村雲橋
南北の参道まで戻り、北へ進むと村雲橋があります。
仁寿3年(853)に唐に渡り長安の青竜寺で学ばれた智証大師・円珍が、
この橋を渡ろうとした際に、青竜寺が焼けているのを感知されされました。
智証大師・円珍は真言を唱えながら橋上から閼伽井水を撒くと、
橋の下から一条の雲が湧き起って西に飛び去り、青竜寺の火災が
鎮火したとの伝承が残されています。
以来、この橋をムラカリタツクモの橋、村雲橋と呼ぶようになりました。
唐院への参道
村雲橋を渡った左側に灌頂堂への参道があり、参道の両側には、
歴代の探題から奉納された石灯籠が建ち並んでいます。
四脚門
参道を上って行くと、唐院の表門である四脚門があり、
国の重要文化財に指定されています。
門の説明板には「昭和48年(1973)の修理で寛永元年(1624)の
建立であることが判明した。」と記されています。
元は棟門形式だったものが、建立間もなく四脚門に変更されたそうです。
門からは灌頂堂、大師堂と一直線で結ばれ、この区域は「唐院」と呼ばれています。
「唐院」は入唐した智証大師・円珍が天安2年(858)に帰国し、請来した経典や
法具類を貞観10年(868)に納め、伝法道場としたことに始まり、
園城寺で最も神聖な一画とされています。
灌頂堂
門をくぐった正面に灌頂堂があり、国の重要文化財に指定されています。
仁寿殿(じじゅうでん)が下賜されたもので、大師堂の前に建ち、
大師堂の拝殿としての役割を備えています。
仁寿殿は、かって紫宸殿の後方にあり天皇の居所とされていましたが、
平安時代中期の第59代・宇多天皇が清涼殿を居所に変えてからは内宴や
元服等の儀式を行ったり、庭で行われた相撲、蹴鞠等の
各種行事を観覧する場所となりました。
現在の京都御所に仁寿殿はありません。

灌頂堂には日本三不動に数えられている国宝の黄不動尊
秘仏として伝えられています。
承和5年(838)の冬、比叡山で修行中の円珍の目の前に忽然と金色に輝く
不動明王が現れ、「汝を守護するゆえに速く仏の教えを究め、
衆生を導け」と告げました。
円珍が何者かと問うと、自分は金色不動明王で、和尚を愛するがゆえに
常にその身を守っている答えました。
その姿は「魁偉奇妙(かいいきみょう)、威光熾盛(いこうしじょう)」で手に刀剣をとり、
足は虚空を踏み直立していました。
円珍はこの体験が印象に残り、その姿を画工に命じて写させた、
不動尊を単独で描いた最古の仏画とされています。
平成30年(2018)10月5日~14日までの結縁灌頂会で結縁灌頂を受けると、
黄不動尊を拝することができるようです。
大師堂
灌頂堂の背後に唐門があり、その内部にある大師堂は、
唐門と共に国の重要文化財に指定されています。
唐門及び大師堂は桃山時代の慶長3年(1598)に建立され、大師堂の堂内には
いずれも平安時代作の智証大師像二躯が安置されています。
御骨大師像は像高86.3cmで胎内に大師の舎利(遺骨)が納められています。
智証大師の臨終に際しての命により、 門人達が大師入滅後、
その姿を模刻したもので、秘仏とされています。
中尊大師像は像高84.3cmで、仏壇中央の厨子内に安置されることから
中尊大師と呼ばれ、御骨大師像と共に国宝に指定されています。
毎年、大師の忌日に当たる10月29日に行われる「智証大師御祥忌法要」に開扉されます。
また、堂内に安置されている不動明王立像(黄不動)は、鎌倉時代作で像高159cm、
国の重要文化財に指定されています。
国宝に指定されている秘仏画像「黄不動尊」を彫刻として忠実に模刻した立像です。
長日護摩堂
灌頂堂の左側に長日護摩堂があり、滋賀県の文化財に指定されています。
江戸時代に後水尾天皇の勅願により建立されたと伝わりますが、
建立年代を示す明確な資料は残されていません。
灌頂堂とは渡り廊下でつながっています。
三重塔
三重塔は鎌倉時代末期~室町時代初期に建築されたと見られ、元は大和・比蘇寺
(ひそでら=現在の世尊寺)にあったものを、豊臣秀吉が伏見城に移築しました。
比蘇寺には東西二塔あったとされ、慶長2年(1597)に秀吉はその内、
東塔を伏見城に移築し、秀吉没後の慶長6年(1601)に
その塔は徳川家康によって三井寺に寄進されました。
現在は国の重要文化財に指定され、一層目の須弥壇には、木造・釈迦三尊像が
安置されていますが、内部は非公開です。
橋と三重塔
三重塔の北側に架かる橋を渡り、一切経蔵へ向かいます。
一切経蔵
一切経蔵は室町時代の建立と見られ、元は山口県の毛利氏との
縁が深かった禅宗寺院・国清寺にありました。
慶長7年(1602)、毛利輝元の寄進より現在地に移築されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
八角輪蔵
堂内には一切経を納める回転式の巨大な八角輪蔵が備えられています。
上部の四方には「明層(あかりそう)」と呼ばれる採光窓があります。
輪蔵には、高麗版一切経が納められており、また天井から
円空仏七体が発見されています。
一切経蔵-天井
天井は鏡天井で極彩色の絵が描かれていましたが、剥落が著しく、
現在では何が描かれていたのか?判別が不可能な状態です。
一切経蔵前の石段
一切経蔵の前には石段があり、金堂への参道へと下れますが、
下らずに北側へ向かいます。
霊鐘堂
一切経蔵の北側に霊鐘堂があります。
霊鐘堂の堂内には「弁慶の引き摺り鐘」と「弁慶の汁鍋」が置かれています。
弁慶鐘
三井寺の初代梵鐘は奈良時代の作で、総高199cm、口径123.2cm、重量2250kgあり、
東大寺鐘に次ぐ規模を誇り、国の重要文化財に指定されています。
承平年間(931年~938年)に田原藤太(藤原秀郷)が、三上山のムカデ退治のお礼に
琵琶湖の龍神より頂いた鐘を、三井寺に寄進したとの伝承が残されています。
しかし、文永元年(1264)、延暦寺との対立により、弁慶が奪って比叡山へ引き摺り上げた
との伝承から「弁慶の引き摺り鐘」と呼ばれています。
弁慶が奪った鐘を撞いてみると 「イノー・イノー(関西弁で帰りたい)」と響いたので、
弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいのか!」と怒って鐘を谷底へ投げ捨てたと伝わります。
鐘に残された傷は、これらの時に付けられたとされています。
文永4年(1267)、鐘は比叡山より戻されましたが、寺に変事があるときには、
その前兆として不可思議な現象が生じたといいます。
良くないことがあるときには鐘が汗をかき、撞いても鳴らず、
また良いことがあるときには自然に鳴ると伝わります。
弁慶の汁鍋
「弁慶の汁鍋」は寺伝では弁慶が所持していた大鍋で、梵鐘を奪った時に
残していったものとされていますが、実際は鎌倉時代のものとされています。
弁慶は文治5年(1189)の衣川の戦いで、「弁慶の立往生」と後世に語り継がれるように、
雨の様な敵の矢を身体に受けて立ったまま絶命しました。
この大鍋は鋳鉄製で、重さは450kg、外口径166.5cm、深さ93cm、口厚1.5cmの大きさがあり、
僧兵が用いたことから「千僧の鍋」とも呼ばれています。
孔雀
霊鐘堂から西方へ登った所に孔雀が飼育されています。
密教特有の尊格である孔雀明王は、「偉大な孔雀」の意味を持つインドの女神
マハーマーユーリーが尊格化されました。
孔雀は害虫や毒蛇を食べることから、孔雀明王は「人々の災厄や苦痛を取り除く功徳」が
あるとされ、信仰の対象となりました。
後に、人間の煩悩の象徴である三毒・貪(とん=むさぼり)、嗔(しん=いかり)、
痴(ち=おろか)を喰らって仏道に成就せしめる功徳がある仏と解釈されるようになりました。
孔雀明王を本尊とした密教呪法は孔雀経法とよばれ、真言密教において孔雀経法による
祈願は鎮護国家の大法とされ、最も重要視されています。
修験道の開祖・役行者は17歳の時に元興寺で孔雀明王の呪法を学んだ後、
葛城山から熊野、大峯の山々で孔雀明王の呪文を唱えて修行を積み重ね、
修験道の基礎を築きました。
熊野権現社
霊鐘堂から下ってきた北側の山手に熊野権現社があります。
智証大師・円珍は天長10年(833)、延暦寺戒壇院で菩薩戒を受け、
12年間の籠山行に入りましたが、その間に黄不動尊の示現に遭いました。
承和12年(845)、籠山行を終えた円珍は、大峯山・葛城山・熊野三山を巡礼し、
三井修験道の起源となりました。
寛治4年(1090)の正月には、当時の三井寺長吏であった増誉が、白河上皇の熊野御幸の
先達を勤めた功により、熊野三山検校職に補せられました。
以来、この職は三井寺長吏の永代職となり、熊野修験を統轄するようになりました。
鎌倉時代末期に増誉ゆかりの聖護院の門跡であった覚助法親王は、園城寺長吏と
熊野三山検校を兼任すると、熊野三山・大峯山への天台宗系の
修験者を統制するようになりました。
三井寺は本山派修験道の根本道場として勢力を拡大し、
大きな影響力を持つようになりました。
熊野権現社は平治元年(1159)、三井修験の鎮守神として熊野権現が勧請されました。
現在の建物は、江戸時代の天保8年(1837)に再建されました。

園城寺(三井寺)-その3(金堂~仁王門)に続く

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村