新しい木
西門からは登り坂が続きます。
途中には、不思議な木の芸術が点在しています。
例えば、朽ちた木の幹から新しい木が育っていたりしています。
(記事及び画像は平成28年(2016)11月のものです)
絡み合った木
木の幹に別の木が巻き付き複雑に絡み合っています。
鞍馬寺では山全体が尊天の御神体とし、
森羅万象の全てが尊天の顕現と考えられています。
動植物が網のように相互に絡み合って森林生態系が形成され、
その響きあいは「羅網」と表されています。
「共に生かされている命」を共感し、様々な命が支え合い響きあい、
生かし合っていることに気づき、その命は光り輝く宝珠であることを
自覚すべきと教えています。
尊天の祠
「尊天」と書かれた小さな祠もあります。
鞍馬山の掟です。
「鞍馬山は尊天の浄域なり 常に清浄を保つべし」
「山川草木 自然の実相に羅網の世界を学ぶべし」
「すべてのいのち輝く世界のために尊天加護を念じ精進すべし」
石灰岩
祠の近くにあるのは石灰岩で、約2億5千年前のサンゴ礁が隆起し、
その後浸食により溝や窪みができています。
この辺りの地質は、太平洋の海底だったものが動いて隆起したと考えられています。
魔王殿
更に坂道を登った先に奥の院魔王殿があります。
魔王殿-拝殿内部
魔王殿の中に拝所があり、その奥に魔王堂があります。
魔王殿-本殿
魔王殿は太古、護法魔王尊が降臨した磐座(いわくら)・磐境(いわさか)
として信仰されてきた鞍馬山の聖地です。
魔王殿-岩
瑞垣で囲まれた内側には多くの岩があり、
その中には刀で傷つけられたような痕が残っています。
牛若丸が剣道の修行をしていた時に付いたものとされ、「兵法石」と伝わります。
この岩も石灰岩で、傷とされているものも、実は浸食によるものと
現在の科学は分析しています。

鞍馬寺は、昭和22年(1947)に天台宗から独立して、
新たに鞍馬弘教(くらまこうきょう)を説いた天台宗系の新宗教教団の総本山です。
千手観音、毘沙門天、護法魔王尊の三尊を「尊天」とし、本尊としています。
「尊天」とは「すべての生命を生かし存在させる宇宙エネルギー」で
あるとしています。

「護法魔王尊」は、650万年前金星から地球にここに降り立ち、
その体は通常の人間とは異なる元素から成り、その年齢は16歳のまま、
年をとることのない永遠の存在であるとされています。
魔王尊は「力」の象徴にして「大地(地球)の霊王」とし、その姿は、
背中に羽根をもち、長いひげをたくわえ、高い鼻が特徴です。
またの名を鞍馬山魔王大僧正(大天狗)で、鞍馬山僧正坊(鞍馬天狗)を
配下に置いています。
義経堂
参道を進み、不動堂の右斜め前方、少し石段を上がった上に義経堂があります。
遮那王尊(しゃなおうそん=義経の御霊)が祀られています。
牛若丸は、平治の乱で父・源義朝が敗死したことにより鞍馬寺に預けられ、
稚児名を遮那王と称しました。
自分の出生を知ると、僧になることを拒否し、ここ僧正ガ谷まで通い、
天狗から剣術の手解きを受けたと伝わります。
しかし、兄・頼朝と対立し、遠く奥州の衣川館(ころもがわのたち)で
自刃し果てました。
不動堂
僧正ガ谷は、かって真言宗の僧・壱演が住したことから僧正ガ谷と
呼ばれるようになりました。
不動堂には、最澄が天台宗立教の悲願を込めて刻んだと伝わる
不動明王像が安置されています。
不動堂前の手水舎
不動堂前の手水は、谷の湧水が引かれています。
不動堂前の池
不動堂の左前方には、谷からの水をためた小さな池があり、
その横に眷属(けんぞく)社があります。
眷属社
眷属社
大杉権現社
大杉権現社の付近は、大杉苑瞑想道場と呼ばれ、護法魔王尊のエネルギーの
高い場所とされています。
大杉権現社-拝所
拝所
大杉権現社-杉
かって樹齢千年と云われる三本の幹の巨木が聳えていました。
この杉は、護法魔王尊影向(ようごう)の杉として信仰されていましたが、
昭和25年(1950)の台風で折れてしまいました。
大杉権現社の境内
大杉権現社の境内。
枯れた幹が芸術作品のようです。
背比べ石
奥の院参道に戻った先に「背比べ石」があります。
牛若丸が鞍馬寺に預けられて10年余り、16歳になり奥州の藤原秀衡を
頼って鞍馬寺を出奔する際、名残を惜しみ背比べをした石と伝わります。
高さ1.2mで、現在の七歳児の平均身長くらいしかありません。
源義経が着用した鎧から身長は147cmと推定されています。

承安4年(1174)3月3日桃の節句、僧になることを嫌った遮那王は
鞍馬寺を抜け出しました。
鏡の宿に泊まり、迫りくる追手から逃れるため、
自ら元服して姿を変えたとされています。
元服の地とされているのが、滋賀県竜王町鏡にある鏡神社付近の鏡池です。

治承4年(1180)に兄・源頼朝が伊豆国で挙兵すると、兄のもとに馳せ参じ、
頼朝と黄瀬川の陣(静岡県駿東郡清水町)で涙の対面を果たしました。
しかし、平氏を滅ぼした後、義経は「許可なく官位を受けた」などの理由で
頼朝と対立し、頼朝から追われることとなりました。
再び藤原秀衡を頼って奥州へと逃れたのですが、
文治3年(1187)に秀衡が病死しました。
後を継いだ藤原泰衡(ふじわら の やすひら)は鎌倉の圧力に屈して
衣川館を襲撃しました。
義経の軍は応戦しましたが破れ、義経は自刃し果てました。
享年31歳でした。
背比べ石-祠
「背比べ石」の横には祠があります。
木の根道
背比べ石は石英閃緑岩で、この付近の地層は、砂岩に石英閃緑岩が
マグマの貫入により硬化したため、根が地下へと伸ばせません。
そのため、根が露出していて「木の根道」と呼ばれています。
木の根道-石塔
木の根道の傍らに石塔があったのですが、その由緒については解りませんでした。
革堂地蔵尊
参道を下っていくと、地蔵堂があります。
この地蔵堂が建つ地は、「屏風坂」と呼ばれ、かって一枚岩の屏風を立てたような
急坂であったことから名付けられました。
革堂地蔵尊-扁額
扁額には「革堂地蔵尊」と記されています。
その所以は不明ですが、「革堂(こうどう)」とは京都市中京区にある
天台宗の寺院・行願寺の通称で、
鞍馬寺も元は天台宗であったことから関わりがあったのかもしれません。
息継ぎの水
地蔵堂を下った所に「息継ぎの水」が湧き出ています。
牛若丸が天狗から剣術の手解きを受けるために、僧正ガ谷へと通ったのですが、
ここの湧水で喉を潤したと伝わります。
上に見えるブルーの建物の土台が地蔵堂です。
奥之院への門
「息継ぎの水」からさらに下った所に門があり、奥の院への出入口となります。
冬柏亭
門への石段の脇に与謝野晶子の書斎であった冬柏亭(とうはくてい)が
移築されています。
冬柏亭は、昭和4年(1929)12月、与謝野晶子50歳の時、弟子から贈られ、
当時の東京市外荻窪村(現・杉並区荻窪)の居宅内に建てられました。
晶子没後、昭和18年(1943)10月に、冬柏亭は、門下生の岩野喜久代氏によって、
大磯にある氏の住居へ移されました。
更に、昭和51年(1976)4月、同じ門下生であった信楽香雲先代管長とのご縁で
この地に移築されました。
関係資料も寄贈され、それらは向かいの霊宝殿に収納展示されています。
与謝野寛・晶子の歌碑
また、霊宝殿の右横には与謝野寛・晶子の歌碑が建てられています。
左・与謝野寛(鉄幹)「遮那王(しゃなおう)が 背比べ石を山に見て 
わがこころなほ明日を待つかな」
右・与謝野晶子「何となく 君にまたるるここちして いでし花野の夕月夜かな」
霊宝殿
霊宝殿は、一階が自然科学博物苑展示室、二階が寺宝展観室と与謝野寛・晶子の
記念室、三階が仏像奉安室になっています。
仏像奉安室の正面に、国宝の毘沙門天立像(平安時代・大治2年(1127)作)が
安置され、吉祥天と善膩師童子(ぜんにしどうじ・国宝)を脇侍としています。
毘沙門天の右側に重文の聖観音立像(鎌倉時代・嘉禄2年(1226)2月の銘)が
安置されています。
左コーナーには、倒れてしまった大杉権現社の杉の木の一部が展示されています。
左壁側には、重文の兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん・平安時代後期)、
鎌倉時代の毘沙門天像三体が安置されています。
八所明神-鐘楼への石段
霊宝殿から参道を下っていくと、新しく整備されたように見える山手への
石段があります。
八所明神-鐘楼
それを登っていくと石塔とその奥に鐘楼があります。
八所明神-鐘楼の甕
鐘楼には、共鳴のためか床に甕(かめ)が埋められています。
八所明神
鐘楼の横に八所明神が祀られています。
八所明神は、宮中賢所(かしこどころ)の祭神である八神
(神産日神、高御産日神、玉積産日神、生産日神、足産日神、大宮賣神、
御食津神、事代主神)を迎えて祀ったと云われています。
鞍馬の火祭り(10月22日)には、由岐明神と八所明神の二基の神輿が渡御します。
八所明神-経塚
八所明神の奥に経塚の石塔と石仏があります。
鞍馬寺の経塚から、平安時代~鎌倉時代の遺物約200点が発見され
国宝に指定されました。
その一部は霊宝殿に展示されています。

鞍馬寺の本殿へ向かいます。
続く

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