銀閣寺は山号を「東山(とうざん)」、寺号を「慈照寺(じしょうじ)」と号する
相国寺の境外塔頭で、通称の「銀閣寺」で知られています。
「古都京都の文化財」の構成資産としてユネスコの世界遺産に登録され、
庭園は国の特別史跡・特別名勝に指定されています。
また、神仏霊場の第109番札所でもあります。
現在の総門は寛政12年(1800)に建立されました。
総門の手前、右側に「銀閣寺開祖 将軍義正公近習頭(中尾城矢倉殿采配)
世継左衛門丞宗竹入道(殉死)拝領所」と刻まれた碑が建っています。
室町幕府第8代将軍・足利義政は、文明5年(1473)に子の足利義尚(よしひさ)に
将軍職を譲り、文明14年(1482)から応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失した
浄土寺の跡地に山荘(東山殿)の造営を開始しました。
義政は寛正6年(1465)に現在地から南約1kmの所で山荘の造営を計画していた
とされています。
その地には戦国時代に廃寺となった南禅寺塔頭の恵雲院がありました。
しかし、応仁・文明の乱で広大な境内地の浄土寺が焼失したため、
場所を変更し、造営を始めました。
しかし、8年後の延徳2年(1490)1月に完成を待たずして
しかし、8年後の延徳2年(1490)1月に完成を待たずして
義政は他界しました。
翌2月に義政の菩提を弔うため山荘を禅寺に改め、義政の法号である慈照院に因み、
「慈照院」としましたが、翌年「慈照寺」と改められました。
開山には義政が尊敬していた故人の夢窓疎石(1275~1351)が勧請され、
相国寺の末寺となりました。
相国寺の末寺となりました。
天文19年(1550)に第13代将軍・足利義輝と父で第12代将軍であった足利義晴は、
慈照寺裏山の地蔵山に中尾城の築城を開始しました。
天文18年(1549)の江口の戦いで三好長慶と三好政長が戦い、政長は戦死しました。
細川晴元は政長を支援していたため、長慶の追撃を恐れ、足利義晴・義輝父子を伴い、
近江坂本に逃れました。
足利義晴・義輝父子は京都を奪回するため中尾城を築城していたのですが、
天文19年(1550)5月に義晴は病死し、義輝は同年11月に三好軍と交戦しました。
(中尾城の戦い)
三好軍は鹿ヶ谷から北白川の一帯に火を放ち、義輝は近江堅田へ逃れました。
この兵火で慈照寺は観音殿(銀閣)と東求堂を除いて焼失し、
義政遺愛の名宝なども失われ、庭園も荒廃しました。
総門前の碑からこの頃、銀閣寺は宗竹入道が住職となっていたと思われます。
その後、天正15年(1587)に近衛前久は、住職無しの状況であった慈照寺東求堂を
別荘として隠棲しました。
近衛前久(このえ さきひさ:1536~1612)は織田信長と親交を深め、天正8年(1580)には
信長と本願寺の調停に乗り出し、顕如は石山本願寺を退去しました。
織田信長は庭園の名石を持ち去ったと伝わり、この頃かもしれません。
信長からは高い評価を得ましたが、天正10年(1582)に本能寺の変で信長が自刃して
果てると前久は剃髪して「龍山」と号しました。
更に参道は突き当たり、左に折れた先に中門があります。
寛永年間(1624~1644)に建立された杮葺き(こけらぶき)の薬医門で、
平成16年(2004)に改築されています。
門をくぐった左側に参拝受付があります。
拝観料は500円で、右側に御朱印の授与も行われていますが、
新型コロナの影響で、書置きでの対応となります。
中門を入った左側に庫裡があります。
現在の庫裡は天保8年(1837)に再建されました。
慶長17年(1612)に近衛前久が没すると
慶長17年(1612)に近衛前久が没すると
相国寺末寺へ戻され、慶長20年(1615)には宮城丹波守豊盛による
大改修がなされました。
宮城豊盛(1555~1620)は豊臣秀吉に仕え、慶長元年(1596)に丹波守に任ぜられました。
慶長5年(1600)の関ケ原の戦いでは西軍として大坂城の警護を行っていましたが、
東軍に内通していたとされ、慶長14年(1609)からは
徳川家康に仕えるようになりました。
慶長20年(1615)に宮城豊盛が普請奉行を務めて建物と庭園の大改修が行われ、
ほぼ現在の寺観に整えられました。
また、孫の豊嗣は寛永16年(1639)の父・頼久の33回忌に客殿、玄関、庫裡などの新造や
修復を行っています。
向月台は当初、お椀を伏せたような形で、現在のように高くはなかったと伝わります。
その後、富士山のような形に仕上げられるようになり、
次第に高くなって現在では180cmだそうです。
「この上に座って月が昇るのを待っていた」というのは俗説で、
造られた正確な目的は明らかではありません。
その南西側に銀閣があります。
観音殿であり、室町期の楼閣庭園建築として現存する唯一の建造物であることから
国宝に指定されています。
長享3年(1489)3月に上棟されたのですが、その年の10月に義政は病に倒れ、
翌年1月7日の完成を見ることなく義政は他界しました。
鹿苑寺の舎利殿に金箔が張られ、「金閣」と称されたのに対し、観音殿には
銀箔は張られておらず、張られた痕跡もありません。
当初、上層は内外とも黒漆塗であったことから、月光が反射して銀色に輝いて
見えたことから「銀閣」と呼ばれたなど諸説あります。
慈照寺が「銀閣寺」と称されるようになったのは江戸時代以降とされ、
拝観料を徴収する観光寺院になったことと関係しているように思われます。
観音殿は上下二層から成り、初層は「心空殿」と称され、
書院風の造りとなっています。
東側のみに縁が設けられ、軒も二軒(ふたのき)と広く取られています。
手前、北側は6畳の畳敷きで、障子窓があり、その奥の白壁の部分は3畳大の板敷の
小室が南北に並び、手前に上層への階段と勝手口があります。
南側の小室には押入れがあります。
上層は「潮音閣」と称される禅宗様の仏堂風の造りで、内部は仕切りの無い
板敷きの1室です。
板壁に花頭窓(かとうまど)をしつらえ、南面と北面には
桟唐戸(からさんと)が設けられています。
創建当初は黒漆塗りで軒下には帯状模様、花柄の極彩色などが施されていました。
潮音閣の須弥壇に金色に輝く観音菩薩坐像が安置されています。
光背の背後に後補で木像洞窟(岩屋)が付けられ、
「洞中観音(どうちゅうかんのん)」とも称されています。
参道へ戻ると「仙草壇」があります。
仙草は中国原産の一年草で、亜熱帯の、日当たり、水はけの良い、低い海抜地で、
気温20~25℃以上の場所が栽培の適地です。
中国では暑気あたり防止、解熱の民間薬、飲料として利用され、糖尿病、高血圧、
風邪、関節炎、筋肉痛に対する治療効果があるとされています。
また、「仙草ゼリー」などとして食されているようで、織姫が地上に降りてきた時に
持参して、近くの鳳凰山に植えた草だとする伝説が残されています。
仙草壇には現在、福島県にある国指定名勝の須賀川牡丹園で育てた牡丹の苗木が
植栽されています。
「弄清亭(ろうせいてい)」の襖絵の一つに日本画家の
奥田元宋(おくだ げんそう:1912~2003)が、須賀川牡丹園の牡丹を題材に
描いた作品「薫園清韻(くんえんせいいん)」が縁だそうです。
方丈(本堂)は寛永元年(1624)に建立され、京都市の文化財に指定されています。
像高60cmで南北朝時代作とされる本尊の宝冠釈迦如来坐像が安置されています。
脇に安置されている像高55.8cmで江戸時代作の達磨大師坐像の
口には歯が見えています。
その下前に彩色の開山・夢窓疎石像が安置されています。
襖絵は与謝蕪村、池大雅により描かれましたが、現在は複製が使用されています。
板戸の絵
正面には「東山水上行(とうざんすいじょうこう)」と記された
扁額が掲げられています。
方丈前の砂盛は「銀沙灘(ぎんしゃだん)」と称され、「向月台」と同じく
江戸時代以降に造られたと推定されています。
高さが35~40cmあり、砂紋は『白蛇伝』の伝説が残る中国・西湖の波紋を
表しているとされています。
方丈は月待山を見る絶好の位置にあり、銀沙灘が造られた目的は、
月待山から昇る月の光に反射にする銀沙灘の鑑賞や、
反射した光を方丈へ取り入れるためなど諸説あります。
左側に見える白壁の建物が宝処関です。
銀閣寺形手水鉢は、側面の線状の模様から、袈裟型の手水鉢の変形と言われています。
全体は四角型ですが底部は丸い座がつけられており、
焼物の高台のようになっています。
格子市松模様で、菱形と四角模様とが交替で側面にデザインされ、
4面がそれぞれ異なります。
東求堂は文明18年(1486)に建立され、国宝に指定されています。
「東方の人、念じて西方に生ずるを求む」から名付けられました。
足利義政が持仏堂として建立し、手前(南側)のほぼ中央に仏間を設け、
須弥壇の厨子内に室町時代作で像高65cmの阿弥陀如来立像が安置されています。
また、仏間の西に室町時代作で等身大とされる
像高118㎝の義政坐像が安置されています。
文明17年(1485)頃の出家した法衣姿で、没後間もなく造立されたと推定されています。
足利義政は、第6代将軍・足利義教(あしかが よしのり:1394~1441)の五男で、
後継者の地位からは外されていました。
嘉吉元年(1441)6月24日に起こった嘉吉の乱で、父・義教が
赤松満祐(あかまつ みつすけ:1381~1441)に殺害されました。
兄の義勝(1434~1443)が9歳で第7代将軍となりましたが、在任7か月後の
嘉吉3年(1443)7月21日に病死(諸説あり)しました。
そのため次期将軍候補として選ばれたのが8歳の義政で、文安6年(1449)4月16日に
第8代将軍として就任しました。
康正元年(1455)に16歳の日野富子(1440~1496)を正室としましたが、男子が生まれず、
義政は寛正5年(1464)に浄土寺に住して浄土寺殿と呼ばれていた弟の義尋(ぎじん)を
還俗させ、義視(よしみ:1439~1491)と名乗らせ、細川勝元(1430~1473)を後見に
将軍の後継者としました。
しかし、翌寛正6年(1465)に富子は義尚(よしひさ:1465~1489)を出産し、
義尚を後継者とするようにと目論みました。
義尚の後見である山名宗全(1404~1473)や実家である日野家が義視と対立し、
これに幕府の実力者である勝元と宗全の対立や斯波氏(しばし)、
畠山氏の家督相続問題などが複雑に絡み合い、応仁の乱が勃発しました。
応仁の乱は文明9年(1477)までの約11年間にわたって継続し、戦場は畿内から西は
中国と四国及び九州の一部、東は東海・北陸地方にまで広がり、
京都の寺社や公家・武家邸の大半が消失しました。
最終的に山名氏などの西軍は解体され、西軍に組していた義視は、
美濃の土岐成頼(とき しげより:1442~1497)のもとへ逃亡しました。
義政は文明5年(1474)に9歳の義尚に将軍職を譲りましたが、実権を握り続けたため、
義尚と富子と対立するようになりました。
義政は富子から逃れるように東山山荘の建築を本格化させますが、応仁の乱で疲弊した
庶民に段銭(臨時の税)や夫役(労役)を課して行われたものでした。
また、仏間には狩野正信により十僧図が描かれていましたが、
現在は失われ、白紙が張られています。
東求堂の北東の4畳半は「同仁斎」と呼ばれる書斎で、「聖人は一視して同仁」から
その名が取られています。
解体修理時に同仁斎の部材から「いろりの間」の墨書が見つかり、当初は室内に
炉が切られ、茶を点てていたとみられ、四畳半茶室の始まりとされています。
華道や能、連歌など多様な文化が花開いた東山文化の中心となりました。
東求堂から北に「弄清亭(ろうせいてい)」が渡り廊下で繋がれています。
弄清亭は明治28年(1895)に香席として再建されました。
かって、「泉殿」と呼ばれ、義政が聞香(もんこう)の間として使用していました。
東求堂の前から観音殿の前にかけて錦鏡池(きんきょうち)が広がり、
西芳寺の庭園を参考にして作庭されたと伝わります。
東求堂の前にある島は「白鶴島(はっかくとう)」と名付けられ、
島の両側に渡された石橋で、羽を広げた鶴が表されています。
大内石は大内政弘(1446~1495)の寄進によるものです。
応仁・文明の乱(1467~1477)では大内政弘は、西軍の足利義視から
左京大夫に任ぜられていました。
文明5年(1473)に山名宗全・細川勝元が相次いで病死してからも足利義視を
京都の自邸に迎え入れて戦いを継続していました。
文明8年(1476)9月に足利義政による東西和睦の要請を受諾しました。
文明9年(1477)10月に新将軍となった足利義尚の名で周防・長門・豊前・筑前の
4か国の守護職を安堵され、後年山口県が西の京都と呼ばれる基礎を築きました。
洗月泉の左横に展望所への参道があります。
その先に弁財天が祀られています。
漱蘚亭跡(そうせんていあと)があります。
江戸時代末期に山崩れにより埋没し、昭和6年(1931)に発掘されました。
相阿弥により作庭された自然の露石を利用した枯山水庭園で、西芳寺の竜淵石組を
模範に造られたとされ、室町時代の面影を残しています。
銀閣寺庭園はこの上段の庭と錦鏡池を中心とする下段の庭から成り、
国の特別史跡及び特別名勝に指定されています。
にほんブログ村