タグ:承元の法難
仏光寺本廟
次回は立山雪の大谷と倶利伽羅峠の旅です。
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知恩寺・銀閣寺~南禅寺-その5(法然院と安楽寺)
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光明寺
観音寺から東へ進み、丹波街道を北上した先の「光明寺前」の信号を左折した先に
光明寺の無料駐車場があります。
光明寺は山号を報国山、院号を念仏三昧院と号する
西山(せいざん)浄土宗の総本山です。
参道の右側に建つ「浄土門根元地」と記された石碑は、
法然上人が初めて念仏の教えを説かれたのが、この地であることから、
第106代・正親町(おおぎまち)天皇から賜った
「法然上人ノ遺廟、光明寺ハ浄土門根元之地ト謂イツベシ」という言葉によるものです。
光明寺の総門は、高麗門で江戸時代の天保16年(1845)に建立されました。
総門をくぐって、まっすぐに石段の参道が続いているのが表参道で、
傾斜が緩やかなことから「女人坂」と呼ばれ、
女性やお年寄りでも楽に登れるように配慮されています。
左側の細い参道は「紅葉参道」と呼ばれています。
表参道と紅葉参道との分岐点にある石碑には、
馬の背に逆さに乗っている僧の姿が刻まれています。
正直に言って、石の模様が邪魔になって図の判別が難しいです。
法然の弟子であった法力坊蓮生(れんせい)が、関東への布教の旅に出るとき、
馬に逆さに乗って浄土とされる西方を拝みながら進んで行った
「東行逆馬」のエピソードが残されています。
寿永3年(1184)2月の一ノ谷の戦いに参陣した熊谷直実(くまがい なおざね)は、
平敦盛の首をはねました。
敦盛は当時17歳で、我が子・直家と同じくらいの年齢でした。
これ以後、直実には深く思うところがあり、仏門に帰依する思いが
いっそう強くなり、建久4年(1193)頃、法然の弟子となって出家し、
法名を法力房・蓮生(ほうりきぼう・れんせい)と称しました。
須磨寺には一騎打ちの像と敦盛の首塚が残され、
須磨寺公園付近には敦盛塚があります。
光明寺の前身は念仏三昧寺で、鎌倉時代の建久9年(1198)に
法然上人を開山として、法力坊蓮生が建立しました。
女坂を登ると左側に塩田紅果(しおた こうか)の句碑が建っています。
「うつし世の 楽土静けし 花に鳥」
塩田紅果、本名:塩田親雄、三重県で生まれ作家を志しましたが、
父に反対され判事となり、その後弁護士となりました。
昭和2年(1927)に「蟻乃塔」を創刊し、金沢蟻塔会を主宰しました。
御影堂
入母屋、総欅(ケヤキ)造りで、十八間四面(約33m四方)の大きさを誇る威風ある建物です。
現在の御影堂は、江戸時代の享保19年(1734)に焼失し、宝暦3年(1753)に再建されました。
本尊は、法然上人が自作した「張子の御影」です。
承元の法難(じょうげんのほうなん)によって建永2年(1207)に法然は、
讃岐国(現、香川県)に配流され、その船上で母親から法然に宛てられた
手紙を材にして、形見として作られたものが「張子の御影」です。
光明寺は京都洛西観音霊場の第七番札所で、第八番札所の観音寺と
併せて御影堂で納経することができます。
御影堂の前に建つ「法然上人立教開宗の像」は、昭和57年(1982)に
法然上人の誕生850年を記念して建てられたものです。
ここ、粟生の地で、専修念仏の最初の教えを説かれた姿を表しています。
台座と像の高さとも2.4mで、合せて4.8mにしたのは四十八願に因むとされています。
鐘楼は、江戸時代の明暦3年(1657)に建立されました。
梵鐘は昭和24年(1949)に鋳造され、「遣迎鐘」(けんこうがね)と呼ばれ、
鐘と撞木が遣迎二尊を象徴しているのだそうです。
遣迎二尊とは、此岸にあり往生者を見送る釈迦如来と、
彼岸である浄土からこれを迎えに来る阿弥陀如来のことをいいます。
観音堂は江戸時代後期に建立され、「十一面千手観音」が祀られていましたが、
重要文化財に指定されてからは京都国立博物館に寄託されています。
現在は、粟生観音寺の「十一面千手観音」が安置されています。
観音堂の横に建つ経堂は、江戸時代の宝永4年(1707)に建立されました。
光明寺は、室町時代の応仁・文明の乱と元亀の乱で焼失しました。
江戸時代に徳川家康の外護を得て、
寛永年間(1624~1644)までに堂宇が復興されました。
経堂の前に立つ「袈裟掛の松」は、昭和57年(1982)に株分けされて植えられたものです。
法然上人が念仏の教えを説き始める地として、
しばらくこの地に留まろうと思い立ち袈裟を掛けたという伝承によるものです。
もともと、袈裟を掛けたとされる松は、円明寺の裏山に生えていたと伝わります。
勧化所(かんげしょ)は、休憩所ではありません。
勧化とは、「仏さまの教えを説き、信心を勧める」という意味で、
毎月の第一土曜日の朝7時からお説教の会が催されています。
勧化所から阿弥陀堂への参道の途中に、石の柵があり、その前には
「圓光大師御石棺」と刻まれた石碑が建っています。
圓光大師とは法然上人の大師号で、第113代・東山天皇から贈られました。
法然上人は、現在の知恩院勢至堂付近で80歳で亡くなられ、
知恩院の法然廟に葬られました。
しかし、念仏の教えが広まるにつれ、それを快く思わない比叡山の僧たちが、
上人の墳墓をあばいて辱めようとしている、という企みがあることが発覚しました。
嘉禄3年(1227)、危険が迫っていることを知った弟子達は、
遺骸を嵐山の二尊院に移し、更に太秦の西光院へ隠しました。
法然上人の遺骸は、石棺の中で護られていましたが、
石棺から一筋の不思議な光が放たれ、弟子たちが、この光を追ったところ、
粟生の念仏三昧院へたどり着きました。
この伝承から、光明寺と寺名が変更されたと伝わります。
遺骸は、光明寺に運ばれ荼毘に付され、遺骨の一部は御影堂の裏側の
最上部の本廟に納められ、一部が知恩院の御廟に安置されました。
石棺には阿弥陀如来が祀られています。
阿弥陀堂と御影堂は、渡り廊下で結ばれその間には、
本廟へと続く登廊がありますが、立入りは禁止されています。
登廊の先に見えるのは、境内MAPによると勢至堂で、
その裏側には納骨堂、その左側に本廟があるようです。
阿弥陀堂は、江戸時代の寛政11年(1799)に再建され、阿弥陀如来像が安置されています。
脇時には観音菩薩と勢至菩薩像が安置されています。
阿弥陀如来像は、恵心僧都の作とされ、蓮生が琵琶湖の浮御堂に
安置されていた千体仏の中尊を遷したものと伝わります。
阿弥陀如来が光明寺の本尊であり、阿弥陀堂は本堂となります。
法然上人の没後、教義の解釈に差異が生じ、親鸞は浄土真宗として別の流れを作り、
浄土宗は四派に分裂しました。
三鈷寺の証空は西山義(西山派)を立ち上げ、京都の浄土宗の主流となりましたが、
証空に対抗する長西は九品寺義の流れを作りました。
九州で布教活動を行っていた弁長は鎮西義(鎮西派)、陸奥国に配流された隆寛は
同地で長楽寺義と浄土四流(じょうどしりゅう)という流れが形成されました。
西山義は証空の没後に更に分裂し、一遍は時宗を起こしました。
南北朝時代から室町時代にかけて鎮西義の白旗派から聖冏(しょうげい)、
聖聡(しょうそう)が現れ宗派を興隆し、鎮西義が統一されていきました。
応仁の乱後、白旗派は知恩院を再興し、天正3年(1575)には第106代・正親町天皇より
知恩院は浄土宗本寺としての承認を受けました。
江戸幕府は浄土宗を保護し、幕府の命により元和元年(1615)7月に
寺院諸法度の一環として「浄土宗法度」が制定されされました。
知恩院が第一位の本山とされ、西山義に対しては「浄土宗西山派法度」が出され、
浄土宗とは違う対応がなされました。
明治9年(1876)9月25日、浄土宗から西山義が分派し、浄土宗西山派が結成されました。
阿弥陀堂の左前には童地蔵尊が祀られています。
御影堂の左側の回廊の奥に見える建物は蓮生閣かと思われますが、
立ち入りの制限があり、確認するのは困難です。
御影堂から石段を下ると右奥に江戸時代の万延元年(1860)に建立された勅使門があり、
この門の向こうには、信楽庭(しんぎょうてい)が築庭されています。
門の先に見える建物は釈迦堂で、紅葉シーズンには公開されますが、
その際には入山料が必要となります。
釈迦堂に安置されている、「頬焼けのお釈迦様」と呼ばれる釈迦如来立像には、
安養寺に伝わる「 弥陀次郎と十一面観世音尊像 」と深い関係があります。
「悪の水次郎と呼ばれるほど評判の悪かった漁師が、托鉢に訪れた僧の頬を
焼火箸で焼いて追い返しました。
僧は痛がりもせずに去っていったのを、不思議に思って後をつけて行くと、
僧は粟生・光明寺に入り姿を消しました。
水次郎が寺に入り本尊を拝すると、頬に火箸の跡があり、血が流れていたという。
水次郎は涙ながらに我が罪を謝し、心気一転仏道に帰依するようになり、
弥陀次郎と呼ばれるようになりました。
その後、夢の中で仏のお告げがあり、次郎は淀川から一体の仏像を引き上げました。
この仏像が安養寺本尊の十一面観世音です。」
勅使門への石段の脇に、高さ50cm位の金属製の塔を見つけました。
塔の中には小さな仏像が安置されているようですが定かではありません。
左側には大書院と玄関があります。
庫裏
法然上人火葬跡には勢至菩薩が祀られています。
安貞2年(1228)正月25日、法然上人の17回忌に、ここで遺骸は荼毘に付されました。
火葬跡前に聳える柏槙(びゃくしん)の木は、高さ15m、根元の周囲は4.6mの大木で、
長岡京市指定文化財になっています。
樹齢400~500年とされるこの木は、享保19年(1734)頃に描かれた
「光明寺焼失絵図」などから火葬跡に献樹として植えられた一対の内、
向かって左側にあたるとみられています。
鎮守社
「茂右衛門屋敷跡」の石碑
法然上人が24歳の時、比叡山を下り、清涼寺(嵯峨釈迦堂)へ遊学された際に、
粟生の里に立ち寄り、当時村役の高橋茂右衛門宅に一泊しました。
茂右衛門夫婦から「まことの教えを見いだされましたならば、
先ず最初に私共にその尊いみ教えをお説き下さいませ」と願われました。
承安5年(1175)、法然上人が42歳になって浄土宗を立教開宗し、
この粟生の地で初めて念仏の法門を説かれました。
「茂右衛門屋敷跡」の石碑の横には、
「元祖法然上人他力念仏創述之処」の石碑が建っています。
衆寮門は、江戸時代末期に建立された高麗門です。
衆寮門をくぐった正面に講堂があります。
江戸時代の天保4年(1833)に建立された浄土宗寺院の
檀林(だんりん=学問所)の数少ない遺構でもあります。
講堂の手前、右側には水行場があります。
講堂の横には食堂(じきどう)がありますが、
その前は寺の関係者の駐車場になっています。
参道を下ると薬医門があります。
薬医門は江戸時代の延宝4年(1676)に建立されました。
薬医門をくぐるこの参道は「紅葉参道」と呼ばれ、
段差は無く緩やかな石畳の下り坂となります。
参道を下ると総門の手前、右側に閻魔堂があります。
安置されている閻魔大王像は、元は閻地院の本尊でした。
京都市西京区の大歳神社へ向かいます。
続く
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