タグ:来迎院

山門
泉涌寺塔頭の善能寺前の石橋を渡った先に来迎院があります。
来迎院は山号を「明應山(めいごうざん)」と号する泉涌寺の塔頭寺院で、
泉山七福神巡りの第4番(布袋尊)札所です。
寺伝では、大同元年(806)に空海(774~835)が開創し、
唐で感得した三宝荒神像を安置したのが始まりとされています。

その後衰微し、建保6年(1218)に泉涌寺の長老であった
月翁智鏡(がっとう ちきょう:生没年不詳)律師が、藤原信房(生没年不詳)の
帰依を受けて諸堂を整備し、泉涌寺の子院となりました。
来迎院前の駒札では、これが開山と記されています。
その後、応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失、荒廃しましたが、天正2年(1574)に
泉涌寺7世・舜甫明韶(しゅんぽ みょうしょう:生没年不詳)が、
織田信長(1534~1582)の帰依を受け、寺領50石を寄進されて再興しました。
これにより、舜甫明韶は来迎院の中興の祖とされています。

更に、天正11年(1583)に金沢城主となった前田利家(1539~1599)は、慶長2年(1597)に
諸堂の再建を行い、徳川家からも援助を得て経済的な基盤も整い、
来迎院の復興がようやく果たされました。
庫裡
山門を入って左側(北側)奥に庫裏があり、「含翠庭(がんすいてい)」の
拝観受付が行われています。(拝観料300円)
江戸城本丸の通称「松の廊下」で高家(こうけ=儀式や典礼を司る役職)・
吉良義央(きら よしひさ1641~1703)に対し、刃傷事件を起こした赤穂藩の
第3代藩主・浅野長矩(あさの ながのり:1667~1701)は、即日切腹を命じられ、
浅野家5万石の取り潰しが下されました。
筆頭家老であった大石良雄(1659~1703)は赤穂城を幕府に明け渡し、
大石家の親族・進藤長之(1666~1727)が管理していた岩屋寺の境内地へ移り住みました。
また、当時来迎院の住職であった卓巖(たくがん)和尚(生没年不詳)が大石良雄と
外戚にあたり、良雄は寺請証文を受けて、来迎院の檀家となりました。
その報恩として良雄は書院を再建し、茶室・含翠軒を建設しました。
客殿
庭園の方へ入ると左側に客殿があります。
来迎院は明治の神仏分離令による廃仏毀釈で荒廃し、荒神堂を残して廃絶しました。
現在の建物の多くは大正時代(1912~1926)に再建されました。
庭園-聚楽第灯籠
客殿前の含翠庭も大正時代に造園され、周囲を反時計回りに巡る散策路があります。
聚楽第灯籠は豊臣秀吉(1537~1598)が営んだ聚楽第(じゅらくてい)に因むもので、
変化に富んだ形と、彫刻が多いのが特徴とされています。
庭園-八面佛石幢
八面佛石幢(はちめんぶっせきどう)は、室町時代(1338~1573)に造られたもので、
八面に仏像が刻まれています。
庭園-心字池
庭園の東側に心字池があります。
庭園-茶室
茶室・含翠軒は大石良雄によって建てられ、ここで茶会を催しながら同士である
元赤穂藩の家臣達と討ち入りの密議をおこなったとされていますが、
現在の茶室は、大正時代に建て替えられたものです。
庭園-茶室-扁額
扁額「含翠」は、大石良雄の筆によるものです。
庭園-蹲踞
伽藍石の蹲踞(つくばい)
客殿-内部
客殿の襖には三十六歌仙(さんじゅうろっかせん)の色紙が張られ、
床の間には大石良雄の肖像画が描かれた掛け軸が飾られています。
弘法大師像
山門前の参道まで戻り、東へ進むと右側に弘法大師像が祀られ、
その右側に「祈願の御石」が多数奉納されています。
祈願の御石
願い事を書いた御石を、前にある梵字が刻まれた石碑に当ててから
祈念して奉納されています。
独鈷水
大師像の奥に独鈷水が今も湧き出ています。
空海が独鈷でもって岩をうがち、水を掘り当てたと伝わり、第112代・霊元天皇(在位:
1663~1687)に仕えた、生まれつき目が不自由であった女官は、
この水で目を洗って治癒したと伝わります。
また、大石良雄はこの名水を知り、茶室を建てたとされています。
本堂-1
参道の左側に本堂があり、本尊として阿弥陀如来立像が安置されています。
運慶(?~1224)作と伝わり、観音菩薩・勢至菩薩を脇侍としています。
本堂-2
勝軍地蔵尊は大石良雄の念持仏で、吉良邸への討ち入り成就を祈願したと伝わります。

幻夢観音菩薩は霊元天皇の念持仏で、厨子の扉の裏に観音菩薩の由来が
漢文で彫られています。
それによると、「霊元天皇が寵愛された女官が亡くなり、その葬儀の夜に天皇は
女官の姿を感得しました。
しかし、そこにあったのは法華経で、女官が信心深く、心が清浄であったからこそ
感得したのだと思われ、この観音像を造られた」との内容が記されていました。
荒神堂
参道へ戻り、正面の石段を登ると荒神堂があります。
現在の来迎院に残る唯一の明治以前の建物で、三宝大荒神が祀られています。
大同元年(806)に空海(774~835)は、現在の来迎院が建つ山の頂が
七日七夜にわたって光を放ったことからここが霊地であると考え、
唐で感得した三宝荒神像を自ら刻んで安置し、来迎院を創建したと伝わります。
三宝荒神は本来、火の神として台所、かまどを司るとされていますが、
来迎院の荒神は「胞衣荒神(ゆなこうじん)」とも称され、安産の御利益も
あるとされ、かっては皇后宮安産の勅願所になっていました。

現在安置されている三宝荒神坐像は我が国最古とされ、像高68.2㎝で、
国の重要文化財に指定されています。
また、三宝荒神の眷属である護法神立像5躯(像高65.3~69.3cm)も
安置されていましたが、現在は京都国立博物館に管理が委託されています。
荒神堂-扁額
荒神堂には「廣福殿」の扁額が掲げられ、泉山七福神巡りの第四番の札所本尊である
布袋尊も祀られています。
布袋尊像
荒神堂の左側には、石の宝船に布袋尊像が奉納されています。
鳥居の笠木が石の宝船のように見立てられていますが、明らかに定員オーバーで、
出航停止を命じられそうです。
三宝大明神社-1
北側に鳥居が建っています。
三宝大明神社-2
鳥居をくぐった先には、三葦(?)大明神、三宝大明神、若宮大明神が祀られています。

泉涌寺塔頭の今熊野観音寺へ向かいます。
続く
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是心寺-山門
大雲寺から南へバス道(府道108号線)まで進み、バス道を東へ進んだ先の丁字路を
左折して北へ進みます。
その先の二筋目を東へ入ると突き当たり、左へ曲がった所に是心寺があります。
是心寺は山号を「小倉山」と号する臨済宗・相国寺派で、
相国寺の塔頭・慈照院の末寺として創建されました。
山号の「小倉山」は寺の背後にある山の名で、
近江から移り住んだ山本氏が築いた小倉山城がありました。
天文20年(1551)、三好長慶勢が岩倉に攻め入り、小倉山城は焼失しました。
明治19年(1886)に、岩倉村に在した相国寺塔頭・慈照院の末寺7ヶ寺の内
5ヶ寺を合併して是心寺が再建されました。
是心寺-十王堂
山門前の十王堂は、かって十王堂橋の畔にありましたが、
明治10年(1877)に現在地に移築されました。
堂内には、閻魔大王を中心に十三像が祀られ、右側に地蔵菩薩の大小像、
左側に千手観音像と大小の諸仏、大黒天像が安置されています。
この大黒天像は、慈照院の大黒天と同じいわれの二体の内の一体とされています。
十王堂に隣接して地蔵堂があります。
来迎院-山門
是心寺の北側に来迎院があります。
来迎院は山号を「引接山」と号する浄土宗の寺院です。
来迎院-本堂
来迎院の玄関前には観音像が建ち、像も建物もまだ新しいように見受けられます。
長源寺-寺号標
来迎院から北へ進み、その先で右折して東に進んだ先の
バス通りとの角に長源寺があります。
長源寺は山号を「朗詠山」と号する浄土宗の寺院です。
知恩院の末寺で、知恩院を総本山とする浄土宗鎮西派に属します。
室町時代の寛正3年(1463)に、岩倉の長谷上ノ町に創建されたと伝わります。

江戸時代の寛文12年(1672)に浄土宗の僧・真悦によって再興され、
真悦は中興の祖となりました。
明治5年(1872)に長谷の地にあった5ヶ寺が合併され、
その1ヶ寺である地蔵院の地に移りました。
昭和38年(1963)に現在地に移転し、現在の本堂・庫裡は
明徳小学校の講堂を解体した建材が使用されました。

長源寺の本尊は、江戸時代作の阿弥陀如来立像で、その他に廃寺となった
5ヶ寺の本尊が安置されています。
恵尊寺の本尊であった、平安時代後期作の薬師如来立像は、
昭和8年(1933)に国宝に指定されましたが現在は重要文化財に指定されています。

常春庵(解脱寺を含む)の本尊であった、十一面観世音菩薩立像は、
慈覚大師の作で平安時代の公卿で歌人の藤原公任(ふじわらのきんとう)の
念持仏であったと伝わります。

その他、地蔵院の本尊であった、江戸時代作の地蔵菩薩坐像、
妙源庵の本尊であった、江戸時代作の阿弥陀如来立像、
無縁堂の本尊であった、江戸時代作の阿弥陀如来立像などが安置されています。
長源寺-鐘楼
鐘楼と十三重石塔。
長源寺-観音像
参道には観音菩薩の石像が安置され、その石台には「大悲閣」と刻まれています。
「大悲」とは慈悲に由来し、観音菩薩の心が表されています。
朗詠谷
飛騨池へ向かいますが、道が複雑でスマホのナビを利用しました。
林道へ入った池の手前に「和漢朗詠集の道
朗詠谷 御所谷とも云う」
背面には「谷風に なれすといかゝ おもふらん 心ははやく すみにしものを」
と刻まれた石碑が建っています。
藤原公任(966~1041)が詠まれたもので、晩年この地で隠棲しました。

藤原公任は、歌集や歌論書、有職故実書などを著し、『和漢朗詠集』や三十六歌仙の
元となった『三十六人撰』の選者にもなりました。
代表作は小倉百人一首(55番)
「滝の音は たえて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ」です。
この谷で詠まれたのかもしれません。
また、寛弘6年(1009)には権大納言に昇進しましたが、治安3年(1023)に次女、
翌年の治安4年(1024)に長女を亡くし、万寿3年(1026)に解脱寺で出家しました。
出家後、この地で山荘を営んで隠棲したことから
「朗詠谷」と呼ばれるようになりました。
瓢箪崩山の道標
標高532mの瓢箪崩山(ひょうたんくずれやま)の登山道となっているようです。
飛騨池
その先に飛騨池があります。
池はフェンスで囲われ、水鳥が羽を休める静かな溜池ですが、
魚影は確認できませんでした。
熊出没注意
フェンスには「熊出没注意」の注意書きが取り付けられています。
令和元年(2019)4月7日に目撃されたようです。
聖護院廟所-1
池から更に山中へ進むと「聖護院門跡 長谷廟所」があります。
聖護院廟所-2
かって、この地に常光院があったと伝わります。
智証大師円珍(814~891)の後を継いだ常光院の
増誉大僧正(ぞうよだいそうじょう:1032~1116)は、寛治4年(1090)に
白河上皇の熊野参詣の先達を務めて最初の熊野三山検校に任じられました。
また、先達を務めた功績により、岡崎聖護院町で寺を賜り、「聖体護持」の2字から、
聖護院」とされました。
聖護院廟所-3
廟所は元は長谷上ノ町の入口付近にあったそうですが、
平成25年(2013)に現在地へ遷されました。
聖護院廟所-4
奥の五輪塔が増誉大僧正の墓と思われます。
解脱寺跡への通路
飛騨池から南西方向へ進み、二つ目の四つ角で左折して南へ進み、
その先の三叉路を右折して東へ進んだ奥に解脱寺の閼伽井跡があります。
道路の突き当りは民家の敷地のように見えますが、その奥に石碑が建っています。
解脱寺跡-閼伽井跡碑
解脱寺は平安時代に、第64代・円融天皇の女御・藤原詮子(ふじわらのせんし)が
建立しました。
藤原詮子は、院号を東三条院と号し、居住地であった中京区押小路通釜座西北角には
東三条殿跡の石碑が残されています。
平安時代の中期に解脱寺に移った僧・観修が、境内に閼伽井を掘りました。
解脱寺閼伽井之碑」は、江戸時代末期の元治元年(1864)に、
観修の功績を偲んで聖護院門跡・雄仁入道親王によって建立されました。
解脱寺跡-閼伽井跡
閼伽井跡
解脱寺跡-付近の湧水
閼伽井跡付近では今も清水が湧き出ています。
解脱寺跡-瓦
解脱寺跡の物かは不明ですが、周囲には瓦のかけらが見られます。
また、この周辺には山本氏が築いた小倉山城の支城である長谷城がありました。
戦国時代(1467~1590)末期に築城されたそうです。

解脱寺跡の西側に普門寺があったと推定されています。
その南側にグーグルマップでは大門跡と伝わる場所が示されています。
康保元年(964)以前に大雲寺を創建した藤原文範(909~996)が、
子の明肇のために創建したと考えられています。
普門寺の北側に聖護院山荘があったそうで、
その山荘が常光院跡だったのかもしれません。

長谷八幡宮(はせはちまんぐう)へ向かいます。
続く

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来迎院-入口
三千院からの呂川(りょせん)沿いの参道を登った所に来迎院の参道口があります。
浄蓮華院-山門
その手前の左側に浄蓮華院があります。
天仁2年(1109)に来迎院を再興した聖応大師良忍が、
自らの住坊として創建したもので、融通念仏の本堂となりました。
後には境内子院の浄蓮華院、蓮成院、善逝院(ぜんぜいいん)、
遮那院(しゃないん)の総称として来迎院と称されました。
浄蓮華院
近代にそれぞれの子院は独立し、浄蓮華院は宿坊となっているようです。
山門
来迎院へ向かいます。
仁寿年間(851~854)、第3代天台座主・慈覚大師円仁
この地に天台声明の道場を開きました。
承和5年(838)に最後の遣唐使の短期留学生として唐へ渡った円仁は、
在唐新羅人社会の助けを得て翌年に五台山を巡礼しました。
その地で盛んに行われていた五台山念佛(声明)を日本へ持ち帰り、
大原を声明の根本道場としたのが来迎院の始まりとされています。

天仁2年(1109)に聖応大師良忍が再興し、来迎院を本堂としました。
これにより、勝林院を本堂とする下院と来迎院を本堂とする上院が成立し、
この両院から成る付近一帯は「魚山大原寺」と総称されるようになりました。
「魚山」は中国山東省にある山の名で、その地で梵唄(ぼんばい=声明)が
始められたとする、中国の古代声明の聖地です。
以来、大原で伝承されてきた天台声明は、
「魚山声明」とも呼ばれるようになりました。
本堂への石段
門をくぐった正面の拝観受付から右側にある石段を登ります。
鐘楼
鐘楼があります。
梵鐘は室町時代の永享7年(1435)に鋳造されたもので、
市の文化財に指定されています。
本堂
現在の本堂は天文2年(1533)に再建されました。
本尊
本尊は薬師如来坐像で、右脇侍(向かって左)に阿弥陀如来坐像、
左脇侍に釈迦如来坐像が安置されています。
共に平安時代の作で、国の重要文化財に指定されています。
三尊像の左側に平安時代作の不動明王立像、
右側に平安時代作の毘沙門天立像が安置されています。
天女図
内陣の天井には天女図、周囲には雲と琵琶や鼓などの楽器が描かれています。
外陣脇檀
外陣の左脇檀には、いずれも鎌倉時代作と推定される慈覚大師円仁像、
元三大師図、聖応大師良忍像が安置されています。
右脇檀には、江戸幕府の御朱印寺として寺領を授かっていたことから
徳川歴代将軍の尊霊が祀られています。
鎮守社への石段
本堂の東側に石段があり、その上に鎮守社があります。
五輪塔
鎮守社右側の五輪塔は高さが約1mで、鎌倉時代の作とされています。
石仏群
左側には多数の石仏が祀られています。
廟への橋
北へ進み、律川に架かる石橋を渡ります。
音無の滝はこの上流にありますが、滝へ行くには山門を出て、
再び境内の上側を登らなければなりません。
聖応大師廟
石段を登って進んだ先に聖応大師良忍の墓があり、三重石塔は鎌倉時代の作で
国の重要文化財に指定されています。

良忍(1072/1073~1132)は尾張国生まれで、13歳の時に比叡山に登り
実兄の良賀に師事して出家しました。
22~3の頃に大原に隠棲し、浄蓮華院を創建して来迎院を再興しました。
分裂していた天台声明の統一をはかり、大原声明を完成させました。
永久5年(1117)に阿弥陀仏の示現を受け、融通念仏を創始しました。
当時は疫病が流行し、治安が悪化して末法思想が流行する中で、多くの民衆が
救済を求めて浄土教を信仰しました。

空也上人(903~907)が都で踊念仏をひろめ、それまで天皇や貴族のための仏教から
民衆救済のための仏教と成っていきました。
良忍は、阿弥陀如来から誰もが速やかに仏の道に至る方法として
「1人の念仏が万人の念仏に通じる」と説いて融通念仏宗を開宗しました。
念仏を唱える者は自分だけでは無く、万人のためにも唱え、万人が一人のために
唱えることで念仏の功徳が高まるとする集団が結成されていきました。
大治2年(1127)に鳥羽上皇の勅願により坂上広野の私邸内に
修楽寺(現在の大念仏寺)を開き、融通念仏の道場としました。
坂上広野(さかのうえ の ひろの:787~828)は、大納言・坂上田村麻呂の次男で、
摂津国住吉郡平野庄(現・大阪市平野区)の開発領主で「平野殿」とも
呼ばれていました。
広野の没後に修楽寺が建立され、
現在の大念仏寺は融通念仏宗の総本山となっています。
如来蔵
聖応大師廟から下って本堂の裏側へ出ると、如来蔵があります。
聖応大師良忍が経堂として建立したと伝わります。
収蔵庫
収蔵庫は昭和60年(1985)に建立されました。
音無の滝-道標
門を出て音無の滝へ向かいます。
来迎院から約15分の登りです。
音無の滝
聖応大師良忍がこの滝に向かい声明の修行をしていると、滝の音と声明の声が
和して、ついには滝の音が聞こえなくなったことから名付けられたとされています。
西行は「小野山の 上より落つる 滝の名は 音無しにのみ 濡るる袖かな」と
詠んだように、大原の東側にある山の連なりは「小野山」と呼ばれ、
この滝の上流には二の滝、三の滝があるそうです。
未明橋
滝から下り、勝林院へ向かいます。
再び三千院の御殿門前を通り、滝から下ってきた律川に架かる未明橋を渡ります。
鉈捨藪跡
その手前に「鉈捨藪跡(なたすてやぶあと)」があります。
文治2年(1186)、大原寺・勝林院での法然上人の大原問答の折に、
上人の弟子であった熊谷直実は「もし、師の法然上人が論議に敗れたならば、
その法敵を討たん」との思いで袖に鉈を隠し持っていました。
しかし、上人に諭されてその鉈をこの藪に投げ捨てたと伝えられています。
熊谷直実は、寿永3年(1184)、一ノ谷合戦で、海上に馬を乗り入れ
沖へ逃がれようとする平敦盛を呼び返して、須磨の浜辺に組み討ち
その首をはねました。
平敦盛は17歳であり、我が子・直家ぐらいの齢でした。
これ以後、直実には深く思うところがあり、仏門に帰依する思いが
いっそう強くなり、法然上人の弟子となりました。
大原陵-1
橋を渡った右側に第82代・後鳥羽天皇と第84代・順徳天皇の大原陵があります。
大原陵-手水鉢
手水鉢
後鳥羽天皇(1180~1239)は元暦元年(1184)に即位しましたが、
平家が第81代・安徳天皇と三種の神器を奉じて西国へと逃れたため
神器なき即位となりました。
安徳天皇は母の建礼門院に抱かれ、壇ノ浦の急流に身を投じました。
建礼門院は助けられ、三種の神器のうち神璽と神鏡は源氏の手にわたりましたが、
宝剣は天皇と共に海中に沈んだとされています。
後鳥羽天皇は文武両道で、『新古今和歌集』の編纂を行うなどの一方で、
承久3年(1221)に鎌倉幕府討伐の兵を挙げました。(承久の乱
しかし、この戦いに敗れ、隠岐島への流罪が下され、出家して法皇となりました。
延応元年(1239)に配流先で崩御され、隠岐島には火葬塚の隠岐海士町陵があります。
大原陵
順徳天皇(1197~1242)は後鳥羽天皇の第三皇子で、承元4年(1211)に14歳で即位し、
後鳥羽天皇の討幕計画に参画するため、承久3年(1221)に
第四皇子の懐成親王(かねなりしんのう=第85代・仲恭天皇)に譲位しました。
承久の乱で敗れ、佐渡島に配流されて仁治3年(1242)に崩御されました。
佐渡島には火葬塚の真野御陵があります。

陵内の十三重石塔は寛文2年(1662)の寛文近江・若狭地震で倒壊し、
元禄9年(1696)に修復されました。
かってはこの塔背後の高台に法華堂がありました。
法華堂
法華堂は後鳥羽法皇の冥福を祈り、後鳥羽法皇の皇子・尊快入道親王の母親である
藤原重子(ふじわら の じゅうし / しげこ:1182~1264=修明門院)が
仁治元年(1240)に水無瀬離宮の建物を移築し、納骨されました。
寛元元年(1243)には順徳天皇の遺骨も納骨されましたが、
江戸時代の享保21年(1736)に法華堂は焼失しました。
安永年間(1764~1780)に現在の法華堂が再建され、明治の神仏分離令により
法華堂は陵内から現在地に移築されました。
堂内には普賢菩薩像が本尊として安置されています。
法然上人腰掛石
法華堂向かいにある実光院の外塀の北東角に法然上人腰掛石があります。
文治2年(1186)の大原問答の際に、法然上人が腰を掛けた石とされています。

勝林院へ向かいます。
続く

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