タグ:本能寺の変

御池門
御池通の南側歩道を西へ進むと本能寺の御池門があります。
寺号の「能」の字は右がヒヒで無く、去と記されています。
本能寺は五度の火災に遭遇し、ヒ(火)を嫌い、去るの字に替えられました。
本能寺は法華宗本門流の大本山で、山号はありません。
応永22年(1415)に油小路高辻と五条坊門の間に、本門法華宗の祖とされる
日隆(にちりゅう:1385~1464)によって創建され、
当初は「本応寺」と称されていました。
日隆は妙顕寺(みょうけんじ)を妙本寺と改めて4世となった
日霽(にっせい:1349~1405)に師事していましたが、
妙本寺5世・月明(生没年不詳)と対立し、
応永25年(1418)に月明により本応寺は破却され、日隆は京都から逃れました。
永享元年(1429)に帰洛して平安京の大内裏跡付近で本応寺を再建し、
永享5年(1433)には如意王丸(詳細不明)の発願により六角大宮に広大な土地を得て
移転、再建され、「本能寺」と改称されました。

その後、本能寺は法華経弘通の霊場として栄え、洛中法華21ヶ寺の一つとなって
足利氏の保護を受けました。
応仁・文明の乱(1467~1477)後は京都復興に尽力した町衆は、
大半が法華宗門徒で、法華宗の信仰が浸透し「題目の巷」と呼ばれ、
本能寺は繁栄を極めました。
しかし、天文5年(1536)に天文法華の乱が起こり、六角定頼の援軍を得た
延暦寺の僧兵により焼き討ちされ、堺へ逃れました。
天文11年(1542)に第105代・後奈良天皇(在位:1497~1557)の論旨により帰洛が許され、
天文14年(1545)に伏見宮邦高親王の皇子で第8世となった
日承上人(貞敦親王か?)により再興されました。
敷地は東西150m、南北300mで、現在の堀川高校の東側、「本能寺町」
元本能寺」などの町名が残されている所で再建されたのですが、
天正10年(1582)の本能寺の変で焼失しました。
織田信長(1534~1582)は日承上人に帰依し、上洛時には本能寺を宿所としていました。
天正17年(1589)に再建にされ、上棟式の当日に豊臣秀吉(1537~1598)から
現在地への移転を命じられました。

当時は、現在の御池通と京都市役所を含む広大な敷地を有し、
寛永10年(1633)には末寺92を数える大寺院であったとの記録が残され、
洛中の法華宗の寺で最も栄えていました。
天明8年(1788)の天明の大火で焼失した後、天保11年(1840)に再建されましたが、
元治元年(1864)には禁門の変に伴い発生したどんどん焼けにより、再び焼失しました。
更に明治の上知令によって境内の大半を失い、
昭和3年(1928)になって現在の本堂が再建されました。
大寶殿-1
御池門から入った正面には大寶(宝)殿があり、
本能寺が所蔵する宝物が展示・公開されています。
大寶殿-2
入館料は500円です。
開山堂
その建物の東側は寺務所として使用され、左側は開山堂となっています。
開山堂には宗祖・日蓮聖人(1222~1282)や開山・日隆上人像が
安置されていると思われますが、詳細は不明です。
本能寺文化会館
境内の北側には、手前に本能寺文化会館があり、方丈としても使われています。
奥に見える文化会館より高い建物は本能寺が経営する「ホテル本能寺」で、
昭和37年(1962)に創業され、平成31年(2019)に大改装が行われました。
本堂
ホテルの南側に本堂があります。
昭和3年(1928)、建築史家・天沼俊一(1876~1947)により、室町時代の建物を再現し、
総けやき材で再建された7間7面単層入母屋造本瓦葺の建物で、
総建坪は178坪(587.4㎡)です。
堂内には本尊の他、織田信長やその家臣の位牌が安置されています。
臥牛石
本堂前の左側にある臥牛石は加藤清正(1562~1611)から寄進されました。
塔頭
境内の南側には塔頭の六院が並んでいます。
火伏銀杏の木
南東側の「火伏せのイチョウの木」は、当地へ移転した時に移植されたと伝わり、
幹回り約5m、高さ約30mに及び、京都市の保存樹に指定されています。
樹皮が厚く、コルク質で気泡があるため、耐火力に優れているとされ、
天明8年(1788)の天明の大火の際にはこの木から水が噴き出し、
木の下に身を寄せていた人々を火災から救ったとの伝承から
「火伏せのイチョウの木」と呼ばれています。
浦上玉堂の墓
その手前に浦上玉堂と長男・浦上春琴の墓があります。
浦上玉堂(1745~1820)は江戸時代の文人画家、備中岡山藩支藩の
鴨方藩士(かもがたはんし)で、大目付などを勤める程の上級藩士したが、
寛政6年(1794)、50歳の時に武士を捨て、2人の子供を連れて脱藩しました。
若年より学問、詩文、七絃琴(しちげんきん)などに親しみ、
脱藩後は諸国を放浪して画作などを行い、晩年の文化10年(1813)に
春琴一家と共に京都で暮らしました。

浦上春琴(1779~1846)は、幼少の頃から玉堂より書画の手ほどきを受けていたのですが、
14歳の頃母が亡くなり、15歳の寛政6年(1794)に脱藩した父と共に諸国を放浪しました。
文化3年(1806)に広島の頼山陽(らい さんよう:1781~1832)宅を訪れた後、
文化6年(1809)~文化8年(1811)の長崎遊学を経て京都で結婚、
定住するようになりました。
文化10年(1813)から玉堂も同居するようになり、
本格的な画業に専念するようになりました。
文化8年(1811)に京都へ出奔した頼山陽が洛中に居を構えて開塾し、
後に「笑社(しょうしゃ)」が結成されました。
春琴はその活動を支え、天保3年(1832)9月23日に山陽が没すると、
その後継者たちの教育に専念し、弘化3年(1846)5月2日に亡くなりました。
信長公廟-1
左側に信長公廟があります。
天正10年(1582)5月17日、安土城の織田信長の元へ、備中高松城攻囲中の羽柴秀吉から
応援を要請するという旨の手紙が届きました。
信長は明智光秀(1516~1582)に出陣の命を下し、天正10年(1582)5月29日に
供廻りを連れずに小姓衆のみを率いて上洛し、本能寺へ入りました。
天正10年(1582)6月1日、光秀は1万3,000人の手勢を率いて丹波亀山城を出陣し、
翌2日の午前4時頃には本能寺を完全に包囲し終えました。
明智勢に四方から攻め込まれた信長は、応戦しましたが負傷し、殿中の奥深くに篭り、
内側から納戸を締めて切腹し、本能寺の大伽藍は灰燼に帰しました。
明智勢は信長の遺体をしばらく探したが見つからりませんでした。
信長公廟-2
信長の三男・信孝(のぶたか/のぶのり:1558~1583)は、燼骨の収集を進め、
本能寺の変から一か月後の7月3日に信長の墓所を本能寺と定め、
この墓を建立し、信長が所有していた太刀を納めました。

一説では阿弥陀寺の住職・玉誉清玉が僧20名と共に本能寺に駆けつけ、
裏側の生垣を破って寺内に入ったとされています。
墓の後ろの藪で10名あまりの武士が葉を集めて火をつけていたのを見つけました。
彼らは信長から遺骸を敵に奪われてないように指示され、火葬にして隠すところでした。
玉誉清玉は武士に代わって信長を荼毘に付し、遺灰を法衣に詰めて阿弥陀寺に
持ち帰り、塔頭の僧だけで葬儀をし、墓を作って葬りました。
後に織田信忠(1557?~1582)の遺骨も、二条御新造より拾い集め、
信長の横に墓が築かれました。
しかし、阿弥陀寺は天正13年(1585)に寺町今出川上ルに移転した後、
延宝3年(1675)11月25日に大火あって、信長公の木像、武具・道具類などの
遺物は焼失しました。

また、大徳寺の塔頭・総見院にも「信長公廟所」があります。
豊臣秀吉(1537~1598)が織田信長の追善供養のため、一周忌に間に合わせて創建し、
信長の法名「総見院殿」を寺号としました。
大徳寺には信長が父・信秀(1511?~1552?)の菩提を弔うために創建した
塔頭の黄梅院がありました。
秀吉は当初、黄梅院を改築して信長の塔所とすることを検討しましたが、
境内が狭すぎるとして総見院の創建に至りました。
本堂には天正11年(1583)に七条仏所の康清の作の信長像が安置されています。
信長の等身大とされる像高115㎝で、衣冠帯刀の姿をし、香木で2躯造られました。
本能寺の変で焼失した信長の遺骸は特定が不能となり、
代わりに1躯の木像が荼毘に付され、その香りが市中に漂ったと伝わります。
国の重要文化財に指定されています。
境内北の墓地には、織田一族、七基の五輪塔があります。
本能寺の変-家臣の墓
左側には本能寺の変による戦没者の合祀墓があります。
大住院日甫の墓
その左側に華道・本能寺家元流祖・大住院日甫(だいじゅういん にっぽ:1607~1696)
上人の墓があります。
本能寺未生流は昭和3年(1928)に昭和天皇の御大典を記念して、
大住院日甫を流祖として発足しました。
大住院日甫は、本能寺塔頭・高俊院の第4世院主で、2世・池坊専好
(いけのぼう せんこう:1575?~1658)に師事して華道を修めました。
夫人の供養塔
左奥の手前に第9代将軍・徳川家重(在職:1745~1760)の正室・増子女王(1711~1733)
の供養塔があります。
伏見宮邦永親王(ふしみのみや くにながしんのう:1676~1726)の第四王女で、
享保16年(1731)に家重と婚姻し、江戸城西御丸に入って
「西の丸御簾中(ごれんちゅう)」と呼ばれました。
享保18年(1733)に懐妊したのですが、9月11日に早産となって
生まれた子はまもなく死去し、増子女王も産後の肥立ちが悪く
10月3日に23歳で亡くなりました。
寛永寺に葬られ、増子女王が平素から信仰されていた本能寺には遺髪と爪が送られ、
この石塔下に納められています。

その奥、中段に管中納言局(かんちゅうなごんのつぼね)・庸子(ようこ:1660~1683)
の石塔があります。
五条中納言為庸(ごじょう ためのぶ:?~1677)の娘で、
第112代・霊元天皇(在位:1663~1687)の掌侍(ないしのじょう)となり、
幾人かの皇子と皇女を出産しましたが、天和3年(1683)に24歳で亡くなりました。
五条家は菅原為長(1158~1246)の子・高長(1208~1285)を祖とすることから
宮中では「管中納言局」と呼ばれていました。

更にその奥の最上段には島津義久(1533~1611)の継室・円信院殿(えんしんいんでん:
?~1573)の石塔です。
種子島時堯(たねがしま ときたか:1528~1579)の次女で、
時堯は義久に仕えていました。
また、天文12年(1543)にポルトガル商人が乗った明船が種子島に漂着し、
時堯はその商人から二挺の鉄砲を購入し、内一挺を島津氏を通じて
室町幕府第12代将軍・足利義晴(在職:1521~1546)へ献上しました。
残った一挺を鍛冶職人・八板金兵衛(1502~1570)に調べさせて国産化を命じ、
金兵衛は日本人の手により、初めて銃の製造に成功しました。
日蓮聖人御廟
本堂の真裏に当たる所に、宗祖・日蓮大菩薩御廟、開山・日隆大聖人の御廟、
歴代諸聖人御廟があります。
日承上人の御墓
その左側には日承上人の御墓があり、宮内庁により管理されています。
日承上人の御墓-宮内庁
日承上人は第93代・後伏見天皇(在位:1298~1301)の七世皇孫で、
伏見宮邦高親王(1456~1532)の皇子で、天文14年(1545)に出家した
伏見宮貞敦親王(ふしみのみや さだあつしんのう:1488~1572)と思われます。
表門
表門は寺町通に面しています。
日蓮聖人像
門前の右側には日蓮聖人像が造立されています。

寺町通を南下して天性寺と矢田寺へ向かいます。
続く
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山門
善行院から北上した丁字路を西へ進んだ北側に妙覚寺があります。
山号は妙顕寺と同じ「具足山」で、妙顕寺を始まりとする立本寺(りゅうほんじ)と
共に妙顕寺の院号から「龍華の三具足(りゅうげのみつぐそく)」と呼ばれています。
「北龍華」の別称があり、日蓮宗京都十六本山の札所でもあります。
山門-梁上
大門は、元は天正18年(1590)に豊臣秀吉が建立した聚楽第の裏門で、
寛文3年(1663)に移築されたと伝わり、京都府の文化財に指定されています。
城門特有とされる両潜(りょうくぐり)扉があり、梁上には伏兵を潜ませるための
空間が設けられています。
「開山南無日像菩薩」の碑
参道の右側(東側)に「開山南無日像菩薩」の碑が建っています。
妙覚寺は日像上人を開山とし、日実上人を4世としていますが、
実際には天授4年/永和4年(1378)に日実上人によって創建されました。
日実上人は、元は妙顕寺の僧でしたが、教義や後継問題をめぐる寺内の意見対立のため
妙顕寺から離脱し、信徒の豪商・小野妙覚の援助を受け、
四条大宮にあった妙覚の邸宅を寺に改めました。
妙顕寺3世の没後、4世の選任の際に日実上人が妙顕寺から離れたことから、
妙覚寺では日実上人を4世としています。
鎮守社
その横にある社殿の詳細は不明ですが、鎮守社と思われます。
石仏
北側には石仏が祀られ、手前にはユリの花が咲いています。
殉教碑
更に、北側には殉教碑があります。
天文5年(1536)の天文法華の乱で犠牲となった6万人の菩提を弔うために建立されました。
祖師堂
参道正面の祖師堂は天明8年(1788)の大火後に再建されたもので、
府指定の有形文化財となっています。
妙覚寺は、天授4年/永和4年(1378)に日実上人により、四条大宮で創建され、
応永20年(1413)に2世・日成上人により9カ条の門流方式「法華宗異体同心法度」が
定められました。
不受不施(ふじゅふせ=法華経信者以外から施しを受けたり、法施などをしない)の
中心寺院となりました。
寛正7年(1466)には近隣の本覚寺と合併し、寺域を広げましたが、文明15年(1483)に
室町幕府第9代将軍・足利義尚(あしかが よしひさ:在職1474~1489)の命により
二条衣棚(現・中京区妙覚寺町)へ移転しました。
天文5年(1536)の天文法華の乱で伽藍を焼失し、堺へ避難しましたが、
天文11年(1542)に下された第105代・後奈良天皇の法華宗帰洛の綸旨により、
天文17年(1548)に二条衣棚で再建されました。
この頃、美濃国の戦国大名・斎藤道三(1494~1556)の四男・
日饒上人(にちじょうしょうにん)が妙覚寺19世住職となりました。
若き日に道三も妙覚寺で修行したと伝わり、天文23年(1554)に
美濃国の妙覚寺の末寺であった常在寺で出家し、「道三」と号しました。
また、斎藤道三の父・松波庄五郎(まつなみ しょうごろう:生没年不詳)は、
妙覚寺の僧でしたが、還俗して油商人となって成功し、その後武士となりました。
織田信長は、日饒上人が義理の兄にあたることから、妙覚寺を宿所としていました。
信長は、京に二十数回に及び滞在しましたが、妙覚寺を宿所としたのは18回で、
本能寺は3回でした。
天正10年(1582)に本能寺で宿泊していた早朝に、明智光秀の謀反により、
信長は自害して果てました。
当日、信長の嫡男・織田信忠は妙覚寺に宿泊していましたが、信長自害の知らせを受け、
誠仁親王(さねひとしんのう:1552~1586)の居宅であった二条新御所へ移動しました。
誠仁親王を脱出させ、二条新御所で篭城しましたが、明智勢に攻め込まれ、
自害して果てました。(本能寺の変
妙覚寺はその後、天正11年(1583)に豊臣秀吉の命により、現在地へ移転しました。
文禄4年(1595)、秀吉は方広寺大仏の千僧供養を行いましたが、
妙覚寺21世の日奥上人(にちおうしょうにん:1565~1630)は、
不受不施の立場から出仕を拒み、秀吉に「法華宗諌状(いさめじょう)」を提出して
妙覚寺を去り、丹波国小泉に隠棲しました。
日奥上人は慶長4年(1599)の徳川家康による供養会にも出席せず、
大阪対論により対馬に流罪となりました。
23年後の元和9年(1623)に赦免となり、不受不施派の弘通が許されました。

堂内には日蓮聖人坐像、日朗上人坐像、日像上人坐像が安置されています。
延文3年/正平13年(1358)に北朝第4代・後光厳天皇の詔により、
二世・大覚妙実(1297~1364)が祈雨修法を行いました。
その功により、後光厳天皇から大覚妙実は大僧正に任じられ、
日蓮聖人に大菩薩、大覚大僧正の師である日朗上人と
日像上人に菩薩の号を賜わりました。
唐門
祖師堂の西側に唐門があり、奥に本堂があります。
狩野元信之墓の碑
門前には「狩野元信之墓」の碑が建っています。
狩野元信(かのう もとのぶ:1476~1559)は、室町時代の絵師で、
狩野派の祖・狩野正信の長男または次男とされ、狩野派の2代目です。
狩野派の画風の大成し、近世における狩野派繁栄の基礎を築いた人物で。
天文14年(1545)頃に僧の位の一つである「法眼」を与えられました。
渡り廊下
北側には渡り廊下が祖師堂へとつながっています。
大玄関
唐門の南側に大玄関があります。
庫裡
庫裡
妙覚寺は春と秋に特別公開が行われているようですが、
当日は拝観休止となっていました。
本堂や庭園、華芳塔堂などの拝観ができます。
華芳塔堂は山内で最も古い安土桃山時代の建物で、日蓮聖人が比叡山華芳谷・定光院で
修行中に写経した法華経が、堂内安置の石造りの塔に納められていました。
この石塔は、元亀2年9月12日(1571年9月30日)の織田信長による比叡山焼き討ち後に
発見されて妙覚寺へ納められました。
後に石塔を納めるための木像多宝塔が造られ、江戸時代の書家・
亀田窮楽(かめだきゅうらく:1690~1758)による扁額が掲げられています。
境内図
庫裡の前の境内図です。
妙覚寺道場
南へ進むと妙覚寺道場があり、剣道の道場のようです。

後花園天皇火葬塚から水火天満宮(すいかてんまんぐう)、大応寺へ向かいます。
続く
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沼田丸井戸
勝龍寺から府道211号線へ戻って北へ進み勝龍寺城公園の堀沿いに
西へ進んだ突き当りに無料駐車場があります。
駐車場は沼田丸跡に造られ、井戸跡が残されています。
元亀2年(1571)に細川藤孝が城を改修した時に掘られたもので、井戸の直径0.8m、
深さ2mあり、四角形に組んだ角材の上に円形に石が積み上げられていました。
石材の大半は自然石でしたが、石仏や五輪塔も流用されていました。
沼田丸跡の公園
井戸跡の北側は、現在は公園として使われています。
沼田は細川藤孝の妻の旧姓で、沼田丸の奥には沼田屋敷がありました。
沼田丸は本丸と同様に周囲を土塁で囲み、外側には堀が巡らされていました。
沼田丸の東側には左右を濠で囲われた帯曲輪(おびぐるわ)がありました。
南西入口
勝龍寺城公園へは3か所の入り口があり、駐車場に近い南側の西口から入ります。
西辺土塁の階段
西辺土塁の中央部は少し低くなり、斜面が階段状に削られ
、多量の石が詰められていました。
橋が架けられ、沼田丸への通路とされていたと考えられています。
殿主跡への斜面
西辺土塁は本丸内で最も高く、土塁を登ると「古今伝授の殿主(=天守)・光秀出陣の
テラス」と記され、南西隅は更に高く、平らになっています。
殿主跡からの展望
本来はもう少し南の方へ張り出し、ここに殿主が築かれていたと考えられていますが、
現状でも城の外が見渡せます。
布陣図
殿主跡には山崎の戦いでの布陣図が描かれ、合戦の模様が記されています。
絵図では光秀の本陣は恵解山古墳(いげのやまこふん)付近に描かれ、
境野1号古墳付近は津田信春の陣としています。
滝組
西辺土塁の階段の右側に滝が組まれ、親水池へと流路が築かれていますが、
現在は水は止められています。
石垣
石垣-解説
北西側には当時の石垣が残されています。
石仏
発掘調査により石垣跡や井戸跡から出土した石仏や
五輪塔などが集められ、安置されています。
石仏の大半は大日如来とみられ、地蔵菩薩も確認されています。
石造物の一部には大永2年(1522)や永禄12年(1569)などの銘が
残されているものもあります。
北側の門
北側の門です。
管理棟-正面
勝龍寺城公園は、平成4年(1992)に勝龍寺城の本丸跡に造られました。
管理棟の一階は休憩室で、二階には資料展示室がありますが、
撮影は禁止されています。
細川忠興・ガラシャ夫人図
かって管理棟内に掲げられていた細川忠興・ガラシャ夫人の肖像画。
南東側
勝龍寺城公園の三方は堀で囲まれています。
発掘調査では、堀の深さ3m、幅15m以上あり、石垣が組まれ、
その上に高さ4~5mの土塁が築かれていたそうです。
東辺の土塁上では、多聞櫓の土台であった石垣なども発見されています。
勝龍寺城公園は都市公園で、勝龍寺城を再現したものではありません。
橋
勝龍寺城は、南北朝時代の暦応2年(1339)、足利尊氏の命により細川頼春、
師氏(もろうじ)兄弟が築城したとされています。
男山、山崎方面に進出してきた南朝方と対抗するため、
北朝・足利尊氏方の前線基地となりました。
また、「東寺百合文章」では、室町時代の長禄1年(1457)、
山城守護であった畠山義就(はたけやま よしひろ/よしなり)が
乙訓郡代役所として築いたとの記述も見られます。

元亀2年(1571)、細川藤孝が勝龍寺城に入り、織田信長の命を受け、
大規模な城の改修を行いました。
戦国時代末期、勝龍寺城の城主は三好三人衆の
岩成友通(いわなり ともみち)でした。
織田信長は、足利義昭を奉じて上洛する2日前の永禄11年(1568)9月26日に
柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成(もり よしなり)、坂井政尚(さかい まさひさ)ら
4人の家臣に先陣を命じ、勝龍寺城を攻撃させました。
更に上洛した信長は5万の兵で勝龍寺城の攻略し、細川藤孝が城主となりました。
天正6年(1578)、明智光秀の娘、玉(後のガラシャ夫人)が忠興に嫁ぎ、
2年間、この城で新婚時代を過ごしました。
天正8年(1580)、藤孝は丹後への移封となり、翌9年には織田信長の近臣である
矢部家定と猪子高就(いのこ たかなり)が城代となりました。
天正10年6月2日(1582年6月21日)の山崎の合戦で明智光秀が勝龍寺城を修復し、
合戦に備えましたが、僅か3時間余りで勝敗が決着し、光秀軍は兵の脱走・離散が
相次ぎ、その数は700余にまで減少して勝龍寺城へと逃げ込みました。
光秀は夜陰に紛れて妻子が待つ坂本城への脱出を図りましたが、現在の伏見区の
小栗栖の藪で落ち武者狩りの竹槍に刺され、自刃したと伝わります。
翌日には勝龍寺城も羽柴秀吉軍に落ちました。
本能寺の変の後、細川藤孝は剃髪して雅号を幽斎玄旨(ゆうさいげんし)と名乗り、
長男の忠興に家督を譲って田辺城に隠居しました。
江戸時代の本丸跡碑
JR長岡京駅前のロータリーに、「江戸時代の勝龍寺城本丸跡」の石碑が建っています。
天正17年(1589)、豊臣秀吉は淀城(淀古城)の築城にあたり、
勝龍寺城を資材として移築したため勝龍寺城は廃城となりました。
江戸時代になって、二代将軍・徳川秀忠の寛永10年(1633)、
永井直清が長岡藩主となりました。
幕府から、勝龍寺古城北に屋敷を取ること、堀を触らないことと命じられたため、
JR長岡京駅周辺に新たに城を築きました。
慶安2年(1649)に直清が摂津高槻藩に転封されると同時に完全に廃城となりました。
動輪
余談ですが駅の正面は、正面に0系新幹線の車輪と
D-51蒸気機関車の第四動輪が展示されています。
ヨ8000
駅に向かって左側には国鉄時代の緩急車「ヨ8000」が展示されています。
「緩急車」とは、貨物を搭載する車両に車掌など人が乗るスペースがあり、
ブレーキを掛ける装置が取り付けられている車両のことで、
貨物列車の最後尾に連結されていました。
管理棟前の門
橋を渡ると左側に門があり、門をくぐった正面には管理棟への入り口があります。
前管理棟前の門-
門の前
管理棟-横
管理棟前の前には池があり、館内からはガラス越しに泳ぐ鯉の鑑賞もできます。
おもかげの水
地下水100%の水道水という水飲み場が設置され、
「ガラシャ おもかげの水」と命名されています。
本丸内の井戸
水飲み場の背後には井戸跡が残されています。
公園内には、四箇所の井戸跡が発掘調査で見つかり、その内三箇所が、
細川藤孝の改修時に造られたものでした。
直径0.9m、深さ2mで、太い木を井桁に組み、その上に石を積み上げたもので、
発掘調査の時も水が湧き出ていたそうです。
細川忠興・ガラシャ夫人像
細川忠興・ガラシャ夫人像
細川忠興(ほそかわ ただおき)は永禄6年(1563)11月13日に細川藤孝の
長男として生まれ、天正6年(1578)に元服して忠興と名乗りました。
同年8月に明智光秀の三女・玉(子)と勝竜寺城で結婚しました。
天正10年6月2日(1582年6月21日)、明智光秀は本能寺の変を起こし、
織田信長を自害へと追い込みました。
その後、光秀は藤孝・忠興父子を味方に誘いましたが、
父子は信長の喪に服す事を表明し、剃髪してこれを拒否しました。
玉は丹後国の味土野(現在の京丹後市弥栄町須川付近)に幽閉され、
現在も「女城跡(御殿屋敷)」として残されています。
忠興は藤孝の領国である丹後南半国を譲られ、丹後宮津城主となりました。

幽閉されていた玉はその後、細川家の大坂屋敷に戻されましたが、
不自由な暮らしを強いられたようです。
天正15年2月11日(1587年3月19日)、忠興が九州征伐に向かうと、
密かに屋敷を抜け出し、教会に行きました。
その後は外出することは許されず、侍女たちを教会に行かせて洗礼を受けさせ、
侍女たちから教会の教えを学び、信仰を深めていきました。
天正15年6月19日(1587年7月24日)、豊臣秀吉がバテレン追放令
発令したため、神父らは九州へ移ることになり、玉は自邸で密かに洗礼を受け、
「ガラシャ(ラテン語で神の恵みの意)」の洗礼名を授かりました。
慶長5年7月16日(1600年8月24日)、忠興が徳川家康に従って上杉征伐に
出陣すると、西軍の石田三成は玉を人質に取ろうとしましたが、
玉が拒絶すると三成は兵に屋敷を囲ませました。
玉は屋敷内の侍女などを逃し、自殺はキリスト教で禁じられているため、
家老の小笠原秀清(少斎)がガラシャを介錯し、ガラシャの遺体が残らぬように
屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて自刃しました。
隅櫓図面
東辺土塁
本丸の北東隅から、石垣で築かれた高さ4mの土塁が見つかりました。
土塁の上は一辺が10m四方の平坦な面があり、多聞櫓が築かれていたと推定され、
説明板では当時の図面が描かれています。
隅櫓
現在は、隅櫓が建築され休憩所になっていますが、窓は塞がれ、
敵の接近を見張ることは出来ません。
北東側
外側から見た隅櫓
北側の城壁
北側の城壁
親水の小川
公園内の中央には西辺土塁に築かれた滝からの小川が、公園内を横断しています。

観音寺へ向かいます。
続く

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