誕生850年を記念して建てられたものです。
ここ、粟生の地で、専修念仏の最初の教えを説かれた姿を表しています。
台座と像の高さとも2.4mで、合せて4.8mにしたのは四十八願に因むとされています。
鐘楼
鐘楼は、江戸時代の明暦3年(1657)に建立されました。
梵鐘
梵鐘は昭和24年(1949)に鋳造され、「遣迎鐘」(けんこうがね)と呼ばれ、
鐘と撞木が遣迎二尊を象徴しているのだそうです。
遣迎二尊とは、此岸にあり往生者を見送る釈迦如来と、
彼岸である浄土からこれを迎えに来る阿弥陀如来のことをいいます。
観音堂
観音堂は江戸時代後期に建立され、「十一面千手観音」が祀られていましたが、
重要文化財に指定されてからは京都国立博物館に寄託されています。
現在は、粟生観音寺の「十一面千手観音」が安置されています。
経堂
観音堂の横に建つ経堂は、江戸時代の宝永4年(1707)に建立されました。
光明寺は、室町時代の応仁・文明の乱と元亀の乱で焼失しました。
江戸時代に徳川家康の外護を得て、
寛永年間(1624~1644)までに堂宇が復興されました。

経堂の前に立つ「袈裟掛の松」は、昭和57年(1982)に株分けされて植えられたものです。
法然上人が念仏の教えを説き始める地として、
しばらくこの地に留まろうと思い立ち袈裟を掛けたという伝承によるものです。
もともと、袈裟を掛けたとされる松は、円明寺の裏山に生えていたと伝わります。
勧化所
勧化所(かんげしょ)は、休憩所ではありません。
勧化とは、「仏さまの教えを説き、信心を勧める」という意味で、
毎月の第一土曜日の朝7時からお説教の会が催されています。
石棺
勧化所から阿弥陀堂への参道の途中に、石の柵があり、その前には
「圓光大師御石棺」と刻まれた石碑が建っています。
圓光大師とは法然上人の大師号で、第113代・東山天皇から贈られました。
法然上人は、現在の知恩院勢至堂付近で80歳で亡くなられ、
知恩院の法然廟に葬られました。
しかし、念仏の教えが広まるにつれ、それを快く思わない比叡山の僧たちが、
上人の墳墓をあばいて辱めようとしている、という企みがあることが発覚しました。
嘉禄3年(1227)、危険が迫っていることを知った弟子達は、
遺骸を嵐山の二尊院に移し、更に太秦の西光院へ隠しました。
法然上人の遺骸は、石棺の中で護られていましたが、
石棺から一筋の不思議な光が放たれ、弟子たちが、この光を追ったところ、
粟生の念仏三昧院へたどり着きました。
この伝承から、光明寺と寺名が変更されたと伝わります。
遺骸は、光明寺に運ばれ荼毘に付され、遺骨の一部は御影堂の裏側の
最上部の本廟に納められ、一部が知恩院の御廟に安置されました。
石棺の石仏
石棺には阿弥陀如来が祀られています。
登廊
阿弥陀堂と御影堂は、渡り廊下で結ばれその間には、
本廟へと続く登廊がありますが、立入りは禁止されています。
登廊の先に見えるのは、境内MAPによると勢至堂で、
その裏側には納骨堂、その左側に本廟があるようです。
阿弥陀堂
阿弥陀堂は、江戸時代の寛政11年(1799)に再建され、阿弥陀如来像が安置されています。
脇時には観音菩薩と勢至菩薩像が安置されています。
阿弥陀如来像は、恵心僧都の作とされ、蓮生が琵琶湖の浮御堂
安置されていた千体仏の中尊を遷したものと伝わります。
阿弥陀如来が光明寺の本尊であり、阿弥陀堂は本堂となります。

法然上人の没後、教義の解釈に差異が生じ、親鸞は浄土真宗として別の流れを作り、
浄土宗は四派に分裂しました。
三鈷寺証空は西山義(西山派)を立ち上げ、京都の浄土宗の主流となりましたが、
証空に対抗する長西は九品寺義の流れを作りました。
九州で布教活動を行っていた弁長は鎮西義(鎮西派)、陸奥国に配流された隆寛は
同地で長楽寺義と浄土四流(じょうどしりゅう)という流れが形成されました。

西山義は証空の没後に更に分裂し、一遍は時宗を起こしました。
南北朝時代から室町時代にかけて鎮西義の白旗派から聖冏(しょうげい)、
聖聡(しょうそう)が現れ宗派を興隆し、鎮西義が統一されていきました。
応仁の乱後、白旗派は知恩院を再興し、天正3年(1575)には第106代・正親町天皇より
知恩院は浄土宗本寺としての承認を受けました。
江戸幕府は浄土宗を保護し、幕府の命により元和元年(1615)7月に
寺院諸法度の一環として「浄土宗法度」が制定されされました。
知恩院が第一位の本山とされ、西山義に対しては「浄土宗西山派法度」が出され、
浄土宗とは違う対応がなされました。
明治9年(1876)9月25日、浄土宗から西山義が分派し、浄土宗西山派が結成されました。
童地蔵
阿弥陀堂の左前には童地蔵尊が祀られています。
蓮生閣
御影堂の左側の回廊の奥に見える建物は蓮生閣かと思われますが、
立ち入りの制限があり、確認するのは困難です。
勅使門
御影堂から石段を下ると右奥に江戸時代の万延元年(1860)に建立された勅使門があり、
この門の向こうには、信楽庭(しんぎょうてい)が築庭されています。
門の先に見える建物は釈迦堂で、紅葉シーズンには公開されますが、
その際には入山料が必要となります。

釈迦堂に安置されている、「頬焼けのお釈迦様」と呼ばれる釈迦如来立像には、
安養寺に伝わる「 弥陀次郎と十一面観世音尊像 」と深い関係があります。
「悪の水次郎と呼ばれるほど評判の悪かった漁師が、托鉢に訪れた僧の頬を
焼火箸で焼いて追い返しました。
僧は痛がりもせずに去っていったのを、不思議に思って後をつけて行くと、
僧は粟生・光明寺に入り姿を消しました。
水次郎が寺に入り本尊を拝すると、頬に火箸の跡があり、血が流れていたという。
水次郎は涙ながらに我が罪を謝し、心気一転仏道に帰依するようになり、
弥陀次郎と呼ばれるようになりました。  
その後、夢の中で仏のお告げがあり、次郎は淀川から一体の仏像を引き上げました。
この仏像が安養寺本尊の十一面観世音です。」
小さな塔
勅使門への石段の脇に、高さ50cm位の金属製の塔を見つけました。
塔の中には小さな仏像が安置されているようですが定かではありません。
大書院
左側には大書院と玄関があります。
庫裏
庫裏
火葬跡
法然上人火葬跡には勢至菩薩が祀られています。
安貞2年(1228)正月25日、法然上人の17回忌に、ここで遺骸は荼毘に付されました。
びゃくしんの木
火葬跡前に聳える柏槙(びゃくしん)の木は、高さ15m、根元の周囲は4.6mの大木で、
長岡京市指定文化財になっています。
 樹齢400~500年とされるこの木は、享保19年(1734)頃に描かれた
「光明寺焼失絵図」などから火葬跡に献樹として植えられた一対の内、
向かって左側にあたるとみられています。
鎮守社
鎮守社
屋敷跡石碑
「茂右衛門屋敷跡」の石碑
法然上人が24歳の時、比叡山を下り、清涼寺(嵯峨釈迦堂)へ遊学された際に、
粟生の里に立ち寄り、当時村役の高橋茂右衛門宅に一泊しました。
他力念仏創述之処
茂右衛門夫婦から「まことの教えを見いだされましたならば、
先ず最初に私共にその尊いみ教えをお説き下さいませ」と願われました。
承安5年(1175)、法然上人が42歳になって浄土宗を立教開宗し、
この粟生の地で初めて念仏の法門を説かれました。
「茂右衛門屋敷跡」の石碑の横には、
「元祖法然上人他力念仏創述之処」の石碑が建っています。
衆寮門
衆寮門は、江戸時代末期に建立された高麗門です。
講堂
衆寮門をくぐった正面に講堂があります。
江戸時代の天保4年(1833)に建立された浄土宗寺院の
檀林(だんりん=学問所)の数少ない遺構でもあります。
水行場
講堂の手前、右側には水行場があります。
食堂
講堂の横には食堂(じきどう)がありますが、
その前は寺の関係者の駐車場になっています。
薬医門
参道を下ると薬医門があります。
薬医門は江戸時代の延宝4年(1676)に建立されました。
薬医門をくぐるこの参道は「紅葉参道」と呼ばれ、
段差は無く緩やかな石畳の下り坂となります。
閻魔堂
参道を下ると総門の手前、右側に閻魔堂があります。
閻魔像
安置されている閻魔大王像は、元は閻地院の本尊でした。

京都市西京区の大歳神社へ向かいます。
続く

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