平野神社の東鳥居を出て東へ進んだ所に北野天満宮の北門があります。
北門の前には織物の名工で明治25年(1892)に亡くなった
伊達弥助氏の顕彰碑が建立されています。
伊達家(だてけ)は代々西陣で織屋を営み、弥助は西陣機業の近代化に貢献しました。
西側には松永伍作氏の顕彰碑が建っています。
松永伍作(1853~1908)は、明治32年(1899)に京都蚕業講習所の初代所長となり、
蚕業界に寄与した功績を顕彰してこの碑が建立されました。
北門を入った東側に「文子天満宮(あやこてんまんぐう)」 があります。
菅原道真の乳母であった多治比文子(たじひのあやこ)は、延喜3年(903)に
道真が左遷された大宰府で亡くなった後に、「われを右近の馬場に祀れ」との
道真の託宣を受けました。
しかし、貧しくて社殿を建立することができなかった文子は、右京七条二坊の自宅に
小さな祠を建てて道真を祀り、これが北野天満宮の始まりであり、
天神信仰の発祥とされています。
文子の住居跡であった京都市下京区に道真と文子を祀る文子天満宮神社が創建され、
文子天満宮神社は現在も残されています。
明治6年(1873)に文子天満宮は、右近の馬場があった現在地に遷されました。
また、文子天満宮は北野天満宮に遷される以前に西ノ京に遷され、
京都市上京区には文子天満宮舊址(きゅうせき)が残されています。
東門は切妻造り、銅葺きの四脚門で国の重要文化財に指定されています。
画像はありませんが、現在は駐車場となっている東門の前から今出川通りへは
「右近の馬場」と呼ばれていました。
大同2年(807)に開かれ、寛平9年(897)に権大納言兼右近衛大将に任ぜられた
菅原道真が好んだ場所であったことが、その名の由来となりました。
当時は桜の名所で、桜狩りが行われていました。
そのような桜を道真は愛していたと伝わります。
東門を入った北側に茶室「明月舎」への門があります。
明月舎では北野大茶湯を祈念して、毎月1日と15日に献茶会が催されています。
門の西側に「竈社」があり、鳥居は明智光秀により寄進されました。
庭津彦神、庭津姫神、火産霊神(ほむすびのかみ)が祀られています。
かっては、天満宮の御供所のかまどに祀られ、当時使われていた大釜が
社殿の床下に納められています。
東門の先にある手水舎には「撫で牛」が祀られています。
東門を入った南側に長五郎餅を売る茶店があります。
天正年間(1573~1593)に河内長五郎が、餡(あん)を羽二重餅でくるんだ菓子を、
北野天満宮の境内で参拝者に振る舞ったのが始まりで、餡入り餅の祖とされています。
天正15年(1587)に豊臣秀吉が北野で催した北野大茶湯で、この餅が茶菓子として
使われ、秀吉から高く評価されて「長五郎餅」の名を賜りました。
その後は、明治維新まで皇室の御用達となり、小松宮家や山階宮家といった
各宮家からも重宝されました。
明治維新の際、京都詰めとなった諸国の大名により全国にひろめられました。
茶店前の参道を西へ進んだ北側に「和魂漢才碑」が建っています。
「和魂漢才(わこんかんさい)」とは、日本固有の精神「大和魂(やまとだましひ)」
と中国伝来の学問「漢才(からざえ)」という対なる概念のことであり、
また、その両者を合わせることの意味でもあります。
『菅家遺誡(かんけ いかい)』に記された和魂漢才に関する二章が
碑文とされています。
室町時代に成立した『菅家遺誡』には、公家で守るべきことを
菅原道真に仮託して33条にまとめられ、神事・田猟・武備・刑罰・冠婚葬祭などに
分類されています。
横から見る本殿
右側が本殿で「石の間」を挟み、左側が拝殿です。
手前が「楽の間」で奥が「石の間」です。
現在の社殿は慶長12年(1607)に豊臣秀頼が片桐且元を奉行として建立されたもので、
国宝に指定されています。
拝殿と本殿の間は「石の間」と呼ばれる石畳の廊下で接続され、本殿の西には脇殿を、
拝殿の左右には「楽の間」が連結された
日本最古の八棟造(権現造)の建物となっています。
手前には南北の参道があります。
その参道の北側には車祓所があり、その左奥に地主神社が見えます。
南側には楼門があります。
本殿は楼門の正面ではなく西にずれて建立されています。
参道を南へ進むと社務所があり、社務所前には、
御神木の「北野桜」が植栽されています。
平成28年(2016)に日本唯一の新品種と判明した、四月中旬に開花する遅咲きの桜で、
樹齢120年の古木です。
社務所の南側に神楽殿があり、毎月25日に神楽舞が奉納されます。
神楽殿の南側に宝物殿があります。
宝物殿には国宝「北野天神縁起絵巻」など、
皇室をはじめ、公家や武家より奉納された宝物が展示されています。
毎月25日とその他期間限定の開館となり、令和2年(2020)10月25日~12月6日までは
大刀剣展改め「刀剣探訪」と称され、源氏の宝刀「鬼切丸」他名刀約40振が
展示されています。
宝物殿の南側に校倉があります。
校倉の手前に手水舎があり、「梅香水」と称されています。
また、「北野の花手水」として生け花が添えられています。
手水舎の南側にある石灯籠には「日月光」と刻まれています。
手水舎から西へ曲がった先に絵馬所があります。
元禄12年(1699)に建立されたもので、規模と歴史は現存する絵馬所のなかでも
随一とされ、京都市の文化財に指定されています。
絵馬所には三十六歌仙の額が掲げられています。
絵馬所の手前から北への参道があり、正面に三光門が見えます。
三光門へと至る参道の右側に白太夫社があり、
渡会春彦(わたらい の はるひこ)が祀られています。
道真の父・菅原是善が安産祈願を託した豊受大神宮(外宮)の神官で、
道真誕生後は道真の守役として仕え、大宰府までお供しました。
渡会春彦は若いころから白髪でお腹が太かったことから
「白太夫」と呼ばれ、子授けの神として信仰を集めています。
左側に福部社があり、十川能福(そごう の のうふく)が祀られています。
十川能福は道真に仕えた舎人で牛車を引く牛の世話係でした。
名前から転じて、いつの頃からか「福の神」として信仰されるようになりました。
その先の左側に老松社があり、島田忠興(しまだ の ただおき)が
祀られています。
島田忠興は菅原道真の家臣(牛飼)とも、夫人の父であったとも伝わります。
大宰府に左遷された道真が、自らの無実を訴えるべく幾度も登頂し、
天を拝した伝わる天拝山に、道真の笏(しゃく)を持ってお供したとされています。
後に道真は忠興に松の種を持たせ、当地に蒔くように託されました。
道真の神霊がその地に降臨された際、多数の松が一夜にして生じたと伝わります。
このことから、老松社は植林や林業の神とされています。
老松社の右側に火之御子社があり、火雷神が祀られています。
北野天満宮の創建以前の元慶4年(880)頃に藤原基経が、
この地に「北野雷公」と称して祀ったとされています。
藤原基経は元慶3年(879)から数年をかけて、約50年ぶりに班田収授を実施しました。
班田収授とは戸籍・計帳に基づいて、政府から受田資格を得た貴族や
人民へ田が班給され、死亡者の田は政府へ収公されるというもので、
飛鳥時代の大宝元年(701)に大宝律令の制定により定められました。
雷神に雨を祈り五穀豊穣を祈願する一方で
落雷による災難除けの神として祀られました。
基経は元慶3年(879)には道真の父・菅原是善らと、文徳天皇の代である
嘉祥3年(850)から天安2年(858)までの8年間の歴史書
『日本文徳天皇実録(にほんもんとくてんのうじつろく)』の編纂を行い、
全10巻を完成させました。
また、元慶4年(880)に太政大臣に任ぜられています。
清涼殿落雷の事件から道真の怨霊は雷神と結びつけられ、朝廷は火雷神が
祀られていた北野の地に北野天満宮を創建したとされています。
その先には参道の左右に臥牛が祀られています。
境内には多数の臥牛の像が奉納されています。
菅原道真は承和12年(845)の乙丑(きのとうし)年の生まれで、
延喜3年(903)に大宰府で亡くなられた際には遺骸は「人にひかせず
牛の行くところにとどめよ」と遺言されました。
遺骸が載せられた牛車を引いていた牛は安楽寺の付近で動かなくなり、
道真は安楽寺に葬られました。
後に安楽寺の廟は朝廷により安楽寺天満宮(大宰府天満宮)に改修されました。
これらの故事から牛は天満宮の「神使い」とされています。
右側の臥牛はカラフルです。
左側は多くの人に撫でられ、黒光りしています。
三光門(中門)は、慶長12年(1607)に豊臣秀頼により現在の社殿が建立された際に
現在の三光門が建立され、国の重要文化財に指定されています。
扁額「天満宮」は第111代・後西天皇の筆によるものです。
日輪の彫刻
梁間に三光となる日輪・月輪・三日月が彫刻されていますが、
星は彫刻されていません。
月輪の彫刻
平安京では御所は現在の二条城付近に造営され、帝が天満宮に向かって
祈りを捧げられる際、三光門の真上に北極星が輝いていたことから
星の彫刻は省かれ、「星欠けの三光門」とも呼ばれています。
三日月の彫刻
三光門からの回廊も慶長12年(1607)に建立され、国の重要文化財に指定されています。
回廊前の左右には神事でお祓いが行われる場所がありますが、
左の方は門の前から西側にずれています。
織部灯篭
茶人・古田織部が考案した石灯篭で、その原型は古田織部の墓
(京都市上京区の興聖寺)にあったと伝わります。
マリア像が彫られ、「マリア灯篭」とも「切支丹灯篭」とも呼ばれています。
その右側の梅の木は照憲皇太后の御献進の紅梅で、「世継の梅」と呼ばれています。
明治4年(1871)に第122代・明治天皇の皇后に冊立された
一条美子(いちじょう はるこ)が、北野天満宮に参詣され、
実家にあった梅の木を献進されました。
しかし、その梅の木は枯れてしまい、現在は京都御所から拝授したものが、
「世継の梅」として受け継がれています。
織部灯篭の向かい側辺りに「大黒組」と記され、
大黒天が刻まれた石灯籠があります。
安政2年(1855)に河原町正面にあった質屋「大黒屋」を中心とした質屋商組合から
寄進されました。
浮き彫りにされた大黒天の口か頬に小石を載せ、その石が落ちなければ
財布に入れて祈るとお金に困らないと言い伝えられています。
三光門をくぐった正面に拝殿があり、その両側に楽の間、背後に中殿、石の間
そして、本殿の外陣、内陣と続きます。
拝殿には唐破風や黄金色に輝く装飾、数々の精緻な彫刻が施されています。
蟇股に施されている牛の彫刻は、境内で唯一の立つ牛の神像です。
延喜3年(903)に菅原道真が左遷された大宰府で没すると、
都では落雷などの災害が相次いで起こりました。
これは道真の祟りだとする噂が広まり、朝廷は道真の没後20年後に左遷を撤回して
官位を復し、正二位を贈りました。
天慶5年(942)に多治比文子が道真の託宣を受けると、その5年後に近江国の
比良宮の神主・神良種(みわのよしたね)の子・太郎丸も同様の託宣を受けました。
天暦元年6月9日(947)、当時この地にあった朝日寺(現在の東向観音寺)の僧・最鎮らは
朝廷の命を受け、道真を祀る社殿を造営し、朝日寺は神宮寺となりました。
その後、天徳3年(959)頃、藤原師輔(ふじわら の もろすけ)は自分の屋敷の建物を
寄贈して、壮大な社殿に作り替えましたが、その翌年、師輔は52歳で病死しました。
永延元年(987)に第66代・一條天皇は勅使を遣わして国家の平安を祈願し、
「北野天満宮天神」の勅号を贈りました。
正暦4年(993)に正一位・右大臣・太政大臣が追贈され、寛弘元年(1004)には
一條天皇の行幸があり、代々皇室の崇敬を受けるようになりました。
鎌倉時代から隆盛していた酒屋は麹造りにまで取り組み、
麹屋は北野社の神人(じにん)身分を得て「麹座」を結成しました。
北野麹座は応永26年(1419)には、京都全域における
麹の製造販売の権利一切を幕府から獲得しました。
酒屋の座の中には延暦寺を本所とするものがあり、延暦寺はこれに反発し、
延暦寺の訴えにより幕府は北野麹座の独占権の廃止を認めました。
北野麹座に属する神人らが北野社に立てこもった為、管領・畠山持国は
文安元年4月13日(1444年5月14日)に兵を北野社に差し向け、
北野社を含む一帯が炎上し、幕府側によって鎮圧されました。(文安の麹騒動)
この麹騒動以降、北野社は一時衰退しましたが、豊臣秀吉は天正15年(1587)10月1日に
北野大茶湯を催し、天正19年(1591)には境内の西側に「御土居」を築いて
社領602石を安堵しました。
慶長12年(1607)、豊臣秀頼は片桐且元(かたぎり かつもと)を造営奉行として
現在の社殿を造営しました。
江戸時代では徳川家により社領が安堵され、また学問の神としての信仰も集め、
寺子屋などで天満宮の分霊が祀られるようになりました。
明治4年(1871)に官幣中社に列せられましたが、「宮」を名乗ることができなくなり、
「北野神社」と改称されました。
戦後は神社本庁の別表神社に列せられ、「北野天満宮」に戻されました。
神仏霊場の第95番札所となっています。
本殿には主祭神として菅原道真が祀られています。
大宰府に左遷された道真が、福岡県筑紫野市にある天拝山(てんぱいざん)に登り、
無実を訴える祭文(さいもん=祭りの際に神にささげる願文)を読上げると、
「天満大自在天神」と尊号が書かれた祭文が下りてきたとの伝承が残されています。
延喜3年(903)2月25日に道真が亡くなると、京都には異変が相次ぎます。
延喜5年(905)頃に道真の霊を鎮めるために、醍醐天皇は藤原仲平に命じ、
廟を建立して安楽寺としました。
延喜9年(909)に道真と対立し、事実を曲げた告げ口で道真を左遷へと追いやった
藤原時平が39歳で病死すると、延喜13年(913)には道真失脚の首謀者の一人とされる
右大臣・源光(みなもと の ひかる)が狩りの最中に泥沼に沈んで溺死しました。
延喜23年(923)に醍醐天皇の第二皇子で皇太子の保明親王(やすあきらしんのう)が
21歳で薨去(こうきょ)され、保明親王の第一王子・慶頼王(やすよりおう)が
皇太子に立てられましたが、2年後に僅か5歳で薨去されました。
醍醐天皇は自らが下して左遷に追いやった道真の祟りであるとして、
道真を右大臣に戻し正二位を追贈する詔を発し、道真追放の詔を破棄しました。
しかし、それでも台風・洪水・疫病と災厄は収まらず、延長8年(930)6月には
内裏の清涼殿に落雷が発生し、公卿を含む複数の死者が出ました。
これを見た醍醐天皇は病に臥し、3ヶ月後に醍醐天皇の第11皇子・寛明
(ゆたあきら)親王(第61代・朱雀天皇)に譲位し、その7日後に崩御されました。
清涼殿落雷の事件から道真の怨霊は雷神と結びつけられ、朝廷は火雷神が祀られていた
北野の地に北野天満宮を建立し、道真を祀るようになりました。
また、安楽寺の廟は安楽寺天満宮(大宰府天満宮)に改修されました。
相殿には中将殿と吉祥女が祀られています。
中将殿は道真の長男・高視(たかみ)を指し、昌泰の変(しょうたいのへん)では
父に連座して延喜元年(901)に土佐へ左遷されました。
5年後に帰京が許されましたが、延喜13年7月21日(913年8月25日)に
38歳で病死しました。
吉祥女は道真の正室・島田宣来子(しまだ の のぶきこ / せきこ)を
神格化した神で、吉祥天と習合したとされています。
道真が大宰府への左遷後も京都に留まったとされていますが、
その後の動向や死亡時期については定かではありません。
一説では娘たちと共に岩手県一関市へ落ち延びたとされ、墓が残されています。
宣来子は延喜6年(906)に道真の訃報を聞くと悲しみに暮れて病に伏し、
同年に亡くなりました。
拝殿の前に向かって右に松が植えられています。
松もまた、北野天満宮と関わりが深く、「私の魂を祀るべき地には一夜にして
千本の松を生じさせる」という道真のお告げがありました。
表参道には「北野の松原」と呼ばれるほど松が植えられ、
現在でも境内の松の木は120本を数えられます。
左には梅が植えられています。
梅の木は樹齢400年以上とみられ、「飛梅伝説」の原木とされています。
菅原道真は屋敷内の庭木の内、日頃から梅の木・桜の木・松の木を
とりわけ愛でていました。
藤原時平との政争に敗れて大宰府へ左遷されることとなった道真は、
これらの木と別れを惜しみ、梅の木に「東風(こち)吹かば にほひをこせよ
梅花(うめのはな) 主なしとて 春を忘るな」と語りかけるように詠みました。
道真が去った後、桜は悲しみの余り枯れてしましたが、
梅と松は道真の後を追い空を飛びました。
松は途中で力尽き、摂津国八部郡板宿(現・兵庫県神戸市須磨区板宿町)近くに
降り立ち、この地に根を下ろしました。
「飛松伝説」と呼ばれ、降り立った岡は「飛松岡」と呼ばれています。
梅は大宰府まで飛んで行き、大宰府天満宮の御神木「飛梅」として祀られています。
松の前方にある石灯籠は、渡辺綱(わたなべ の つな)が
寄進したものとされています。
『平家物語』剣巻では、源頼光の頼光四天王筆頭の渡辺綱が、夜中に一条戻橋の
東詰を通りかかると、美しい女性から、「夜も更けて恐ろしいので
家まで送ってほしい」と頼まれました。
綱はこんな夜中に女が一人でいるとは怪しいと思いながらも、
それを引き受け馬に乗せました。
すると女はたちまち鬼に姿を変え、綱の髪をつかんで愛宕山の方向へと
飛び立ちました。
綱は鬼の腕を太刀で切り落とすと、北野社の回廊に落ち、屋根は破れましたが
命は救われました。
後日、渡辺綱は北野社の加護に感謝をこめて石灯籠を寄進したとされています。
また、切り落とした鬼の腕は摂津国渡辺(大阪市中央区)の渡辺綱の屋敷に
置かれていたのですが、綱の義母に化けた鬼が取り戻したとされています。
また、渡辺綱が持っていた刀は「髭切(ひげきり)」と命名されていましたが、
鬼の腕を切り落としたことにより「鬼斬(おにきり)」と改名されました。
本殿の裏側には「裏の社」があり、「御后三柱(ごこうのみはしら)」として
天穂日命(あめのほひのみこと)、菅原清公(すがわら の きよきみ/きよとも)、
菅原是善(すがわら の これよし)が祀られています。
菅原氏の遠祖は、古代豪族の土師氏(はじし)で、天穂日命の末裔と伝わる
野見宿禰(のみのすくね)が殉死者の代用品である埴輪を発明しました。
野見宿禰は、第11代・垂仁天皇から「土師職(はじつかさ)」を与えられ、
曾孫の身臣(みのおみ)は第16代・仁徳天皇より土師連姓を賜りました。
土師氏は、現在の道明寺天満宮周辺を本拠としていましたが、
天応元年(781)に桓武天皇が第50代天皇として即位すると、菅原古人や一族15名は、
居住地である大和国添下郡菅原邑に因んで菅原姓(菅原宿祢)への改姓を願い出て、
これが認められました。
菅原古人の四男が菅原清公で、道真の祖父に当り、
清公の四男が菅原是善で道真の父親となります。
本殿の後方から西側にある摂・末社を参拝します。
続く
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