社号標
平野神社から西大路通りを北へ、約5分ほど歩いた西側に敷地神社があります。
かって、現在の鹿苑寺(金閣寺)がある山麓に天神地祇(てんしんちぎ)が降臨した
と伝わり、それを祀ったのが敷地神社の始まりとされています。
一方で、忌部氏(いんべうじ)の祖人である天日鷲神(あめのひわしのかみ)を祀った
とする説があります。
天日鷲神は、製紙業・紡績業の神であり、付近を流れる紙屋川(天神川)は、
平安時代に紙すきが行われていたことに由来しています。
天長5年(828)に第53代・淳和天皇が防災(止雨)の祈願のために勅使を遣わされ、
その際には「北山の神」と記録に残されています。
一の鳥居
天長8年(831)には、その地に氷室が設けられ、その夫役(ふやく)として
加賀国から人々が移住させられました。
加賀国から菅生石部神社(すごういそべじんじゃ:通称=敷地神社)の神である
「菅生石部神」が勧請され、「北山の神」に隣接して祀られるようになりました。
菅生石部神とは、菅生石部神社では彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、
豐玉毘賣命(とよたまひめのみこと)、鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)
の三柱の総称としています。
鸕鶿草葺不合尊の父は彦火火出見尊で、母は豐玉毘賣命です。
彦火火出見尊の父は邇邇藝命(ににぎのみこと)で、
母は鹿葦津姫(かしつひめ)です。
鹿葦津姫は「木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)」とも称され、
勧請された際に、木花之佐久夜毘売を祭神に定め、祀られるようになりました。

応永4年(1397)、足利義満が北山殿(後の金閣寺)を造営するに当たり、
その鎮守神として両社を祀りましたが、他の人々の参拝が不便になったとして
両社を合祀して現在地に遷座しました。
一の鳥居-扁額
西大路通りに面して鳥居が建ち、扁額には「わら天神宮」と記されています。
二の鳥居
鳥居をくぐって参道を進むと右に折れ、曲がった所に二の鳥居が建っています。
手水舎
二の鳥居をくぐった左側に手水舎があります。
踏み石は鞍馬石、手水鉢は貴船石で造られています。
拝殿
二の鳥居からは一直線上に拝殿、本殿へと続いています。
令和2年(2020)10月26日には秋季大祭が行われ、午後1時半から祭典、
午後2時からは拝殿で、茂山千五郎社中による奉納狂言や、
京都山内流刀新会による居合抜刀術の奉納演武が催されます。
本殿-拝所
敷地神社は古くから安産の神として信仰を集めています。
本殿-よだれかけ
本殿には多数の「よだれかけ」が奉納されています。
安産の護符に藁(わら)が用いられたことにより、
「わら天神」とも称されるようになりました。
護符の藁に節があれば男児、無ければ女児が授かると伝えられています。
古来、藁で編んで供物を包み、神前に捧げてその藁を持ち帰って身に着けたという
風習があったそうです。
本殿
本殿
主祭神は木花之佐久夜毘売で、配祀神として天日鷲命(あめのひわしのかみ)と
栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)が祀られています。
栲幡千千姫命は、木花之佐久夜毘売の夫神である邇邇藝命の母神で、
織物の神として信仰されています。
六勝神社
本殿の右側に摂社の六勝神社があり、伊勢・石清水・賀茂・松尾・稲荷・春日の
六柱が祀られています。
神社前の駒札には「平安京遷都の際、平野神社の地主神として勧請され、
当初は六所神社、六請明神社などと称されていました。
貞観元年(859)に初めて祭祀を行い、その後西園寺家の鎮守として
崇敬されてきました。」と記され、二十二社の上七社で
平野神社を除く六社が祀られたとされています。

一方で、等持院の近くにある六請神社は、「寛弘2年(1005)に藤原道長は衣笠山で
御霊会を催し、衣笠岳御霊社を建立して上記の六柱を勧請して祀った」と
伝えられていますが、個人的には六所神社は最初に平野神社に勧請され、
その後、六請神社に勧請されたように思います。

六所神社は古くから、必勝、成功、開運及び商売繁盛の守護神として信仰を集め、
江戸時代には、浄瑠璃及び歌舞伎の作者・近松門左衛門が、『女殺油地獄』に
「勝負師、博打打(ばくちうち)は六社大明神に祈願する」と記しています。
明治6年(1873)に平野神社から敷地神社境内に遷座された際に、
社号を「六勝神社」に改め、「必勝祈願」の社としての神格を打ち出しています。
また、「六つかしい(難しい)ことに勝」との語呂から、難関試験の合格祈願として、
付近の学問の神・北野天満宮と共に参拝すれば、
なお心強いものになると思われます。
八幡神社
六勝神社の右側にある末社・八幡神社は、かって、衣笠氷室町で祀られていたものが
明治40年(1907)に敷地神社境内に遷座されました。
神具格納庫
八幡神社右の参道の右側に、神具格納庫があります。
神具庫
本殿前の左側にコンクリート造りの神具庫があります。
神具庫-2
秋季大祭の準備が行われているようです。
綾杉明神
本殿の左側に東向きに、樹齢千数百年の杉の切り株が「綾杉明神」として
その霊が祀られています。
平安時代には既に清少納言の父・清原元輔(きよはら の もとすけ)に
和歌に詠まれています。
『生ひ繁れ 平野の原の 綾杉よ 濃き紫に 立ちかさぬべく』
度重なる兵火も免れ、巨木へと成長しましたが、明治29年(1896)8月の台風で
倒壊したため、地上2mの幹を残し、御神木として祀られるようになりました。
大山祇神社
綾杉明神の奥に末社の大山祇神社があり、敷地神社の祭神・木花之佐久夜毘売の
父神である大山祇神(おおやまつみのかみ)が祀られています。
筑紫の日向の高千穂峰に天下った邇邇藝命は、木花之佐久夜毘売と出逢い、
一目ぼれしました。
結婚の許しを得るため父の大山祇神を訪ねると大変喜び、
姉の石長比売(いわながひめ)とともに差し出しました。
大山祇神は、石長比売を妻にすれば、邇邇藝命の命は岩のように永遠のものとなり、
木花之佐久夜毘売を妻にすれば木の花が咲くように繁栄するだろうと
誓約(うけひ)を行いました。
しかし、石長比売が醜かったので邇邇藝命が送り返したため、大山祇神は怒り、
そのせいで人々には寿命があるとされています。

平野神社まで戻り、そこから東に進んで北野天満宮へ向かいます。
続く

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村