タグ:松尾七社

石段
法輪寺から府道29号線を北上し、渡月橋を渡らずに更に北へと進んだ左側に
宗像神社・櫟谷神社への石段があります。
神社の境内左側に「嵐山モンキーパーク(入園料550円)」の入口がありますが、
新型コロナの影響で、閉園されています。
鳥居
宗像神社・櫟谷神社とも古くから松尾大社の末社でしたが、明治10年(1877)に摂社となり
二社が一殿に併せ祀られるようになり、「櫟谷宗像神社」と称されるようになりました。
社殿-1
櫟谷とは嵐山南の崖下を流れる小川の名であったとされていますが、
現在はその谷名は残されていません。
桂川が保津峡を出て、穏やかな流れとなった場所を聖地とみなし、
地主神を祀ったのが始まりとする説があります。
櫟谷神社は、飛鳥時代から平安時代にかけて編纂された史書『六国史』によれば、
嘉祥元年(848)に従五位下、貞観10年(868)には正五位下に神階が昇叙されたと
記録が残され、神名は「櫟谷神」と表記されています。
延長5年(927)成立の『延喜式』神名帳では、山城国葛野郡に「櫟谷神社」の記載があり、
式内社に列せられていました。
鎌倉時代には「おほ井川(大堰川) しぐるる秋の いちひだに(櫟谷) 山やあらしの
 色をかすらむ」と藤原為家に詠まれています。
室町時代初期の『松尾神社境内絵図』では、櫟谷神社・宗像神社は
独立社殿ながら隣接して描かれています。
櫟谷神社の現在の祭神は、宗像三女神の一柱・奥津島姫命
(おきつしまひめのみこと)ですが、『松尾七社略記』では事代主神としています。
「松尾七社」の一社であり、松尾社・月読社と共に「松尾三社」に含まれています。
社殿-2
左・宗像大神、右・櫟谷大神
宗像神社は天智天皇7年(668)に筑紫国宗像から勧請されたことに始まると伝わります。
奈良時代の大宝年間(701~704)には「嵐山弁財天社」とも称されていました。
貞観12年(870)には、葛野鋳銭所から櫟谷神社と共に新鋳銭が奉納され、
寛元2年(1244)には、山崩れが発生して大堰川が塞がれ、
鏡石が落ちたという記録が残されています。
宗像神社には、宗像三女神の一柱・市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)が
祭神として祀られ、「松尾七社」の一社に数えられています。
渡月小橋
渡月橋の方へ戻ります。
渡月橋は正式には中ノ島公園から桂川左岸に架かる橋の名で、桂川右岸から
中ノ島公園への短い橋は「渡月小橋」と称されています。
渡月橋
橋の手前は西京区で、橋を渡ると右京区となり、中ノ島公園も右京区です。
公園から渡月橋の背後に愛宕山を望むことができます。

次回から京都市右京区を巡ります。

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鳥居
月読神社は松尾大社の境外摂社で、松尾七社の一社に数えられています。
月読神社は『日本書紀』巻十五の第23代・顕宗天皇(けんぞうてんのう)3年(487)
の条に記述が見られます。
任那(みまな/にんな=古代に存在した朝鮮半島南部の地域)へ派遣された
阿閉臣事代(あへのおみことしろ)は、壱岐で月神から宣託を受けました。
都へ還った阿閉臣事代は天皇に奏上し、山背国葛野郡歌荒樔田(うたあらすだ)に
社殿を建て、月神の裔と称する壱岐の押見宿祢(おしみのすくね)に祀らせたのが
月読神社の始まりとされています。
壱岐氏は早くから中国の卜占(ぼくせん)を我が国に伝え、
神祇官の官人に任ぜられ、卜部氏(うらべうじ)を名乗った一種族です。

当初の鎮座地「荒樔田」は、現在でも「月読」の地名が残る桂川左岸とも、
右岸の桂上野(月読塚)付近とも伝わりますが定かでは無く、
度重なる桂川の氾濫により斉衡3年(856)に現在地に遷座されました。
以後、この地は「松室」と呼ばれ、祠官の家名も「松室」となり、
秦氏の支配を受けて松尾大社に代々奉仕しました。
名神大社に列せられていましたが、松尾大社の勢力下にあり、中世以降は
松尾大社の摂社とされてきましたが、明治10年(1877)に公式に定められました。
神門
神門
現在の社殿は明治26年(1893)の再建と伝わります。
拝殿
拝殿
昭和46年(1971)に銅板に葺き替えられています。
本殿
本殿
平成11年(1999)に改修が行われています。
祭神は月読尊で、伊弉諾尊・伊弉冉尊を両親とし、天照大御神の弟神で、
素戔鳴尊の兄神とされています。
また、『古事記』では黄泉の国から帰ってきた伊弉諾尊が、黄泉の汚れを落としたときに
最後に生まれ落ちた三柱の神々と記されています。
この三神は「三柱の貴子(みはらしのうずのみこ)」と称され、
伊弉諾尊が生んだ諸神の中で最も貴い神とされています。
月読尊が天照大御神の勅を受け、保食神(うけもちのかみ)のもとへ訪れた際、
湯津香木(ゆつかつら=桂)に寄って立ったという伝説があり、
そこから「桂里」という地名が起こったと伝えています。
しかし、月読尊は保食神を殺すことになり、天照大御神の怒りにふれ、
一日一夜隔て離れて住むようになり、月読尊は夜を司る神になったとされています。
解穢の水
手水は「解穢(かいわい)の水」と称され、手水鉢には「解穢」と刻まれています。
御船社
御船社には天鳥船神(あめのとりふねのかみ)が祀られています。
昭和期(1926~1989)に建立され、航海や交通安全の神として信仰を集めています。
毎年4月下旬から5月中旬にかけて行われる松尾大社の神幸祭では、
その前日に祭儀が行われ、神輿渡御の安全祈願が行われています。
願掛け陰陽石
願掛け陰陽石は、左右の石を撫でて祈願を行います。
聖徳太子社
聖徳太子社は、太子が月読尊を崇敬していたことにより祀られています。
月延石
月延石は子授けや安産祈願の信仰を集めています。
月延石は「鎮懐石」とも呼ばれ、子供(後の応神天皇)を妊娠したまま海を渡って
朝鮮半島に出兵した神功皇后が、月延石を当ててさらしを巻き、
冷やすことによって出産を遅らせたとされています。
月延石は3つあったとされ、内一つがこの石で、他に長崎県壱岐市の月讀神社
福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮に奉納されました。
安産祈願石
戌の日に安産祈願を行うと、安産祈願石が授与され、氏名や願い事が記された
祈願石が多数奉納されています。
むすびの木
むすびの木

松尾大社へ向かいます。
続く

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駒札
長福寺から西へ進み阪急京都線を超えて線路に沿って北上した、
桂駅の西口付近の大宮社の境内に千手院常楽寺があります。
大宮社-鳥居
大宮社の社号標には「松尾七社之一」と記されていますが、松尾七社を調べると
月読神社・四大神社(しのおおかみのやしろ)・衣手社・三宮社・宗像社・
櫟谷社(いちたにしゃ)と本社を加えた七社とされています。
また、毎年4月下旬~5月下旬の松尾祭で松尾七社の神輿の中に
大宮社が含まれていますが、大宮社の氏子区域は西寺付近で、
こちらの大宮社とは別のようです。
結果、社号標の「松尾七社之一」は解明できませんでした。
大宮社-拝殿
拝殿
大宮社-本殿
本殿
本堂
左、千手院常楽寺、右、大宮社社務所
本殿の左方向に社務所がありますが、松尾大社の神官が
宮司を兼務されているようで、普段は無住のようです。

社務所と棟続きの西側が常楽寺となっています。
常楽寺の山号や宗派及び創建やその後の変遷も不明ですが、
京都洛西観音霊場の第22番札所です。
本堂-堂内
本尊は千手観音菩薩で、左に地蔵菩薩、右に釈迦如来、
薬師如来像が安置されています。
かっては観音講の人達により札所の対応が行われていましたが、
現在は第25番札所の阿弥陀寺が代行されています。

地蔵寺へ向かいます。
続く

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