総門
天龍寺総門は、南は渡月橋から北の嵯峨釈迦堂へと至る
府道29号線に面して建っています。
天龍寺は正式には「霊亀山天龍資聖禅寺(れいぎざんてんりゅうしせいぜんじ)」と
号する臨済宗天龍寺派の大本山で、神仏霊場の第86番札所です。
平成6年(1994)に「古都京都の文化財」の構成遺産として、
ユネスコの世界遺産に登録されました。
天龍寺は第96代/南朝初代・後醍醐天皇の菩提を弔うため、夢窓国師を開山として、
足利尊氏により創建されました。
康永2年(1343)11月に竣工し、貞和元年8月29日(1345年9月25日)の
後醍醐天皇七回忌にあわせて落慶供養が行われました。
元中3年/至徳3年(1386)、第3代将軍・足利義満は、天龍寺を京都五山
第一位と定め、寺は栄えました。
最盛期、寺域は約950万㎡に及び子院150か寺を数えました。
しかし、文安4年(1447)に続き、応仁・文明の乱(1467~1477)による
応仁2年(1468)の焼失で大きな被害を受け、天正13年(1585)に
豊臣秀吉の寄進を受けるまで復興ができませんでした。
その後、文化12年(1815)の7度目の大火後に元治元年(1864)の
禁門の変でも灰燼に帰しました。
天龍寺は計8回の大火で創建当初の建物はことごとく失われました。
更に明治の神仏分離令による廃仏毀釈の混乱や、明治10年(1877)の上地令により
亀山全山、嵯峨の平坦部4キロ四方及び嵐山の一部を除いた境内はほとんど
上地することとなり、現在の境内地はかっての10分の一に縮小されました。
境内図
天龍寺では毎年2月の節分の日に、総門前で福笹を受け、境内の塔頭七カ寺の
お札を受けて廻る「天龍寺七福神めぐり」が行われています。
しかし、天龍寺の七福神は一般的な大黒天・毘沙門天・恵比寿天・福禄寿・弁財天・
寿老人・布袋尊と異なり寿老人・布袋尊の代わりに
不動明王と稲荷神が札所本尊となっています。
三秀院-大黒天の碑
総門をくぐった右側に三秀院があります。
三秀院は第一番の大黒天の札所で、「東向福褧(けい/きょう)大黒天」が祀られています。
「福褧」の意味は不明で、褧には「ひとえ」の意味があります。
三秀院-山門
三秀院は南北朝時代の正平23年/応安元年(1368)に、夢窓国師の直弟子で
天龍寺16世をつとめた不遷法序(ふせん ほうじょ)和尚を開基として創建されました。
応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失後、寛文2年(1662)に
第108代・後水尾天皇の寄進により再建されました。
大黒天は後水尾天皇の念持仏であったと伝わり、
寛永年間(1624~1643)に嵯峨人形師の作とされています。
三秀院は元治元年(1864)の禁門の変でも焼失しましたが、大黒天は焼失を免れ、
比叡山延暦寺・上野寛永寺の大黒天と共に日本の三大黒天と称されています。
中門
三秀院の先に中門があります。
安土・桃山時代の慶長年間(1596~1603)に建立され、
京都府指定文化財となっています。
境内
中門をくぐると視界が一気に開けます。
弘源寺
弘源寺は三国伝来・毘沙門天の札所です。
弘源寺は永享元年(1429)に細川持之が、夢窓国師の孫弟子・
玉岫英種(ぎょくしゅ えいしゅ)を開山として創建されました。
札所本尊の毘沙門天像は、インドの仏師・毘首羯磨(びしゅかつま)の作で、
中国を経て比叡山無動寺に伝わりました。
その後、今出川般舟院、深草嘉祥寺を経て玉岫英種により、弘源寺に遷されました。
春の特別拝観で毘沙門天の開帳と嵐山を借景とした枯山水庭園の
「虎嘯(こしょう)の庭」が公開されていましたが、時間が合わず断念しました。
虎嘯の庭は塔頭の妙智院にあったものが移されたもので、虎嘯とは「虎が吠える」、
「英雄が世に出て活躍するとの意味があります。
また、寺宝の日本画・竹内栖鳳(せいほう)とその一門展や寺に残された
長州藩兵の刀傷なども公開されています。
慈済院-山門
慈済院は、無極志玄(むきょく しげん)を開基として貞治2年(1363)に創建されました。
慈済院-庫裏
無極志玄は尊雅王(たかまさおう=第84代・順徳天皇の孫)の子で、13歳の時に
東福寺塔頭の願成寺で出家・得度し、東寺や東福寺などで修学しました。
その後、夢窓疎石の門下に入り南禅寺や臨川寺に住し、
正平元年/貞和2年(1346)に疎石の法を継いで天龍寺の第2世となりました。
慈済院の表門や本堂、庫裡、書院などは禁門の変での焼失を免れた
江戸時代の建物で、登録有形文化財ですが、非公開のようです。
慈済院-来福門
表門の東側に来福門があります。
慈済院-弁天堂
門をくぐると弁天堂があり、「水摺大弁財天」が祀られています。
夢窓国師が一刀三礼して刻んだ弁財天像で、無極志玄が授かりました。
「開運出世大弁財天」として、その姿を水摺りにして信仰篤い人々に
抽選で分け与えたことにより、「水摺大弁財天」と称されるようになりました。
慈済院-龍図
弁天堂の天井には龍図が描かれています。
松巌寺-山門
松巌寺は文和2年(1353)に夢窓国師の直弟子、晦谷祖曇(まいこく そどん)を開基とし、
四辻善成(よつつじ よしなり)により創建されました。
松巌寺-庫裏
四辻善成は尊雅王(たかまさおう=第84代・順徳天皇の孫)の子で、
文和5年(1356)に源姓(順徳源氏)を賜与され臣籍降下しました。
歌人・古典学者として名が知られ、貞治年間(1362~1368)に『源氏物語』の
注釈書である『河海抄』を第2代将軍・足利義詮(よしあきら)に献上しました。
応永2年(1395)に従一位、左大臣に任ぜられましたが、
約一か月後にこれを辞して出家しました。
応永9年(1402)に亡くなり、松巌寺に葬られました。
松巌寺-福禄寿
山門を入った左側に福禄寿天堂があり、四辻善成の念持仏であったとされる
一刀彫の福禄寿像が祀られています。
経蔵
松巌寺の西側に天龍寺の経蔵があります。
鐘楼
経蔵の左側に鐘楼があります。
飛雲観音
鐘楼の左側に飛雲観音が祀られています。
飛雲観音は、第二次世界大戦での航空戦や特攻隊で亡くなられた方、
更に航空殉職者の慰霊と世界平和及び航空安全の
本尊として祀られるようになりました。
護国霊験社-1
護国霊験社-2
飛雲観音の左側に護国霊験社があります。
慰霊碑
第二次世界大戦後にソ連に抑留され、亡くなった方々の霊が祀られた
慰霊碑が建っています。
法堂からの渡廊
法堂の裏側から方丈庭園への中門を結ぶ渡り廊下をくぐり、
南側の参道を東へ進みます。
永明院
永明院(ようめいいん)は応永20年(1414)に臨済宗の僧・太岳周崇(たいがく しゅうすう)
により創建されました。
太岳周崇は臨川寺で出家・受戒し、第3代将軍・足利義満の帰依を受け、
鹿苑僧録(ろくおんそうろく)に任ぜられました。
鹿苑僧録とは、代々の僧録が相国寺塔頭・鹿苑(ろくおん)院主が兼務したこと
による通称で、五山などの住持任免、位階昇進、寺領与奪や外交文書の作成などを
職務とし、太岳周崇は10年間その職を務めた後、天龍寺に移りました。

応仁・文明の乱(1467~1477)により焼失し、その後、水野守信が父・監物の
菩提を弔うために再建し、水野家の菩提寺となりました。
水野監物は織田信長に仕えて桶狭間の戦いに初陣し、
その後、数々の武勲をたて常滑城三代城主となりました。
監物は常滑焼を奨励、普及させ千利休、津田宗九らと親交を結び、
常滑焼を茶人らに紹介しました。
明智光秀とも親交があり、山崎の合戦では明智光秀に味方したため、
豊臣秀吉から追われ、永明院中興の第六世・三章令彰(さんしょう れいしょう)を
頼り隠棲しましたが、豊臣方に見つかり、慶長3年(1598)に山内で割腹自害しました。

水野守信は徳川家康に仕え、慶長5年(1600)の会津征伐に従軍し、
旗本として3500石を賜りました。
寛永3年(1626)に長崎奉行に就任し、踏み絵を考案して
キリシタンの取締りを強化したとされています。
その後、大坂町奉行を経て、寛永9年(1632)に秋山正重、柳生宗矩
(やぎゅう むねのり)、井上政重とともに大目付の起源である総目付に任じられました。

永明院は、元治元年(1864)の禁門の変で焼失し、大正期(1912~1926)に実業家の
山口玄洞(げんどう)から寄進を受け再興されました。
山口玄洞は大正6年(1917)、57歳で実業家から引退し、資産の多くを慈善事業の寄付や
社寺に寄進し、表千家の後援者にもなりました。

山門を入った右側の恵比寿天堂には、昭和3年(1928)に新京阪鉄道嵐山線
(現在の阪急嵐山線)が開業したのに伴い、
西宮神社から勧請された恵比寿神が祀られています。

境内には「夢地蔵尊」と称される地蔵菩薩像が祀られています。
平成2年(1990)に19世・國友憲道・前住職により造立され、
夢窓国師の一字から「夢地蔵尊」と名付けられました。
等観院-山門
永明院の東側の等観院(とうかんいん)は「天龍寺七福神めぐり」の
札所ではありません。
南北朝時代の元中3年/至徳3年(1386)に徳叟周佐(とくしゅう しゅうさ)を開山として、
管領・細川満元により創建されました。
徳叟周佐開基の退隠寮「正持庵」が復興されたとも伝わりますが、
明治の神仏分離令による廃仏毀釈で荒廃し、大正10年(1921)とも
大正8年(1919)ともに現在地で「等観院」として復興されました。
等観院-観音像
境内には聖観世音菩薩像が祀られています。
寿寧院
寿寧院(じゅねいいん)は南北朝時代の貞治年間(1362~1368)に臨川寺の子院として、
龍湫周沢(りゅうしゅう しゅうたく)により創建されました。
龍湫周沢は夢窓疎石に師事し、臨川寺・建仁寺・南禅寺・天竜寺に歴住しました。
画才・文才に富み、水墨画の不動尊は、
別の法名「妙沢」から「妙沢不動」と称されました。
また、周沢筆の不動明王と二童子の三幅図は国宝として京都博物館に委託されています。
寿寧院はその後衰微し、明治18年(1885)にかって
栖林軒(すりんけん)があった現在地に再建されました。
「天龍寺七福神めぐり」では不動尊像が札所本尊とされています。
不動尊像は「見守り不動」と呼ばれ、交通安全や病気平癒にご利益があるとされています。
放生池
寿寧院前の参道と北側の参道の間には放生池があります。
妙智院
妙智院は享徳2年(1453)に竺雲等連(じくうん とうれん)により創建されました。
竺雲等連は、永明院を創建した太岳周崇に師事して修学しその法を継ぎました。
応永年間(1394~1427)に中国の明に渡り、帰国後は、相国寺を経て、
文安元年(1444)に南禅寺の住持となりました。
妙智院と宝徳院を開創し、康正元年(1455)に相国寺の鹿苑院に住して
僧録司に任じられました。
周易』『史記』『漢書』に精通し、五山における史書研究の基礎を築きました。

妙智院は天文年間(1532~1555)に策彦周良(さくげん しゅうりょう)が
3世の住持となりました。
策彦周良は永正15年(1518)に18歳で天龍寺にて剃髪、具足戒を授かりました。
天文8年(1539)と天文16年(1547)の二度の天龍寺船で明に渡り、
『策彦入明記』として、貴重な史料を残しました。
また、天文19年(1550)に遣明船を主催した大内義隆の死去により、
天文16年の遣明船が最後となりました。
宝巌院の「獅子吼の庭」の設計者で、当初は妙智院で作庭され、
それが宝巌院に移築されたとも伝わります。

境内の南側にある宝徳稲荷社は、宝徳年間(1449~1452)に妙智院7世・
中山法頴(ちゅうざん ほうえい)が、伏見稲荷大社より勧請されました。
稲荷神は「天龍寺七福神めぐり」の札所本尊です。
勅使門
妙智院の向かいには勅使門がありますが、工事中でした。
作業の方が覆いを開けられた時に、撮影しました。
勅使門は、元治元年(1864)の禁門の変でも焼失を免れた、
山内最古の建物として京都府指定文化財となっています。
慶長年間(1596~1615)に御所・明照院の禁門として建立され、
寛永18年(1641)に現在地に移築されました。

野々宮神社へ向かいます。
続く

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村