石段
大善寺から外環状線を西方向に進み、京阪宇治線の桃山南口駅前からの通りとの
交差点を右折して北へ進むと左側に駐車場があります。
参道入口
駐車場から横断歩道を渡り、山側に登ると石段があり、それを登ると明治天皇陵へ
最短で向かえますが、車道を進み、JR桃山駅からの参道を進みたいと思います。
参道脇の石-1
かって、この地には豊臣秀吉が築いた伏見城がありました。
参道の脇には城の石垣に使用されていた石材が残されています。
当初伏見城はJR桃山駅の南西側に築かれましたが、文禄5年(1596)の
慶長伏見地震」で倒壊し、その2日後の7月15日に木幡山の現在地に城が着工され、
10月10日に本丸が完成したとの記録が残されています。
秀吉が城に入って4年後の慶長3年(1598)に秀吉は亡くなり、
伏見城には徳川家康が入りました。
家康も半年後には大坂城へ移り、慶長5年(1600)6月には
会津征伐のため東国へ向かいました。
この間隙をぬって反家康軍が挙兵して伏見城を攻撃し、落城しました。
宇治市にある興聖寺などには落城で自刃して果てた徳川軍の血で染まったとされる
床板が天井に張られています。

伏見城はその後、徳川家康により再建され、慶長8年(1603)に家康が伏見城で
征夷大将軍の宣下を受けると、以後三代徳川家光まで伏見城で将軍宣下式が行われました。
しかし、慶長11年(1606)頃になると駿府城が改築され、
伏見城の作事は停止されて器材や屋敷も駿府城へと運ばれました。
そして、一国一城令の主旨から、伏見城と同時に再建された二条城は残され、
元和5年(1619)に伏見城の廃城が決定されました。
二条城の天守、御香宮神社の表門、西本願寺の唐門、都久夫須麻神社の本殿、
淀城の石垣などは伏見城の遺構です。
廃城後、城跡一帯が開墾され桃の木が植えられて「桃山」と呼ばれるようになりました。
陵-1
明治天皇陵は伏見城の本丸跡地に造営されました。
陵-2
上円下方墳で、上段の円丘部の高さは約6.3mあり、表面はさざれ石で葺かれています。
下段の方形壇の一辺は約60mで、方形の墓坑を掘って内壁をコンクリートで固め、
その中に棺を入れた木槨(もっかく)が納められています。
天智天皇陵をモデルとしたのですが、天智天皇陵は1970年代から
1980年代に行われた宮内庁の調査で、円丘部は八角形であることが判明しました。

明治天皇は孝明天皇の第二皇子で、権大納言・中山忠能(なかやま ただやす)の
娘・中山慶子(なかやま よしこ)を母親とし、嘉永5年9月22日(1852年11月3日)13時頃に
京都の中山邸で誕生しました。
称号は祐宮(さちのみや)で、安政3年9月1日(1856年9月29日)に中山邸から
宮中へと転居し、万延元年閏3月16日(1860年5月6日)に、深曽木の儀が行われました。

同年9月28日(11月10日)に親王宣下を受け睦仁(むつひと)の諱(いみな)を賜りました。
慶応2年12月25日(1867年1月30日)に孝明天皇が崩御され、
元服前のため立太子を経ずに慶応3年1月9日(1867年2月13日)に満14歳で
践祚(せんそ)の儀を行い皇位を継承しました。
慶応4年1月15日(1868年2月8日)に元服し、同年8月21日(10月6日)から一連の儀式を経て、
8月27日(10月12日)即位の礼が執り行われました。
幕末の動乱の中で、討幕を免れるために徳川慶喜は、
慶応3年10月14日(1867年11月9日)に大政奉還を奏上し、
翌15日(11月10日)に明治天皇は奏上を勅許しました。
討幕派は12月9日(1868年1月3日)に王政復古の大号令を発し、
新政府樹立を宣言しました。
慶応4年(明治元年)3月14日(1868年4月6日)には五箇条の御誓文を発布して
新政府の基本方針を表明し、閏4月21日(6月11日)には政体書によって
新しい政治制度を採用し、明治と改元して一世一元の制を定めました。

天皇は明治45年(1912)7月30日に宝算61歳(満59歳)で崩御され、
大正元年9月13日午後8時、東京・青山の大日本帝国陸軍練兵場
(現在の神宮外苑)において大喪の礼が執り行われました。
その後、約1ヶ月半の間、宮中では様々な儀式が執り行われ、明治天皇の柩は遺言に従い、
鉄道で京都へ運ばれて9月14日に現在地に埋葬されました。
眺望
明治天皇陵からは伏見区から宇治市、久御山町及び八幡市などの展望が開けています。
かって、眼下には巨大な池というよりは湖であった巨椋池(おぐらいけ)がありました。
豊臣秀吉は、宇治川に「太閤堤」と呼ばれる堤防を築き、
宇治川の流路を城下へと導きました。
それにより伏見は水運で栄えましたが、水路を断たれた巨椋池はマラリア等の
発生源となり、やがて埋め立てられることになりました。
昭憲皇太后陵-立札
明治天皇陵から東側へ下って行くと明治天皇の皇后・昭憲皇太后
(しょうけんこうたいごう)の伏見桃山東陵があります。
昭憲皇太后陵
昭憲皇太后は嘉永2年(1849)4月17日に従一位左大臣・一条忠香
(いちじょう ただか)の三女として誕生し、勝子(まさこ)と名付けられました。
明治元年12月26日(1869年2月7日)に美子(はるこ)と改名し、従三位に叙位され、
同月28日(1869年2月9日)、明治天皇に入内して皇后に立てられました。
皇后として欧化政策の先頭に立たなければならない立場を強く自覚し、
明治19年(1886)以降は、着用の衣服を洋服に切り替えました。
華族女学校(現学習院女子高等科)や、お茶の水の東京女子師範学校
(現・お茶の水女子大学)の設立、日本赤十字社の発展などに大きく寄与しました。
明治45年(1912)にはアメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.にて
第9回赤十字国際会議が開催された際、国際赤十字に対して皇后が10万円
(現在の貨幣価値に換算すれば3億5000万円ともいわれる)を下賜しました。
赤十字国際委員会はこの資金を基にして昭憲皇太后基金 (Empress Shōken Fund) を
創設し、この基金は現在も運用されて皇后の命日に利子の配分が行われています。
また、和歌や古典文学にも造詣が深く、和歌の一首に旋律が付けられ、
日本最初の校歌となりました。
皇后は国政には直接関与せず、近代日本の皇后像を確立し、
大正3年(1914)4月9日午前1時50分に崩御され、
同年5月9日に追号を『昭憲皇太后』と治定されました。
道標
昭憲皇太后陵から下ると石段下へと続き、駐車場へ戻って御香宮神社へ向かいます。
続く

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