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ロープウェイ
廣峯神社の西、バイクで20分弱の距離に書写山ロープウェイの無料駐車場があります。
書写山ロープウェイのゴンドラは、平成30年(2018)に開業60周年を記念して
新しい物に取り換えられました。
足元まで視界が広がり、空中を飛んでいる感覚が味わえます。
展望台
山上の展望台は、現在では立入禁止になっていました。
文学碑
山上駅近くの広場には、書写山の麓に生まれた小説家・椎名鱗三(1911~1973)の文学碑
「言葉のいのちは愛である」が建立されています。
 昭和55年(1980)、椎名鱗三文学碑建立委員会が
岡本太郎(1911~1996)に依頼して制作されました。
慈悲の鐘
入山料500円を納め、境内に入った所に鐘楼があり、
「慈悲(こころ)の鐘」と名付けられています。
平成4年(1992)10月に、世界平和祈願、浄佛国土建設を目指して建立されました。
鎌倉時代初期の形式を模して鋳造された梵鐘は、誰でも撞くことができます。
西国巡礼の道
参道入口には「西国巡礼の道」と刻まれた石碑があり、
参道には観音霊場の各本尊の銅像が安置されています。
書写山・開創千年、西国三十三所観音霊場・中興千年、
比叡山・開創1200年の記念事業として建立されました。
圓教寺は、山号を「書寫山(書写山)」と号する天台宗の別格本山で、
康保3年(966)に性空上人(910~1007)によって開基され、
西国三十三所観音霊場・第27番、神仏霊場・第75番などの札所です。
圓教寺の本尊
圓教寺の六臂(ろっぴ)如意輪観世音菩薩像を最初に、
参道の左右に仁王門まで三十三躯が安置されています。
仁王門
仁王門は、江戸時代初期の元和3年(1617)に再建された三間一戸の八脚門で、
兵庫県の文化財に指定されています。
壽量院-門
仁王門をくぐった先、右側に壽量院があり、参道に面して門がありますが、
ここからは入れません。
五重塔跡
門の前を通り過ぎた右側に東の五重塔跡があります。
永延元年(987)の後、性空上人(910~1007)によって、「辻」(大講堂・食堂・
常行堂の東、現在の本多家廟所)に多宝塔が建立されました。
文暦2年(1235)に多宝塔は摩尼殿(如意輪堂)の上に移築され、
その跡地に五重塔が建立されましたが、
嘉元元年(1303)に見鏡房より出火し、多宝塔が焼失しました。
多宝塔はその後再建され、江戸時代末期の『播磨国書写山伽藍之図』では
摩尼殿の北方に多宝塔が見られますが、現在は圓教寺に
多宝塔は存在していません。

文暦2年(1235)に建立された五重塔は、東福寺を創建した摂政関白・九條道家
(1193~1252)が娘・藻璧門院(そうへきもんいん:1209~1233)の
菩提を弔うために建立したと伝わります。
元徳3年(1331)、五重塔は雷火により大講堂・食堂・常行堂などと共に焼失しました。
延文5年(1360)に五重塔が再建され、応安3年(1370)には大講堂、食堂、常行堂も
再建されて、五重塔も含めて落慶法要が行われました。
しかし、文明11年(1479)にも落雷により五重塔が焼失しました。
この時は三之堂は無事で、五重塔は壽量院西側の現在地に
場所を替えての再建が計画されました。
永正10年(1513)から五重塔再興勧進が行われ、大永年間(1521~1527)に
土台が造営されましたが、再建には至らず礎石のみが残されています。
壽量院-精進料理
五重塔跡の西側にある壽量院は、圓教寺の塔頭の一つで、
承安4年(1174)に後白河法皇(1127~1192)が参籠したとの記録が残る
格式の高い塔頭寺院です。
現在の建物は江戸時代に再建されたもので、国の重要文化財に指定されています。
仏間を中心として中門を付けた書院造風の部分と、台所を設けた庫裏の部分から成り、
二つの建物は唐破風の玄関で繋がれています。
壽量院-通用門
書寫塗りの器での精進本膳料理は一週間前に5名以上の予約で
受け付けられていますが、現在は門は閉じられ、
見学することはできませんでした。
金輪院
参道を進んだ左側に旧・金輪院の円教寺会館がありますが、
平成30年(2018)6月18日の大阪北部地震か、同年9月4日に神戸市付近に
上陸した台風21号で被災したのでしょうか? 
ブルーシートが掛けられています。
金輪院-2
円教寺会館は5人から宿泊ができ、坐禅、写経、法話などの設定もできるそうです。
十妙院-1
円教寺会館の先、右側に塔頭の十妙院があります。
客殿と庫裏及び唐門は国の重要文化財に指定されています。

十妙院が創建された年代は不詳ですが、室町時代中期の武将で当時、
播磨・備前・美作国の守護職であった赤松満祐(あかまつ みつすけ:1381~1441)
が、僅か16歳で亡くなった娘の冥福を祈るために創建したされ、
天正7年(1579)に第106代・正親町天皇(おおぎまちてんのう/在位:1557~1586)より
「岡松院(こうしょういん)」の勅号を賜りました。
永享11年(1439)、娘は父が第6代将軍・足利義教(在職:1429~1441)に
陥れられる事を知り、父に伝えようとしたのですが露顕し、自害して果てました。
本尊は娘の姿を模した等身の千手観音像です。
その後、圓教寺の長吏を務めた実祐(じつゆう)が中興し、永禄元年(1558)には
正親町天皇から改めて「十妙院」の勅号を賜りました。
壽量院とは左右逆ですが、ほとんど同じ平面構成であり、壽量院とともに、
圓教寺独特の塔頭形式を持っています。
方丈・部の室には、狩野永納(1631~1697)筆の襖絵があり、
上段の間(一の間)に四季山水図、中段の間(二の間)に唐人物図、
下段の間(三の間)に着彩花鳥図が措かれていて、
兵庫県の文化財に指定されています。
普段は閉門されていますが、特別公開の日には襖絵などの拝観もできるそうです。
傘塔婆
更に参道を進んだ先に、鎌倉時代の延慶4年(1311)の記念銘のある
石造り傘塔婆があり、兵庫県の文化財に指定されています。
総高153cmあり、石柱の中に阿弥陀如来像が浮き彫りされ、
笠のような石が載せられています。
元の宝珠は失われ、代用の五輪塔の部材が置かれています。
護法石
傘塔婆の先に小さな祠があり、その左側に護法石が有ります。
護法石-2
直径約1mの2つの石で、不動明王の化身である乙天(おつてん)と
毘沙門天の化身である若天(わかてん)の2童子が降り立ったと伝わります。
また、弁慶がお手玉にしたとも伝わり、「弁慶のお手玉石」とも呼ばれています。
湯屋橋
護法石の先に架かる橋は「湯屋橋」と呼ばれています。
かって、この橋の付近に湯屋があったことが由来となっています。
圓教寺は、天正6年(1578)に三木城の別所長治(1558or1555~1580)離反に対し、
羽柴秀吉(1537~1598)が当地に要害を構え布陣したことにより荒廃しました。
元和3年(1617)に姫路城主となった本多忠政(1575~1631)は、
元和6年(1620)に書写山に参詣して、その荒廃ぶりに驚き、
寄進を募り復興に尽力されました。
湯屋橋もこの時再興されました。
はづき茶屋
橋を渡った右側にはづき茶屋があります。
はづき(端月)の名は、和泉式部が詠んだ「冥(くら)きより 冥き道にぞ
入りぬべき 遙かに照らせ 山の端の月」からとられました。
三十三所堂
はづき茶屋の向かいに、三十三所堂があり、
西国三十三所観音霊場の各本尊が安置されています。
カルガモ
三十三所堂の東に隣接して放生池があります。
令和元年(2019)5月の参拝時にはカルガモの親子が泳いでいました。
残念ながら、子ガモの一羽が行方不明になってしまったそうです。
本坊
放生池の東側に本坊があります。
旧妙覚院で現在は圓教寺の寺務所となっています。
石段
湯屋橋まで戻り、正面の石段を上ります。
懸崖造り
石段の途中、懸崖造りの摩尼殿を仰ぎ見ることができます。
摩尼殿
書写山・圓教寺は、西国三十三所のうち最大規模の寺院で、「西の比叡山」と
呼ばれるほど寺格は高く、中世には、比叡山、大山と共に
天台宗の三大道場と称された巨刹です。
書写山にはかって、素盞嗚命が山頂に降り立ち、一宿したという故事により、
「素盞ノ杣(そま)」といわれ、性空入山以前より
この地に祠が祀られていたと伝わります。
また、インドに有り、釈迦が『無量寿経』や『法華経』を説いた山である
霊鷲山(りょうじゅせん)の一握りの土で造り、「書き写した」ように似ている
ことから、「書寫山」と呼ばれるようになったとも伝わります。
性空は、貴族の橘氏の出身でしたが、36歳の時に出家し、それから約20年間、
九州で修行を積んだ後、霊地を求める旅に出て、康保3年(966)の57歳の時、
書写山に庵を結んだのが書写寺の始まりとされています。
入山して4年目の天禄元年(970)、天人が書写山内の桜の霊木を賛嘆礼拝するのを
見た性空が、弟子の安鎮に命じて生木の桜に六臂如意輪観音の像を刻み、
その崖に3間四方の如意輪堂(現・摩尼殿)を創建しました。

寛和2年(986)には花山法皇が来山して、圓教寺の勅号を与えました。
「圓教」には、輪円具足を教えるという意味があり、円の形は欠けたところがなく、
徳において最も成就した状態を象徴していることから、
自己を完成する道を教える寺の意となります。
また、花山法皇は米100石を寄進し、
性空はこの寄進をもとに講堂(現・大講堂)を建立したとされています。
承安4年(1174)に後白河法皇が参詣し、「摩尼殿」の号を賜りました。
その後も後醍醐天皇や多くの皇族が行幸、また勅願により
建物の改築・改修、建立が行われました。
延徳4年(1492)、真言堂からの火災により、蓮鏡院、摩尼殿が焼失し、
性空が造らせた如意輪観音像も失われました。

天正6年(1578)、織田信長(1534~1582)より中国地方征伐を命じられた羽柴秀吉が、
播磨制圧のため乱入し、摩尼殿の本尊である如意輪観音像などを
近江の長浜に持ち帰りました。
また、秀吉は、26,000石の全てを没収し、後に500石だけを施入し、
江戸時代になって833石になりましたが、圓教寺は荒廃しました。
その後、観音像は戻されたのですが、厨子内から発見され、平成18年(2006)に
開山性空一千年忌に初めて公開された如意輪観音像がこの像だったのかもしれません。
像高は19.8cm(台座含30.9cm)、桜の一木造で、像底の銘により延応元年(1239)、
当時の住僧・妙覚によって供養されたものと判明し、
兵庫県の文化財に指定されています。
この如意輪観音像は、性空が造らせたのと同木同作かもしれません。

摩尼殿は、大正10年(1921)12月にも焼失し、その後再建に着手され、
昭和8年(1933)に落慶したもので、国の有形文化財に登録され、
姫路市の文化財にも指定されています。
内陣に造り付けの大厨子は5間に分かれ、向かって左側の間から広目天、増長天、
六臂如意輪観音(本尊)、多聞天、持国天の各像を安置されていますが、
いずれも秘仏で、1月18日の修正会(しゅしょうえ)に開扉されます。
四天王立像は、寛和2年(986)の作とみられ、国の重要文化財に指定されています。
六臂如意輪観音像は、西国三十三所観音霊場・第二十七番札所の本尊でもあり、
宝印は摩尼殿で授けられます。
摩尼殿-山側の崖
摩尼殿の山側の崖は削られ、谷側は懸崖造りにして、
限られたスペースに摩尼殿は建立されています。
木
露出している岩に、根を覆い被せて木はたくましく生きています。
大黒堂
摩尼殿横を通り過ぎ、参道から下った所に大黒堂があります。
詳細は不明ですが、大黒天が祀られていると思われます。
瑞光院
大黒堂の南側に現存する圓教寺塔頭の六院の一つ、瑞光院があります。
創建された年代は不明ですが、信者の組織である
網干(あぼし)観音講の宿院でもあるようです。
杣観音堂
山側の参道まで戻り、西へ進んだ所に杣観音堂があります。
杣(そま)とは、圓教寺の堂宇を建設するための用材を切り出す書写山を指し、
書写山や切り出された用材及びそれに携わる人々を守護するために
祀られていると思われます。
大仏像
杣観音堂の左側に青銅製の大仏像が祀られています。
杉の木
大仏像の先に、樹齢700~800年とされる杉の木が聳え、
姫路市の保存樹に指定されています。
樹高約35m、幹周り約7.5mの大木です。
本多家廟所
三之堂の手前に本多家廟所があります。
土塀で囲まれた中に廟屋(びょうおく)5棟と11基の墓碑が並んでいます。
本多家廟所-廟屋
廟屋は、右が本多忠国、左側が政長の墓で、奥の右側から政朝忠政
画像にはありませんが、忠勝と並び、廟屋は兵庫県の文化財に指定されています。
本多家廟所-五輪塔
左側の廟屋のない大きな五輪塔2基は、31歳で病死した忠刻(ただとき)と
孫・幸千代の墓で、背後には忠刻の供をして23歳で殉死した、
宮本武蔵の養子・宮本三木之助などの墓碑もあります。
宝蔵跡
本多家廟所の前に宝蔵跡があります。
古版木『播磨国書写山伽藍之図』にその存在が示され、慶長15年(1610)に
建立された本多家廟所より以前から宝蔵があったと推定されています。
宝蔵は明治31年(1898)5月28日に焼失し、収蔵されていた「性空聖人御真影」
「源頼朝公奉納の太刀」「和泉式部の色紙」等78点の殆どが焼失しました。
三之堂
三之堂は、常行堂、食堂、大講堂がコの字形に配列され、
本多家廟所の建立以前には五重塔があり、中世の寺院景観を呈していました。
南北時代の元徳3年/元弘元年(1331)の落雷、永享8年(1436)の火災で焼失し、
現存する各堂は室町時代に再建されましたが、
五重塔はこの地には再建されませんでした。
五重塔に安置されていた平安時代後期の大日如来坐像(木造、像高102cm)は、
食堂の宝物館に遷されています。
大講堂
大講堂は北側に位置し、寛和2年(986)に参詣した花山法皇の勅願により、
3間四方の講堂として建立されました。
焼失後の永享12年(1440)に下層部分が再建され、寛正3年(1462)に上層部分が
上乗せされ、文明年間(1469~1487)に全体が整備されたと考えられています。
元和8年(1622)、本多忠政により修復され、昭和26年~昭和31年(1951~1956)に
解体修理されたもので、国の重要文化財に指定されています。

堂内には、釈迦如来像と両脇侍に文殊菩薩像及び普賢菩薩像が安置されています。
この釈迦三尊像は、大講堂創建時の寛和2年(986)の造立とされ、
国の重要文化財に指定されています。
常行堂-楽屋
講堂と向かい合う南側には常行堂に北接する長さ十間の細長い楽屋があり、
その中央には唐破風造、1間四方の舞台が張り出しています。
舞台は、大講堂の釈迦三尊に舞楽を奉納するためのものです。
常行堂-玄関
常行堂は東向きに建ち、寛喜元年(1229)には「改造し、供養を行った」との
記述が残されています。
元徳3年/元弘元年(1331)に落雷により三之堂が焼失し、正慶元年/元弘2年(1332)に
講堂と常行堂が再建されるも、永享8年(1436)に再び焼失しました。
現在の建物は享徳2年(1453)に再建され、昭和38年~40年(1963~1965)にかけて
解体修理が行われたもので、国の重要文化財に指定されています。

常行堂の本尊は、像高254.0cmの木造阿弥陀如来坐像で、記録によると
寛弘2年(1005)頃に性空の弟子・安鎮によりに造立されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
食堂
食堂は「長堂」とも呼ばれ、長さ40mかつ総2階で他に類を見ない
日本の近世以前の仏堂建築物です。
承安4年(1174)に参詣した後白河法皇の勅願により建立され、教興坊と称されました。
その後、三宝院とも称されていましたが、元徳3年/元弘元年(1331)に焼失後、
暦応元年(1338)に再建、貞和4年(1348)落慶との記録が残されています。
しかし、永享8年(1436)に焼失してからは未完成のまま、数百年放置されていました。
昭和34年~38年(1959~1963)に行われた解体修理で完成の形に複され、
国の重要文化財に指定されています。
食堂-1F
食堂の1階は、神仏霊場巡拝の道・第75番札所と写経道場となり、
旧摩尼殿の書写塗柱が展示されています。
この柱は平成10年(1998)に見つかったもので、明和5年(1768)の修理で
取り換えたと思われる摩尼殿内陣の飾り柱です。
柱には羽柴秀吉が天正6年(1578)に三木城攻めの本陣を置いた時、
家臣が書いたと思われる落書きが残されています。
食堂-屋根
2階は宝物館となっており、本尊で像高84.5cmの僧形文殊菩薩坐像が安置され、
寺内の諸堂にあった仏像などもここに遷されて展示されています。
奥の院にある護法堂拝殿にあった弁慶の勉強机が展示されています。
弁慶が「鬼若丸」と呼ばれていた7歳から10年間、圓教寺で修行していたと伝わります。
2階からは食堂と常行堂の屋根が重なり合っているのが見えます。
食堂の前-燈籠の礎石
食堂の前に燈籠の礎石と見られる六角形の石があります。
灌頂水
大講堂の左側に「灌頂(かんちょう)水」と呼ばれる井戸があります。
弁慶の鏡井戸
井戸の左側に弁慶の鏡井戸があります。
昼寝をしていた弁慶の顔にいたずら書きをされました。
寝覚めた弁慶の顔を見て、皆が笑うのが分からず、この池に顔を映してみると、
いたずら書きをされているのに気付き、大喧嘩になりました。
この喧嘩が元で大講堂をはじめ、山内の建物を焼き尽くしたと伝わります。
残念ながら今ではそんなに鮮明には映らないようで、当時も今のようだったら、
火災は起こらなかったように思えます。
不動堂
食堂の右側を通って進んで行くと不動堂があります。
延宝年間(1673~1681)に建立され、明王院の乙天護法童子の
本地仏・不動明王が祀られています。
一方、若天童子のお堂が無いのは、一説には、若天童子の姿があまりに怪異なため
人々が恐れたので、性空上人が若天童子に暇を出したとも言われています。
元禄10年(1697)、姫路城主・松平直矩(なおのり:1642~1695)により修理され、
荒廃していた大経所を合わせて不動堂としました。
昭和42年(1967)の暴風雨による土石流で全壊し、昭和51年(1976)に再建されました。
堂は山内唯一の丹塗りで、俗に赤堂と呼ばれています。
護法堂拝殿
不動堂の先、左側に護法堂拝殿があり、兵庫県の文化財に指定されています。
天正17年(1589)に建立され、昭和37年(1962)に解体修理が行われました。
護法堂拝殿は、弁慶の学問所とも呼ばれています。
護法堂
拝殿の向かい、右に若天と左に乙天の二つの護法堂があり、画像では一棟ですが、
同寸同形の春日造りが二棟並んでいます。
護法堂-乙天護法堂-若天

性空上人が修行中、いつも傍らで仕えた乙天護法童子と若天護法童子を祀り、
上人没後はこの山の守護神として祀られています。
乙天童子は不動明王、若天童子は毘沙門天の化身とされています。
護法堂は、室町時代のものとされ、国の重要文化財に指定されています。
開山堂
開山堂は、護法堂と護法堂拝殿が「コ」の字形に配された奥に位置しています。
圓教寺の開祖、性空上人が祀られ、
上人の御真骨を蔵した等身大の木像が堂内の厨子に安置されています。
寛弘4年(1007)上人の没年に高弟・延照によって創建されましたが、
弘安9年(1286)に上人木像や両護法堂共に焼失しました。
翌年に両護法堂が再建され、正応元年(1288)に開山堂が再建されて、
新たに造立された上人像が安置されました。
現在の建物は、江戸時代の寛文11年(1671)に再建されました。
開山堂-力士の彫刻
軒下の4隅に左甚五郎の作とされる力士の彫刻がありますが、
そのうち北西隅の力士は、あまりの重さに耐えかねて逃げ出したという
伝説が残されています。
宝篋印塔
山手の方に、和泉式部の歌塚と伝わる宝篋印塔(ほうきょういんとう)があります。
高さ203cm、天福元年(1233)の銘があり、県下最古の石造り品です。
和泉式部(978頃~?)は長保4年(1002)~寛弘2年(1005)の間に
「冥きより 冥き道にぞ 入りぬべき 遙かに照らせ 山の端の月」と
詠んだとされています。
『法華経』の「化城喩品 ( けじょうゆほん )」をもとに悟りへの導きを願い
性空上人に結縁を求めた釈教歌と呼ばれるもので、
『拾遺和歌集』に収録されています。
性空上人は「日入りて 月はまだ出ぬ たそがれに 掲げて照らす法(のり)の
燈(ともしび)」と返歌されたと伝わります。
建久7年(1196)~建仁2年(1202)に成立した『無名草子』には、和泉式部が性空上人から
この歌の返しに贈られた袈裟を身にまとい往生を遂げたとの説話を載せています。
金剛堂
奥之院から展望公園へと向かう途中に金剛堂があり、
国の重要文化財に指定されています。
金剛堂は、永観2年(984)に創建され、性空上人の居所であったと伝わる
塔頭の普賢院の持仏堂でした。
永観2年(984)、この地で性空上人の夢に金剛薩埵(こんごうさった)が現れ、
直々に胎金の密印を授けられたとの伝承が残されています。
普賢院は、明治40年(1907)に山内の伽藍修理費捻出のため明石の長林寺に
売却されましたが戦時下に焼失しました。
本尊は、金剛薩埵坐像で、兵庫県の文化財に指定され、
現在は食堂の宝物館に安置されています。
薬師堂
展望公園から石段を下った所にある薬師堂は、
兵庫県の重要有形文化財に指定されています。
この薬師堂は根本堂とも呼ばれ、圓教寺に現存する最古の建物です。
昭和53年(1978)の解体修理で奈良時代の遺物が出土し、
この地には圓教寺が創建される以前に何らかの宗教施設があったと推定されています。
この薬師堂は元々有った簡素な草堂を、
性空上人が三間四面の堂に造り替えたのが始まりとされています。
寺伝によると、延慶元年(1308)に焼失し、
現在の建物は元応元年(1319)の再建とされています。
薬師堂に安置されていた本尊の薬師如来像と日光・月光の両菩薩像、
及び十二神将像などは、食堂2階の宝物館に安置されています。
法華堂
薬師堂の先の左側に法華堂があります。
正しくは「法華三昧堂」といわれ、寛和3年(985)に播磨国司・
藤原季孝(ふじわらのすえたか)によって建立されました。
藤原季孝は加徴米300石を喜捨し、その後、藤原茂利により350石に加増されました。
現在の建物及び本尊の普賢菩薩も江戸時代のものです。

画像は切れていますが、法華堂の左側に隣接して塔頭の十地院があります。
十地院はかって、開山堂西側に広大な敷地を持っていましたが廃絶し、
名称のみが残されていたのを再興されました。
以前は阿弥陀三尊を本尊としていましたが、現在は聖観世音菩薩を本尊としています。
松平直基の墓所-1
十地院の裏側に松平直基(なおもと:1604~1648)の墓所があります。
直基は、徳川家康の孫で山形藩から慶安元年(1648)に姫路藩に国替えを命じられ、
そのわずか2ヶ月後、封地に赴く途上、江戸で発病し45歳で亡くなりました。
遺骨は相模国(神奈川県)の最乗寺に葬られました。
松平直基の墓所-2
後になって、直基の子・直矩(なおのり:1642~1695)が姫路城主となってから、
寛文10年(1170)に分骨し、この地に墓所が設けられました。
鐘楼
法華堂の先に鐘楼があります。
寺伝では、初めて鐘楼が建てられたのは寛和3年(987)で、
現在の鐘楼は元弘2年(1332)の再建とされ、国の重要文化財に指定されています。
梵鐘は元亨(げんこう、げんきょう)4年(1324)の再鋳とされ、
梵鐘は姫路市最古のもので、兵庫県の文化財に指定されています。
榊原家の墓所
鐘楼の左奥の高台に榊原家の墓所があります。
榊原家は江戸時代の初期と中期の2回に渡って姫路城主となりました。
初期は忠次(1605~1665)と政房(1641~1667)で、政房は父・忠次の後を継いで
寛文5年(1665)に城主となりましたが、2年後に27歳で亡くなりここに葬られています。
中期は政邦(1675~1726)、政祐(まさすけ:1705~1732)、
政岑(まさみね:1713or1715~1743)、政永(1736~1808)と継がれましたが、
政祐のみがここに葬られています。
政祐は、父・政邦の後を継ぎ享保11年に城主となりましたが、
5年余り28歳で亡くなりました。
尚、忠次と政邦の墓は、増位山随願寺にあります。
常行堂-横
鐘楼から進むと正面に常行堂の南側が見えてきます。
白山権現社への道標
三之堂の前を通り過ぎ、山道を登ります。
白山権現社-1
山上には白山権現社があります。
白山権現社-2
白山権現は、大講堂、摩尼殿に次いで性空上人が第三の吉所とし、
六根清浄の行を積んで心眼を開いたとされています。
それに因み、1月18日の修正会(鬼追い会式)では、主役の赤鬼、
青鬼が先ずこの白山権現に来て、神域を廻りながら四隅で松明を振りかざします。
かって、この地には素盞嗚命が山頂に降り立ち、一宿したとの故事から、
「素盞ノ杣(そま)」といわれ、性空入山以前より
この地に素盞嗚命を祀る祠があったと伝わります。
倶利伽羅龍王
境内には倶利伽羅大龍不動明王像が祀られています。
不動明王が右手に持つ降魔の三鈷剣は、
魔を退散させると同時に人々の煩悩や因縁を断ち切とされています。
三昧耶形(さんまやぎょう/さまやぎょう)では、不動明王の象徴そのものであり、
貪・瞋・痴の三毒を破る智恵の利剣であるとされています。
その剣に不動明王が化身したとされる倶利伽羅龍王が
燃え盛る炎となって巻き付いています。
不動明王の激しさ、荒々しさ、力強さそのものの姿とされています。
倶利伽羅大龍不動明王は七宝瀧寺の本尊で、
以前、七宝瀧寺を訪れた際の記事を参考にしました。
日天龍八王神-新-1日天龍八王神-新-2
白山権現社の両側には「日天龍八王神」と刻まれた新旧の石碑が建立されています。
すべての神仏を統括し全宇宙を統括している神々が
「天上王神」と呼ばれているそうです。
下山路の祠
白山権現社の前を通り過ぎて下って行くと摩尼殿の前に出ます。
手前には小さな二つの祠がありますが詳細は不明です。

ロープウェイで下り、弥勒寺へ向かいます。
続く

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ロープウェイ
自宅から国道171号線経由で約3時間、午前8時過ぎに書写山ロープウェイの
無料駐車場に到着しました。
始発は8:30ですが、その前に寺の従業員専用の便が発車しました。
ゴンドラは平成30年(2018)に開業60周年を記念して新しい物に取り換えられました。
足元まで視界が広がり、空中を飛んでいる感覚が味わえます。
展望台
山上の展望台は、現在では立入禁止になっていました。
椎名鱗三の碑
山上駅近くの広場には、書写山の麓に生まれた小説家・椎名鱗三の文学碑
「言葉のいのちは愛である」が建立されています。
 昭和55年(1980)、椎名鱗三文学碑建立委員会が岡本太郎に依頼して制作されました。
慈悲の鐘
入山料500円を納め、境内に入った所に鐘楼があり、慈悲(こころ)の鐘と名付けられています。
平成4年(1992)10月に、世界平和祈願、浄佛国土建設を目指して建立されました。
鎌倉時代初期の形式を模して鋳造された梵鐘は、誰でも撞くことができます。
西国巡礼の碑
参道入口には「西国巡礼の道」と刻まれた石碑があり、
参道には観音霊場の各本尊の銅像が安置されています。
書写山・開創千年、西国三十三所観音霊場・中興千年、
比叡山・開創1200年の記念事業として建立されました。
参道には、西国三十三所観音霊場の各本尊の銅像が設置されています。
書写山・圓教寺は、康保3年(966)、性空の創建と伝わりますから、
昭和41年(1966)前後に建立されたのでしょうか?
圓教寺本尊
圓教寺の六臂(ろっぴ)如意輪観世音菩薩像を最初に、
参道の左右に仁王門まで三十三躯が安置されています。
仁王門
仁王門は、江戸時代初期の元和3年(1617)に再建された三間一戸の八脚門で、
兵庫県の文化財に指定されています。
壽量院-棟門
仁王門をくぐった先、右側に壽量院があり、参道に面して門がありますが、
ここからは入れません。
五重塔跡
門の前を通り過ぎた右側に東の五重塔跡があります。
永延元年(987)の後、性空上人によって、「辻」(大講堂・食堂・常行堂の東、
現在の本多家廟所)に多宝塔が建立されました。
文暦2年(1235)に多宝塔は摩尼殿(如意輪堂)の上に移築され、
その跡地に五重塔が建立されました。
嘉元元年(1303)に見鏡房より出火し、多宝塔が焼失しました。
多宝塔はその後再建され、江戸時代末期の『播磨国書写山伽藍之図』では
摩尼殿の北方に多宝塔が見られますが、現在は圓教寺に

多宝塔は存在していません。
文暦2年(1235)に建立された五重塔は、東福寺を創建した摂政関白・九條道家が
娘・藻璧門院(そうへきもんいん)の菩提を弔うために建立したと伝わります。
元徳3年(1331)、五重塔は雷火により大講堂・食堂・常行堂などと共に焼失しました。
延文5年(1360)に五重塔が再建され、応安3年(1370)には大講堂、食堂、常行堂も
再建されて、五重塔も含めて落慶法要が行われました。
しかし、文明11年(1479)にも落雷により五重塔が焼失しました。
この時は三之堂は無事で、五重塔は壽量院西側の現在地に
場所を替えての再建が計画されました。
永正10年(1513)から五重塔再興勧進が行われ、大永年間(1521~1527)に
土台が造営されましたが、再建には至らず礎石のみが残されています。
壽量院-通用門
五重塔跡の西側にある壽量院は、圓教寺の塔頭の一つで、
承安4年(1174)に後白河法皇が参籠したとの記録が残る格式の高い塔頭寺院です。
現在の建物は江戸時代に再建されたもので、国の重要文化財に指定されています。
仏間を中心として中門を付けた書院造風の部分と、台所を設けた庫裏の部分から成り、
二つの建物は唐破風の玄関で繋がれています。
壽量院-精進料理
書寫塗りの器での精進本膳料理は一週間前に5名以上の予約で受け付けられていますが、
現在は門は閉じられ、見学することはできませんでした。
圓教示会館-1
参道を進んだ左側に旧・金輪院の円教寺会館がありますが、平成30年(2018)6月18日の
大阪北部地震か、同年9月4日に神戸市付近に上陸した台風21号で被災したのでしょうか? 
ブルーシートが掛けられています。
圓教示会館-2
円教寺会館は5人から宿泊ができ、坐禅、写経、法話などの設定もできるそうです。
十妙院-1
円教寺会館の先、右側に塔頭の十妙院があり、
客殿と庫裏及び唐門は国の重要文化財に指定されています。
十妙院-2
十妙院が創建された年代は不詳ですが、室町時代中期の武将で当時、
播磨・備前・美作国の守護職であった赤松満祐(あかまつ みつすけ)が、僅か16歳で
亡くなった娘の冥福を祈るために創建したされ、天正7年(1579)に
正親町天皇(おおぎまちてんのう)より「岡松院(こうしょういん)」の勅号を賜りました。
永享11年(1439)、娘は父が第6代将軍・足利義教に陥れられる事を知り、
父に伝えようとしたのですが露顕し、自害して果てました。
本尊は娘の姿を模した等身の千手観音像です。
その後、圓教寺の長吏を務めた実祐(じつゆう)が中興し、永禄元年(1558)には
正親町天皇から改めて「十妙院」の勅号を賜りました。
壽量院とは左右逆ですが、ほとんど同じ平面構成であり、壽量院とともに、
圓教寺独特の塔頭形式を持っています。
方丈・部の室には、狩野永納筆の襖絵があり、上段の間(一の間)に四季山水図、
中段の間(二の間)に唐人物図、下段の間(三の間)に着彩花鳥図が措かれていて、
兵庫県の文化財に指定されています。
普段は閉門されていますが、特別公開の日には襖絵などの拝観もできるそうです。
石造り傘塔婆
更に参道を進んだ先に、鎌倉時代の延慶4年(1311)の記念銘のある石造り傘塔婆があり、
兵庫県の文化財に指定されています。
総高153cmあり、石柱の中に阿弥陀如来像が浮き彫りされ、笠のような石が載せられています。
元の宝珠は失われ、代用の五輪塔の部材が置かれています。
護法石と祠
傘塔婆の先に小さな祠があり、その左側に護法石が有ります。
護法石
直径約1mの2つの石で、不動明王の化身である乙天(おつてん)と毘沙門天の化身である
若天(わかてん)の2童子が降り立ったと伝わります。
また、弁慶がお手玉にしたとも伝わり、「弁慶のお手玉石」とも呼ばれています。
湯屋橋
護法石の先に架かる橋は「湯屋橋」と呼ばれています。
かって、この橋の付近に湯屋があったことが由来となっています。
圓教寺は、天正6年(1578)に三木城の別所長治離反に対し、
羽柴秀吉が当地に要害を構え布陣したことにより荒廃しました。
元和3年(1617)に姫路城主となった本多忠政は、元和6年(1620)に書写山に参詣して、
その荒廃ぶりに驚き、寄進を募り復興に尽力されました。
湯屋橋もこの時再興されました。
はづき茶屋
橋を渡った右側にはづき茶屋があります。
はづき(端月)の名は、和泉式部が詠んだ「冥(くら)きより冥き道にぞ入りぬべき遙かに
照らせ山の端の月」からとられました。
三十三所堂
はづき茶屋の向かいに、三十三所堂があり、
西国三十三所観音霊場の各本尊が安置されています。
かるがも

三十三所堂の東に隣接して放生池があり、カルガモの親子が泳いでいました。
残念ながら、子ガモの一羽が行方不明になってしまったそうです。
本坊
放生池の東側に本坊があります。
旧妙覚院で現在は圓教寺の寺務所となっています。
石標
湯屋橋まで戻り、正面の石段を上ります。
摩尼殿-懸崖造り
石段の途中、懸崖造りの摩尼殿を仰ぎ見ることができます。
摩尼殿

書写山・圓教寺は、西国三十三所のうち最大規模の寺院で、「西の比叡山」と
呼ばれるほど寺格は高く、中世には、比叡山、大山と共に
天台宗の三大道場と称された巨刹です。
書写山にはかって、素盞嗚命が山頂に降り立ち、一宿したという故事により、
「素盞ノ杣(そま)」といわれ、性空入山以前より
この地に祠が祀られていたと伝わります。
また、インドに有り、釈迦が『無量寿経』や『法華経』を説いた山である霊鷲山(りょうじゅせん)の
一握りの土で造り、「書き写した」ように似ていることから、
「書寫山」と呼ばれるようになったとも伝わります。
性空は、貴族の橘氏の出身でしたが、36歳の時に出家し、それから約20年間、
九州で修行を積んだ後、霊地を求める旅に出て、康保3年(966)の57歳の時、
書写山に庵を結んだのが書写寺の始まりとされています。
入山して4年目の天禄元年(970)、天人が書写山内の桜の霊木を賛嘆礼拝するのを
見た性空が、弟子の安鎮に命じて生木の桜に六臂如意輪観音の像を刻み、
その崖に3間四方の如意輪堂(現・摩尼殿)を創建しました。

寛和2年(986)には花山法皇が来山して、圓教寺の勅号を与え、「圓教」には、
輪円具足を教えるという意味があり、円の形は欠けたところがなく、徳において最も成就した
状態を象徴していることから、自己を完成する道を教える寺の意となります。
また、花山法皇は米100石を寄進し、
性空はこの寄進をもとに講堂(現・大講堂)を建立したとされています。
承安4年(1174)に後白河法皇が参詣し、摩尼殿の号を賜りました。
その後も後醍醐天皇や多くの皇族が行幸、また勅願により
建物の改築・改修、建立が行われました。
延徳4年(1492)、真言堂からの火災により、蓮鏡院、摩尼殿が焼失し、
性空が造らせた如意輪観音像も失われました。

天正6年(1578)、織田信長より中国地方征伐を命じられた羽柴秀吉が、
播磨制圧のため乱入し、摩尼殿の本尊である如意輪観音像などを
近江の長浜に持ち帰りました。
また、秀吉は、26,000石の全てを没収し、後に500石だけを施入し、
江戸時代になって833石になりましたが、圓教寺は荒廃しました。
その後、観音像は戻されたのですが、厨子内から発見され、平成18年(2006)に
開山性空一千年忌に初めて公開された如意輪観音像がこの像だったのかもしれません。
像高は19.8cm(台座含30.9cm)、桜の一木造で、像底の銘により延応元年(1239)、
当時の住僧・妙覚によって供養されたものと判明し、兵庫県の文化財に指定されています。
この如意輪観音像は、性空が造らせたのと同木同作かもしれません。

摩尼殿は、大正10年(1921)12月にも焼失し、その後再建に着手され、昭和8年(1933)に
落慶したもので、国の有形文化財に登録され、姫路市の文化財にも指定されています。
内陣に造り付けの大厨子は5間に分かれ、向かって左側の間から広目天、増長天、
六臂如意輪観音(本尊)、多聞天、持国天の各像を安置されていますが、
いずれも秘仏で、1月18日の修正会(しゅしょうえ)に開扉されます。
四天王立像は、寛和2年(986)の作とみられ、国の重要文化財に指定されています。
六臂如意輪観音像は、西国三十三所観音霊場・第二十七番札所の本尊でもあり、
宝印は摩尼殿で授けられます。
摩尼殿横の崖
摩尼殿の山側の崖は削られ、谷側は懸崖造りにして、
限られたスペースに摩尼殿は建立されています。
木の根
露出している岩に、根を覆い被せて木はたくましく生きています。
大国堂
摩尼殿横を通り過ぎ、参道から下った所に大黒堂があります。
詳細は不明ですが、大黒天が祀られていると思われます。
瑞光院
大黒堂の南側に現存する圓教寺塔頭の六院の一つ、瑞光院があります。
創建された年代は不明ですが、信者の組織である網干(あぼし)観音講の宿院でもあるようです。
杣観音堂
山側の参道まで戻り、西へ進んだ所に杣観音堂があります。
杣(そま)とは、圓教寺の堂宇を建設するための用材を切り出す書写山を指し、
書写山や切り出された用材及びそれに携わる人々を守護するために
祀られていると思われます。
大仏
杣観音堂の左側に青銅製の大仏像が祀られています。
杉の木
大仏像の先に、樹齢700~800年とされる杉の木が聳え、姫路市の保存樹に指定されています。
樹高約35m、幹周り約7.5mの大木です。
本多家廟所-門
三之堂の手前に本多家廟所があり、
土塀で囲まれた中に廟屋(びょうおく)5棟と11基の墓碑が並んでいます。
本多家廟所-1
廟屋は、右が本多忠国、左側が政長の墓で、奥の右側から政朝忠政
画像にはありませんが、忠勝と並び、廟屋は兵庫県の文化財に指定されています。
本多家廟所-2
左側の廟屋のない大きな五輪塔2基は、31歳で病死した忠刻(ただとき)と孫・幸千代の墓で、
背後には忠刻の供をして23歳で殉死した、
宮本武蔵の養子・宮本三木之助などの墓碑もあります。
宝蔵跡
本多家廟所の前に宝蔵跡があります。
古版木『播磨国書写山伽藍之図』にその存在が示され、慶長15年(1610)に
建立された本多家廟所より以前から宝蔵があったと推定されています。
宝蔵は明治31年(1898)5月28日に焼失し、収蔵されていた「性空聖人御真影」
「源頼朝公奉納の太刀」「和泉式部の色紙」等78点の殆どが焼失しました。
三之堂
三之堂は、常行堂、食堂、大講堂がコの字形に配列され、
かって、本多家廟所の建立以前には五重塔があり、中世の寺院景観を呈していました。
南北時代の元徳3年/元弘元年(1331)の落雷、永享8年(1436)の火災で焼失し、
現存する各堂は室町時代に再建されましたが、
五重塔はこの地には再建されませんでした。
五重塔に安置されていた平安時代後期の大日如来坐像(木造、像高102cm)は、
食堂の宝物館に遷されています。
大講堂
大講堂は北側に位置し、寛和2年(986)に参詣した花山法皇の勅願により、
3間四方の講堂として建立されました。
焼失後の永享12年(1440)に下層部分が再建され、寛正3年(1462)に上層部分が上乗せされ、
文明年間(1469~1487)に全体が整備されたと考えられています。
元和8年(1622)、本多忠政により修復され、昭和26年~昭和31年(1951~1956)に
解体修理されました。
大講堂は、国の重要文化財に指定されています。

堂内には、釈迦如来像と両脇侍に文殊菩薩像及び普賢菩薩像が安置されています。
この釈迦三尊像は、大講堂創建時の寛和2年(986)の造立とされ、
国の重要文化財に指定されています。
常行堂-舞台
講堂と向かい合う南側には常行堂に北接する長さ十間の細長い楽屋があり、
その中央には唐破風造、1間四方の舞台が張り出しています。
舞台は、大講堂の釈迦三尊に舞楽を奉納するためのものです。

常行堂-玄関
常行堂は東向きに建ち、寛喜元年(1229)には「改造し、
供養を行った」との記述が残されています。
元徳3年/元弘元年(1331)に落雷により三之堂が焼失し、正慶元年/元弘2年(1332)に
講堂と常行堂が再建されるも、永享8年(1436)に再び焼失しました。
現在の建物は享徳2年(1453)に再建され、昭和38年~40年(1963~1965)にかけて
解体修理が行われたもので、国の重要文化財に指定されています。

常行堂の本尊は、像高254.0cmの木造阿弥陀如来坐像で、記録によると
寛弘2年(1005)頃に性空の弟子・安鎮によりに造立されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
食堂
食堂は長堂とも呼ばれ、長さ40mかつ総2階で他に類を見ない日本の近世以前の仏堂建築物です。
承安4年(1174)に参詣した後白河法皇の勅願により建立され、教興坊と称されました。
その後、三宝院とも称されていましたが、元徳3年/元弘元年(1331)に焼失後、
暦応元年(1338)に再建、貞和4年(1348)落慶との記録が残されています。
しかし、永享8年(1436)に焼失してからは未完成のまま、数百年放置されていました。
昭和34年~38年(1959~1963)に行われた解体修理で完成の形に複され、
国の重要文化財に指定されています。
食堂-柱
食堂の1階は、神仏霊場巡拝の道・第75番札所と写経道場となり、
旧摩尼殿の書写塗柱が展示されています。
この柱は平成10年(1998)に見つかったもので、明和5年(1768)の修理で
取り換えたと思われる摩尼殿内陣の飾り柱です。
柱には羽柴秀吉が天正6年(1578)に三木城攻めの本陣を置いた時、
家臣が書いたと思われる落書きが残されています。
食堂-屋根の重なり
2階は宝物館となっており、本尊で像高84.5cmの僧形文殊菩薩坐像が安置され、
寺内の諸堂にあった仏像などもここに遷されて展示されています。
奥の院にある護法堂拝殿にあった弁慶の勉強机が展示されています。
弁慶が「鬼若丸」と呼ばれていた7歳から10年間、圓教寺で修行していたと伝わります。
2階からは食堂と常行堂の屋根が重なり合っているのが見えます。
食堂前の礎石
食堂の前に燈籠の礎石と見られる六角形の石があります。
灌頂水
大講堂の左側に灌頂(かんちょう)水と呼ばれる井戸があります。
弁慶の鏡井戸
井戸の左側に弁慶の鏡井戸があります。
昼寝をしていた弁慶の顔にいたずら書きをされました。
寝覚めた弁慶の顔を見て、皆が笑うのが分からず、この池に顔を映してみると、
いたずら書きをされているのに気付き、大喧嘩になりました。
この喧嘩が元で大講堂をはじめ、山内の建物を焼き尽くしたと伝わります。
残念ながら今ではそんなに鮮明には映らないようで、当時も今のようだったら、
火災は起こらなかったように思えます。
不動堂
食堂の右側を通って進んで行くと不動堂があります。
延宝年間(1673~1681)に建立され、明王院の乙天護法童子の
本地仏・不動明王が祀られています。
一方、若天童子のお堂が無いのは、一説には、若天童子の姿があまりに怪異なため
人々が恐れたので、性空上人が若天童子に暇を出したとも言われています。
元禄10年(1697)、姫路城主・松平直矩(なおのり)により修理され、
荒廃していた大経所を合わせて不動堂としました。
昭和42年(1967)の暴風雨による土石流で全壊し、昭和51年(1976)に再建されました。
堂は山内唯一の丹塗りで、俗に赤堂と呼ばれています。
護法堂拝殿
不動堂の先、左側に護法堂拝殿があり、兵庫県の文化財に指定されています。
天正17年(1589)に建立され、昭和37年(1962)に解体修理が行われました。
護法堂拝殿は、弁慶の学問所とも呼ばれています。
護法堂

護法堂-乙天護法堂-若天









拝殿の向かい、右に若天と左に乙天の二つの護法堂があり、画像では一棟ですが、
同寸同形の春日造りが二棟並んでいます。
性空上人が修行中、いつも傍らで仕えた乙天護法童子と若天護法童子を祀り、
上人没後はこの山の守護神として祀られています。
乙天童子は不動明王、若天童子は毘沙門天の化身とされています。
護法堂は、室町時代のものとされ、国の重要文化財に指定されています。
開山堂
開山堂は、護法堂と護法堂拝殿が「コ」の字形に配された奥に位置しています。
圓教寺の開祖、性空上人が祀られ、
上人の御真骨を蔵した等身大の木像が堂内の厨子に安置されています。
寛弘4年(1007)上人の没年に高弟・延照によって創建されましたが、
弘安9年(1286)に上人木像や両護法堂共に焼失しました。
翌年に両護法堂が再建され、正応元年(1288)に開山堂が再建されて、
新たに造立された上人像が安置されました。
現在の建物は、江戸時代の寛文11年(1671)に再建されました。
開山堂-力士
軒下の4隅に左甚五郎の作とされる力士の彫刻がありますが、そのうち北西隅の力士は、
あまりの重さに耐えかねて逃げ出したという伝説が残されています。
和泉式部歌塚
山手の方に、和泉式部の歌塚と伝わる宝篋印塔(ほうきょういんとう)があります。
高さ203cm、天福元年(1233)の銘があり、県下最古の石造り品です。
和泉式部は長保4年(1002)~寛弘2年(1005)の間に「冥きより 冥き道にぞ 
入りぬべき 遙かに照らせ 山の端の月」と詠んだとされています。
「法華経」の「化城喩品 ( けじょうゆほん )」をもとに悟りへの導きを願い
性空上人に結縁を求めた釈教歌と呼ばれるもので、
「拾遺和歌集」に収録されています。
性空上人は「日入りて 月はまだ出ぬ たそがれに 掲げて照らす法(のり)の
燈(ともしび)」と返歌されたと伝わります。
建久7年(1196)~建仁2年(1202)に成立した「無名草子」には、和泉式部が性空上人から
この歌の返しに贈られた袈裟を身にまとい往生を遂げたとの説話を載せています。
金剛堂
奥之院から展望公園へと向かう途中に金剛堂があり、
国の重要文化財に指定されています。
金剛堂は、永観2年(984)に創建され、性空上人の居所であったと伝わる
塔頭の普賢院の持仏堂でした。
永観2年(984)、この地で性空上人の夢に金剛薩埵(こんごうさった)が現れ、
直々に胎金の密印を授けられたとの伝承が残されています。
普賢院は、明治40年(1907)に山内の伽藍修理費捻出のため明石の長林寺に
売却されましたが戦時下に焼失しました。
本尊は、金剛薩埵坐像で、兵庫県の文化財に指定され、
現在は食堂の宝物館に安置されています。
薬師堂
展望公園から石段を下った所に薬師堂があり、兵庫県の重要有形文化財に指定されています。
この薬師堂は根本堂とも呼ばれ、圓教寺に現存する最古の建物です。
昭和53年(1978)の解体修理で奈良時代の遺物が出土し、
この地には圓教寺が創建される以前に何らかの宗教施設があったと推定されています。
この薬師堂は元々有った簡素な草堂を、
性空上人が三間四面の堂に造り替えたのが始まりとされています。
寺伝によると、延慶元年(1308)に焼失し、現在の建物は元応元年(1319)の再建とされています。
薬師堂に安置されていた本尊の薬師如来像と日光・月光の両菩薩像、
及び十二神将像などは、食堂2階の宝物館に安置されています。
法華堂

薬師堂の先の左側に法華堂があります。
正しくは法華三昧堂といわれ、
寛和3年(985)に播磨国司・藤原季孝(ふじわらのすえたか)によって建立されました。
藤原季孝は加徴米300石を喜捨し、その後、藤原茂利により350石に加増されました。
現在の建物及び本尊の普賢菩薩も江戸時代のものです。

画像は切れていますが、法華堂の左側に隣接して塔頭の十地院があります。
十地院はかって、開山堂西側に広大な敷地を持っていましたが廃絶し、
名称のみが残されていたのを再興されました。
以前は阿弥陀三尊を本尊としていましたが、現在は聖観世音菩薩を本尊としています。
I松平直基墓所-1
十地院の裏側に松平直基(なおもと)の墓所があります。
直基は、徳川家康の孫で山形藩から慶安元年(1648)に姫路藩に国替えを命じられ、
そのわずか2ヶ月後、封地に赴く途上、江戸で発病し45歳で亡くなりました。
遺骨は相模国(神奈川県)の最乗寺に葬られました。
I松平直基墓所-2
後になって、直基の子・直矩(なおのり)が姫路城主となってから、
寛文10年(1170)に分骨し、この地に墓所が設けられました。
鐘楼
法華堂の先に鐘楼があり、国の重要文化財に指定されています。
寺伝では、初めて鐘楼が建てられたのは寛和3年(987)で、
現在の鐘楼は元弘2年(1332)に再建に再建されました。
梵鐘は元亨(げんこう、げんきょう)4年(1324)の再鋳とされ、
梵鐘は姫路市最古のもので、兵庫県の文化財に指定されています。
榊原家の墓所
鐘楼の左奥の高台に榊原家の墓所があります。
榊原家は江戸時代の初期と中期の2回に渡って姫路城主となりました。
初期は忠次と政房で、政房は父・忠次の後を継いで寛文5年(1665)に城主となりましたが、
2年後に27歳で亡くなりここに葬られています。
中期は政邦、政祐(すけ)、政岑(みね)、政永と継がれましたが、政祐のみがここに葬られています。
政祐は、父・政邦の後を継ぎ享保11年に城主となりましたが、5年余り28歳で亡くなりました。
常行堂-横
鐘楼から進むと正面に常行堂の南側が見えてきます。
白山権現社への道標
三之堂の前を通り過ぎ、山道を登ります。
白山権現社-1
山上には白山権現社があります。
白山権現社-2
白山権現は、大講堂、摩尼殿に次いで性空上人が第三の吉所とし、
六根清浄の行を積んで心眼を開いたとされています。
それに因み、1月18日の修正会(鬼追い会式)では、主役の赤鬼、
青鬼が先ずこの白山権現に来て、神域を廻りながら四隅で松明を振りかざします。
かって、この地には素盞嗚命が山頂に降り立ち、一宿したとの故事から、
「素盞ノ杣(そま)」といわれ、性空入山以前より
この地に素盞嗚命を祀る祠があったと伝わります。
倶利伽羅龍王
境内には倶利伽羅大龍不動明王像が祀られています。
不動明王が右手に持つ降魔の三鈷剣は、
魔を退散させると同時に人々の煩悩や因縁を断ち切とされています。
三昧耶形(さんまやぎょう/さまやぎょう)では、不動明王の象徴そのものであり、
貪・瞋・痴の三毒を破る智恵の利剣であるとされています。
その剣に不動明王が化身したとされる倶利伽羅龍王が燃え盛る炎となって巻き付いています。
不動明王の激しさ、荒々しさ、力強さそのものの姿とされています。
倶利伽羅大龍不動明王は七宝瀧寺の本尊で、以前、七宝瀧寺を訪れた際の記事を参考にしました。
日天龍八王神-新-2
日天龍八王神-新-1日天龍八王神-古




























白山権現社の両側には「日天龍八王神」と刻まれた新旧の石碑が建立されています。
すべての神仏を統括し全宇宙を統括している神々を天上王神と呼ばれているそうです。
下山路の祠
白山権現社の前を通り過ぎて下って行くと摩尼殿の前に出ます。
手前には小さな二つの祠がありますが詳細は不明です。

圓教寺の滞在は予定を超えて3時間になり、11時のロープウェイで下山しました。
加古川市にある鶴林寺へ向かいます。
続く

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