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仁王門
道明寺天満宮から南へ進み、府道189号右折して西へ進み、線へ国道170号線を北上して
府道31号線へ左折して西へ進んだ先の北側に野中寺があります。
山号を「青龍山」と号する高野山真言宗の寺院で、西国薬師四十九霊場・第14番、
聖徳太子霊跡・第5番の他河内飛鳥古寺霊場・第6番、河内六観音霊場・第4番
などの札所です。
伝承では聖徳太子建立48寺院の一つとされ、
太子の命を受けた蘇我馬子(?~626)が開基とされています。
太子町・叡福寺の「上之太子」、八尾市・大聖勝軍寺の「下之太子」とともに
三太子の一つに数えられ、「中之太子」と呼ばれています。
一方で渡来系氏族の船氏の氏寺として建てられたという説もあります。
仁王像
現在は府道31号線に面して北側に仁王門がありますが、
楼門ではなく安置されている仁王像も小振りなものとなっています。
伽藍の礎石
府道31号線から少し南へ進むと伽藍の礎石が残され、
ここに南大門があったのではと想像されます。
本堂
仁王門をくぐった正面に本堂があります。
現在の本堂は江戸時代初期の寛永~寛文年間(1624年~1673年)に
かっての講堂跡に再建され、本尊として薬師如来像が安置されています。
野中寺は南北朝時代までに兵火を受け、創建時の堂塔は全て焼失し、
その後の変遷は定かでなく、一時期は廃寺に近い状況だったと見られています。
江戸時代初期の寛文元年(1661)に政賢覚英(せいけんかくえい)和上、
慈忍恵猛(じにんえ いもう)律師らによって戒律道場として再興され、
「勧学院」と称されました。
本堂はこの頃の再建かと思われます。
江戸時代の享保年間(1716~35)の火災で本堂以外が焼失し、
その後再建されています。
享保9年(1724)、大和郡山藩主・柳沢吉里(1687~1745)の帰依を受け、
城内にあった客殿が寄進され、それを方丈・客殿として移築されました。
江戸時代には律宗の勧学院として、和泉・神鳳寺(しんぽうじ=現在は廃寺)、
山城・西明寺とともに律院三大僧坊として栄えました。
 明治時代中期に現在の宗派である高野山真言宗に転じています。

また、大正7年(1918)に寺内の蔵から発見された金銅弥勒菩薩半跏像が
毎月18日に開帳されています。
本像台座の框(かまち)部分に、「第38代・天智天皇5年(666)に
中宮天皇が病を患い、その平癒を祈願して栢寺(かしわじ)の信徒らにより
造立された」ことが記され、国の重要文化財に指定されています。
中宮天皇については第38代・天智天皇(在位:668~672)を指すと
推定されていますが、第37代・斉明天皇(在位:655~661)とする説など
諸説あります。
また、栢寺についてもどの寺院に該当するかは定説がありません。
塔跡
本堂への参道の左側に塔跡が残されています。
昭和60年(1985)に発掘調査が行われ、凝灰岩を加工した石材でつくられた
「壇上積み基壇」と呼ばれる基壇が認められました。
この基壇は、東西13.6m、南北12.9m、高さ約1.5mの規模を持ち、
東側に階段が存在し、塔が金堂の方を向いていました。
塔跡の調査で「庚戌年正月」の記念名平瓦が出土し、
白雉元年(650)頃には塔が建立されたとみられています。
聖徳太子(574~621)が亡くなったのは推古天皇30年(621)とされていますので、
少なくとも塔の建立は太子の没後30年弱となります。
このことから船氏の氏寺説が有力になっています。
船氏(ふなうじ)は朝鮮半島から渡来した最も古い中国系の帰化氏族で、
東漢(倭漢)(やまとのあや)と西漢(河内漢)(かわちのあや)の
両系に分かれ、その後に渡来した今来漢人(新漢人)(いまきのあやひと)を加え、
巨大な氏族となりました。
その子孫は菅野氏(すがのうじ)、葛井氏/藤井氏(ふじいうじ)等の
祖となりました。
金堂跡
塔跡の東側に金堂跡があります。
現在残っている土壇や礎石などから開口4間、奥行き3間の南北に長い建物で、
西面していたと推測され、東面していた塔跡と金堂跡とは
向き合っていたと考えられています。
伽藍配置図
この伽藍配置は法隆寺と類似していますが、法隆寺の場合は塔と
金堂は向かい合わずに南面しています。
堂塔が向き合う形は川原寺にみられますが、野中寺の配置とは
金堂と塔が逆となります。
このことから、野中寺は飛鳥時代に多く用いられた四天王寺の配置方法より新しく、
法隆寺より古い形態で、白鳳期の官寺に用いられていた川原寺の変形した
配置方法が用いられていたと考えられています。
「野中寺旧伽藍跡」は国の史跡に指定されています。
弁財天-鳥居
金堂跡の北側に鳥居が建っています。
弁財天
鳥居をくぐると池があり、池の中には石造りの厨子の中に弁財天と
思われる石像が祀られています。
大師堂
大師堂
弘法大師が祀られていると思われます。
本堂の裏の参道
本堂の裏側の参道を進みます。
地蔵堂
本堂の裏側西に、寛文元年(1661)に建立された地蔵堂があります。
堂内に安置されている木造地蔵菩薩立像は平安時代の作で、
国の重要文化財に指定されています。
鐘楼
その南側に鐘楼があります。
石棺
更にその南側にヒチンジョ池西古墳石棺が展示されています。
ヒチンジョ池西古墳は野中寺から南へ900m行った聖徳太子の
弟・来目皇子(くめのみこ:?~603)墓(塚穴古墳)に近い
ヒチンジョ池西側にありました。
野中寺のある羽曳野陵一帯は、第二次対戦後の食糧難で農地として開墾された
歴史があり、この開墾時に偶然に古墳が発見され石棺が出土しました。
その後、昭和40年(1965)に、この石棺が野中寺に移設されました。
この石棺は、二上山凝灰岩を使用した箱型横口式と呼称されるもので、
古墳時代終末期のものと推定されています。
大きさは、長さ3.1m、横幅1.7m、高さ1.8mあり、被葬者は渡来系の
有力氏族であろう考えられているが詳細は不明です。
大阪府の文化財に指定され、平成6年(1993)に保存修理も行なわれています。
お染・久松の墓
墓地にはお染・久松の墓があります。
裕福な油屋のお嬢様お染は丁稚・久松と許されぬ恋に落ちました。
しかし久松にはお光という許嫁がいます。
野崎村の実家に戻された久松はお光と祝言を挙げることになります。
そこに「野崎まいり」にかこつけてお染が久松に会いに来ました。
お光は二人の心を察し、自分が身を引けば、二人が幸せになれると考え、
髪を切り尼の姿になっていました。
油屋へ帰っていく二人を見送ったお光は泣き崩れた、との物語が残されています。
岡ミサンザイ古墳
野中寺から北上した先に「岡ミサンザイ古墳」があります。
墳丘長は245mあり、全国でも第16位の規模を誇る前方後円墳です。
仲哀天皇陵-1
「岡ミサンザイ古墳」の「岡」は地名で、「ミサンザイ」はミササギ(陵)の転訛とされ、
現在では宮内庁により第14代・仲哀天皇(在位:192~200)の
惠我長野西陵(えがのながののにしのみささぎ) と治定され、
同庁の管理下にありますが、第21代・雄略天皇(在位:457~479)や
同天皇と同一視される倭王武(わおうぶ:生没年不詳)のものとする説があります。
仲哀天皇陵-2
仲哀天皇は日本武尊(やまとたけるのみこと:82~111)の第二子で、
即位後の仲哀天皇2年(193)に気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと:170~269)
を皇后としました。(神功皇后)
仲哀天皇8年(859)に熊襲討伐のため、皇后と共に筑紫へ赴く際に、
皇后に神懸りがあり、住吉三神より託宣を受けました。
「熊襲の痩せた国を攻めるよりも、神に田と船を捧げて海を渡れば金銀財宝のある
新羅を戦わずして得るだろう」という内容でしたが、仲哀天皇はこれには従わず、
熊襲を攻撃しました。
天皇はこの戦いに敗れ、熊襲の矢が当たって翌年崩御されましたが、
神の怒りに触れたと見なされました。
その後、再び皇后に託宣がありましたが、皇后は熊襲征伐を続行して
熊襲を従わせ、その後、兵を率いて新羅へ出航し、戦わずして新羅、高句麗、
百済の三韓を従わせたとされています。
出航の際、皇后は懐妊していましたが、月延石を当ててさらしを巻き、
冷やすことによって出産を遅らせ、帰国後の仲哀天皇9年(860)12月14日に
誉田別尊(ほむたわけのみこと=後の第15代・応神天皇)を出産しました。

葛井寺へ向かいます。
続く
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鳥居
月読神社は松尾大社の境外摂社で、松尾七社の一社に数えられています。
月読神社は『日本書紀』巻十五の第23代・顕宗天皇(けんぞうてんのう)3年(487)
の条に記述が見られます。
任那(みまな/にんな=古代に存在した朝鮮半島南部の地域)へ派遣された
阿閉臣事代(あへのおみことしろ)は、壱岐で月神から宣託を受けました。
都へ還った阿閉臣事代は天皇に奏上し、山背国葛野郡歌荒樔田(うたあらすだ)に
社殿を建て、月神の裔と称する壱岐の押見宿祢(おしみのすくね)に祀らせたのが
月読神社の始まりとされています。
壱岐氏は早くから中国の卜占(ぼくせん)を我が国に伝え、
神祇官の官人に任ぜられ、卜部氏(うらべうじ)を名乗った一種族です。

当初の鎮座地「荒樔田」は、現在でも「月読」の地名が残る桂川左岸とも、
右岸の桂上野(月読塚)付近とも伝わりますが定かでは無く、
度重なる桂川の氾濫により斉衡3年(856)に現在地に遷座されました。
以後、この地は「松室」と呼ばれ、祠官の家名も「松室」となり、
秦氏の支配を受けて松尾大社に代々奉仕しました。
名神大社に列せられていましたが、松尾大社の勢力下にあり、中世以降は
松尾大社の摂社とされてきましたが、明治10年(1877)に公式に定められました。
神門
神門
現在の社殿は明治26年(1893)の再建と伝わります。
拝殿
拝殿
昭和46年(1971)に銅板に葺き替えられています。
本殿
本殿
平成11年(1999)に改修が行われています。
祭神は月読尊で、伊弉諾尊・伊弉冉尊を両親とし、天照大御神の弟神で、
素戔鳴尊の兄神とされています。
また、『古事記』では黄泉の国から帰ってきた伊弉諾尊が、黄泉の汚れを落としたときに
最後に生まれ落ちた三柱の神々と記されています。
この三神は「三柱の貴子(みはらしのうずのみこ)」と称され、
伊弉諾尊が生んだ諸神の中で最も貴い神とされています。
月読尊が天照大御神の勅を受け、保食神(うけもちのかみ)のもとへ訪れた際、
湯津香木(ゆつかつら=桂)に寄って立ったという伝説があり、
そこから「桂里」という地名が起こったと伝えています。
しかし、月読尊は保食神を殺すことになり、天照大御神の怒りにふれ、
一日一夜隔て離れて住むようになり、月読尊は夜を司る神になったとされています。
解穢の水
手水は「解穢(かいわい)の水」と称され、手水鉢には「解穢」と刻まれています。
御船社
御船社には天鳥船神(あめのとりふねのかみ)が祀られています。
昭和期(1926~1989)に建立され、航海や交通安全の神として信仰を集めています。
毎年4月下旬から5月中旬にかけて行われる松尾大社の神幸祭では、
その前日に祭儀が行われ、神輿渡御の安全祈願が行われています。
願掛け陰陽石
願掛け陰陽石は、左右の石を撫でて祈願を行います。
聖徳太子社
聖徳太子社は、太子が月読尊を崇敬していたことにより祀られています。
月延石
月延石は子授けや安産祈願の信仰を集めています。
月延石は「鎮懐石」とも呼ばれ、子供(後の応神天皇)を妊娠したまま海を渡って
朝鮮半島に出兵した神功皇后が、月延石を当ててさらしを巻き、
冷やすことによって出産を遅らせたとされています。
月延石は3つあったとされ、内一つがこの石で、他に長崎県壱岐市の月讀神社
福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮に奉納されました。
安産祈願石
戌の日に安産祈願を行うと、安産祈願石が授与され、氏名や願い事が記された
祈願石が多数奉納されています。
むすびの木
むすびの木

松尾大社へ向かいます。
続く

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