中山邸跡-1
今出川御門から南下して桂宮家跡を西へ進むと中山邸跡があります。
中山家は花山院家第2代当主・花山院忠宗の子・忠親(1131~1195)を祖とし、
現在の左京区黒谷町から岡崎周辺に別宅を構え、晩年を過ごしたことが
家名の由来となりました。
中山邸跡-2
藤原一族の男系血統を絶やさずに守り続けている家の一つで、
一条家も元を辿れば中山家に通じています。
江戸時代末期の第24代当主・中山忠能(なかやま ただやす)の
次女・慶子(よしこ:1836~1907)は、嘉永5年9月22日(1852年11月3日)に
第121代・孝明天皇との間に皇子・祐宮(さちのみや=後の明治天皇)をもうけ、
4年間は中山邸で育てられました。
当時、中山家は家禄が二百石で建築費用の大半を借金して産屋を建てたとされ、
今も敷地内に残されているそうですが、立ち入りは禁止されています。
祐井
また、敷地内には「祐井(さちのい)」と名付けられた井戸が残されています。
祐宮が二歳の時、干天で井戸が枯れたため、新たに掘られたものです。
中山忠能(ただやす:1809~1888)の七男・忠光(1845~1864)は、京都を脱出して
長州藩に身を投じ、官位を返上して森俊斎(秀斎)と改名しました。
久坂玄瑞が率いる光明寺党の党首として下関における外国船砲撃に参加しました。
文久3年8月17日(1863年9月29日)に大和国で決起し、「天誅組の変」を起こしましたが
敗れ、長州へ逃れた後に暗殺されました。
中山忠能もまた、「蛤御門の変」では長州藩を支持しましたが、結果的には失敗し、
孝明天皇の怒りを買って処罰されました。
その後、岩倉具視らと協力して王政復古の大号令を実現させ、
小御所会議では司会を務めました。
石薬師御門
中山邸跡から東へ進んだ所に石薬師御門があります。
かって、この門の付近には真正極楽寺(真如堂)がありました。
平安遷都の頃、大地より光沢のある蓮華のつぼみに似た大きな石が見つかり、
第50代・桓武天皇(在位:781~806)はその石に薬師如来を刻むことを命じ、
お堂を建立して安置しました。
第106代・正親町天皇(おおぎまちてんのう/在位:1557~1586)は、
真如堂の僧・全海に当時寺町今出川にあった真如堂にこの像を祀らせたことから、
「石薬師通」の通り名となり、その通りに建つ門は
「石薬師御門」と称されるようになりました。
元禄6年(1693)に真如堂は左京区浄土寺真如町へ移転し、
現在も石薬師堂にこの像が安置されています。
染殿井
石薬師御門から散策路を南へ進むと京都迎賓館の裏辺りに
染殿第跡があり、染殿井が残されています。
平安京当時は北東端にあたり、「染殿」と称された
藤原良房(804~872)の邸宅跡とされています。

良房は延暦23年(804)に藤原冬嗣の二男として生まれ、弘仁5年(814)に11歳で
第52代・嵯峨天皇の皇女・潔姫(810~856)を妻に迎えました。
天長10年(833)、第54代・仁明天皇が即位すると妹の順子(のぶこ:809~871)が
女御となりました。
仁明天皇の皇太子には淳和上皇の皇子・恒貞(つねさだ)親王(母は嵯峨天皇の皇女・
正子内親王)が立てられました。
承和7年(840)に淳和上皇が崩御されるとその2年後の承和9年(842)7月には、
嵯峨上皇も重病となりました。

伴 健岑(とも の こわみね:生没年不詳)と橘 逸勢(たちばな の はやなり:
782?~842)は、皇太子の座が仁明天皇の第一皇子・道康親王(母は藤原順子)に
奪われるのではないかと危惧しました。
二人は皇太子の身の安全を考え、東国への避難を画策しましたが、計画は露見しました。
7月15日、嵯峨上皇が崩御され、その2日後の17日、仁明天皇は伴健岑と橘逸勢、
その一味とみなされるものを逮捕し、その後恒貞親王は皇太子を廃され、
道康親王(後の文徳天皇)が皇太子となりました。(承和の変

嘉祥3年(850)、仁明天皇が崩御され、道康親王が第55代・文徳天皇として即位しました。
文徳天皇が皇太子の頃に、良房の娘・明子(あきらけいこ:829~900)が入内し、
天皇即位の年の3月に第四皇子・惟仁親王(後の清和天皇)を出産しました。
良房は、仁寿4年(854)、左大臣・源 常(みなもと の ときわ:812~854)の没後は
右大臣のまま朝廷の首班の地位を占め、天安元年(857)には太政大臣、
従一位に任じられました。
これは皇子以外では初めての太政大臣(大師,太政大臣禅師を除く)となります。
天安2年(858)8月に文徳天皇が突然の病で崩御され、第56代・清和天皇が
僅か9歳で即位し、染殿第に移られ「清和院」と称されました。
現在の清和院御門はこのことに由来しています。
清和院は、文徳天皇が明子(=染殿皇后)のために、仏心院を建立し、
地蔵菩薩像を安置したことに始まります。
清和天皇は即位した後、仏心院で落飾し、仏心院は後院(御在所)となったことから
「清和院」と改称されました。
清和院はその後、鎌倉時代の徳治3年(1308)に勅令により浄土宗の僧・照空が、
上京区室町通上長者町通下る清和院町で再興し、寛文元年(1661)の御所炎上の際では
類焼し、その後に後水尾上皇と東福門院により
上京区七本松通一条上ルで再興されました。

貞観6年(864)に天皇は元服したのですが、貞観8年(866)には伴 善男(とも の よしお)
らによるものとされる応天門炎上事件(応天門の変)が発生しました。
伴 善男父子は流刑に処され、大伴氏は没落しました。
事件を解決した良房は、人臣として初めての摂政に任じられ、
藤原氏による摂関政治の礎を築きました。
清和院御門
染殿井から更に南下した東側に清和院御門があります。
土御門第跡
清和院御門から西へ進むと北側に、平安時代中期に摂政・太政大臣となった
藤原道長の邸宅跡である「土御門第跡(つちみかどていあと)」があります。
道長(966~1028)は、藤原北家の全盛期を築き、晩年は現在の護浄院・清荒神付近に
法成寺を創建したことから「御堂関白」と呼ばれました。
道長の33歳から56歳にかけての日記は『御堂関白記』(『法成寺摂政記』)と称され、
ユネスコの記憶遺産に登録されています。

道長の長女・藤原彰子(ふじわら の しょうし/あきこ:988~1074)は
第66代・一条天皇の皇后となり、女房には紫式部とその娘、和泉式部赤染衛門
出羽弁(でわのべん)などを従え、華麗な文芸サロンを形成していました。
藤原彰子はここで敦成親王(あつひらしんのう=後の第68代・後一条天皇)と
敦良親王(あつながしんのう=後の第69代・後朱雀天皇)を出産し、
その様子は『紫式部日記』に詳しく、後に『紫式部日記絵巻』に絵画化されています。
彰子の妹・嬉子(きし/ よしこ:1007~1025)もここで第70代・後冷泉天皇を出産し、
後一条、後朱雀、後冷泉ら三代の天皇の里内裏ともなり、
道長家の栄華を象徴する邸宅でした。
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」、
この道長の歌は、この邸で催された宴席で詠まれたと伝わります。
建春門
土御門第跡の向かい(南側)に仙洞御所・大宮御所がありますが、拝観は後として
土御門第跡前を西へ進むと南北の散策路と交差します。
北西側に京都御所があり、その塀沿いの少し北には建春門があります。
京都御所は塀で囲まれ、6つの門を出入り口とし、建春門はその一つです。
向唐破風の屋根を持つ四脚門で、織田信長による御所の修理が行われた際に
資材運搬用に設けられました。
江戸時代までは勅使の出入りに使われていましたが、
明治以後は皇太子や皇后の出入りに使われるようになりました。
桜松
建春門の向かい側(東側)に、「桜松」と呼ばれている山桜が生育しています。
平成8年(1996)4月17日にクロマツが枯れ、倒れてしまったのですが、
桜は松の空洞を通り抜けて地上に根を下し、生育しています。

北へ進むと学習院発祥の地がありますが、画像は撮り忘れました。
公家の教育振興に尽力した第119代・光格天皇(在位:1780~1817)ですが、
次の仁孝天皇の在位中の弘化2年(1845)に幕府から学習所の設置が認められ、
更に次の孝明天皇在位中の弘化4年(1847)になって学習所が開講されました。
嘉永2年(1849)に第121代・孝明天皇から「学習院」の勅額が下賜され
校名が定まりました。
公家や御所に勤める役人たちとその子弟に、漢学や和学などを教える場と
なっていましたが、大政奉還後には政治の混乱から一時閉鎖されました。
半年後の慶応4年3月12日(1868年4月4日)に再開されたましたが、
4月15日(5月26日)に学習院は大学寮代と改称されました。
更に9月13日(10月28日)に国学中心の皇学所と大学寮代を改組した
漢学中心の漢学所の2校体制へ移行しました。
しかし、東京奠都が決定されると、明治2年9月2日(1869年10月6日)には皇学所と
漢学所の廃止命令が出され、8日後に廃止されました。
明治10年(1877)に華族学校学則が制定され、神田錦町にて華族学校が開校されて
改めて第122代・明治天皇から「学習院」の勅額が下賜されました。
明治17年(1884)には宮内省所轄の官立学校となりましたが、昭和22年(1947)に
学校教育法と教育基本法が施行され、学習院は私立学校となりました。
橋本家跡
その北側には橋本家跡があります。
橋本家は西園寺公相(さいおんじ きんすけ)の四男・実俊(さねとし:1260~1341)を
祖とし、孫の橋本実澄(さねずみ)の代から橋本の家名を使うようになりました。
16代目当主・橋本実久(さねひさ)の娘・経子(つねこ:1826~1865)は、
第120代・仁孝天皇(にんこうてんのう/在位:1817~1846)の后妃の一人となり、
和宮親子内親王(かずのみや ちかこないしんのう:1846~1877)を出産しました。
和宮親子内親王は孝明天皇の異母妹で、明治天皇の叔母にあたり、仁孝天皇が
和宮の誕生に先立つ弘化3年(1846)1月26日に崩御されたため、
勅命により和宮は14年間を橋本家で養育されました。
嘉永4年(1851)7月12日、孝明天皇の命により有栖川宮熾仁親王
(ありすがわのみや たるひとしんのう:1835~1895)と婚約しましたが、
公武合体政策を進めるため、有栖川宮熾仁親王との婚約は破棄され、
14代将軍・徳川家茂(とくがわいえもち/在任:1858~1866)へ嫁ぐこととなりました。
猿ヶ辻
再び御所の塀沿いへ戻ると、御所の北東角の塀が切り欠かれています。
陰陽道(おんみょうどう)で、艮(うしとら=北東)の方角は鬼が出入りする門が
あるとして、忌むべき方角とされ、鬼門封じのためにこのようになっています。
猿の像
「猿ヶ辻」と呼ばれ、日吉山王神社(ひえさんのうじんじゃ)の使者である
木彫りの猿が鬼門を守護しています。
烏帽子をかぶり、御幣をかついだ猿像ですが、夜になると付近をうろつき、
いたずらをしたために、金網が張られて閉じ込められています。
幕末の文久3年(1863)5月20日の夜半、攘夷派の急先鋒であった
姉小路公和(きんとも:1840~1863)がこの付近で3人の刺客に襲われて重傷を負い、
帰邸した翌日21日未明に23歳で亡くなりました。
朔平門
塀沿いに西へ進むと朔平門(さくへいもん/さへいもん)があります。
「朔」には北の意味があり、門内には飛香舎(ひぎょうしゃ)・若宮御殿・姫宮御殿
そして、皇后宮常御殿(こうごうぐうつねごてん)があります。
飛香舎は平安時代の内裏の後宮十二殿舎のひとつで、別名で「藤壺(ふじつぼ)」と
呼ばれ、『源氏物語』などにも登場する名高い宮殿です。
しかし、中世以後は造営されなくなり、寛政6年(1794)に第119代・光格天皇の中宮・
欣子内親王(よしこないしんのう=新清和院:1779~1846)が入内する際に、
儀式を行なう部分を中心に復古調で再興されました。
現在の建物は安政年間(1855~1860)に造営されました。
若宮御殿と姫宮御殿は皇子・皇女の御殿で、
第122代・明治天皇(在位:1867~1912)が一時期住まわれていたそうです。
皇后宮常御殿は皇后あるいは女御の日常の住まいとして造営された御殿です。

皇后門
京都御所の北西角から少し南に下った所に皇后門があります。
朔平門が皇后宮常御殿の正門であるのに対し、皇后門はその通用門となります。

京都御所の一般公開へ向かいます。
続く
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村