月読神社は松尾大社の境外摂社で、松尾七社の一社に数えられています。
月読神社は『日本書紀』巻十五の第23代・顕宗天皇(けんぞうてんのう)3年(487)
の条に記述が見られます。
任那(みまな/にんな=古代に存在した朝鮮半島南部の地域)へ派遣された
阿閉臣事代(あへのおみことしろ)は、壱岐で月神から宣託を受けました。
都へ還った阿閉臣事代は天皇に奏上し、山背国葛野郡歌荒樔田(うたあらすだ)に
社殿を建て、月神の裔と称する壱岐の押見宿祢(おしみのすくね)に祀らせたのが
月読神社の始まりとされています。
壱岐氏は早くから中国の卜占(ぼくせん)を我が国に伝え、
神祇官の官人に任ぜられ、卜部氏(うらべうじ)を名乗った一種族です。
当初の鎮座地「荒樔田」は、現在でも「月読」の地名が残る桂川左岸とも、
右岸の桂上野(月読塚)付近とも伝わりますが定かでは無く、
度重なる桂川の氾濫により斉衡3年(856)に現在地に遷座されました。
以後、この地は「松室」と呼ばれ、祠官の家名も「松室」となり、
秦氏の支配を受けて松尾大社に代々奉仕しました。
名神大社に列せられていましたが、松尾大社の勢力下にあり、中世以降は
松尾大社の摂社とされてきましたが、明治10年(1877)に公式に定められました。
神門
現在の社殿は明治26年(1893)の再建と伝わります。
拝殿
昭和46年(1971)に銅板に葺き替えられています。
本殿
平成11年(1999)に改修が行われています。
祭神は月読尊で、伊弉諾尊・伊弉冉尊を両親とし、天照大御神の弟神で、
素戔鳴尊の兄神とされています。
また、『古事記』では黄泉の国から帰ってきた伊弉諾尊が、黄泉の汚れを落としたときに
最後に生まれ落ちた三柱の神々と記されています。
この三神は「三柱の貴子(みはらしのうずのみこ)」と称され、
伊弉諾尊が生んだ諸神の中で最も貴い神とされています。
月読尊が天照大御神の勅を受け、保食神(うけもちのかみ)のもとへ訪れた際、
湯津香木(ゆつかつら=桂)に寄って立ったという伝説があり、
そこから「桂里」という地名が起こったと伝えています。
しかし、月読尊は保食神を殺すことになり、天照大御神の怒りにふれ、
一日一夜隔て離れて住むようになり、月読尊は夜を司る神になったとされています。
手水は「解穢(かいわい)の水」と称され、手水鉢には「解穢」と刻まれています。
御船社には天鳥船神(あめのとりふねのかみ)が祀られています。
昭和期(1926~1989)に建立され、航海や交通安全の神として信仰を集めています。
毎年4月下旬から5月中旬にかけて行われる松尾大社の神幸祭では、
その前日に祭儀が行われ、神輿渡御の安全祈願が行われています。
願掛け陰陽石は、左右の石を撫でて祈願を行います。
聖徳太子社は、太子が月読尊を崇敬していたことにより祀られています。
月延石は子授けや安産祈願の信仰を集めています。
月延石は「鎮懐石」とも呼ばれ、子供(後の応神天皇)を妊娠したまま海を渡って
朝鮮半島に出兵した神功皇后が、月延石を当ててさらしを巻き、
冷やすことによって出産を遅らせたとされています。
月延石は3つあったとされ、内一つがこの石で、他に長崎県壱岐市の月讀神社と
福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮に奉納されました。
戌の日に安産祈願を行うと、安産祈願石が授与され、氏名や願い事が記された
祈願石が多数奉納されています。
むすびの木
松尾大社へ向かいます。
続く
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